9 / 29
既読がつくまで
しおりを挟む
「誰にも必要とされてない気がする夜って、だいたい深夜二時にやってくる。」
そう打ちかけて、私は一度、指を止めた。
ノートパソコンの画面には、未完成のプレゼン資料。
スマホの画面には、匿名チャットアプリ「Cotonoha」のアイコンが、小さく点滅している。
時計は、午前二時ちょうどを指していた。
ワンルームの部屋は、昼間の熱を少しだけ残して、じんわりとこもった空気。
外からは、遠くを走るタクシーの音と、時々、近くの線路を電車が通る低い振動だけが聞こえる。
そして、壁一枚隔てた隣の部屋からは、カタカタと一定のリズムで打たれるキーボードの音。
あの人、今日も起きてるんだな。
そう思いながら、私はいつものように「Cotonoha」を開いた。
この時間になると、ほぼ必ずオンラインになっているユーザーがいる。
アイコンは、青い丸に白いイニシャルの「N」。
画面の右上に、小さく「オンライン」の文字が灯る。
――あ、今日もいる。
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
私は、自分のユーザー名「m」の横に、短いメッセージを打ち込んだ。
『まだ起きてますか』
数秒後、すぐに既読がつく。
『起きてます。今日も残業ですか?』
短い文章なのに、いつも通りの、柔らかい温度がにじんでいる気がした。
『残業というか、資料の手直しです。
明日の午前中までに出さないといけなくて』
『深夜二時まで頑張ってる時点で、もう十分えらいと思いますけどね』
「えらい」という単語に、胸の奥がきゅっとなる。
えらいなんて、誰かに言われたのはいつ以来だろう。
会社では、ミスをすれば「確認して」と指摘される。
友達とのグループLINEでは、「最近どう?」と聞かれれば、「元気だよ~」と笑顔のスタンプを返す。
本当は、ぜんぜん元気じゃないのに。
『怒られたくないから、ただ必死なだけですよ』
打ってから、少し後悔する。
弱音を吐くつもりじゃなかったのに。
でも、「N」は、やっぱり多くを聞いてこない。
『怒られたくないから頑張るのも、ちゃんとした理由だと思いますよ』
壁の向こうで、またキーボードの音がした。
同じ時間に、誰かが同じように起きていて、何かを打ち込んでいる。
それだけのことが、妙に心強い。
***
昼間の私は、「いい人」を演じるのが仕事みたいになっている。
広告代理店の事務。
オンライン会議の招集、議事録、資料の体裁チェック、請求書の処理。
地味だけど、誰かがやらないと回らない仕事。
……のはずなのに、私はいつも「自分じゃなくてもいい仕事ばかりだ」と思ってしまう。
その日も、午前中のオンライン会議で、上司に資料のミスを指摘された。
「ここ、数字が前回のままになってるよ」
「あ、すみません……私の確認不足で」
「いや、まあ直せばいいんだけどさ。次から気をつけて」
上司の声は、別に怒っているわけじゃなかった。
でも私は、画面越しに何度も「すみません」と繰り返してしまう。
会議が終わった後、同僚からチャットでメッセージが飛んできた。
『さっきのやつ、気にしなくていいよ~。あの人、誰にでもああだから』
『ううん、私がちゃんと見てなかったから……』
そう返した瞬間、胸の中に、じわじわと恥ずかしさと自己嫌悪が広がった。
怒られたくない。
嫌われたくない。
だから、先回りして自分を責める。
その癖が、すっかり身体に染みついてしまっている。
在宅勤務になってから、誰かと直接顔を合わせることも減った。
仕事が終われば、カメラをオフにして、マイクを切って、ノートパソコンを閉じたら、そこから先は、誰も私を見ていない。
そう思うと、ふと、胸の奥が空っぽになる。
だから私は、深夜二時になると、スマホの小さな画面を開く。
匿名チャットアプリ「Cotonoha」。
そこでだけは、「いい人」でいる必要がない気がして。
***
『今日はちょっとしんどかったです』
その夜、私は「N」にそう送った。
送信ボタンを押した瞬間、少しだけ指先が震える。
すぐに既読がつく。
だけど、返事はなかなか来ない。
隣の部屋から、くしゃみの音が聞こえた。
「へっくし」
思わず、ひとりで笑ってしまう。
その数秒後、スマホが震えた。
『今、くしゃみしました?』
画面を見た瞬間、心臓が一拍、抜け落ちた気がした。
え?
思わず、隣の壁を見る。
さっきのくしゃみは、絶対に壁の向こうから聞こえた。
でも、そんなタイミングよく、ここで「くしゃみしました?」なんて送ってくることある?
『え、なんでわかったんですか』
半分冗談、半分本気で返す。
『なんとなくです。
タイミング的に、そんな気がしました』
画面の向こうで、どんな顔をしているんだろう。
隣の人の顔が、頭に浮かぶ。
無愛想そうな、黒縁のメガネの男性。
このアパートに引っ越してきたとき、廊下ですれ違って、「よろしくお願いします」と声をかけたら、軽く会釈しただけで、自分の部屋に入っていった人。
その人の部屋から、いつも深夜にキーボードの音が聞こえる。
……まさかね。
胸の中に浮かびかけた仮説を、私はすぐに打ち消した。
『今日は、何がしんどかったんですか』
「N」からのメッセージに、私は少しだけ迷う。
どこまで言っていいんだろう。
どこまで言ったら、引かれるんだろう。
『会議でミスを指摘されて、
別に大したことじゃないのに、ずっと引きずってて。
自分って、ほんとダメだなって』
送信してから、心臓がうるさくなる。
既読がつくまでの数秒が、やけに長く感じられた。
『ミスしない人なんていないですよ』
まず、そう来る。
『それでもちゃんと終わらせたの、えらいと思いますよ』
また、「えらい」が来た。
喉の奥が、つん、と熱くなる。
画面がにじむのを、慌てて袖で拭った。
誰にも言えなかったことを、こんなふうに受け止めてくれる人が、壁の向こうにいるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が、少しだけあたたかくなる。
***
数日後の夜。
雨の音で、目が覚めた。
カーテンの向こうで、ベランダの手すりを叩く雨粒の音が、規則的に続いている。
コンビニに行こうと、部屋のドアを開けた瞬間、廊下の向こうから、同じタイミングでドアの開く音がした。
顔を上げると、隣の部屋の男性が、コンビニ袋を片手に立っていた。
「あ……こんばんは」
思わず小さく頭を下げると、彼は少し驚いたように目を瞬かせてから、「こんばんは」とだけ言って、私の横を通り過ぎていく。
肩幅が思ったより広くて、黒いパーカーのフードが、少しだけ濡れていた。
すれ違うときに、ふわっと、コンビニのからあげの匂いがした。
その数分後、部屋に戻ってスマホを見ると、「Cotonoha」の通知が来ていた。
『雨、強いですね』
送信時刻は、さっき廊下ですれ違ったのと、ほとんど同じ時間。
心臓が、また一拍、強く跳ねる。
『そうですね。
ちょうど、コンビニ行ってました』
打ってから、しまった、と思う。
もし「N」が隣の人だったら、「あ、さっきの人だ」となるかもしれない。
でも、もし違ったら、ただの世間話だ。
どちらに転んでも、何かが変わってしまいそうで怖い。
『コンビニ、行きたくなりますよね、こういう夜』
「N」から、いつも通りの返事が来る。
私は、そこで話題をそらした。
『最近、仕事どうですか』
自分から仕事の話を振っておきながら、胸の奥に、じわっと重いものが沈む。
ちょうどその頃、私は大きな案件の資料作成を任されていた。
嬉しい。
でも、その何倍も怖い。
失敗したらどうしよう。
期待を裏切ったらどうしよう。
夜になると、その「どうしよう」だけが、頭の中でぐるぐると回る。
寝つけない夜が続いて、深夜二時のチャットは、ますます私の救いになっていった。
***
締切の三日前。
私は、ついに限界がきていた。
パソコンの画面の前で、何度も同じスライドを見返しては、「これで本当に大丈夫なのか」と不安になる。
上司からは、「期待してるからね」と軽く言われた。
その一言が、重りみたいに肩にのしかかっている。
深夜二時。
私は、スマホを手に取ると、「Cotonoha」を開いた。
「N」は、いつもの場所にいた。
『起きてますか』
『起きてます。そちらは?』
『起きてます。
眠れなくて』
指が止まらなくなった。
『今回の資料、私がやる意味あるのかなって。
誰でもできる仕事しかしてこなかった気がするのに、急に大きいの任されて。
失敗したらどうしようって、そればっかり考えてます』
送信ボタンを押した後、手のひらにじっとり汗がにじむ。
こんな長文を送ったのは、初めてかもしれない。
既読が、つかない。
いつもなら、数秒でつくのに。
時計を見ると、二時五分。
隣の部屋からは、キーボードの音が聞こえる。
もしかして、ただ席を外してるだけかもしれない。
もしかして、読んで、返事に困っているのかもしれない。
どちらにしても、胸の奥がざわざわする。
やっと、既読がついたのは、二時十分を過ぎた頃だった。
呼吸を整えてから、私は画面を見た。
『誰でもできる仕事なら、あなたにお願いしないと思いますよ』
短い一文に、視界がにじむ。
続けて、メッセージが届く。
『あなたが自分をどう思っていても、ちゃんと見てる人はいます』
「見てる人」という言葉に、心臓がぎゅっと掴まれる。
誰? と聞きたくなる。
でも、聞いてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。
隣の部屋から、カタカタとキーボードの音が続いている。
私は、壁の方を向いて、そっと呟いた。
「……ありがとう」
もちろん、誰にも届かない。
それでも、言葉を外に出したことで、胸の中にたまっていた空気が、少しだけ入れ替わった気がした。
***
締切前日。
私は、なんとか資料を仕上げた。
オンライン会議で、上司が言った。
「よくここまでまとめたね。正直、ここまでやってくれるとは思ってなかった」
それって、褒められてるのか、微妙なラインじゃない? と一瞬思ったけれど、上司の顔は、ちゃんと笑っていた。
会議が終わった後、同僚からチャットが飛んでくる。
『マジで助かった! あの資料、めっちゃ見やすかったよ』
『ほんと? よかった……』
画面の前で、小さくガッツポーズをする。
部屋に戻る頃には、全身がふわふわとした疲労感で包まれていた。
シャワーを浴びて、コンビニで買ったサラダをつついて、ベッドに倒れ込む。
気づけば、時計はまた、深夜二時を指していた。
いつものように、「Cotonoha」を開く。
「N」のアイコンの横に、見慣れない一文が追加されていた。
――『今月末でこのアプリやめるかも』
目を疑う。
何度見直しても、そこには同じ文字が並んでいる。
『え、やめちゃうんですか?』
慌ててメッセージを送る。
既読がつくまでの時間が、やけに長い。
『仕事が落ち着きそうなので。
夜更かしやめたいなと思って』
淡々とした文章。
そこに、私の動揺なんて、もちろん映っていない。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
この時間に、ここを開けば、いつもそこにいてくれた人。
私の弱音を、さりげなく受け止めてくれた人。
その人が、いなくなる。
画面の光が、急に心許なく感じられた。
『そうなんですね。
健康的でいいと思います』
そう返しながら、指先が震える。
本当は、「寂しいです」と送りたい。
「やめないで」と、子どもみたいにすがりつきたい。
でも、そんなことを言う資格が、自分にあるとは思えなかった。
勢いで、もう一つメッセージを打ちかける。
『もしよかったら、いつかどこかで、直接お礼を言えたらいいなって』
送信ボタンの手前で、指が止まる。
送ってしまったら、もう戻れない気がした。
そのとき、隣の部屋のドアが開く音がした。
廊下を歩く足音。
階段を降りていく、スニーカーのソールがコンクリートを叩く音。
私は、打ちかけた文章を、そっと消した。
数分後、スマホが震く。
『じゃあ、最後にひとつだけわがまま言ってもいいですか』
心臓が、また強く跳ねる。
『なんですか』
自分でも驚くくらい、指が早く動いた。
少し間を置いて、「N」からメッセージが届く。
『今、隣の部屋の人に、壁越しで「お疲れさま」って言ってもらえると、すごく頑張れる気がします』
画面の文字が、じわじわと胸の中に染み込んでくる。
これは、ほとんど告白だ。
私の指先が、冷たくなる。
隣の人。
壁越し。
「お疲れさま」。
全部つなげたら、答えは一つしかない。
私は、ベッドから起き上がって、壁の前に立った。
深呼吸を一つ。
喉が乾いて、うまく声が出るか不安になる。
それでも、少しだけ身体を前に傾けて、壁に向かって言った。
「……お疲れさま」
自分でも笑ってしまうくらい、小さな声だった。
数秒の沈黙。
そのあと、壁の向こうから、低いけれど柔らかい声が返ってきた。
「お疲れさまです」
その一言で、膝から力が抜ける。
私は、ベッドに腰を下ろして、スマホを見た。
「N」から、新しいメッセージが届いている。
『やっぱり、隣の人でしたね』
笑いながら、泣きそうになった。
指先が震えるのをそのままに、私は返事を打つ。
『はい、多分。
今度、昼間にちゃんと挨拶させてください』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥にあった何かが、音を立ててほどけていく。
誰にも必要とされていない気がしていた夜が、少しだけ遠ざかる。
***
数日後の休日。
昼下がりのアパートの廊下は、いつもより明るくて、少しだけ埃っぽい。
ゴミ袋を片手にドアを開けたら、ちょうど隣の部屋のドアも開いた。
黒縁メガネの男性が、こちらを見て、一瞬固まる。
「あの……」
彼が、少しだけ照れたように頭をかいた。
「Cotonohaの、『N』です」
その言い方が、なんだか可笑しくて、私は思わず笑ってしまう。
「『m』です。
いつも、ありがとうございました」
頭を下げると、彼も慌てて会釈する。
近くで見ると、思っていたより柔らかい表情をしていた。
目の下に、うっすらクマがあるのは、きっと深夜二時まで起きていたせいだ。
「あの、今度……よかったら、近くのカフェとかで、お茶でもどうですか」
彼が、少し遠慮がちに言う。
「はい。ぜひ」
自分でも驚くくらい、すぐに返事が出た。
彼は、ほっとしたように笑ってから、ぽつりと言った。
「深夜二時じゃなくても、大丈夫そうですね」
その言葉に、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
「はい、多分」
今度は、ちゃんと、顔を見て話せる。
ちゃんと、昼間の光の中で、ありがとうを言える。
部屋に戻って、スマホを見ても、「Cotonoha」は開かなかった。
代わりに、ベッドに横になって、昼間交わした会話を思い出す。
壁の向こうからは、もうキーボードの音は聞こえない。
その代わりに、どこかのカフェで話す自分たちの声を、少しだけ想像してみる。
「誰にも必要とされていない気がする夜」は、まだ完全になくなりはしないだろう。
それでも、深夜二時の、既読を待つ時間に、壁の向こうの誰かの顔を思い出せるだけで、世界は少しだけやわらかくなる。
そう思いながら、私は目を閉じた。
――もう、深夜二時じゃなくても、大丈夫かもしれない。
そう打ちかけて、私は一度、指を止めた。
ノートパソコンの画面には、未完成のプレゼン資料。
スマホの画面には、匿名チャットアプリ「Cotonoha」のアイコンが、小さく点滅している。
時計は、午前二時ちょうどを指していた。
ワンルームの部屋は、昼間の熱を少しだけ残して、じんわりとこもった空気。
外からは、遠くを走るタクシーの音と、時々、近くの線路を電車が通る低い振動だけが聞こえる。
そして、壁一枚隔てた隣の部屋からは、カタカタと一定のリズムで打たれるキーボードの音。
あの人、今日も起きてるんだな。
そう思いながら、私はいつものように「Cotonoha」を開いた。
この時間になると、ほぼ必ずオンラインになっているユーザーがいる。
アイコンは、青い丸に白いイニシャルの「N」。
画面の右上に、小さく「オンライン」の文字が灯る。
――あ、今日もいる。
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
私は、自分のユーザー名「m」の横に、短いメッセージを打ち込んだ。
『まだ起きてますか』
数秒後、すぐに既読がつく。
『起きてます。今日も残業ですか?』
短い文章なのに、いつも通りの、柔らかい温度がにじんでいる気がした。
『残業というか、資料の手直しです。
明日の午前中までに出さないといけなくて』
『深夜二時まで頑張ってる時点で、もう十分えらいと思いますけどね』
「えらい」という単語に、胸の奥がきゅっとなる。
えらいなんて、誰かに言われたのはいつ以来だろう。
会社では、ミスをすれば「確認して」と指摘される。
友達とのグループLINEでは、「最近どう?」と聞かれれば、「元気だよ~」と笑顔のスタンプを返す。
本当は、ぜんぜん元気じゃないのに。
『怒られたくないから、ただ必死なだけですよ』
打ってから、少し後悔する。
弱音を吐くつもりじゃなかったのに。
でも、「N」は、やっぱり多くを聞いてこない。
『怒られたくないから頑張るのも、ちゃんとした理由だと思いますよ』
壁の向こうで、またキーボードの音がした。
同じ時間に、誰かが同じように起きていて、何かを打ち込んでいる。
それだけのことが、妙に心強い。
***
昼間の私は、「いい人」を演じるのが仕事みたいになっている。
広告代理店の事務。
オンライン会議の招集、議事録、資料の体裁チェック、請求書の処理。
地味だけど、誰かがやらないと回らない仕事。
……のはずなのに、私はいつも「自分じゃなくてもいい仕事ばかりだ」と思ってしまう。
その日も、午前中のオンライン会議で、上司に資料のミスを指摘された。
「ここ、数字が前回のままになってるよ」
「あ、すみません……私の確認不足で」
「いや、まあ直せばいいんだけどさ。次から気をつけて」
上司の声は、別に怒っているわけじゃなかった。
でも私は、画面越しに何度も「すみません」と繰り返してしまう。
会議が終わった後、同僚からチャットでメッセージが飛んできた。
『さっきのやつ、気にしなくていいよ~。あの人、誰にでもああだから』
『ううん、私がちゃんと見てなかったから……』
そう返した瞬間、胸の中に、じわじわと恥ずかしさと自己嫌悪が広がった。
怒られたくない。
嫌われたくない。
だから、先回りして自分を責める。
その癖が、すっかり身体に染みついてしまっている。
在宅勤務になってから、誰かと直接顔を合わせることも減った。
仕事が終われば、カメラをオフにして、マイクを切って、ノートパソコンを閉じたら、そこから先は、誰も私を見ていない。
そう思うと、ふと、胸の奥が空っぽになる。
だから私は、深夜二時になると、スマホの小さな画面を開く。
匿名チャットアプリ「Cotonoha」。
そこでだけは、「いい人」でいる必要がない気がして。
***
『今日はちょっとしんどかったです』
その夜、私は「N」にそう送った。
送信ボタンを押した瞬間、少しだけ指先が震える。
すぐに既読がつく。
だけど、返事はなかなか来ない。
隣の部屋から、くしゃみの音が聞こえた。
「へっくし」
思わず、ひとりで笑ってしまう。
その数秒後、スマホが震えた。
『今、くしゃみしました?』
画面を見た瞬間、心臓が一拍、抜け落ちた気がした。
え?
思わず、隣の壁を見る。
さっきのくしゃみは、絶対に壁の向こうから聞こえた。
でも、そんなタイミングよく、ここで「くしゃみしました?」なんて送ってくることある?
『え、なんでわかったんですか』
半分冗談、半分本気で返す。
『なんとなくです。
タイミング的に、そんな気がしました』
画面の向こうで、どんな顔をしているんだろう。
隣の人の顔が、頭に浮かぶ。
無愛想そうな、黒縁のメガネの男性。
このアパートに引っ越してきたとき、廊下ですれ違って、「よろしくお願いします」と声をかけたら、軽く会釈しただけで、自分の部屋に入っていった人。
その人の部屋から、いつも深夜にキーボードの音が聞こえる。
……まさかね。
胸の中に浮かびかけた仮説を、私はすぐに打ち消した。
『今日は、何がしんどかったんですか』
「N」からのメッセージに、私は少しだけ迷う。
どこまで言っていいんだろう。
どこまで言ったら、引かれるんだろう。
『会議でミスを指摘されて、
別に大したことじゃないのに、ずっと引きずってて。
自分って、ほんとダメだなって』
送信してから、心臓がうるさくなる。
既読がつくまでの数秒が、やけに長く感じられた。
『ミスしない人なんていないですよ』
まず、そう来る。
『それでもちゃんと終わらせたの、えらいと思いますよ』
また、「えらい」が来た。
喉の奥が、つん、と熱くなる。
画面がにじむのを、慌てて袖で拭った。
誰にも言えなかったことを、こんなふうに受け止めてくれる人が、壁の向こうにいるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が、少しだけあたたかくなる。
***
数日後の夜。
雨の音で、目が覚めた。
カーテンの向こうで、ベランダの手すりを叩く雨粒の音が、規則的に続いている。
コンビニに行こうと、部屋のドアを開けた瞬間、廊下の向こうから、同じタイミングでドアの開く音がした。
顔を上げると、隣の部屋の男性が、コンビニ袋を片手に立っていた。
「あ……こんばんは」
思わず小さく頭を下げると、彼は少し驚いたように目を瞬かせてから、「こんばんは」とだけ言って、私の横を通り過ぎていく。
肩幅が思ったより広くて、黒いパーカーのフードが、少しだけ濡れていた。
すれ違うときに、ふわっと、コンビニのからあげの匂いがした。
その数分後、部屋に戻ってスマホを見ると、「Cotonoha」の通知が来ていた。
『雨、強いですね』
送信時刻は、さっき廊下ですれ違ったのと、ほとんど同じ時間。
心臓が、また一拍、強く跳ねる。
『そうですね。
ちょうど、コンビニ行ってました』
打ってから、しまった、と思う。
もし「N」が隣の人だったら、「あ、さっきの人だ」となるかもしれない。
でも、もし違ったら、ただの世間話だ。
どちらに転んでも、何かが変わってしまいそうで怖い。
『コンビニ、行きたくなりますよね、こういう夜』
「N」から、いつも通りの返事が来る。
私は、そこで話題をそらした。
『最近、仕事どうですか』
自分から仕事の話を振っておきながら、胸の奥に、じわっと重いものが沈む。
ちょうどその頃、私は大きな案件の資料作成を任されていた。
嬉しい。
でも、その何倍も怖い。
失敗したらどうしよう。
期待を裏切ったらどうしよう。
夜になると、その「どうしよう」だけが、頭の中でぐるぐると回る。
寝つけない夜が続いて、深夜二時のチャットは、ますます私の救いになっていった。
***
締切の三日前。
私は、ついに限界がきていた。
パソコンの画面の前で、何度も同じスライドを見返しては、「これで本当に大丈夫なのか」と不安になる。
上司からは、「期待してるからね」と軽く言われた。
その一言が、重りみたいに肩にのしかかっている。
深夜二時。
私は、スマホを手に取ると、「Cotonoha」を開いた。
「N」は、いつもの場所にいた。
『起きてますか』
『起きてます。そちらは?』
『起きてます。
眠れなくて』
指が止まらなくなった。
『今回の資料、私がやる意味あるのかなって。
誰でもできる仕事しかしてこなかった気がするのに、急に大きいの任されて。
失敗したらどうしようって、そればっかり考えてます』
送信ボタンを押した後、手のひらにじっとり汗がにじむ。
こんな長文を送ったのは、初めてかもしれない。
既読が、つかない。
いつもなら、数秒でつくのに。
時計を見ると、二時五分。
隣の部屋からは、キーボードの音が聞こえる。
もしかして、ただ席を外してるだけかもしれない。
もしかして、読んで、返事に困っているのかもしれない。
どちらにしても、胸の奥がざわざわする。
やっと、既読がついたのは、二時十分を過ぎた頃だった。
呼吸を整えてから、私は画面を見た。
『誰でもできる仕事なら、あなたにお願いしないと思いますよ』
短い一文に、視界がにじむ。
続けて、メッセージが届く。
『あなたが自分をどう思っていても、ちゃんと見てる人はいます』
「見てる人」という言葉に、心臓がぎゅっと掴まれる。
誰? と聞きたくなる。
でも、聞いてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。
隣の部屋から、カタカタとキーボードの音が続いている。
私は、壁の方を向いて、そっと呟いた。
「……ありがとう」
もちろん、誰にも届かない。
それでも、言葉を外に出したことで、胸の中にたまっていた空気が、少しだけ入れ替わった気がした。
***
締切前日。
私は、なんとか資料を仕上げた。
オンライン会議で、上司が言った。
「よくここまでまとめたね。正直、ここまでやってくれるとは思ってなかった」
それって、褒められてるのか、微妙なラインじゃない? と一瞬思ったけれど、上司の顔は、ちゃんと笑っていた。
会議が終わった後、同僚からチャットが飛んでくる。
『マジで助かった! あの資料、めっちゃ見やすかったよ』
『ほんと? よかった……』
画面の前で、小さくガッツポーズをする。
部屋に戻る頃には、全身がふわふわとした疲労感で包まれていた。
シャワーを浴びて、コンビニで買ったサラダをつついて、ベッドに倒れ込む。
気づけば、時計はまた、深夜二時を指していた。
いつものように、「Cotonoha」を開く。
「N」のアイコンの横に、見慣れない一文が追加されていた。
――『今月末でこのアプリやめるかも』
目を疑う。
何度見直しても、そこには同じ文字が並んでいる。
『え、やめちゃうんですか?』
慌ててメッセージを送る。
既読がつくまでの時間が、やけに長い。
『仕事が落ち着きそうなので。
夜更かしやめたいなと思って』
淡々とした文章。
そこに、私の動揺なんて、もちろん映っていない。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
この時間に、ここを開けば、いつもそこにいてくれた人。
私の弱音を、さりげなく受け止めてくれた人。
その人が、いなくなる。
画面の光が、急に心許なく感じられた。
『そうなんですね。
健康的でいいと思います』
そう返しながら、指先が震える。
本当は、「寂しいです」と送りたい。
「やめないで」と、子どもみたいにすがりつきたい。
でも、そんなことを言う資格が、自分にあるとは思えなかった。
勢いで、もう一つメッセージを打ちかける。
『もしよかったら、いつかどこかで、直接お礼を言えたらいいなって』
送信ボタンの手前で、指が止まる。
送ってしまったら、もう戻れない気がした。
そのとき、隣の部屋のドアが開く音がした。
廊下を歩く足音。
階段を降りていく、スニーカーのソールがコンクリートを叩く音。
私は、打ちかけた文章を、そっと消した。
数分後、スマホが震く。
『じゃあ、最後にひとつだけわがまま言ってもいいですか』
心臓が、また強く跳ねる。
『なんですか』
自分でも驚くくらい、指が早く動いた。
少し間を置いて、「N」からメッセージが届く。
『今、隣の部屋の人に、壁越しで「お疲れさま」って言ってもらえると、すごく頑張れる気がします』
画面の文字が、じわじわと胸の中に染み込んでくる。
これは、ほとんど告白だ。
私の指先が、冷たくなる。
隣の人。
壁越し。
「お疲れさま」。
全部つなげたら、答えは一つしかない。
私は、ベッドから起き上がって、壁の前に立った。
深呼吸を一つ。
喉が乾いて、うまく声が出るか不安になる。
それでも、少しだけ身体を前に傾けて、壁に向かって言った。
「……お疲れさま」
自分でも笑ってしまうくらい、小さな声だった。
数秒の沈黙。
そのあと、壁の向こうから、低いけれど柔らかい声が返ってきた。
「お疲れさまです」
その一言で、膝から力が抜ける。
私は、ベッドに腰を下ろして、スマホを見た。
「N」から、新しいメッセージが届いている。
『やっぱり、隣の人でしたね』
笑いながら、泣きそうになった。
指先が震えるのをそのままに、私は返事を打つ。
『はい、多分。
今度、昼間にちゃんと挨拶させてください』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥にあった何かが、音を立ててほどけていく。
誰にも必要とされていない気がしていた夜が、少しだけ遠ざかる。
***
数日後の休日。
昼下がりのアパートの廊下は、いつもより明るくて、少しだけ埃っぽい。
ゴミ袋を片手にドアを開けたら、ちょうど隣の部屋のドアも開いた。
黒縁メガネの男性が、こちらを見て、一瞬固まる。
「あの……」
彼が、少しだけ照れたように頭をかいた。
「Cotonohaの、『N』です」
その言い方が、なんだか可笑しくて、私は思わず笑ってしまう。
「『m』です。
いつも、ありがとうございました」
頭を下げると、彼も慌てて会釈する。
近くで見ると、思っていたより柔らかい表情をしていた。
目の下に、うっすらクマがあるのは、きっと深夜二時まで起きていたせいだ。
「あの、今度……よかったら、近くのカフェとかで、お茶でもどうですか」
彼が、少し遠慮がちに言う。
「はい。ぜひ」
自分でも驚くくらい、すぐに返事が出た。
彼は、ほっとしたように笑ってから、ぽつりと言った。
「深夜二時じゃなくても、大丈夫そうですね」
その言葉に、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
「はい、多分」
今度は、ちゃんと、顔を見て話せる。
ちゃんと、昼間の光の中で、ありがとうを言える。
部屋に戻って、スマホを見ても、「Cotonoha」は開かなかった。
代わりに、ベッドに横になって、昼間交わした会話を思い出す。
壁の向こうからは、もうキーボードの音は聞こえない。
その代わりに、どこかのカフェで話す自分たちの声を、少しだけ想像してみる。
「誰にも必要とされていない気がする夜」は、まだ完全になくなりはしないだろう。
それでも、深夜二時の、既読を待つ時間に、壁の向こうの誰かの顔を思い出せるだけで、世界は少しだけやわらかくなる。
そう思いながら、私は目を閉じた。
――もう、深夜二時じゃなくても、大丈夫かもしれない。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる