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後編 まだ恋の中から抜け出せない
心地よい風が吹き抜ける。
彼はふと、目を開いた。
目の前には、二つ並んだ墓があった。
一つは質の悪い墓石なのだろう……苔むしている上に、刻まれた墓碑銘は風化して読めなくなっていた。
そして、もう一つは比較的新しいものだった。
「ネルガー……君はきっと怒っているのだろうな」
ぽたり、とうつむいた彼の言葉が墓碑に落ちる。
ネルガーという男のことはよく覚えている。
彼は、まだ第一王子という身分だった頃に、研究所によく出入りをして研究者の真似事をしていた。
特に痩せた土地に育つという作物の交配に興味があり、色々調べたり実験をしていた。
そんな時の周囲の人間の反応は大体二種類で、彼が王子と知ってゴマを擦りながら近づいてくるか、それとも関わり合いにならないように遠巻きに眺めるかだった。
そのどちらにも当てはまらなかったのが、彼女の兄のネルガーだった。
ネルガーは、新しい医薬の研究をしており、その新薬が完成すれば二、三年に一度は大流行をみせる流感を防ぐことができるとのことだった。
彼の身分を知ってからも、近づきも遠ざけもしないネルガーに興味を惹かれた彼は、研究の手伝いを口実によく一緒にいた。
彼には病気がちの妹がいて、その研究の功績をもって国庫から治療のための借入をする、という話も聞いていた。
ただ単純に早く完成するといいな、と思って色々と手伝っていた。
とは言っても、王子である彼の身分をもってしても、一個人に対して国庫金を融通することなどはできない。
その為、彼にできたことと言えば、せいぜいがデータの書き写しや治験のための治療院の紹介ぐらいであったが。
研究は、後少しで完成というところまできていたが、立太子の準備などで忙しかった彼は研究所へ顔を出すことがしばらくできなくなった。
立太子の式典が終わったら顔を出し、そして完成しているだろう研究のお祝いを言おう。
そう思っていたのだが……現実はそうはならなかった。
ネルガーが苦心して完成させた研究の成果は、何故か全て立太子したばかりの彼のものになっていた。
恐らく、研究所の誰かが新しい王太子におもねろうと、余計な気を回した結果に違いない。
彼はすぐに自分の功績ではないことを主張したが、誰にも受け入れられることはなかった。
人は皆、見たいだけを見て、聞きたいことだけを聞き、信じたいことだけを信じるものだ。
彼がいくらネルガーの功績だと声を高くしても、ネルガーが平民だというだけで旗色は悪いらしい。研究に記された功績者の名が、ついぞ覆ることはなかった。
彼は、ネルガーがこの研究に全てを賭けていたことを知っていた。
誠心誠意謝罪し、せめてネルガーの妹の治療費を負担しなければ。
そう決心して研究所に向かった彼が知ったのは、研究発表の翌日からネルガーがずっと無断欠勤しているという事実だった。
不安に駆られた彼が研究所で調べたネルガーの家を訪ねた時、すでに家は無人で、その大家からはネルガーの死を知らされ愕然とした。
ネルガーの妹の行方もわからないということだった。
その後も探し続けていたのに、まさかこんな近くにいたとは思わなかった。
(結局私は、彼らを利用するばかりで、何一つ返すことができなかったのだな)
彼女の正体は知らなかったが、彼は知っていた。
彼女が、何らかの目的で彼に近づき、婚約破棄をそそのかそうとしていたことを。
(私はそんな彼女をあえて利用した……)
「レクシェルは私を許してくれるだろうか」
彼女の隠し事には気づいていたが、気づかないふりをして茶番に巻き込んだ。
彼女は彼を憎んでいたと言ったが、彼もまた彼女を愛していたわけではなかった。
婚約を破棄することになった彼の公爵令嬢との婚約は、もちろん政略的な理由が大きいが、お互い嫌い合っていたわけではなかった。
むしろ、彼の方は令嬢に好意を抱いていた。
けれど、好きだと自覚してすぐに、彼は思い知らされることになった。その視線が誰を追っているかを。
彼の一つ下の腹違いの弟。
皮肉なことに弟もまた、公爵令嬢のことを憎からず思っているようだった。
しかしそれがわかったところで、はいそうですかと言って婚約者をすげ替えるわけにはいかないのが、政略結婚というものだ。
弟が側室の子どもだったのが大きな理由だ。
そして、政略上の理由で、公爵令嬢が将来の王妃になるのは確定であり決定だった。
だから彼が王太子の座についている限り、その想いが誰に向かっていようと、彼との婚姻は免れない。
そこで彼は一計を案じたのだった。
それは、彼らのためだったのかと問われると、正直わからない。
自分はそんな殊勝な人間ではないから、報われない思いを抱えて惨めになるだろう、未来の自分のためだったのかもしれない。
為政者にはあるまじきことだとわかっているが、ネルガーの事件も引きずっていた彼は、正直なところ、自分が王として国を統治する未来を描けないでいた。
平民の女性に出会い、真実の愛を見つけるというストーリーは、とてもシンプルでわかりやすい。
一時の感情に流されて、政略結婚の相手である公爵令嬢に婚約破棄を突きつけてしまった彼には、色恋沙汰で政治的な判断をも誤る人間だという、不名誉なレッテルが貼られる。
そしてそれは、王太子を交替するのに、最適な根拠となったのだ。
全てが、彼の思惑通りだった。
事実、普段なら「血筋が……」と言って渋るだろう上級貴族たちの誰も、婚約破棄劇の後には王太子の交替に異を唱えなかった。
結果的に、彼の計画はとても上手くいった。
ついでに、ずっと気になっていた辺境の貧しい領地に飛ばしてくれるようにと、弟だった新王太子に頼んだ。
何かを勘づいたらしい弟には引き止められたりもしたが、彼は城に留まることはしなかった。
そうして彼は、全ての憂いと一切の迷いを捨てて辺境の地へ降り立ったのだった。
同行した彼女に愛を囁きながらも、何かを期待していたわけではなかった。途中で彼女が逃げたとしても、彼は追いかけないつもりだった。
ただ、一人になるのが寂しかった――本当にただそれだけだった。
しかし、時間は人の心も関係も変えていく。
十年と言う年月は決して短いものではなかった。
伸ばしていた髪を短く切り、指にあかぎれを作りながら、彼と一緒に働く彼女の姿は、いつしか自然に彼の心に染み込んでいった。
いつも隣にいるのが当たり前で。
しかし、これはかけがえのない日々なのだと。
ただただ、彼女が隣で笑うのが。
愛しくて愛しくて。
自分が穏やかな恋の真っ只中にいるのだと、自覚するには充分な時間だった。
「復讐、してくれればよかったのに」
ぽたり、とまた言葉が落ちる。
「君は私に幸せを与えてくれただけだった……」
虐げられていた義実家への一番の復讐は、自分が幸せになることだと笑っていた彼女。
十年も彼に尽くしておいて、これが復讐だったと告げ、最後に彼のための涙を流した彼女。
『ありがとう』
震えていた唇は確かに告げていた。声にはならなかったけれど、彼には届いていた。
「ありがとう、レクシェル。愛してる、本当に――」
ぽつり、と墓碑を打ったのは、透明な雫だった。
ぽつり、ぽつり、とそれは、透明なシミを作っていく。
彼は灰色の空を仰いだ。
次々と滑り落ちてくる冷たい雫が、彼をコートごと濡らしていた。
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