🟧叛雨に濡れる朝(あした)に🟧  【敵は信長か? それとも父・家康なのか!  乱世の不条理に敢然と立ち向かえ!】

海善紙葉

文字の大きさ
23 / 66
第六章  嶺 鳴

嶺 鳴

しおりを挟む
 翁狐おきなぎつねの城から、一刻も早く抜け出したいと、そのことばかりを考えていた。
 はやくもとの〈亀〉に戻らねばならぬ。ここに長くとどまっているほど、翁狐の思念のなかに取り込まれてしまいそうで、そんな陰鬱な気分にとらわれていた。
 いや、すでに、翁狐の毒におかされてしまっていたのかもしれない。
 なぜなら、がらにもなく、〈叛心はんしん〉というものについて考えさせられていたからだ。

 人はなぜ、いともたやすくそむく心を芽生えさせるのだろうか。

 それは刹那せつなの激情などではあるまいとおもう。
 長年に渡って、ひそやかにまっていったねたみや憎しみや相剋そうこくといったもの、……そのほかのさまざまな絆のほころびが、人をして特定の絆を断つ行動を促してしまうのだろうか。
 もとより戦国乱世には、裏切り沙汰ざた毀誉褒貶きよほうへんはつきものだろうけれど……。
 それにしても、わたしは、ここで、何をしているというのだろうか。

 いま、ここにいる自分は何者なのか。
 ……その問いかけは、いま、この世に生きるすべての人々の胸裡に宿ったものではなかったろうか。
 長引く戦乱のなかで、いつ果てるかもしれない恐れから、みずからの守護神のような存在を希求するこころの動きが、おのれの出自しゅつじの確認や系脈への憧憬につなかっていくような気がしてならないからだ。
 たとえば、素性すじょうの定かではない、つまり得体の知れない実力者たちの台頭たいとう、織田家の羽柴秀吉はしばひでよし明智光秀あけちみつひで滝川一益たきがわかずまささまなどが重きを置くようになっていて、そのような現実が、よけいにおのれの存在の証、父祖母祖の脈糸を探ろうとする欲求を促していくのであろうか。
 確かなものでなくてもいいのだ。
 胡散臭うさんくさいものでも、根も葉もないものであったとしても、そのことを信じることで、周囲に対して誇れる何か、おのれを鼓舞こぶできるなにかを得ることができるはずだから。

 ……わたしの場合は、三郎信康の妹であるという事実こそが、すべての源泉であった。
 それだけで充分なのだ。
 家康の長女であるという実感は、わたしのなかでは、それほど大きな比重を占めてはいなかった。
 まして、父家康にしてみても、ようやくその名が喧伝けんでんされつつあったにすぎず、織田信長様というまれにみる出頭人しゅっとうにんの光に寄り添う影のようなものにしかすぎないのだ。
 この先、どうなるかは、父にも、誰にも、判らない……。

 徳川という新しい姓をいただいたことなどは、わたしにはなんの意味もなかった。
 それに、母のことも、最近ではそれほど強い絆を感じているわけではなかった。ありていに白状しておけば、母との間には、測りきれない距離のようなものを感じていた。
 物心ついた頃より、母から、
『われらは、大今川おおいまがわの血筋ぞよ』
と、言い聴かされてきた。
 あたかも、今川という名の、高貴にして稀有けうなる食べ物があるのだろう、と思っていたほどである。

 今川氏が凋落ちょうらくしてからの母は、父に対して負い目のようなものを感じていたことだけは確かだ。父家康が今川の人質であった頃と、立場が逆転してしまったからだろう。

 いや、父の場合には、人質としての価値が十分にあったはずである。
 当時、岡崎の地に残った家来の離反を防ぎ、叛心をなだめ、岡崎衆の力を温存させて戦で発揮させるという価値があったにちがいない。ところが、母のほうは、実家の凋落を目の当たりにして、屈辱と憤りを胸裡に沈潜させながら暮らす辛さというものは、子であるわたしにすら実感できないものだ。
 母に寄り添うだけの経験というものが、まだ足りなかったためなのかもしれない。

 ……将軍の座を追われた足利あしかが義昭よしあき公のことも考えてみた。信長様の尽力で征夷大将軍となった義昭公は、おのれが信長様の飾り道具にしかすぎないと察知したとき、信長様に対する恩よりも憎悪の量が増したということなのだろうか。
 では〈恩〉と〈叛〉が反転するその境目は、どこにあるというのだろう。
 境界をさ迷っているときに、翁狐のごとき者らが現れて、なにごとかを耳打ちされれば、誰もが翁狐のてのひらの上で転がさせられるかのように、たやすく叛心を芽生えさせてしまうのかもしれない……。

 この数日、わたしを襲った粘り気のある妙な感覚というものは、振り払おうとすればするほど余計にしつこくまとわりついて、チクチクとこころのひだに突き刺さるのだった。しばらく床を離れることができなくなってしまった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~

川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

改大和型戦艦一番艦「若狭」抜錨す

みにみ
歴史・時代
史実の第二次世界大戦が起きず、各国は技術力を誇示するための 「第二次海軍休日」崩壊後の無制限建艦競争に突入した 航空機技術も発達したが、それ以上に電子射撃装置が劇的に進化。 航空攻撃を無力化する防御陣形が確立されたことで、海戦の決定打は再び「巨大な砲」へと回帰した。 そんな中⑤計画で建造された改大和型戦艦「若狭」 彼女が歩む太平洋の航跡は

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

処理中です...