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さくら色
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"眠れない夜は、コンビニの灯りだけが私を許してくれる。
暗い部屋から抜け出してしまうたびに、「また逃げてる」と自分を責めながら、それでも自動ドアをくぐってしまう。
転職して半年が過ぎた。
カレンダーをめくるたび、「そろそろ慣れてきた?」と冗談半分に聞いてくる先輩の顔が頭に浮かぶ。
慣れるどころか、今日も私はやらかしたばかりだ。
「このレベルは、もうできててほしいんだけどね」
夕方、上司にそう言われた瞬間の空気が、まだ胸の中に残っている。
きつい口調ではなかった。むしろ淡々としていたぶん、「当然でしょ?」という期待の重みだけが、じわじわと効いてくる。
ベッドの上で仰向けになり、スマホの画面を見つめる。
SNSには、同年代の友人たちの「昇進しました」「入籍しました」「推しのライブ最高!」みたいな眩しい報告が並んでいて、スクロールする指先がだんだん重くなっていく。
私だけ、取り残されているみたいだ。
画面を伏せて、天井をにらむ。時計は、もうすぐ午前一時。
眠らなきゃ、明日も仕事なのに。
そう思うほど、頭の中はさっきの上司の一言と、自分のミスの反芻でいっぱいになる。
耐えきれなくなって、私は布団を蹴飛ばした。
「……コンビニ、行こ」
パーカーを羽織って、財布とスマホだけポケットに突っ込む。
ワンルームの部屋の鍵を閉めて、静まり返ったマンションの廊下を歩くと、足音がやけに響いた。
駅前のコンビニは、こんな時間でも明るかった。
白い蛍光灯と、冷蔵ケースの低い唸り。
外の冷たい空気から一歩踏み込んだ瞬間、人工的なあたたかさに包まれて、少しだけほっとする。
甘いものが欲しくて、スイーツコーナーの前でしばらく立ち尽くす。
ショーケースの中には、期間限定のさくら色のロールケーキが並んでいた。
「春の味」というポップが、なんだか自分とは別世界の言葉みたいに見える。
ロールケーキとホットコーヒーを買って、レジ袋を片手に店を出る。
コンビニの前には、屋根付きの小さなベンチがひとつ。
その端っこに腰を下ろして、紙コップのふたを外すと、コーヒーの湯気が夜気に溶けていく。
ふと、視線を横にずらす。
少し離れたところに、いつもの人がいた。
パーカーのフードをかぶって、片手に缶コーヒー。
足を投げ出すように座って、ぼんやりと道を眺めている。
顔をまじまじと見るのは気が引けるけれど、輪郭と姿勢だけで、もう「いつもの人」だと分かるくらいには、見慣れてしまった。
転職してから眠れない夜が増えて、このベンチに座るようになった。
そのたびに、だいたい同じ時間に、彼もここにいる。
目が合うと、軽く会釈だけ交わす関係。
名前も知らないし、声も知らない。けれど、なんとなく安心する存在になりつつあった。
今日も、彼はこちらをちらりと見て、小さく会釈をした。
私も、ぎこちなく頭を下げる。
それだけのやりとりで、紙コップを両手で包み込む。
熱さが指先からじんわり伝わる感覚に集中して、余計なことを考えないようにする。
甘いロールケーキをひと口。
「こんなの食べてるから太るんだよ」と、どこかで誰かの声が聞こえた気がして、すぐに打ち消す。
「いいじゃん、今くらい」
小さくつぶやいて、もうひと口。
口の中に広がる砂糖とクリームの甘さに、少しだけ救われる。
そんな夜が、何度も繰り返された。
眠れなくて、コンビニに行って、同じベンチに座る。
彼はいつも、缶コーヒーかペットボトルのカフェオレを持っていて、たまにタバコを吸っている。
煙草の煙は苦手だけれど、彼は私がいるときは、いつも少し離れた場所で吸ってくれるから、あまり気にならなかった。
ある夜、空がにわかに暗くなって、細かい雨が降り始めた。
「え、聞いてない」
天気予報なんてチェックしていない。
傘も持っていない私は、慌ててベンチの屋根の下に移動する。
紙袋の中には、明日提出するはずだった資料のコピー。
家で読み返そうと思って持ち帰ってきたものだ。
風が強くなり、ベンチの横から吹き込んだ風が、紙袋の口をあおった。
中の書類がふわっと浮き上がる。
「あっ」
掴もうとした瞬間、誰かの手がすっと伸びて、紙袋を押さえた。
「危ないですよ」
顔を上げると、いつもの人が立っていた。
近くで見るのは、初めてかもしれない。
思っていたよりも柔らかい目をしていて、少しだけ笑っていた。
「あ、ありがとうございます……」
慌てて紙袋を抱きしめる。
心臓が、変な意味でどきどきしている。
「同じマンションですよね?」
「え?」
不意打ちの言葉に、間抜けな声が出た。
「ほら、駅からの帰りとか。エレベーターで、何回か一緒になってる気がして」
彼は、少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「あ、そう、かも……。あの、六階の、山本です」
名乗ってから、自己紹介になっていないことに気づく。
でも、もう遅い。
「六階。やっぱりそうだ。僕、五階の高橋です」
「……高橋さん」
口に出してみると、妙にしっくりきた。
いつもの人に、ようやく名前がついた。
雨脚が強くなり、アスファルトに細かい波紋が広がっていく。
ベンチの屋根を叩く雨音が、会話の間を埋めた。
「こんな時間に、よく会いますよね」
高橋さんが、缶コーヒーを指先でくるくる回しながら言う。
「そうですね……。あの、そっちこそ」
「僕は、夜勤明けとか、夜勤前とか。ちょうどこの時間に、ぼーっとしたくなるんですよ」
「夜勤……?」
「はい。看護師やってて」
看護師。
タバコを吸っている姿から勝手に想像していた職業と、あまりにも違っていて、思わず二度見してしまう。
「そんな顔しなくても」
高橋さんは、苦笑しながら肩をすくめた。
「たぶん、想像と違いました?」
「い、いえ……なんか、すみません」
「大丈夫です。よく言われるんで」
そう言って笑う声は、見た目よりずっと柔らかかった。
「山本さんは、眠れないんですか?」
紙袋を抱えたまま固まっていた私に、高橋さんが静かに尋ねる。
否定しようとして、うまく言葉が出てこない。
「……まあ、そんな感じです」
「仕事、ですか?」
どうして分かるんだろう。
驚いて顔を上げると、高橋さんは視線を逸らさずに、ただ待っていた。
「今日、ちょっとミスしちゃって。上司に言われた一言が、ずっと頭から離れなくて」
「ミスか」
彼は小さくうなずく。
「どんな?」
具体的に聞かれるとは思っていなくて、少し迷う。
でも、ここまで話してしまったら、もういいか、という気持ちが勝った。
「資料の数字を、ひと桁間違えちゃって。チェックしたはずなのに、抜けちゃってて。『このレベルはできててほしい』って言われて……。分かってるんです、私がちゃんとできてなかったから悪いんですけど」
言いながら、自分でも情けなくなってくる。
こんな小さなこと、と思われるかもしれない。
「それ、きついですね」
高橋さんは、すぐにそう言った。
「え?」
「僕だったら、めちゃくちゃ落ち込みます」
さらっとした口調だけど、軽くはない。
ちゃんと私の気持ちに寄り添ってくれているのが分かる。
「……でも、数字ひと桁ですよ? ちゃんとしてる人なら、ミスしないじゃないですか」
「ちゃんとしてる人って、誰です?」
「え?」
「なんか、すごい完璧な人を想像してません? その人と比べて、『自分はダメだ』って」
図星だった。
SNSで見た、キラキラした友人たちの投稿が頭をよぎる。
「看護師も、全然完璧じゃないですよ。僕、新人のころ、点滴の針を三回刺し直して、患者さんに泣かれました」
「えっ……」
「今でも、たまに失敗しますし。もちろん、やっちゃいけないミスもあるから、気をつけますけど」
雨音のリズムに合わせるように、彼の言葉が続く。
「『このレベルはできててほしい』って言われると、しんどいですよね。でも、それって、その上司の『当たり前』であって、山本さんの『当たり前』とは違うかもしれないじゃないですか」
「……当たり前」
「当たり前って、自分で厳しく決めすぎると、息苦しくなりません?」
私は、紙コップを見つめた。
ふたの縁に、コーヒーが少しこぼれている。
「……なります」
かすれた声で答えると、高橋さんは「ですよね」と小さく笑った。
「ミスしたくないって思うのは、ちゃんとしてるからですよ。適当な人は、そんなに気にしないです」
「そんなことないですよ」
反射的に否定する。
でも、心のどこかで、その言葉に救われている自分がいた。
「とりあえず、今日は甘いもの食べて、寝てください。数字のことは、明日、起きてから考えましょう」
「……はい」
雨は、少しずつ弱まってきていた。
その夜、部屋に戻って布団に入ったとき、私はいつもより早く眠りについた。
上司の言葉はまだ胸に残っていたけれど、その隣に、「それ、きついですね」という高橋さんの声が並んでいて、少しだけ、呼吸がしやすかった。
それから、何日か経った。
忙しさに紛れて、少しだけ眠れる夜もあったけれど、やっぱりまた、眠れない夜がやってくる。
気づけば私は、時計が午前一時を指すころ、自然とコンビニに向かう足を動かしていた。
コンビニの前のベンチには、やっぱり高橋さんがいた。
今日は、ペットボトルのカフェオレを片手にしている。
「こんばんは」
私が声をかけると、彼は少し驚いたように目を丸くしてから、笑った。
「こんばんは。また会いましたね」
私はホットコーヒーを買って、隣に腰を下ろす。
さくら色のパッケージのクッキーも一緒に。
「今日は、どうでした?」
「え?」
「仕事。前、ミスしたって言ってたから」
さりげない問いかけに、胸の奥が少し熱くなる。
覚えていてくれたことが、うれしかった。
「今日は……ちょっとだけ、うまくいきました」
「おお」
「前に教えてもらった作業、ひとりで最後までできて。上司にも、『助かった』って言われて」
思い出すと、また少しだけ胸が温かくなる。
でも、その感覚を自分で踏みつぶすように、口が勝手に動いた。
「でも、こんなの、できて当たり前なんですけどね」
高橋さんが、わざとらしくため息をついた。
「出た、『当たり前』」
「え」
「山本さん、すぐそれ言いますよね」
図星すぎて、言葉に詰まる。
「だって……本当に、みんな普通にやってることなんですよ」
「みんなって、誰です?」
また、その質問。
私は、紙コップのふちを指でなぞりながら、答えに迷う。
「……同じ部署の人たちとか。同期とか。友達とか」
「その人たち、山本さんと、人生のスタート地点も、走ってるコースも、全部一緒です?」
「一緒じゃ、ないですけど」
「なのに、同じスピードで走らなきゃって思うの、しんどくないですか?」
彼の言葉は、静かだけど、まっすぐだった。
「僕なんて、看護師になる前、フリーターでしたよ。周りの同級生はとっくに就職してて、『この歳で学生?』って顔されながら専門学校通ってました」
「そう、なんですか」
「だから、今でもたまに、『もっと早くちゃんとしてれば』って思うことあります。でも、過去は変わらないし、今の自分ができることをちょっとずつ増やすしかないなって」
コンビニの自動ドアが開くたび、外の冷気がふっと流れ込んでくる。
それでも、ベンチの周りだけは、少しあたたかい気がした。
「今日、『助かった』って言われたんですよね」
「はい」
「それ、めちゃくちゃすごいことだと思いますけど」
「……そう、ですかね」
「誰かの役に立てたってことでしょ。僕は、そういう日があると、それだけで『今日はよし』って思います」
彼は、カフェオレを一口飲む。
「当たり前って、自分でハードル上げすぎると、ずっと自分を合格にできないですよ」
「……合格」
「たまには、自分に甘い点数つけてもいいんじゃないですか。今日の山本さん、合格、みたいな」
そんなこと、考えたこともなかった。
自分に点数をつけるとしたら、いつも赤点ばかりだと思っていた。
でも、今日くらいは……。
「……じゃあ、今日は、六十五点くらいで」
「低くないですか?」
「えっ」
「せめて八十点でいいと思いますけど」
「いや、それは……」
「だって、『助かった』って言われたんでしょ。八十点」
彼があまりにも当然のように言うので、私は思わず笑ってしまった。
「……じゃあ、八十点で」
「はい、合格」
高橋さんが、軽く指を鳴らす。
その仕草が、なんだかおかしくて、笑いがこみ上げる。
こんなふうに、自分の話をちゃんと聞いてくれて、否定しないで、少しだけ視点を変えてくれる人がいる。
そのことが、思っていた以上に心強いと気づく。
「なんか、夜ここに来るの、ちょっと楽しみになってきました」
ぽろっと、本音がこぼれた。
「それは、よかったです」
「高橋さんは?」
「僕ですか?」
「ここに来るの、なんでなんですか?」
彼は少し考えてから、夜空を見上げた。
「……たぶん、切り替えたいんだと思います。病院と、家の間に、もう一個場所が欲しくて」
「切り替え」
「病院って、いろんな感情が渦巻いてる場所なんですよ。嬉しいこともあるけど、しんどいことも多くて。家に帰る前に、一回ここで、全部リセットしたいというか」
そう言って、ベンチを軽く叩く。
「前は、ただここでタバコ吸ってるだけだったんですけど」
「今は?」
「今は……」
彼は、少しだけ私のほうを見て、照れくさそうに笑った。
「話し相手がいるから、前よりだいぶ楽になりました」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私も、同じだ。
仕事で落ち込んだ日も、「今夜ベンチで話せばいい」と思えるようになってきた。
それだけで、昼間の自分が少しだけ軽くなる。
桜が咲き始めたのは、それから少し経ったころだった。
駅までの道沿いの桜並木が、ふわりとさくら色に染まり始める。
昼間、会社へ向かう途中で見上げた桜は、まだ満開には少し早いけれど、それでも十分きれいだった。
その日の仕事中、私はまた小さなミスをした。
重要なものではなかったから、上司も「次から気をつけてね」とだけ言ってくれた。
前だったら、その一言だけで一晩中落ち込んでいたと思う。
でも、私は自分で気づいた。
「あ、前よりは冷静に対処できたな」と。
ミスに気づいてすぐ、先輩に相談して、一緒に修正して。
謝るときも、変に言い訳せずに済んだ。
胸の中のざわざわは消えないけれど、それでも、前の自分より少しだけましな気がした。
「……六十五点、くらいかな」
帰り道、小さくつぶやく。
自分で自分に点数をつけることが、少しだけ楽しくなっていた。
その夜も、私はコンビニへ向かった。
春の夜の空気は、まだ少し冷たくて、でも冬ほど刺すようではない。
コンビニの前のベンチに視線を向ける。
――いない。
いつも座っている場所が、ぽっかりと空いていた。
ゴミ箱の中には、見慣れた銘柄の缶コーヒーがひとつだけ、転がっている。
「……あれ?」
思わず、声が漏れた。
たまたま時間がずれただけかもしれない。
そう思いながら、私はホットコーヒーを買ってベンチに座る。
十分、二十分。
スマホをいじりながら待ってみるけれど、高橋さんは現れない。
胸の奥が、じわじわとざわつき始める。
もしかして、もう引っ越しちゃったのかも。
夜勤のシフトが変わったとか、仕事が忙しくなったとか、いくらでも理由は思いつく。
でも、「会えないかもしれない」という可能性が、思っていた以上に怖かった。
「……私、なに期待してたんだろ」
紙コップを両手で包みながら、苦笑する。
たまたま同じ時間にコンビニに来るだけの人。
名前を知って、少し話すようになっただけの人。
それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。
帰りのエレベーターは、久しぶりにひとりきりだった。
静かな箱の中で、蛍光灯の白い光が、妙に冷たく感じる。
高橋さんと初めて言葉を交わした夜のことを思い出す。
「それ、きついですね」と言ってくれた声。
「当たり前って、自分で厳しく決めすぎると」と、真面目な顔で言っていた横顔。
会えないかもしれないと思った途端、そのひとつひとつが、急に大事なものに思えてくる。
「……なんか、やだな」
ぽつりと漏れた言葉が、エレベーターの中で小さく反響した。
翌朝。
眠りは浅かったけれど、それでも、少しは眠れた。
いつものように慌ただしく支度をして、玄関のドアを開ける。
エレベーターの前に、人影がひとつ。
「あ」
思わず声が出てしまう。
振り向いた高橋さんが、同じタイミングで「おはようございます」と言った。
「お、おはようございます」
なんだか変に緊張してしまって、声が裏返る。
「昨日、いませんでしたよね」
口に出してから、「いませんでしたよね」なんて言い方はどうなんだ、と後悔する。
でも、高橋さんは気を悪くした様子もなく、少し申し訳なさそうに笑った。
「すみません。急に呼び出されちゃって。夜勤じゃなかったんですけど、トラブルで」
「あ、そうなんですね」
安堵が、波のように押し寄せる。
それと同時に、自分がどれだけ不安になっていたかを思い知らされて、顔が熱くなる。
エレベーターが来て、二人で乗り込む。
朝のエレベーターは、夜とは違う空気が流れている。
外から差し込む光が白くて、少しまぶしい。
「なんか、新鮮ですね」
高橋さんが、天井の表示を見上げながら言う。
「え?」
「山本さんと、朝に会うの」
「……そうですね。いつも夜だから」
「夜のコンビニの人、って感じだったんで」
その言い方がおかしくて、つい笑ってしまう。
「高橋さんこそ、夜勤の人って感じでしたよ」
「それ、だいぶ限定されてますね」
エレベーターの中に、ふっと笑い声が広がる。
いつもは夜だけだった会話が、朝にも続いている。
それが、妙にくすぐったい。
五階に着いて、扉が開く。
高橋さんが降りる前に、私は口を開いていた。
「あの」
自分の声が、小さく震えているのが分かる。
「今度もし、お休みの日があったら……」
言いながら、「やっぱりやめようか」という迷いが頭をかすめる。
でも、それより先に、言葉が転がり出た。
「夜じゃなくて、昼間に、どこかでお茶しませんか」
一瞬、時間が止まったような気がした。
高橋さんが、驚いたように目を瞬く。
エレベーターの扉が、閉まりかけては開く、を繰り返す。
「ご、ごめんなさい。変ですよね、急に」
慌てて取り繕おうとしたとき、彼がふっと笑った。
「いえ。うれしいです」
「え」
「いいですよ。ぜひ」
いつもの夜の柔らかい笑顔とは、少し違う。
朝の光の中で見るその表情は、なんだか少し眩しかった。
「夜のコンビニ以外の顔、見てみたいですし」
「……私もです」
自分でも驚くくらい素直に、言葉が出た。
「じゃあ、今度シフト分かったら、ポストにメモ入れますね」
「はい。待ってます」
高橋さんがエレベーターを降りて、五階の廊下に消えていく。
扉が閉まり、エレベーターが六階へと動き出す。
胸の鼓動が、まだ早い。
でも、その速さが、昨夜の不安とは違う種類のものだと分かる。
会社へ向かう道。
桜並木の下を歩くと、花びらがひらひらと舞い落ちて、足元を淡く染めていた。
転職してからずっと、「できない自分」を責め続けてきた。
ミスをしたら、何日も引きずって、眠れない夜を増やして。
誰かに頼ることも、弱音を吐くことも、下手だった。
でも今、私は夜のベンチに頼るだけじゃなくて、自分から昼間の予定を提案した。
それがどんな意味を持つのか、まだうまく言葉にできない。
ただ、「このままでは嫌だ」と思った自分が、ちゃんと動いたことだけは確かだ。
「……今日の私は、何点だろう」
空を見上げて、ぽつりとつぶやく。
少し考えてから、心の中で、自分に点数をつける。
「九十点、くらいでいいかな」
誰もいない道で、小さく笑う。
満点じゃない。でも、十分合格だ。
散り始めた桜の花びらが、コートの肩にふわりと落ちる。
指先でそっと払うと、風に乗ってまた空へ舞い上がっていった。
今夜は、きっと眠れる。
そう思えるだけで、世界が少しやわらかく見えた。
そして私は、まだ見ぬ昼間の約束を胸に抱えながら、いつもより少しだけ軽い足取りで駅へ向かった。"
暗い部屋から抜け出してしまうたびに、「また逃げてる」と自分を責めながら、それでも自動ドアをくぐってしまう。
転職して半年が過ぎた。
カレンダーをめくるたび、「そろそろ慣れてきた?」と冗談半分に聞いてくる先輩の顔が頭に浮かぶ。
慣れるどころか、今日も私はやらかしたばかりだ。
「このレベルは、もうできててほしいんだけどね」
夕方、上司にそう言われた瞬間の空気が、まだ胸の中に残っている。
きつい口調ではなかった。むしろ淡々としていたぶん、「当然でしょ?」という期待の重みだけが、じわじわと効いてくる。
ベッドの上で仰向けになり、スマホの画面を見つめる。
SNSには、同年代の友人たちの「昇進しました」「入籍しました」「推しのライブ最高!」みたいな眩しい報告が並んでいて、スクロールする指先がだんだん重くなっていく。
私だけ、取り残されているみたいだ。
画面を伏せて、天井をにらむ。時計は、もうすぐ午前一時。
眠らなきゃ、明日も仕事なのに。
そう思うほど、頭の中はさっきの上司の一言と、自分のミスの反芻でいっぱいになる。
耐えきれなくなって、私は布団を蹴飛ばした。
「……コンビニ、行こ」
パーカーを羽織って、財布とスマホだけポケットに突っ込む。
ワンルームの部屋の鍵を閉めて、静まり返ったマンションの廊下を歩くと、足音がやけに響いた。
駅前のコンビニは、こんな時間でも明るかった。
白い蛍光灯と、冷蔵ケースの低い唸り。
外の冷たい空気から一歩踏み込んだ瞬間、人工的なあたたかさに包まれて、少しだけほっとする。
甘いものが欲しくて、スイーツコーナーの前でしばらく立ち尽くす。
ショーケースの中には、期間限定のさくら色のロールケーキが並んでいた。
「春の味」というポップが、なんだか自分とは別世界の言葉みたいに見える。
ロールケーキとホットコーヒーを買って、レジ袋を片手に店を出る。
コンビニの前には、屋根付きの小さなベンチがひとつ。
その端っこに腰を下ろして、紙コップのふたを外すと、コーヒーの湯気が夜気に溶けていく。
ふと、視線を横にずらす。
少し離れたところに、いつもの人がいた。
パーカーのフードをかぶって、片手に缶コーヒー。
足を投げ出すように座って、ぼんやりと道を眺めている。
顔をまじまじと見るのは気が引けるけれど、輪郭と姿勢だけで、もう「いつもの人」だと分かるくらいには、見慣れてしまった。
転職してから眠れない夜が増えて、このベンチに座るようになった。
そのたびに、だいたい同じ時間に、彼もここにいる。
目が合うと、軽く会釈だけ交わす関係。
名前も知らないし、声も知らない。けれど、なんとなく安心する存在になりつつあった。
今日も、彼はこちらをちらりと見て、小さく会釈をした。
私も、ぎこちなく頭を下げる。
それだけのやりとりで、紙コップを両手で包み込む。
熱さが指先からじんわり伝わる感覚に集中して、余計なことを考えないようにする。
甘いロールケーキをひと口。
「こんなの食べてるから太るんだよ」と、どこかで誰かの声が聞こえた気がして、すぐに打ち消す。
「いいじゃん、今くらい」
小さくつぶやいて、もうひと口。
口の中に広がる砂糖とクリームの甘さに、少しだけ救われる。
そんな夜が、何度も繰り返された。
眠れなくて、コンビニに行って、同じベンチに座る。
彼はいつも、缶コーヒーかペットボトルのカフェオレを持っていて、たまにタバコを吸っている。
煙草の煙は苦手だけれど、彼は私がいるときは、いつも少し離れた場所で吸ってくれるから、あまり気にならなかった。
ある夜、空がにわかに暗くなって、細かい雨が降り始めた。
「え、聞いてない」
天気予報なんてチェックしていない。
傘も持っていない私は、慌ててベンチの屋根の下に移動する。
紙袋の中には、明日提出するはずだった資料のコピー。
家で読み返そうと思って持ち帰ってきたものだ。
風が強くなり、ベンチの横から吹き込んだ風が、紙袋の口をあおった。
中の書類がふわっと浮き上がる。
「あっ」
掴もうとした瞬間、誰かの手がすっと伸びて、紙袋を押さえた。
「危ないですよ」
顔を上げると、いつもの人が立っていた。
近くで見るのは、初めてかもしれない。
思っていたよりも柔らかい目をしていて、少しだけ笑っていた。
「あ、ありがとうございます……」
慌てて紙袋を抱きしめる。
心臓が、変な意味でどきどきしている。
「同じマンションですよね?」
「え?」
不意打ちの言葉に、間抜けな声が出た。
「ほら、駅からの帰りとか。エレベーターで、何回か一緒になってる気がして」
彼は、少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「あ、そう、かも……。あの、六階の、山本です」
名乗ってから、自己紹介になっていないことに気づく。
でも、もう遅い。
「六階。やっぱりそうだ。僕、五階の高橋です」
「……高橋さん」
口に出してみると、妙にしっくりきた。
いつもの人に、ようやく名前がついた。
雨脚が強くなり、アスファルトに細かい波紋が広がっていく。
ベンチの屋根を叩く雨音が、会話の間を埋めた。
「こんな時間に、よく会いますよね」
高橋さんが、缶コーヒーを指先でくるくる回しながら言う。
「そうですね……。あの、そっちこそ」
「僕は、夜勤明けとか、夜勤前とか。ちょうどこの時間に、ぼーっとしたくなるんですよ」
「夜勤……?」
「はい。看護師やってて」
看護師。
タバコを吸っている姿から勝手に想像していた職業と、あまりにも違っていて、思わず二度見してしまう。
「そんな顔しなくても」
高橋さんは、苦笑しながら肩をすくめた。
「たぶん、想像と違いました?」
「い、いえ……なんか、すみません」
「大丈夫です。よく言われるんで」
そう言って笑う声は、見た目よりずっと柔らかかった。
「山本さんは、眠れないんですか?」
紙袋を抱えたまま固まっていた私に、高橋さんが静かに尋ねる。
否定しようとして、うまく言葉が出てこない。
「……まあ、そんな感じです」
「仕事、ですか?」
どうして分かるんだろう。
驚いて顔を上げると、高橋さんは視線を逸らさずに、ただ待っていた。
「今日、ちょっとミスしちゃって。上司に言われた一言が、ずっと頭から離れなくて」
「ミスか」
彼は小さくうなずく。
「どんな?」
具体的に聞かれるとは思っていなくて、少し迷う。
でも、ここまで話してしまったら、もういいか、という気持ちが勝った。
「資料の数字を、ひと桁間違えちゃって。チェックしたはずなのに、抜けちゃってて。『このレベルはできててほしい』って言われて……。分かってるんです、私がちゃんとできてなかったから悪いんですけど」
言いながら、自分でも情けなくなってくる。
こんな小さなこと、と思われるかもしれない。
「それ、きついですね」
高橋さんは、すぐにそう言った。
「え?」
「僕だったら、めちゃくちゃ落ち込みます」
さらっとした口調だけど、軽くはない。
ちゃんと私の気持ちに寄り添ってくれているのが分かる。
「……でも、数字ひと桁ですよ? ちゃんとしてる人なら、ミスしないじゃないですか」
「ちゃんとしてる人って、誰です?」
「え?」
「なんか、すごい完璧な人を想像してません? その人と比べて、『自分はダメだ』って」
図星だった。
SNSで見た、キラキラした友人たちの投稿が頭をよぎる。
「看護師も、全然完璧じゃないですよ。僕、新人のころ、点滴の針を三回刺し直して、患者さんに泣かれました」
「えっ……」
「今でも、たまに失敗しますし。もちろん、やっちゃいけないミスもあるから、気をつけますけど」
雨音のリズムに合わせるように、彼の言葉が続く。
「『このレベルはできててほしい』って言われると、しんどいですよね。でも、それって、その上司の『当たり前』であって、山本さんの『当たり前』とは違うかもしれないじゃないですか」
「……当たり前」
「当たり前って、自分で厳しく決めすぎると、息苦しくなりません?」
私は、紙コップを見つめた。
ふたの縁に、コーヒーが少しこぼれている。
「……なります」
かすれた声で答えると、高橋さんは「ですよね」と小さく笑った。
「ミスしたくないって思うのは、ちゃんとしてるからですよ。適当な人は、そんなに気にしないです」
「そんなことないですよ」
反射的に否定する。
でも、心のどこかで、その言葉に救われている自分がいた。
「とりあえず、今日は甘いもの食べて、寝てください。数字のことは、明日、起きてから考えましょう」
「……はい」
雨は、少しずつ弱まってきていた。
その夜、部屋に戻って布団に入ったとき、私はいつもより早く眠りについた。
上司の言葉はまだ胸に残っていたけれど、その隣に、「それ、きついですね」という高橋さんの声が並んでいて、少しだけ、呼吸がしやすかった。
それから、何日か経った。
忙しさに紛れて、少しだけ眠れる夜もあったけれど、やっぱりまた、眠れない夜がやってくる。
気づけば私は、時計が午前一時を指すころ、自然とコンビニに向かう足を動かしていた。
コンビニの前のベンチには、やっぱり高橋さんがいた。
今日は、ペットボトルのカフェオレを片手にしている。
「こんばんは」
私が声をかけると、彼は少し驚いたように目を丸くしてから、笑った。
「こんばんは。また会いましたね」
私はホットコーヒーを買って、隣に腰を下ろす。
さくら色のパッケージのクッキーも一緒に。
「今日は、どうでした?」
「え?」
「仕事。前、ミスしたって言ってたから」
さりげない問いかけに、胸の奥が少し熱くなる。
覚えていてくれたことが、うれしかった。
「今日は……ちょっとだけ、うまくいきました」
「おお」
「前に教えてもらった作業、ひとりで最後までできて。上司にも、『助かった』って言われて」
思い出すと、また少しだけ胸が温かくなる。
でも、その感覚を自分で踏みつぶすように、口が勝手に動いた。
「でも、こんなの、できて当たり前なんですけどね」
高橋さんが、わざとらしくため息をついた。
「出た、『当たり前』」
「え」
「山本さん、すぐそれ言いますよね」
図星すぎて、言葉に詰まる。
「だって……本当に、みんな普通にやってることなんですよ」
「みんなって、誰です?」
また、その質問。
私は、紙コップのふちを指でなぞりながら、答えに迷う。
「……同じ部署の人たちとか。同期とか。友達とか」
「その人たち、山本さんと、人生のスタート地点も、走ってるコースも、全部一緒です?」
「一緒じゃ、ないですけど」
「なのに、同じスピードで走らなきゃって思うの、しんどくないですか?」
彼の言葉は、静かだけど、まっすぐだった。
「僕なんて、看護師になる前、フリーターでしたよ。周りの同級生はとっくに就職してて、『この歳で学生?』って顔されながら専門学校通ってました」
「そう、なんですか」
「だから、今でもたまに、『もっと早くちゃんとしてれば』って思うことあります。でも、過去は変わらないし、今の自分ができることをちょっとずつ増やすしかないなって」
コンビニの自動ドアが開くたび、外の冷気がふっと流れ込んでくる。
それでも、ベンチの周りだけは、少しあたたかい気がした。
「今日、『助かった』って言われたんですよね」
「はい」
「それ、めちゃくちゃすごいことだと思いますけど」
「……そう、ですかね」
「誰かの役に立てたってことでしょ。僕は、そういう日があると、それだけで『今日はよし』って思います」
彼は、カフェオレを一口飲む。
「当たり前って、自分でハードル上げすぎると、ずっと自分を合格にできないですよ」
「……合格」
「たまには、自分に甘い点数つけてもいいんじゃないですか。今日の山本さん、合格、みたいな」
そんなこと、考えたこともなかった。
自分に点数をつけるとしたら、いつも赤点ばかりだと思っていた。
でも、今日くらいは……。
「……じゃあ、今日は、六十五点くらいで」
「低くないですか?」
「えっ」
「せめて八十点でいいと思いますけど」
「いや、それは……」
「だって、『助かった』って言われたんでしょ。八十点」
彼があまりにも当然のように言うので、私は思わず笑ってしまった。
「……じゃあ、八十点で」
「はい、合格」
高橋さんが、軽く指を鳴らす。
その仕草が、なんだかおかしくて、笑いがこみ上げる。
こんなふうに、自分の話をちゃんと聞いてくれて、否定しないで、少しだけ視点を変えてくれる人がいる。
そのことが、思っていた以上に心強いと気づく。
「なんか、夜ここに来るの、ちょっと楽しみになってきました」
ぽろっと、本音がこぼれた。
「それは、よかったです」
「高橋さんは?」
「僕ですか?」
「ここに来るの、なんでなんですか?」
彼は少し考えてから、夜空を見上げた。
「……たぶん、切り替えたいんだと思います。病院と、家の間に、もう一個場所が欲しくて」
「切り替え」
「病院って、いろんな感情が渦巻いてる場所なんですよ。嬉しいこともあるけど、しんどいことも多くて。家に帰る前に、一回ここで、全部リセットしたいというか」
そう言って、ベンチを軽く叩く。
「前は、ただここでタバコ吸ってるだけだったんですけど」
「今は?」
「今は……」
彼は、少しだけ私のほうを見て、照れくさそうに笑った。
「話し相手がいるから、前よりだいぶ楽になりました」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私も、同じだ。
仕事で落ち込んだ日も、「今夜ベンチで話せばいい」と思えるようになってきた。
それだけで、昼間の自分が少しだけ軽くなる。
桜が咲き始めたのは、それから少し経ったころだった。
駅までの道沿いの桜並木が、ふわりとさくら色に染まり始める。
昼間、会社へ向かう途中で見上げた桜は、まだ満開には少し早いけれど、それでも十分きれいだった。
その日の仕事中、私はまた小さなミスをした。
重要なものではなかったから、上司も「次から気をつけてね」とだけ言ってくれた。
前だったら、その一言だけで一晩中落ち込んでいたと思う。
でも、私は自分で気づいた。
「あ、前よりは冷静に対処できたな」と。
ミスに気づいてすぐ、先輩に相談して、一緒に修正して。
謝るときも、変に言い訳せずに済んだ。
胸の中のざわざわは消えないけれど、それでも、前の自分より少しだけましな気がした。
「……六十五点、くらいかな」
帰り道、小さくつぶやく。
自分で自分に点数をつけることが、少しだけ楽しくなっていた。
その夜も、私はコンビニへ向かった。
春の夜の空気は、まだ少し冷たくて、でも冬ほど刺すようではない。
コンビニの前のベンチに視線を向ける。
――いない。
いつも座っている場所が、ぽっかりと空いていた。
ゴミ箱の中には、見慣れた銘柄の缶コーヒーがひとつだけ、転がっている。
「……あれ?」
思わず、声が漏れた。
たまたま時間がずれただけかもしれない。
そう思いながら、私はホットコーヒーを買ってベンチに座る。
十分、二十分。
スマホをいじりながら待ってみるけれど、高橋さんは現れない。
胸の奥が、じわじわとざわつき始める。
もしかして、もう引っ越しちゃったのかも。
夜勤のシフトが変わったとか、仕事が忙しくなったとか、いくらでも理由は思いつく。
でも、「会えないかもしれない」という可能性が、思っていた以上に怖かった。
「……私、なに期待してたんだろ」
紙コップを両手で包みながら、苦笑する。
たまたま同じ時間にコンビニに来るだけの人。
名前を知って、少し話すようになっただけの人。
それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。
帰りのエレベーターは、久しぶりにひとりきりだった。
静かな箱の中で、蛍光灯の白い光が、妙に冷たく感じる。
高橋さんと初めて言葉を交わした夜のことを思い出す。
「それ、きついですね」と言ってくれた声。
「当たり前って、自分で厳しく決めすぎると」と、真面目な顔で言っていた横顔。
会えないかもしれないと思った途端、そのひとつひとつが、急に大事なものに思えてくる。
「……なんか、やだな」
ぽつりと漏れた言葉が、エレベーターの中で小さく反響した。
翌朝。
眠りは浅かったけれど、それでも、少しは眠れた。
いつものように慌ただしく支度をして、玄関のドアを開ける。
エレベーターの前に、人影がひとつ。
「あ」
思わず声が出てしまう。
振り向いた高橋さんが、同じタイミングで「おはようございます」と言った。
「お、おはようございます」
なんだか変に緊張してしまって、声が裏返る。
「昨日、いませんでしたよね」
口に出してから、「いませんでしたよね」なんて言い方はどうなんだ、と後悔する。
でも、高橋さんは気を悪くした様子もなく、少し申し訳なさそうに笑った。
「すみません。急に呼び出されちゃって。夜勤じゃなかったんですけど、トラブルで」
「あ、そうなんですね」
安堵が、波のように押し寄せる。
それと同時に、自分がどれだけ不安になっていたかを思い知らされて、顔が熱くなる。
エレベーターが来て、二人で乗り込む。
朝のエレベーターは、夜とは違う空気が流れている。
外から差し込む光が白くて、少しまぶしい。
「なんか、新鮮ですね」
高橋さんが、天井の表示を見上げながら言う。
「え?」
「山本さんと、朝に会うの」
「……そうですね。いつも夜だから」
「夜のコンビニの人、って感じだったんで」
その言い方がおかしくて、つい笑ってしまう。
「高橋さんこそ、夜勤の人って感じでしたよ」
「それ、だいぶ限定されてますね」
エレベーターの中に、ふっと笑い声が広がる。
いつもは夜だけだった会話が、朝にも続いている。
それが、妙にくすぐったい。
五階に着いて、扉が開く。
高橋さんが降りる前に、私は口を開いていた。
「あの」
自分の声が、小さく震えているのが分かる。
「今度もし、お休みの日があったら……」
言いながら、「やっぱりやめようか」という迷いが頭をかすめる。
でも、それより先に、言葉が転がり出た。
「夜じゃなくて、昼間に、どこかでお茶しませんか」
一瞬、時間が止まったような気がした。
高橋さんが、驚いたように目を瞬く。
エレベーターの扉が、閉まりかけては開く、を繰り返す。
「ご、ごめんなさい。変ですよね、急に」
慌てて取り繕おうとしたとき、彼がふっと笑った。
「いえ。うれしいです」
「え」
「いいですよ。ぜひ」
いつもの夜の柔らかい笑顔とは、少し違う。
朝の光の中で見るその表情は、なんだか少し眩しかった。
「夜のコンビニ以外の顔、見てみたいですし」
「……私もです」
自分でも驚くくらい素直に、言葉が出た。
「じゃあ、今度シフト分かったら、ポストにメモ入れますね」
「はい。待ってます」
高橋さんがエレベーターを降りて、五階の廊下に消えていく。
扉が閉まり、エレベーターが六階へと動き出す。
胸の鼓動が、まだ早い。
でも、その速さが、昨夜の不安とは違う種類のものだと分かる。
会社へ向かう道。
桜並木の下を歩くと、花びらがひらひらと舞い落ちて、足元を淡く染めていた。
転職してからずっと、「できない自分」を責め続けてきた。
ミスをしたら、何日も引きずって、眠れない夜を増やして。
誰かに頼ることも、弱音を吐くことも、下手だった。
でも今、私は夜のベンチに頼るだけじゃなくて、自分から昼間の予定を提案した。
それがどんな意味を持つのか、まだうまく言葉にできない。
ただ、「このままでは嫌だ」と思った自分が、ちゃんと動いたことだけは確かだ。
「……今日の私は、何点だろう」
空を見上げて、ぽつりとつぶやく。
少し考えてから、心の中で、自分に点数をつける。
「九十点、くらいでいいかな」
誰もいない道で、小さく笑う。
満点じゃない。でも、十分合格だ。
散り始めた桜の花びらが、コートの肩にふわりと落ちる。
指先でそっと払うと、風に乗ってまた空へ舞い上がっていった。
今夜は、きっと眠れる。
そう思えるだけで、世界が少しやわらかく見えた。
そして私は、まだ見ぬ昼間の約束を胸に抱えながら、いつもより少しだけ軽い足取りで駅へ向かった。"
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