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第十七章 鶴 亀
わたしの名は……
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新城にもどったとき、城の一画に小さな祠を建て
〈鶴亀社〉
と名づけた。
母には、鶴、と呼ばれた幼女時代があった。
その鶴だ。
亀はわたし。
これは墓ではない。墓標ではない。
わたしの、希望だ。
芦名兵太郎と兄信康の遺品も祠に納めた。
切腹したことになっている兄が、〈南光坊天海〉として、父家康と対面する日が訪れるかどうかも、いまのわたしにはわからない。
そう、本当にわからないことだらけなのだけれど、確かなことは、わたしは、いま、ここに、居るということだけである。
わたしのお腹には、あらたないのちが宿っている。父親は誰かなどということは、さして重要なことではない。殿方にも秘密がたんとある。
でも隠すのは女人のほうが上手だ。
人はみな男も女も、なにごとかを孕み、吐き出し、怒り、泣き、それでも、したたかに、なにがしかの実りを求めて生きていくにすぎない。
太古から連綿と続く、短いけれど太い脈の中の一人にすぎないのだから。
一つの事実、一つの行動から派生していくさまざきな物語というものがある。
誰がいつ、こうした、ああしたという物語が多ければ多いほど、その人物に神秘性を与え、まだ出逢わない人たちをして心服ならしめるだけの価値を生み出していくのだろう。最近、そんなことを考えるようになった。
わたしは対手の信念や激情の矛先を変えることはできないかもしれない。けれど対手もまた、このわたしを変えることはできないのだ。
かりに元の黙阿弥になったとしても、また歩き出せばいいだけではないか。
そうおもえるようになっていた。
それに、信長様の天下が、盤石なものかどうかも誰にもわからないのだから。
織田家中で、いままさに、ひそやかな叛心を育む輩がいるかもしれないのだし、逝ったはずの翁狐らが何年も前に蒔いた種が叛心という名の実をつけ、個々の秘密の扉をそっと押し開き、やがて鬱陶しい叛雨となって降ってくるときが訪れるかもしれない……。
天正七年十月十九日、父家康は、武田勝頼公攻略のため、浜松の城を出て遠江懸川に出陣したらしい。
信昌どのも慌しく出陣していった。大久保彦左衛門も、掛川に向かったと伝え聴いた。
十一月二十四日、武田勝頼さまは駿河国田中を攻略し、遠江高天神城に入った。
十二月十四日、信長様は摂津をことごとく平定し、意気揚々と入京。そうして賑々しく猿楽を催されたそうである。
二十五日、珍しく今川氏真公から書状が届いた。なかに一首、氏真公が詠んだ歌がしるされていた。
悔しとも
うらやましとも思わねど
我世に変はる 世の姿かな
……いかにも氏真公らしい率直すぎる心情の吐露だとおもう。
けれど、まだこのように物事を達観するわけにはいかない。〈我世〉を創っていくのが、これからのわたしだ。
身近にはびこる叛心の行方を考えると、ときおり不安を感じることはあるけれども、そのつどなんとか向き合っていくしかないのだ。それに、なによりも喜ばしいことに、わたしは独りではない。奥山休賀斎の老公をはじめ、彦左、弥右衛門、佐助、熊蔵、巣鴨、あかし、笹、嘉兵衛、五郎兵衛、南光坊天誉、天海……さまざまな仲間がいるとおもえることこそが、わたしの大きな力だ。
わたしの名は、亀。徳川家康の長女。奥平信昌の室。
わたしの名は、亀。
たとえ歩みは遅くても、この乱世を、したたかに、たおやかに、生き抜いてみせよう。
〈 了 〉
※次頁に「作者あとがき」を追加しました。
〈鶴亀社〉
と名づけた。
母には、鶴、と呼ばれた幼女時代があった。
その鶴だ。
亀はわたし。
これは墓ではない。墓標ではない。
わたしの、希望だ。
芦名兵太郎と兄信康の遺品も祠に納めた。
切腹したことになっている兄が、〈南光坊天海〉として、父家康と対面する日が訪れるかどうかも、いまのわたしにはわからない。
そう、本当にわからないことだらけなのだけれど、確かなことは、わたしは、いま、ここに、居るということだけである。
わたしのお腹には、あらたないのちが宿っている。父親は誰かなどということは、さして重要なことではない。殿方にも秘密がたんとある。
でも隠すのは女人のほうが上手だ。
人はみな男も女も、なにごとかを孕み、吐き出し、怒り、泣き、それでも、したたかに、なにがしかの実りを求めて生きていくにすぎない。
太古から連綿と続く、短いけれど太い脈の中の一人にすぎないのだから。
一つの事実、一つの行動から派生していくさまざきな物語というものがある。
誰がいつ、こうした、ああしたという物語が多ければ多いほど、その人物に神秘性を与え、まだ出逢わない人たちをして心服ならしめるだけの価値を生み出していくのだろう。最近、そんなことを考えるようになった。
わたしは対手の信念や激情の矛先を変えることはできないかもしれない。けれど対手もまた、このわたしを変えることはできないのだ。
かりに元の黙阿弥になったとしても、また歩き出せばいいだけではないか。
そうおもえるようになっていた。
それに、信長様の天下が、盤石なものかどうかも誰にもわからないのだから。
織田家中で、いままさに、ひそやかな叛心を育む輩がいるかもしれないのだし、逝ったはずの翁狐らが何年も前に蒔いた種が叛心という名の実をつけ、個々の秘密の扉をそっと押し開き、やがて鬱陶しい叛雨となって降ってくるときが訪れるかもしれない……。
天正七年十月十九日、父家康は、武田勝頼公攻略のため、浜松の城を出て遠江懸川に出陣したらしい。
信昌どのも慌しく出陣していった。大久保彦左衛門も、掛川に向かったと伝え聴いた。
十一月二十四日、武田勝頼さまは駿河国田中を攻略し、遠江高天神城に入った。
十二月十四日、信長様は摂津をことごとく平定し、意気揚々と入京。そうして賑々しく猿楽を催されたそうである。
二十五日、珍しく今川氏真公から書状が届いた。なかに一首、氏真公が詠んだ歌がしるされていた。
悔しとも
うらやましとも思わねど
我世に変はる 世の姿かな
……いかにも氏真公らしい率直すぎる心情の吐露だとおもう。
けれど、まだこのように物事を達観するわけにはいかない。〈我世〉を創っていくのが、これからのわたしだ。
身近にはびこる叛心の行方を考えると、ときおり不安を感じることはあるけれども、そのつどなんとか向き合っていくしかないのだ。それに、なによりも喜ばしいことに、わたしは独りではない。奥山休賀斎の老公をはじめ、彦左、弥右衛門、佐助、熊蔵、巣鴨、あかし、笹、嘉兵衛、五郎兵衛、南光坊天誉、天海……さまざまな仲間がいるとおもえることこそが、わたしの大きな力だ。
わたしの名は、亀。徳川家康の長女。奥平信昌の室。
わたしの名は、亀。
たとえ歩みは遅くても、この乱世を、したたかに、たおやかに、生き抜いてみせよう。
〈 了 〉
※次頁に「作者あとがき」を追加しました。
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