ねるまえ短編集

cotonoha garden

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さくら色

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"眠れない夜は、コンビニの灯りだけが私を許してくれる。  
暗い部屋から抜け出してしまうたびに、「また逃げてる」と自分を責めながら、それでも自動ドアをくぐってしまう。

 

転職して半年が過ぎた。

カレンダーをめくるたび、「そろそろ慣れてきた?」と冗談半分に聞いてくる先輩の顔が頭に浮かぶ。  
慣れるどころか、今日も私はやらかしたばかりだ。

「このレベルは、もうできててほしいんだけどね」

夕方、上司にそう言われた瞬間の空気が、まだ胸の中に残っている。  
きつい口調ではなかった。むしろ淡々としていたぶん、「当然でしょ?」という期待の重みだけが、じわじわと効いてくる。

ベッドの上で仰向けになり、スマホの画面を見つめる。  
SNSには、同年代の友人たちの「昇進しました」「入籍しました」「推しのライブ最高!」みたいな眩しい報告が並んでいて、スクロールする指先がだんだん重くなっていく。

私だけ、取り残されているみたいだ。

画面を伏せて、天井をにらむ。時計は、もうすぐ午前一時。  
眠らなきゃ、明日も仕事なのに。  
そう思うほど、頭の中はさっきの上司の一言と、自分のミスの反芻でいっぱいになる。

耐えきれなくなって、私は布団を蹴飛ばした。

「……コンビニ、行こ」

パーカーを羽織って、財布とスマホだけポケットに突っ込む。  
ワンルームの部屋の鍵を閉めて、静まり返ったマンションの廊下を歩くと、足音がやけに響いた。

 

駅前のコンビニは、こんな時間でも明るかった。  
白い蛍光灯と、冷蔵ケースの低い唸り。  
外の冷たい空気から一歩踏み込んだ瞬間、人工的なあたたかさに包まれて、少しだけほっとする。

甘いものが欲しくて、スイーツコーナーの前でしばらく立ち尽くす。  
ショーケースの中には、期間限定のさくら色のロールケーキが並んでいた。  
「春の味」というポップが、なんだか自分とは別世界の言葉みたいに見える。

ロールケーキとホットコーヒーを買って、レジ袋を片手に店を出る。  
コンビニの前には、屋根付きの小さなベンチがひとつ。  
その端っこに腰を下ろして、紙コップのふたを外すと、コーヒーの湯気が夜気に溶けていく。

ふと、視線を横にずらす。

少し離れたところに、いつもの人がいた。

パーカーのフードをかぶって、片手に缶コーヒー。  
足を投げ出すように座って、ぼんやりと道を眺めている。  
顔をまじまじと見るのは気が引けるけれど、輪郭と姿勢だけで、もう「いつもの人」だと分かるくらいには、見慣れてしまった。

転職してから眠れない夜が増えて、このベンチに座るようになった。  
そのたびに、だいたい同じ時間に、彼もここにいる。  
目が合うと、軽く会釈だけ交わす関係。  
名前も知らないし、声も知らない。けれど、なんとなく安心する存在になりつつあった。

今日も、彼はこちらをちらりと見て、小さく会釈をした。  
私も、ぎこちなく頭を下げる。

それだけのやりとりで、紙コップを両手で包み込む。  
熱さが指先からじんわり伝わる感覚に集中して、余計なことを考えないようにする。

甘いロールケーキをひと口。  
「こんなの食べてるから太るんだよ」と、どこかで誰かの声が聞こえた気がして、すぐに打ち消す。

「いいじゃん、今くらい」

小さくつぶやいて、もうひと口。  
口の中に広がる砂糖とクリームの甘さに、少しだけ救われる。

 

そんな夜が、何度も繰り返された。

眠れなくて、コンビニに行って、同じベンチに座る。  
彼はいつも、缶コーヒーかペットボトルのカフェオレを持っていて、たまにタバコを吸っている。  
煙草の煙は苦手だけれど、彼は私がいるときは、いつも少し離れた場所で吸ってくれるから、あまり気にならなかった。

ある夜、空がにわかに暗くなって、細かい雨が降り始めた。

「え、聞いてない」

天気予報なんてチェックしていない。  
傘も持っていない私は、慌ててベンチの屋根の下に移動する。  
紙袋の中には、明日提出するはずだった資料のコピー。  
家で読み返そうと思って持ち帰ってきたものだ。

風が強くなり、ベンチの横から吹き込んだ風が、紙袋の口をあおった。  
中の書類がふわっと浮き上がる。

「あっ」

掴もうとした瞬間、誰かの手がすっと伸びて、紙袋を押さえた。

「危ないですよ」

顔を上げると、いつもの人が立っていた。  
近くで見るのは、初めてかもしれない。  
思っていたよりも柔らかい目をしていて、少しだけ笑っていた。

「あ、ありがとうございます……」

慌てて紙袋を抱きしめる。  
心臓が、変な意味でどきどきしている。

「同じマンションですよね?」

「え?」

不意打ちの言葉に、間抜けな声が出た。

「ほら、駅からの帰りとか。エレベーターで、何回か一緒になってる気がして」

彼は、少し申し訳なさそうに頭をかいた。

「あ、そう、かも……。あの、六階の、山本です」

名乗ってから、自己紹介になっていないことに気づく。  
でも、もう遅い。

「六階。やっぱりそうだ。僕、五階の高橋です」

「……高橋さん」

口に出してみると、妙にしっくりきた。  
いつもの人に、ようやく名前がついた。

雨脚が強くなり、アスファルトに細かい波紋が広がっていく。  
ベンチの屋根を叩く雨音が、会話の間を埋めた。

「こんな時間に、よく会いますよね」

高橋さんが、缶コーヒーを指先でくるくる回しながら言う。

「そうですね……。あの、そっちこそ」

「僕は、夜勤明けとか、夜勤前とか。ちょうどこの時間に、ぼーっとしたくなるんですよ」

「夜勤……?」

「はい。看護師やってて」

看護師。  
タバコを吸っている姿から勝手に想像していた職業と、あまりにも違っていて、思わず二度見してしまう。

「そんな顔しなくても」

高橋さんは、苦笑しながら肩をすくめた。

「たぶん、想像と違いました?」

「い、いえ……なんか、すみません」

「大丈夫です。よく言われるんで」

そう言って笑う声は、見た目よりずっと柔らかかった。

「山本さんは、眠れないんですか?」

紙袋を抱えたまま固まっていた私に、高橋さんが静かに尋ねる。  
否定しようとして、うまく言葉が出てこない。

「……まあ、そんな感じです」

「仕事、ですか?」

どうして分かるんだろう。  
驚いて顔を上げると、高橋さんは視線を逸らさずに、ただ待っていた。

「今日、ちょっとミスしちゃって。上司に言われた一言が、ずっと頭から離れなくて」

「ミスか」

彼は小さくうなずく。

「どんな?」

具体的に聞かれるとは思っていなくて、少し迷う。  
でも、ここまで話してしまったら、もういいか、という気持ちが勝った。

「資料の数字を、ひと桁間違えちゃって。チェックしたはずなのに、抜けちゃってて。『このレベルはできててほしい』って言われて……。分かってるんです、私がちゃんとできてなかったから悪いんですけど」

言いながら、自分でも情けなくなってくる。  
こんな小さなこと、と思われるかもしれない。

「それ、きついですね」

高橋さんは、すぐにそう言った。

「え?」

「僕だったら、めちゃくちゃ落ち込みます」

さらっとした口調だけど、軽くはない。  
ちゃんと私の気持ちに寄り添ってくれているのが分かる。

「……でも、数字ひと桁ですよ? ちゃんとしてる人なら、ミスしないじゃないですか」

「ちゃんとしてる人って、誰です?」

「え?」

「なんか、すごい完璧な人を想像してません? その人と比べて、『自分はダメだ』って」

図星だった。  
SNSで見た、キラキラした友人たちの投稿が頭をよぎる。

「看護師も、全然完璧じゃないですよ。僕、新人のころ、点滴の針を三回刺し直して、患者さんに泣かれました」

「えっ……」

「今でも、たまに失敗しますし。もちろん、やっちゃいけないミスもあるから、気をつけますけど」

雨音のリズムに合わせるように、彼の言葉が続く。

「『このレベルはできててほしい』って言われると、しんどいですよね。でも、それって、その上司の『当たり前』であって、山本さんの『当たり前』とは違うかもしれないじゃないですか」

「……当たり前」

「当たり前って、自分で厳しく決めすぎると、息苦しくなりません?」

私は、紙コップを見つめた。  
ふたの縁に、コーヒーが少しこぼれている。

「……なります」

かすれた声で答えると、高橋さんは「ですよね」と小さく笑った。

「ミスしたくないって思うのは、ちゃんとしてるからですよ。適当な人は、そんなに気にしないです」

「そんなことないですよ」

反射的に否定する。  
でも、心のどこかで、その言葉に救われている自分がいた。

「とりあえず、今日は甘いもの食べて、寝てください。数字のことは、明日、起きてから考えましょう」

「……はい」

雨は、少しずつ弱まってきていた。

その夜、部屋に戻って布団に入ったとき、私はいつもより早く眠りについた。  
上司の言葉はまだ胸に残っていたけれど、その隣に、「それ、きついですね」という高橋さんの声が並んでいて、少しだけ、呼吸がしやすかった。

 

それから、何日か経った。

忙しさに紛れて、少しだけ眠れる夜もあったけれど、やっぱりまた、眠れない夜がやってくる。  
気づけば私は、時計が午前一時を指すころ、自然とコンビニに向かう足を動かしていた。

コンビニの前のベンチには、やっぱり高橋さんがいた。  
今日は、ペットボトルのカフェオレを片手にしている。

「こんばんは」

私が声をかけると、彼は少し驚いたように目を丸くしてから、笑った。

「こんばんは。また会いましたね」

私はホットコーヒーを買って、隣に腰を下ろす。  
さくら色のパッケージのクッキーも一緒に。

「今日は、どうでした?」

「え?」

「仕事。前、ミスしたって言ってたから」

さりげない問いかけに、胸の奥が少し熱くなる。  
覚えていてくれたことが、うれしかった。

「今日は……ちょっとだけ、うまくいきました」

「おお」

「前に教えてもらった作業、ひとりで最後までできて。上司にも、『助かった』って言われて」

思い出すと、また少しだけ胸が温かくなる。  
でも、その感覚を自分で踏みつぶすように、口が勝手に動いた。

「でも、こんなの、できて当たり前なんですけどね」

高橋さんが、わざとらしくため息をついた。

「出た、『当たり前』」

「え」

「山本さん、すぐそれ言いますよね」

図星すぎて、言葉に詰まる。

「だって……本当に、みんな普通にやってることなんですよ」

「みんなって、誰です?」

また、その質問。  
私は、紙コップのふちを指でなぞりながら、答えに迷う。

「……同じ部署の人たちとか。同期とか。友達とか」

「その人たち、山本さんと、人生のスタート地点も、走ってるコースも、全部一緒です?」

「一緒じゃ、ないですけど」

「なのに、同じスピードで走らなきゃって思うの、しんどくないですか?」

彼の言葉は、静かだけど、まっすぐだった。

「僕なんて、看護師になる前、フリーターでしたよ。周りの同級生はとっくに就職してて、『この歳で学生?』って顔されながら専門学校通ってました」

「そう、なんですか」

「だから、今でもたまに、『もっと早くちゃんとしてれば』って思うことあります。でも、過去は変わらないし、今の自分ができることをちょっとずつ増やすしかないなって」

コンビニの自動ドアが開くたび、外の冷気がふっと流れ込んでくる。  
それでも、ベンチの周りだけは、少しあたたかい気がした。

「今日、『助かった』って言われたんですよね」

「はい」

「それ、めちゃくちゃすごいことだと思いますけど」

「……そう、ですかね」

「誰かの役に立てたってことでしょ。僕は、そういう日があると、それだけで『今日はよし』って思います」

彼は、カフェオレを一口飲む。

「当たり前って、自分でハードル上げすぎると、ずっと自分を合格にできないですよ」

「……合格」

「たまには、自分に甘い点数つけてもいいんじゃないですか。今日の山本さん、合格、みたいな」

そんなこと、考えたこともなかった。

自分に点数をつけるとしたら、いつも赤点ばかりだと思っていた。  
でも、今日くらいは……。

「……じゃあ、今日は、六十五点くらいで」

「低くないですか?」

「えっ」

「せめて八十点でいいと思いますけど」

「いや、それは……」

「だって、『助かった』って言われたんでしょ。八十点」

彼があまりにも当然のように言うので、私は思わず笑ってしまった。

「……じゃあ、八十点で」

「はい、合格」

高橋さんが、軽く指を鳴らす。  
その仕草が、なんだかおかしくて、笑いがこみ上げる。

こんなふうに、自分の話をちゃんと聞いてくれて、否定しないで、少しだけ視点を変えてくれる人がいる。  
そのことが、思っていた以上に心強いと気づく。

「なんか、夜ここに来るの、ちょっと楽しみになってきました」

ぽろっと、本音がこぼれた。

「それは、よかったです」

「高橋さんは?」

「僕ですか?」

「ここに来るの、なんでなんですか?」

彼は少し考えてから、夜空を見上げた。

「……たぶん、切り替えたいんだと思います。病院と、家の間に、もう一個場所が欲しくて」

「切り替え」

「病院って、いろんな感情が渦巻いてる場所なんですよ。嬉しいこともあるけど、しんどいことも多くて。家に帰る前に、一回ここで、全部リセットしたいというか」

そう言って、ベンチを軽く叩く。

「前は、ただここでタバコ吸ってるだけだったんですけど」

「今は?」

「今は……」

彼は、少しだけ私のほうを見て、照れくさそうに笑った。

「話し相手がいるから、前よりだいぶ楽になりました」

胸の奥が、じんわりと温かくなる。

私も、同じだ。  
仕事で落ち込んだ日も、「今夜ベンチで話せばいい」と思えるようになってきた。  
それだけで、昼間の自分が少しだけ軽くなる。

 

桜が咲き始めたのは、それから少し経ったころだった。

駅までの道沿いの桜並木が、ふわりとさくら色に染まり始める。  
昼間、会社へ向かう途中で見上げた桜は、まだ満開には少し早いけれど、それでも十分きれいだった。

その日の仕事中、私はまた小さなミスをした。  
重要なものではなかったから、上司も「次から気をつけてね」とだけ言ってくれた。  
前だったら、その一言だけで一晩中落ち込んでいたと思う。

でも、私は自分で気づいた。

「あ、前よりは冷静に対処できたな」と。

ミスに気づいてすぐ、先輩に相談して、一緒に修正して。  
謝るときも、変に言い訳せずに済んだ。  
胸の中のざわざわは消えないけれど、それでも、前の自分より少しだけましな気がした。

「……六十五点、くらいかな」

帰り道、小さくつぶやく。  
自分で自分に点数をつけることが、少しだけ楽しくなっていた。

その夜も、私はコンビニへ向かった。

春の夜の空気は、まだ少し冷たくて、でも冬ほど刺すようではない。  
コンビニの前のベンチに視線を向ける。

――いない。

いつも座っている場所が、ぽっかりと空いていた。  
ゴミ箱の中には、見慣れた銘柄の缶コーヒーがひとつだけ、転がっている。

「……あれ?」

思わず、声が漏れた。

たまたま時間がずれただけかもしれない。  
そう思いながら、私はホットコーヒーを買ってベンチに座る。

十分、二十分。  
スマホをいじりながら待ってみるけれど、高橋さんは現れない。

胸の奥が、じわじわとざわつき始める。

もしかして、もう引っ越しちゃったのかも。  
夜勤のシフトが変わったとか、仕事が忙しくなったとか、いくらでも理由は思いつく。  
でも、「会えないかもしれない」という可能性が、思っていた以上に怖かった。

「……私、なに期待してたんだろ」

紙コップを両手で包みながら、苦笑する。  
たまたま同じ時間にコンビニに来るだけの人。  
名前を知って、少し話すようになっただけの人。

それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。

帰りのエレベーターは、久しぶりにひとりきりだった。  
静かな箱の中で、蛍光灯の白い光が、妙に冷たく感じる。

高橋さんと初めて言葉を交わした夜のことを思い出す。  
「それ、きついですね」と言ってくれた声。  
「当たり前って、自分で厳しく決めすぎると」と、真面目な顔で言っていた横顔。

会えないかもしれないと思った途端、そのひとつひとつが、急に大事なものに思えてくる。

「……なんか、やだな」

ぽつりと漏れた言葉が、エレベーターの中で小さく反響した。

 

翌朝。

眠りは浅かったけれど、それでも、少しは眠れた。  
いつものように慌ただしく支度をして、玄関のドアを開ける。

エレベーターの前に、人影がひとつ。

「あ」

思わず声が出てしまう。  
振り向いた高橋さんが、同じタイミングで「おはようございます」と言った。

「お、おはようございます」

なんだか変に緊張してしまって、声が裏返る。

「昨日、いませんでしたよね」

口に出してから、「いませんでしたよね」なんて言い方はどうなんだ、と後悔する。  
でも、高橋さんは気を悪くした様子もなく、少し申し訳なさそうに笑った。

「すみません。急に呼び出されちゃって。夜勤じゃなかったんですけど、トラブルで」

「あ、そうなんですね」

安堵が、波のように押し寄せる。  
それと同時に、自分がどれだけ不安になっていたかを思い知らされて、顔が熱くなる。

エレベーターが来て、二人で乗り込む。  
朝のエレベーターは、夜とは違う空気が流れている。  
外から差し込む光が白くて、少しまぶしい。

「なんか、新鮮ですね」

高橋さんが、天井の表示を見上げながら言う。

「え?」

「山本さんと、朝に会うの」

「……そうですね。いつも夜だから」

「夜のコンビニの人、って感じだったんで」

その言い方がおかしくて、つい笑ってしまう。

「高橋さんこそ、夜勤の人って感じでしたよ」

「それ、だいぶ限定されてますね」

エレベーターの中に、ふっと笑い声が広がる。  
いつもは夜だけだった会話が、朝にも続いている。  
それが、妙にくすぐったい。

五階に着いて、扉が開く。  
高橋さんが降りる前に、私は口を開いていた。

「あの」

自分の声が、小さく震えているのが分かる。

「今度もし、お休みの日があったら……」

言いながら、「やっぱりやめようか」という迷いが頭をかすめる。  
でも、それより先に、言葉が転がり出た。

「夜じゃなくて、昼間に、どこかでお茶しませんか」

一瞬、時間が止まったような気がした。

高橋さんが、驚いたように目を瞬く。  
エレベーターの扉が、閉まりかけては開く、を繰り返す。

「ご、ごめんなさい。変ですよね、急に」

慌てて取り繕おうとしたとき、彼がふっと笑った。

「いえ。うれしいです」

「え」

「いいですよ。ぜひ」

いつもの夜の柔らかい笑顔とは、少し違う。  
朝の光の中で見るその表情は、なんだか少し眩しかった。

「夜のコンビニ以外の顔、見てみたいですし」

「……私もです」

自分でも驚くくらい素直に、言葉が出た。

「じゃあ、今度シフト分かったら、ポストにメモ入れますね」

「はい。待ってます」

高橋さんがエレベーターを降りて、五階の廊下に消えていく。  
扉が閉まり、エレベーターが六階へと動き出す。

胸の鼓動が、まだ早い。  
でも、その速さが、昨夜の不安とは違う種類のものだと分かる。

 

会社へ向かう道。  
桜並木の下を歩くと、花びらがひらひらと舞い落ちて、足元を淡く染めていた。

転職してからずっと、「できない自分」を責め続けてきた。  
ミスをしたら、何日も引きずって、眠れない夜を増やして。  
誰かに頼ることも、弱音を吐くことも、下手だった。

でも今、私は夜のベンチに頼るだけじゃなくて、自分から昼間の予定を提案した。  
それがどんな意味を持つのか、まだうまく言葉にできない。  
ただ、「このままでは嫌だ」と思った自分が、ちゃんと動いたことだけは確かだ。

「……今日の私は、何点だろう」

空を見上げて、ぽつりとつぶやく。

少し考えてから、心の中で、自分に点数をつける。

「九十点、くらいでいいかな」

誰もいない道で、小さく笑う。  
満点じゃない。でも、十分合格だ。

散り始めた桜の花びらが、コートの肩にふわりと落ちる。  
指先でそっと払うと、風に乗ってまた空へ舞い上がっていった。

今夜は、きっと眠れる。  
そう思えるだけで、世界が少しやわらかく見えた。

そして私は、まだ見ぬ昼間の約束を胸に抱えながら、いつもより少しだけ軽い足取りで駅へ向かった。"
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