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(15)カエルの魂が見る悪夢は
しおりを挟む『お、お願いだからもうやめて……』
「まだ半分残ってるよ? 力入れてこすってみるからちょっと痛いかもしれないけど、頑張って我慢してね」
『痛くない……痛くないけど、もう限界なのっ!!!』
──────────
「だから、言ったじゃないですか殿下! なぜすぐに俺を呼ばなかったんですか?!」
怒り心頭のシンである。
対してイアンはずっと苦笑いを浮かべている。
「仕方なかったんだよ。まさか自室の目と鼻の先で捕まるとは思ってなかったんだ」
「全く……見張りの目をかいくぐって王族棟に紛れこむなんて、あの女狐め。迷ったにしても怪しすぎますって! 本当にフェルズ嬢が通りかかってよかったですね」
「んん……よかったというか悪かったというか」
「おや? 悪かったんですか?」
「いや、そんなことはないけど。それより、用意してくれた?」
「ああ、ええ。お湯を張ったたらいとインク落としですよね?」
「うん」
「いったい何に使うんですか? 洋服にインクがついたなら洗濯係に……」
「いや、洋服じゃないから心配しなくてもいいよ。」
「はぁ、左様ですか。まぁ、殿下の秘密主義は今に始まったことじゃないですけどね」
「いきなり何だよ、シン? 僕は別に秘密主義なんかじゃないよ」
「どうですかね? それより、その妙ちくりんなカエル、またお持ちなんですね──まさかそれが気に入った、とか言いませんよね? 子どものおもちゃですよ? それに、殿下は地味なのがお好きだと思っていたのに──」
妙ちくりんって──失礼な!
確かに今は毒々しい色をしてるけれども!
それにまたもや微妙に元の私をディスっている感が否めない。全体的にいつも、シンは私への当たりが厳しすぎやしないだろうか? どういうつもりか小一時間ほど問いつめたい。
「子どものおもちゃだろうが、気に入ったものは気に入ったんだからしょうがないよね。でも、チャーリーに譲ってって言ったら嫌だって言われちゃったんだよね」
「まさか殿下、バカ正直に『そのカエルを譲ってくれ』って言ったわけじゃありませんよね?」
「……」
あ、イアンの目が泳いでいる。
「あの年頃の子どもは天邪鬼な生き物ですよ? あの素直で可愛らしいチャーリー殿下だって例外じゃございません。『くれ』と言われたらあげたくなくなるものなんです」
そうそう!
非常に腹立たしいが、シンの言うことは正しい。
「ぐっ……じゃあどうすればよかったんだよ?」
口を尖らせながらむくれるイアン。かわいいじゃないか。あれ? ちょっと目の端に涙貯まってない?
「そうですねぇ……この場合は、相手自ら譲りたいと思わせることが大切なのではないですか?」
「そんなのどうすれば──もう、こうなったらそっくりなおもちゃを作ってすり替えるしか──」
「殿下、人の話は最後までお聞きくださいね!」
「あ、はい。ごめんなさい」
「よろしい。まぁ、簡単なのはチャーリー殿下にとって、もっと価値のあるものと交換することかと」
「だけど、代わりのおもちゃを買ってあげるとも言ったよ?」
「『代わりの』おもちゃでは同等以下にしかなりえませんよ」
シンはイアンの言葉を受けてハッと鼻で笑った。
いつ見ても思うけど不思議な主従関係だ。シンが従う立場のはずだけど、時にはそれが逆転して見えることがある。これって、忠臣が恐れずに主君を諌めているってことでいいのかな? まさか弄ばれているわけじゃないよね? ──そんなわけないか。
「もっと価値のあるもの……宝石とか?」
「まさか。四歳の子どもがそんなものに心惹かれると本気でお思いですか?」
「いや、その……」
「まぁ、宝石好きのお子さんには受けるでしょうが。俺が見たところチャーリー殿下のご興味は宝石にはないようですね。
ご兄弟なのですから、少しぐらいは予想がつくんじゃないですか? 殿下にも幼い頃はございましたでしょう? その、うら若き日々を思い出してくださいね。あの頃の殿下が大切だった物はなんですか?」
「──ダーマン・シュトラウス二世」
「宝石と交換するから譲ってくれって言われたら譲っていたと思いますか?」
「……思わないよ。確かにそうだね。だったら、チャーリーがカエルよりも欲しがりそうなものを交渉の材料にすればいいってことかな?」
シンはイアンの言葉を肯定も否定もせず、ただニコッと笑っただけだった。子どもの心理をよくわかってるなぁと思ったら、そういえばこの人も甥っ子がいるんだったと思い出した次第。
「こっそりヨルに聞いてみよう」
「それがようございますね」
そして、結局は他人任せなところに落ちついた模様。
「……」
『……』
目の前にはニコニコしたイアンがいる。
ここは王族専用棟にあるイアンの私室。婚約者と言えど、私も入るのは初めてだった。ま、仮の婚約者だしね。
王族の私室って、どんなにか豪華な部屋だろうと思っていたが、思ったより物がない。ベッド、ソファー、書き物机、そして棚が一つ。壁のクロスが少し豪華なだけで、私の部屋となんら変わらない。
そんな王子様の私室で二人きり──二人……ではないな。一人と一匹──いや、一人と一つのおもちゃだ。
「今日はもう寝るって言って人払いしたんだけど」
そうですね、知ってますよ。ずっと部屋にいましたので。
「とりあえず、僕に心配させたお仕置きだよね。僕がいったいどれだけ心配したかわかる?」
──えっ?
イアンはニコッと笑うと、湯を張った小さなたらいを持ってきた。
えっ……ちょっと待って、ちょっと待って! まさかそのままこれに沈めるとかじゃないよね?!
お願い、違うって言って!
ねぇ、天使の笑顔が邪悪に見えるってどういうこと?!
──────────
『お、お願いだからもうやめて……』
「まだ半分残ってるよ? 力入れてこすってみるからちょっと痛いかもしれないけど、頑張って我慢してね」
『痛くない……痛くないけど、もう限界なのっ!!!』
もうダメだ。この状態は精神的に恥ずか死ぬ!
私はイアンの手にげしげしと足蹴りを食らわせながら、飛び退いた。
この状態とは──イアンがおもちゃのカエル、つまりは私の身体の裏表まんべんなく汚れを拭き取っている状態だ。
固く絞った布で背中を隅々までふきふき。
『私はおもちゃ、おもちゃのカエル……私はおもちゃ、おもちゃのカエル……』
心の中で何度も繰り返す。
これは、ただのおもちゃの拭き掃除だ。アンリよ、心を無にするのだ。心頭滅却すれば火もまた涼しというではないか。
「ふふふ……綺麗になったかなぁ?」
だがしかし! さっきから、ちょっと拭いてはふぅっと息を吹きかけられてるのだ。顔が近くて緊張する!
拷問なの、ご褒美なの、どっちなの?!
『無……心を無に……む、に……む……無理ぃっ!!』
裏返して腹側を隅々までふきふき──される前にギブアップした。
おもちゃなので痛覚や触覚はさすがにない。
足の裏をこちょこちょとされてくすぐったい気がしたとしても、精神的な錯覚にすぎない。すぎないが、危うく羞恥心で昇天してしまうところだった。
もう、一回死んでるようなものだけど。
「仕方がないから、これくらいで許してあげるよ」
イアンは丸めた布を手に、クスッと笑った。
結局インクの染みは多少薄くなったものの、完全には落ちなかった。
『それで、禁書室はどうだったの?』
「ああ、それは──」
イアンはおもむろに立ち上がると、書棚から一冊の本を抜きだして持ってきた。
『えっ……ま、まさか……』
「持ってきちゃった」
『き、禁書……ぇー……』
「まぁ、結論から言うと、アンリを元に戻す方法はわからなかった」
『えっ?でもその本は?』
「色んな呪薬について書かれているみたいだったから、持ってきたんだ」
それにしても、禁書を持ち出すなんて。ばれたら大変なんじゃないだろうか?
「大丈夫だよ。禁書室なんて父上ぐらいしか入らないんだし、しょっちゅう蔵書数確認してるわけじゃないから。
それより、この本には魂と肉体を切り離す呪薬のことも載っていて、使用法とか薬が作用するメカニズムみたいなのを解説してるんだ。説明書みたいなものだね。ただ、呪薬のレシピまではさすがに載ってないみたいだけど──」
イアンはパラパラと本をめくって、あるページで手を止めた。
「ほら、ここ見て」
興奮気味の声とともに彼の指が指し示した場所には『解呪薬』という単語が載っていた。
解呪薬──まさか、呪薬の呪いを解く薬ってこと──?!
「そうそう。もしかしたら元に戻れるかもしれないよ! 禁書室の中でも、解呪薬について書かれている本はこれだけだった。それでね、まずはこの本の作者のことを調べてみようと思って。さすがにもう生きてはいないかもしれないけど……」
二人で巻末をのぞいてみると、これが百年ほど前に書かれた本だということがわかった。
作者はマークァイ・アドシターヮ。呪薬の研究者か何かだろうか?
彼か彼女が本を書いたのが何歳の時点かわからないけれど、この人物がまだ生きているとしたら百何十歳ということになる。
『さすがに生きて……ないよね?』
「たぶんね。でも、家族や子孫、弟子なんかががいれば話は聞けるかもしれない」
戻れる?
本当に?
何だか今まで真っ暗だった道にぼんやりと光が灯ったような感じだった。
「ただ、母上には気づかれないように慎重にことを運ばないと──」
そうだ。解呪薬について探っていることがもし王妃にバレたら、そこから芋づる式に私の魂がまだ生きて(?)いることがバレてしまうかもしれない。
あれ? 魂の状態って生きているっていってもいいのかな?
「それにしても驚いたよね。まさかあそこでアンリに会うなんて。あらかじめ話を聞いてなければ、中身が別人だなんて夢にも思わなかっただろうね」
偽アンリもある意味本物のアンリエールだからね。それに普通は、中身と外見が一致してないなんて想像もしないだろう。
「一瞬混乱したけど、あれはアンリであってアンリじゃない。おかしな感覚だった。少なくとも身体は本人なのに本人じゃないなんて──うまく説明できないんだけど、カエルの君はアンリとして認識できるのに、あのアンリには何か違和感を覚えるんだよ」
『そうなんだ……でも、ひょっとしたらあっちが本物なのかもしれないよ?』
再びわき上がってきた不安に打ち震える。
ここにいる私が、偽物じゃないと誰が断言できるだろうか?
これが、カエルの夢じゃないと誰が証明できるのだろうか?
「んー、だからさ、あれはアンリだけどアンリじゃない何かだよ。僕のアンリは君の方なんだから」
イアンは目を細めて私を膝の上に乗せた。彼の大きく温かい手が背中を優しく往復する。とても気持ちがいい。私はうっとりとしながら目を閉じた。
イアンの言ってることがわかるような、わからないような。
でも、『僕のアンリ』とか言われちゃうとちょっと困るなぁ──だって、あくまで期間限定の仮の婚約者だっていうのに、本物にでもなった気がしてしまう。
そんな未来は来ないと知ってるはずなのに。
思わず勘違いしてしまいそうで怖い。
ま、とりあえず今現在はチャーリーの所有物なわけだけど。
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