ねるまえ短編集

cotonoha garden

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既読がつくまで

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「誰にも必要とされてない気がする夜って、だいたい深夜二時にやってくる。」

 そう打ちかけて、私は一度、指を止めた。

 ノートパソコンの画面には、未完成のプレゼン資料。  
 スマホの画面には、匿名チャットアプリ「Cotonoha」のアイコンが、小さく点滅している。

 時計は、午前二時ちょうどを指していた。

 ワンルームの部屋は、昼間の熱を少しだけ残して、じんわりとこもった空気。  
 外からは、遠くを走るタクシーの音と、時々、近くの線路を電車が通る低い振動だけが聞こえる。

 そして、壁一枚隔てた隣の部屋からは、カタカタと一定のリズムで打たれるキーボードの音。

 あの人、今日も起きてるんだな。

 そう思いながら、私はいつものように「Cotonoha」を開いた。

 この時間になると、ほぼ必ずオンラインになっているユーザーがいる。  
 アイコンは、青い丸に白いイニシャルの「N」。

 画面の右上に、小さく「オンライン」の文字が灯る。

 ――あ、今日もいる。

 胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。

 私は、自分のユーザー名「m」の横に、短いメッセージを打ち込んだ。

『まだ起きてますか』

 数秒後、すぐに既読がつく。

『起きてます。今日も残業ですか?』

 短い文章なのに、いつも通りの、柔らかい温度がにじんでいる気がした。

『残業というか、資料の手直しです。  
 明日の午前中までに出さないといけなくて』

『深夜二時まで頑張ってる時点で、もう十分えらいと思いますけどね』

 「えらい」という単語に、胸の奥がきゅっとなる。

 えらいなんて、誰かに言われたのはいつ以来だろう。

 会社では、ミスをすれば「確認して」と指摘される。  
 友達とのグループLINEでは、「最近どう?」と聞かれれば、「元気だよ~」と笑顔のスタンプを返す。

 本当は、ぜんぜん元気じゃないのに。

『怒られたくないから、ただ必死なだけですよ』

 打ってから、少し後悔する。  
 弱音を吐くつもりじゃなかったのに。

 でも、「N」は、やっぱり多くを聞いてこない。

『怒られたくないから頑張るのも、ちゃんとした理由だと思いますよ』

 壁の向こうで、またキーボードの音がした。  
 同じ時間に、誰かが同じように起きていて、何かを打ち込んでいる。

 それだけのことが、妙に心強い。

 ***

 昼間の私は、「いい人」を演じるのが仕事みたいになっている。

 広告代理店の事務。  
 オンライン会議の招集、議事録、資料の体裁チェック、請求書の処理。

 地味だけど、誰かがやらないと回らない仕事。  
 ……のはずなのに、私はいつも「自分じゃなくてもいい仕事ばかりだ」と思ってしまう。

 その日も、午前中のオンライン会議で、上司に資料のミスを指摘された。

「ここ、数字が前回のままになってるよ」

「あ、すみません……私の確認不足で」

「いや、まあ直せばいいんだけどさ。次から気をつけて」

 上司の声は、別に怒っているわけじゃなかった。  
 でも私は、画面越しに何度も「すみません」と繰り返してしまう。

 会議が終わった後、同僚からチャットでメッセージが飛んできた。

『さっきのやつ、気にしなくていいよ~。あの人、誰にでもああだから』

『ううん、私がちゃんと見てなかったから……』

 そう返した瞬間、胸の中に、じわじわと恥ずかしさと自己嫌悪が広がった。

 怒られたくない。  
 嫌われたくない。  
 だから、先回りして自分を責める。

 その癖が、すっかり身体に染みついてしまっている。

 在宅勤務になってから、誰かと直接顔を合わせることも減った。  
 仕事が終われば、カメラをオフにして、マイクを切って、ノートパソコンを閉じたら、そこから先は、誰も私を見ていない。

 そう思うと、ふと、胸の奥が空っぽになる。

 だから私は、深夜二時になると、スマホの小さな画面を開く。

 匿名チャットアプリ「Cotonoha」。  
 そこでだけは、「いい人」でいる必要がない気がして。

 ***

『今日はちょっとしんどかったです』

 その夜、私は「N」にそう送った。

 送信ボタンを押した瞬間、少しだけ指先が震える。

 すぐに既読がつく。  
 だけど、返事はなかなか来ない。

 隣の部屋から、くしゃみの音が聞こえた。

「へっくし」

 思わず、ひとりで笑ってしまう。

 その数秒後、スマホが震えた。

『今、くしゃみしました?』

 画面を見た瞬間、心臓が一拍、抜け落ちた気がした。

 え?

 思わず、隣の壁を見る。  
 さっきのくしゃみは、絶対に壁の向こうから聞こえた。

 でも、そんなタイミングよく、ここで「くしゃみしました?」なんて送ってくることある?

『え、なんでわかったんですか』

 半分冗談、半分本気で返す。

『なんとなくです。  
 タイミング的に、そんな気がしました』

 画面の向こうで、どんな顔をしているんだろう。

 隣の人の顔が、頭に浮かぶ。

 無愛想そうな、黒縁のメガネの男性。  
 このアパートに引っ越してきたとき、廊下ですれ違って、「よろしくお願いします」と声をかけたら、軽く会釈しただけで、自分の部屋に入っていった人。

 その人の部屋から、いつも深夜にキーボードの音が聞こえる。

 ……まさかね。

 胸の中に浮かびかけた仮説を、私はすぐに打ち消した。

『今日は、何がしんどかったんですか』

 「N」からのメッセージに、私は少しだけ迷う。

 どこまで言っていいんだろう。  
 どこまで言ったら、引かれるんだろう。

『会議でミスを指摘されて、  
 別に大したことじゃないのに、ずっと引きずってて。  
 自分って、ほんとダメだなって』

 送信してから、心臓がうるさくなる。

 既読がつくまでの数秒が、やけに長く感じられた。

『ミスしない人なんていないですよ』

 まず、そう来る。

『それでもちゃんと終わらせたの、えらいと思いますよ』

 また、「えらい」が来た。

 喉の奥が、つん、と熱くなる。

 画面がにじむのを、慌てて袖で拭った。

 誰にも言えなかったことを、こんなふうに受け止めてくれる人が、壁の向こうにいるのかもしれない。  
 そう思うと、胸の奥が、少しだけあたたかくなる。

 ***

 数日後の夜。  
 雨の音で、目が覚めた。

 カーテンの向こうで、ベランダの手すりを叩く雨粒の音が、規則的に続いている。

 コンビニに行こうと、部屋のドアを開けた瞬間、廊下の向こうから、同じタイミングでドアの開く音がした。

 顔を上げると、隣の部屋の男性が、コンビニ袋を片手に立っていた。

「あ……こんばんは」

 思わず小さく頭を下げると、彼は少し驚いたように目を瞬かせてから、「こんばんは」とだけ言って、私の横を通り過ぎていく。

 肩幅が思ったより広くて、黒いパーカーのフードが、少しだけ濡れていた。

 すれ違うときに、ふわっと、コンビニのからあげの匂いがした。

 その数分後、部屋に戻ってスマホを見ると、「Cotonoha」の通知が来ていた。

『雨、強いですね』

 送信時刻は、さっき廊下ですれ違ったのと、ほとんど同じ時間。

 心臓が、また一拍、強く跳ねる。

『そうですね。  
 ちょうど、コンビニ行ってました』

 打ってから、しまった、と思う。

 もし「N」が隣の人だったら、「あ、さっきの人だ」となるかもしれない。  
 でも、もし違ったら、ただの世間話だ。

 どちらに転んでも、何かが変わってしまいそうで怖い。

『コンビニ、行きたくなりますよね、こういう夜』

 「N」から、いつも通りの返事が来る。  
 私は、そこで話題をそらした。

『最近、仕事どうですか』

 自分から仕事の話を振っておきながら、胸の奥に、じわっと重いものが沈む。

 ちょうどその頃、私は大きな案件の資料作成を任されていた。

 嬉しい。  
 でも、その何倍も怖い。

 失敗したらどうしよう。  
 期待を裏切ったらどうしよう。

 夜になると、その「どうしよう」だけが、頭の中でぐるぐると回る。

 寝つけない夜が続いて、深夜二時のチャットは、ますます私の救いになっていった。

 ***

 締切の三日前。  
 私は、ついに限界がきていた。

 パソコンの画面の前で、何度も同じスライドを見返しては、「これで本当に大丈夫なのか」と不安になる。

 上司からは、「期待してるからね」と軽く言われた。  
 その一言が、重りみたいに肩にのしかかっている。

 深夜二時。  
 私は、スマホを手に取ると、「Cotonoha」を開いた。

 「N」は、いつもの場所にいた。

『起きてますか』

『起きてます。そちらは?』

『起きてます。  
 眠れなくて』

 指が止まらなくなった。

『今回の資料、私がやる意味あるのかなって。  
 誰でもできる仕事しかしてこなかった気がするのに、急に大きいの任されて。  
 失敗したらどうしようって、そればっかり考えてます』

 送信ボタンを押した後、手のひらにじっとり汗がにじむ。

 こんな長文を送ったのは、初めてかもしれない。

 既読が、つかない。

 いつもなら、数秒でつくのに。

 時計を見ると、二時五分。  
 隣の部屋からは、キーボードの音が聞こえる。

 もしかして、ただ席を外してるだけかもしれない。  
 もしかして、読んで、返事に困っているのかもしれない。

 どちらにしても、胸の奥がざわざわする。

 やっと、既読がついたのは、二時十分を過ぎた頃だった。

 呼吸を整えてから、私は画面を見た。

『誰でもできる仕事なら、あなたにお願いしないと思いますよ』

 短い一文に、視界がにじむ。

 続けて、メッセージが届く。

『あなたが自分をどう思っていても、ちゃんと見てる人はいます』

 「見てる人」という言葉に、心臓がぎゅっと掴まれる。

 誰? と聞きたくなる。  
 でも、聞いてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。

 隣の部屋から、カタカタとキーボードの音が続いている。

 私は、壁の方を向いて、そっと呟いた。

「……ありがとう」

 もちろん、誰にも届かない。  
 それでも、言葉を外に出したことで、胸の中にたまっていた空気が、少しだけ入れ替わった気がした。

 ***

 締切前日。  
 私は、なんとか資料を仕上げた。

 オンライン会議で、上司が言った。

「よくここまでまとめたね。正直、ここまでやってくれるとは思ってなかった」

 それって、褒められてるのか、微妙なラインじゃない? と一瞬思ったけれど、上司の顔は、ちゃんと笑っていた。

 会議が終わった後、同僚からチャットが飛んでくる。

『マジで助かった! あの資料、めっちゃ見やすかったよ』

『ほんと? よかった……』

 画面の前で、小さくガッツポーズをする。

 部屋に戻る頃には、全身がふわふわとした疲労感で包まれていた。

 シャワーを浴びて、コンビニで買ったサラダをつついて、ベッドに倒れ込む。

 気づけば、時計はまた、深夜二時を指していた。

 いつものように、「Cotonoha」を開く。

 「N」のアイコンの横に、見慣れない一文が追加されていた。

 ――『今月末でこのアプリやめるかも』

 目を疑う。

 何度見直しても、そこには同じ文字が並んでいる。

『え、やめちゃうんですか?』

 慌ててメッセージを送る。

 既読がつくまでの時間が、やけに長い。

『仕事が落ち着きそうなので。  
 夜更かしやめたいなと思って』

 淡々とした文章。  
 そこに、私の動揺なんて、もちろん映っていない。

 喉の奥が、きゅっと詰まる。

 この時間に、ここを開けば、いつもそこにいてくれた人。

 私の弱音を、さりげなく受け止めてくれた人。

 その人が、いなくなる。

 画面の光が、急に心許なく感じられた。

『そうなんですね。  
 健康的でいいと思います』

 そう返しながら、指先が震える。

 本当は、「寂しいです」と送りたい。  
 「やめないで」と、子どもみたいにすがりつきたい。

 でも、そんなことを言う資格が、自分にあるとは思えなかった。

 勢いで、もう一つメッセージを打ちかける。

『もしよかったら、いつかどこかで、直接お礼を言えたらいいなって』

 送信ボタンの手前で、指が止まる。

 送ってしまったら、もう戻れない気がした。

 そのとき、隣の部屋のドアが開く音がした。

 廊下を歩く足音。  
 階段を降りていく、スニーカーのソールがコンクリートを叩く音。

 私は、打ちかけた文章を、そっと消した。

 数分後、スマホが震く。

『じゃあ、最後にひとつだけわがまま言ってもいいですか』

 心臓が、また強く跳ねる。

『なんですか』

 自分でも驚くくらい、指が早く動いた。

 少し間を置いて、「N」からメッセージが届く。

『今、隣の部屋の人に、壁越しで「お疲れさま」って言ってもらえると、すごく頑張れる気がします』

 画面の文字が、じわじわと胸の中に染み込んでくる。

 これは、ほとんど告白だ。

 私の指先が、冷たくなる。

 隣の人。  
 壁越し。  
 「お疲れさま」。

 全部つなげたら、答えは一つしかない。

 私は、ベッドから起き上がって、壁の前に立った。

 深呼吸を一つ。

 喉が乾いて、うまく声が出るか不安になる。

 それでも、少しだけ身体を前に傾けて、壁に向かって言った。

「……お疲れさま」

 自分でも笑ってしまうくらい、小さな声だった。

 数秒の沈黙。

 そのあと、壁の向こうから、低いけれど柔らかい声が返ってきた。

「お疲れさまです」

 その一言で、膝から力が抜ける。

 私は、ベッドに腰を下ろして、スマホを見た。

 「N」から、新しいメッセージが届いている。

『やっぱり、隣の人でしたね』

 笑いながら、泣きそうになった。

 指先が震えるのをそのままに、私は返事を打つ。

『はい、多分。  
 今度、昼間にちゃんと挨拶させてください』

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥にあった何かが、音を立ててほどけていく。

 誰にも必要とされていない気がしていた夜が、少しだけ遠ざかる。

 ***

 数日後の休日。  
 昼下がりのアパートの廊下は、いつもより明るくて、少しだけ埃っぽい。

 ゴミ袋を片手にドアを開けたら、ちょうど隣の部屋のドアも開いた。

 黒縁メガネの男性が、こちらを見て、一瞬固まる。

「あの……」

 彼が、少しだけ照れたように頭をかいた。

「Cotonohaの、『N』です」

 その言い方が、なんだか可笑しくて、私は思わず笑ってしまう。

「『m』です。  
 いつも、ありがとうございました」

 頭を下げると、彼も慌てて会釈する。

 近くで見ると、思っていたより柔らかい表情をしていた。  
 目の下に、うっすらクマがあるのは、きっと深夜二時まで起きていたせいだ。

「あの、今度……よかったら、近くのカフェとかで、お茶でもどうですか」

 彼が、少し遠慮がちに言う。

「はい。ぜひ」

 自分でも驚くくらい、すぐに返事が出た。

 彼は、ほっとしたように笑ってから、ぽつりと言った。

「深夜二時じゃなくても、大丈夫そうですね」

 その言葉に、胸の奥がふわっとあたたかくなる。

「はい、多分」

 今度は、ちゃんと、顔を見て話せる。  
 ちゃんと、昼間の光の中で、ありがとうを言える。

 部屋に戻って、スマホを見ても、「Cotonoha」は開かなかった。

 代わりに、ベッドに横になって、昼間交わした会話を思い出す。

 壁の向こうからは、もうキーボードの音は聞こえない。  
 その代わりに、どこかのカフェで話す自分たちの声を、少しだけ想像してみる。

 「誰にも必要とされていない気がする夜」は、まだ完全になくなりはしないだろう。

 それでも、深夜二時の、既読を待つ時間に、壁の向こうの誰かの顔を思い出せるだけで、世界は少しだけやわらかくなる。

 そう思いながら、私は目を閉じた。

 ――もう、深夜二時じゃなくても、大丈夫かもしれない。
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