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第一部 雨と、僕たちのはじまり
会わなかった日々をたどって、再会の未来が近付く。
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『いま、何を思い出してたの?』
その言葉とともに我に返って、目の前の葉瑠へと意識が戻る。
僕がぼんやりと思い出していたのは、亜美のことだった。だけどそれを口に出すのは、葉瑠に対してとても失礼な気がして僕は、いや中学の頃をちょっと、と言葉を濁した。
『ふぅん、なんで、私が目の前にいるのに、私と会わなかった時期のことを思い出してたのかな』
僕が何かを隠している、と察したのか、葉瑠がどこか、からかうようなまなざしを僕に向けていた。
「さぁ。なんでだろうね」素知らぬ表情を意識する。「中学校の時って、こう。いま思い返すと、特別だったんだなぁ、って思ってさ」
『思春期なんだから、誰にとっても、特別だよ』
「そうとは限らない。人生のうちのどこを大事にするか、なんて、ひとそれぞれだよ。でもそういう言い方をする、ってことは、葉瑠にとっても、特別な時期だったわけだ」
僕は、葉瑠の中学時代のことを、ほとんど知らない。高校になって、一緒にいた期間の中で、すこしは聞いた。でもそれは頭の片隅に運良く残った程度の、他愛もないものばかりだ。
うーん、と困ったように、葉瑠が首を傾げる。
僕たちは鰐川家の幽霊屋敷の、リビングから寝室へと移動していた。ふたつベッドが置かれた夫婦の寝室だ。おそらく数子さん夫妻が使っていたもので、その片方のベッドに僕たちはふたり並んで、腰をかけていた。
ベッドの横のサイドテーブルに、ハンドライトを置き、暗がりで頼りになる光はそれと、僕がいま片手に持っているスマホくらいだった。
『特別だったかもしれない、ね。例えば、私が小説を読みはじめたのも、中学の時だったな。このお屋敷の夫婦も、そうみたいだね』そう言いながら、葉瑠は寝室の壁側に大きく陣取る、本棚に目を向けていた。『赤川次郎、小池真理子、乃南アサ、宮部みゆき……。心理サスペンスとか、ミステリが好きだったみたいだね。どっちの趣味だったんだろう。勝手に数子さんの趣味、って決め付けるのは、偏見に過ぎるかな』
「どうだろう。ただまぁ数子さんは日記を付けていたくらいのひとで、内容も……まぁ、後半はかなり雑で、歪だったけど、基本的には丁寧だったから、読んだり、書いたりは好きだったんじゃないかな。……それにしても、こんな暗い中で、よく背表紙のちいさい文字まで読めるね」
『私、もう人間じゃないから。暗くても、はっきりと見えるんだ。なんで、なんて理屈は聞かないでね。私だって分からないんだから』
僕は立ち上がると、スマホの明かりで、棚に納められた本を確認する。先ほど、葉瑠の言った作者の他にも、東野圭吾や岡嶋二人、仁木悦子、筒井康隆といった名前もあった。当然、ある時期よりも前の作品ばかりが並んでいる。つまりそれ以降は、所有者の不在によって更新されることがなくなってしまった本棚、とも言える。
「繰り返し読んだのが分かるくらい、しっかりと読みあとが付いているね」
『本そのものよりも、内容を読むことを重視してたタイプだったのかもしれないね。私もそうだから、なんかすごい共感する』
「確かに、むかし葉瑠が貸してくれた本、結構汚れてたね」
『失礼な。そういうのは事実だとしても、言ってはいけません』
「別に悪いことだ、って意味で言ったわけじゃないよ」
『仮にそうだとしても、やっぱりそれは恥ずかしい。……数子さん、ってひとは、どんな生き方をして、巻き込まれたのは、どんな事件だったんだろう。同じ小説好きだから、親近感を覚えちゃってるのかもしれないけど、余計、気になっちゃうね』
「会ったこと、ないの?」
『数子さん、と? それは同じ幽霊同士だから、って意味? 残念ながら、いまのところは、まだ一度も会ったことないよ。まず私たちは勝手に、死んだ、って決め付けちゃってるけど、生きているのかもしれないし、あと何よりも言っておきたいのは、私は死んでから一度も、自分以外の死者を見たことがない』
「城阪、とも?」
僕は、僕たちの高校時代の同級生の名前を挙げる。彼女がちいさく息を吐く。
『私も伊藤くんと結城くんが電車の中で話しているのを聞いて、はじめて知ったんだ。本当にびっくりした。事故って、どんな事故だったんだろう、康史くん……』
康史くんか……。葉瑠は城阪のことを下の名前で呼んでいた。そう呼ぶのは自然なことだ。だってふたりは付き合っていたのだから。あの頃から知っていたことなのに、いまここにふたりしかいない状況で聞くと、ちりり、とかすかに胸が痛むような感覚があった。
「あの電車に乗っていた時、実は城阪の姿も見たんだ」
『それは、私と同じ?』
「そう、幽霊の、ね」
『何か言ってた? 私のこと、とか』
すこし心配そうな表情を、葉瑠が浮かべた。
「声は、何も聞いてないよ」
『たぶん私なんかよりも、結城くんのほうがずっと見ていると思うよ。幽霊の姿を。本当は、数子さんの霊も結城くんには見えているんじゃないか、って疑いたくなる』
「それは本当に見てない。僕に見ることができるのは、実際に関わったひとだけみたいだから」
『そう、なんだ。まぁ死んだひと全部見れたら、日本中がひとで溢れかえってるか。そうなったら、もう生きている人間と死んでいる人間の区別も付かなくなるね』
いまの時点でも、こうやって話していると、葉瑠はまだ生きているのではないか、と勘違いしてしまいそうになる瞬間がある。だけど誰もが僕と同じように、彼女を認識できない以上、生者のように扱ってしまうのは、傷付ける結果になるだろう。
葉瑠が、本の背表紙を指でなでる。
『康史くんと話してなかったよね、電車で』
「城阪も気付いてなかったみたいだし、僕も何を話せばいいか分からなかったからね」あぁそう言えば、と僕はすこし強引に話を変えようとした。城阪の話を彼女とすると、どうしても息苦しくなる。勝手な話なのは、分かっているけれど。「さっきの話に戻りたいんだけど、中学の時、小説を好きになった理由、って?」
『私、ね。憧れのひとがいたんだ。中学の時に』
その表情は、ほんのすこし寂し気に見えた。
「憧れ……」
『うん、まぁ、初恋、みたいなものかな』
「それは男子? それとも女子?」
僕がそんな聞き方をしてしまったのは、僕の中にある、ちっぽけなプライドが原因だろう。僕だって、中学の時、付き合っている女の子がいたのに。そんな自分のことは棚に上げて、彼女にそういう相手がいるのは嫌なのだ。はっきりと言ってしまえば、くだらない嫉妬なわけだけど、城阪に対してよりも、そんな感情がストレートにわき上がってくるのは、彼のことはすでに知っている、という関係性によるものだろう。
『どっちも外れ』
くすり、と葉瑠が笑う。
「外れ?」
『男の子にしろ、女の子にしろ、なんで、子ども、って決め付けるのかな。残念ながら、私があの頃憧れていたのは、もっと上の年齢……まぁぶっちゃけて言うと、先生だよ。国語教師だった、担任の先生』
「それが、初恋?」
『当時は、恋、だって思ってたけど、いまになって考えてみると、もしかしたら恋じゃなかったのかもしれないね。漠然とした、大人への憧れ、だったのかもしれない。実際、告白さえできなかったからね。……もし告白したとしても、断られてた、と思うけど。あのひとは、そのへんの倫理観はしっかりしてたと思うし、その想いを受け取るようなひとだったとしたら、私はたぶんあのひとに憧れなかった気がする。そういう憧れ、って、きみにはなかった?』
「あったような、なかったような……」
振り返って、考えてみた時、いくつか浮かぶ顔はあった。先輩や教師、そんな年上の綺麗な異性に見惚れたことは何度かある。ただ恋心とはすこし違うような気もするし、彼女の言うところの、憧れ、とも微妙にニュアンスは異なるように思う。
『曖昧だね』と、葉瑠は楽しそうに、言った。僕と、というより、誰かと久し振りに話せるのが嬉しくてたまらないような感じだ。『まぁとにかく、そんな憧れを、私は中学校の先生に持ってたんだ。で、その近付きたい一心で、先生の趣味を真似るように小説を読みはじめた。先生に、お薦めの小説を聞いたりして』
「国語教師だから、小説が好き、というのは自然な感じがするね。その先生も嬉しかったんじゃないかな。自分きっかけで小説を好きになろうとしている生徒がいたら」
『うん。すごく嬉しそうに、色んな小説を教えてくれたよ。まず読みはじめたのが、先生の好きな小説。先生、地元のちいさな出版社からSF小説を出したことがあるくらい、SFが好きだったんだ。一番好きな小説を教えて欲しい、って言ったら、迷わずアンナ・カヴァンの『氷』って言ってた、っけ』
「その小説は覚えてるよ。確か高校の時、僕に貸してくれた……」
『そう、断念した、って言ってたよね。返してくれた時』
「分かった振りしようかな、とも思ったけど……」
あの時、僕は彼女に嘘でもいいから感想を返そうと、通販サイトに書かれた書評や感想を色々調べた記憶がある。でも途中で、やめてしまった。嘘がばれた時の、葉瑠の反応が怖かったからだ。正直に、断念した、と言った僕を見ながら、やっぱり、と彼女は笑っていた。
『結城くんと同じ。私も、はじめて読んだ時、何が面白いのか、さっぱり分からなかったんだ。でも、さ。私は、先生の印象に残りたかったから、結城くんと逆で、分かった振りをしちゃったんだ。文学、ってこんなすごいことができるんですね、って、知ったようなこと言っちゃって。そしたら、先生、笑ったんだ』
「笑う?」
『もちろん、浅はかな女子中学生をあざ笑ったとか、そんな話じゃないよ。別に気にしなくて正直な意見を言えばいいよ、ってね。そんなふうに、笑ったんだ』
「良い、先生だね」
『うーん。どうなんだろう……。私は憧れていたけど、みんなから好かれている感じの先生じゃなかった気もするな。のほほんとしたところもあったし、生徒に親身なタイプって感じでもなかったから。好きなことをただひたすら突きつめていく、求道者みたいなひとだった』
「求道者か……」
『誰かが好きだから、きみまで同じように好きでいる必要はない。好きなものを、好きなように、好きなタイミングで読んで、楽しむ、それが小説の魅力だって僕は思うんだ。まぁ僕の場合はすこし仕事になってしまっているところもあるから、なかなかこれを実践するのが難しいな、と思う時があるんだけど、ね。でもきみは誰かから、強制されているわけじゃないんだから』
「葉瑠……?」
『……、って先生が言ったんだ。この言葉、私の人生で』まぁそんなに長い人生じゃなかったけど、と添えながら、葉瑠が続ける。『ずっと大切にしてた言葉なんだ。先生への告白を諦めてからも、この言葉は心に残り続けてた。先生への想いがどうだとか関係なく、小説と関わり続けようと思ったのは、間違いなくあの言葉があったからだよ』
ねぇ、結城くん、って文芸部に興味ない?
高校で葉瑠に再会して、すこし経った頃のことだ。彼女は、僕にそう言った。
高校時代のことは、あまり思い出したくない。
悪い想い出ばかりではない。良かったことだって、もちろんある。だけど城阪と、そして葉瑠との暗い記憶が、僕の心に深い影を落とす。
でもこうやって葉瑠と再会してしまった以上、その記憶を無視し続けることはできない。
彼女が目の前にいるせいで、記憶はどこまでも明瞭になっていく。
かつて再会した春も、雨が降っていて、
「春に長く降る、こういう雨を、春霖、って呼ぶんだよ。雨、って普通は……、すこし哀しい感じがするものだけど、春の、特に小雨が長く続くような雨は、どこか明るい感じがして、好きなんだ。まぁ哀しい感じ、って、私が勝手にそう思ってるだけ、なんだけどね」
と葉瑠が、僕の隣で、つぶやいたのだ。
時間としては短く、だけど体感としてはどこまでも長く思える回想は、ようやく高校時代へ、とたどり着く。ようやく、という表現はどこか待ちわびている色合いもあるけれど、正直なところ、いますぐにでも忘れてしまいたい記憶だ。
葉瑠は、そんなことを絶対に許してくれないだろうけど……。
その言葉とともに我に返って、目の前の葉瑠へと意識が戻る。
僕がぼんやりと思い出していたのは、亜美のことだった。だけどそれを口に出すのは、葉瑠に対してとても失礼な気がして僕は、いや中学の頃をちょっと、と言葉を濁した。
『ふぅん、なんで、私が目の前にいるのに、私と会わなかった時期のことを思い出してたのかな』
僕が何かを隠している、と察したのか、葉瑠がどこか、からかうようなまなざしを僕に向けていた。
「さぁ。なんでだろうね」素知らぬ表情を意識する。「中学校の時って、こう。いま思い返すと、特別だったんだなぁ、って思ってさ」
『思春期なんだから、誰にとっても、特別だよ』
「そうとは限らない。人生のうちのどこを大事にするか、なんて、ひとそれぞれだよ。でもそういう言い方をする、ってことは、葉瑠にとっても、特別な時期だったわけだ」
僕は、葉瑠の中学時代のことを、ほとんど知らない。高校になって、一緒にいた期間の中で、すこしは聞いた。でもそれは頭の片隅に運良く残った程度の、他愛もないものばかりだ。
うーん、と困ったように、葉瑠が首を傾げる。
僕たちは鰐川家の幽霊屋敷の、リビングから寝室へと移動していた。ふたつベッドが置かれた夫婦の寝室だ。おそらく数子さん夫妻が使っていたもので、その片方のベッドに僕たちはふたり並んで、腰をかけていた。
ベッドの横のサイドテーブルに、ハンドライトを置き、暗がりで頼りになる光はそれと、僕がいま片手に持っているスマホくらいだった。
『特別だったかもしれない、ね。例えば、私が小説を読みはじめたのも、中学の時だったな。このお屋敷の夫婦も、そうみたいだね』そう言いながら、葉瑠は寝室の壁側に大きく陣取る、本棚に目を向けていた。『赤川次郎、小池真理子、乃南アサ、宮部みゆき……。心理サスペンスとか、ミステリが好きだったみたいだね。どっちの趣味だったんだろう。勝手に数子さんの趣味、って決め付けるのは、偏見に過ぎるかな』
「どうだろう。ただまぁ数子さんは日記を付けていたくらいのひとで、内容も……まぁ、後半はかなり雑で、歪だったけど、基本的には丁寧だったから、読んだり、書いたりは好きだったんじゃないかな。……それにしても、こんな暗い中で、よく背表紙のちいさい文字まで読めるね」
『私、もう人間じゃないから。暗くても、はっきりと見えるんだ。なんで、なんて理屈は聞かないでね。私だって分からないんだから』
僕は立ち上がると、スマホの明かりで、棚に納められた本を確認する。先ほど、葉瑠の言った作者の他にも、東野圭吾や岡嶋二人、仁木悦子、筒井康隆といった名前もあった。当然、ある時期よりも前の作品ばかりが並んでいる。つまりそれ以降は、所有者の不在によって更新されることがなくなってしまった本棚、とも言える。
「繰り返し読んだのが分かるくらい、しっかりと読みあとが付いているね」
『本そのものよりも、内容を読むことを重視してたタイプだったのかもしれないね。私もそうだから、なんかすごい共感する』
「確かに、むかし葉瑠が貸してくれた本、結構汚れてたね」
『失礼な。そういうのは事実だとしても、言ってはいけません』
「別に悪いことだ、って意味で言ったわけじゃないよ」
『仮にそうだとしても、やっぱりそれは恥ずかしい。……数子さん、ってひとは、どんな生き方をして、巻き込まれたのは、どんな事件だったんだろう。同じ小説好きだから、親近感を覚えちゃってるのかもしれないけど、余計、気になっちゃうね』
「会ったこと、ないの?」
『数子さん、と? それは同じ幽霊同士だから、って意味? 残念ながら、いまのところは、まだ一度も会ったことないよ。まず私たちは勝手に、死んだ、って決め付けちゃってるけど、生きているのかもしれないし、あと何よりも言っておきたいのは、私は死んでから一度も、自分以外の死者を見たことがない』
「城阪、とも?」
僕は、僕たちの高校時代の同級生の名前を挙げる。彼女がちいさく息を吐く。
『私も伊藤くんと結城くんが電車の中で話しているのを聞いて、はじめて知ったんだ。本当にびっくりした。事故って、どんな事故だったんだろう、康史くん……』
康史くんか……。葉瑠は城阪のことを下の名前で呼んでいた。そう呼ぶのは自然なことだ。だってふたりは付き合っていたのだから。あの頃から知っていたことなのに、いまここにふたりしかいない状況で聞くと、ちりり、とかすかに胸が痛むような感覚があった。
「あの電車に乗っていた時、実は城阪の姿も見たんだ」
『それは、私と同じ?』
「そう、幽霊の、ね」
『何か言ってた? 私のこと、とか』
すこし心配そうな表情を、葉瑠が浮かべた。
「声は、何も聞いてないよ」
『たぶん私なんかよりも、結城くんのほうがずっと見ていると思うよ。幽霊の姿を。本当は、数子さんの霊も結城くんには見えているんじゃないか、って疑いたくなる』
「それは本当に見てない。僕に見ることができるのは、実際に関わったひとだけみたいだから」
『そう、なんだ。まぁ死んだひと全部見れたら、日本中がひとで溢れかえってるか。そうなったら、もう生きている人間と死んでいる人間の区別も付かなくなるね』
いまの時点でも、こうやって話していると、葉瑠はまだ生きているのではないか、と勘違いしてしまいそうになる瞬間がある。だけど誰もが僕と同じように、彼女を認識できない以上、生者のように扱ってしまうのは、傷付ける結果になるだろう。
葉瑠が、本の背表紙を指でなでる。
『康史くんと話してなかったよね、電車で』
「城阪も気付いてなかったみたいだし、僕も何を話せばいいか分からなかったからね」あぁそう言えば、と僕はすこし強引に話を変えようとした。城阪の話を彼女とすると、どうしても息苦しくなる。勝手な話なのは、分かっているけれど。「さっきの話に戻りたいんだけど、中学の時、小説を好きになった理由、って?」
『私、ね。憧れのひとがいたんだ。中学の時に』
その表情は、ほんのすこし寂し気に見えた。
「憧れ……」
『うん、まぁ、初恋、みたいなものかな』
「それは男子? それとも女子?」
僕がそんな聞き方をしてしまったのは、僕の中にある、ちっぽけなプライドが原因だろう。僕だって、中学の時、付き合っている女の子がいたのに。そんな自分のことは棚に上げて、彼女にそういう相手がいるのは嫌なのだ。はっきりと言ってしまえば、くだらない嫉妬なわけだけど、城阪に対してよりも、そんな感情がストレートにわき上がってくるのは、彼のことはすでに知っている、という関係性によるものだろう。
『どっちも外れ』
くすり、と葉瑠が笑う。
「外れ?」
『男の子にしろ、女の子にしろ、なんで、子ども、って決め付けるのかな。残念ながら、私があの頃憧れていたのは、もっと上の年齢……まぁぶっちゃけて言うと、先生だよ。国語教師だった、担任の先生』
「それが、初恋?」
『当時は、恋、だって思ってたけど、いまになって考えてみると、もしかしたら恋じゃなかったのかもしれないね。漠然とした、大人への憧れ、だったのかもしれない。実際、告白さえできなかったからね。……もし告白したとしても、断られてた、と思うけど。あのひとは、そのへんの倫理観はしっかりしてたと思うし、その想いを受け取るようなひとだったとしたら、私はたぶんあのひとに憧れなかった気がする。そういう憧れ、って、きみにはなかった?』
「あったような、なかったような……」
振り返って、考えてみた時、いくつか浮かぶ顔はあった。先輩や教師、そんな年上の綺麗な異性に見惚れたことは何度かある。ただ恋心とはすこし違うような気もするし、彼女の言うところの、憧れ、とも微妙にニュアンスは異なるように思う。
『曖昧だね』と、葉瑠は楽しそうに、言った。僕と、というより、誰かと久し振りに話せるのが嬉しくてたまらないような感じだ。『まぁとにかく、そんな憧れを、私は中学校の先生に持ってたんだ。で、その近付きたい一心で、先生の趣味を真似るように小説を読みはじめた。先生に、お薦めの小説を聞いたりして』
「国語教師だから、小説が好き、というのは自然な感じがするね。その先生も嬉しかったんじゃないかな。自分きっかけで小説を好きになろうとしている生徒がいたら」
『うん。すごく嬉しそうに、色んな小説を教えてくれたよ。まず読みはじめたのが、先生の好きな小説。先生、地元のちいさな出版社からSF小説を出したことがあるくらい、SFが好きだったんだ。一番好きな小説を教えて欲しい、って言ったら、迷わずアンナ・カヴァンの『氷』って言ってた、っけ』
「その小説は覚えてるよ。確か高校の時、僕に貸してくれた……」
『そう、断念した、って言ってたよね。返してくれた時』
「分かった振りしようかな、とも思ったけど……」
あの時、僕は彼女に嘘でもいいから感想を返そうと、通販サイトに書かれた書評や感想を色々調べた記憶がある。でも途中で、やめてしまった。嘘がばれた時の、葉瑠の反応が怖かったからだ。正直に、断念した、と言った僕を見ながら、やっぱり、と彼女は笑っていた。
『結城くんと同じ。私も、はじめて読んだ時、何が面白いのか、さっぱり分からなかったんだ。でも、さ。私は、先生の印象に残りたかったから、結城くんと逆で、分かった振りをしちゃったんだ。文学、ってこんなすごいことができるんですね、って、知ったようなこと言っちゃって。そしたら、先生、笑ったんだ』
「笑う?」
『もちろん、浅はかな女子中学生をあざ笑ったとか、そんな話じゃないよ。別に気にしなくて正直な意見を言えばいいよ、ってね。そんなふうに、笑ったんだ』
「良い、先生だね」
『うーん。どうなんだろう……。私は憧れていたけど、みんなから好かれている感じの先生じゃなかった気もするな。のほほんとしたところもあったし、生徒に親身なタイプって感じでもなかったから。好きなことをただひたすら突きつめていく、求道者みたいなひとだった』
「求道者か……」
『誰かが好きだから、きみまで同じように好きでいる必要はない。好きなものを、好きなように、好きなタイミングで読んで、楽しむ、それが小説の魅力だって僕は思うんだ。まぁ僕の場合はすこし仕事になってしまっているところもあるから、なかなかこれを実践するのが難しいな、と思う時があるんだけど、ね。でもきみは誰かから、強制されているわけじゃないんだから』
「葉瑠……?」
『……、って先生が言ったんだ。この言葉、私の人生で』まぁそんなに長い人生じゃなかったけど、と添えながら、葉瑠が続ける。『ずっと大切にしてた言葉なんだ。先生への告白を諦めてからも、この言葉は心に残り続けてた。先生への想いがどうだとか関係なく、小説と関わり続けようと思ったのは、間違いなくあの言葉があったからだよ』
ねぇ、結城くん、って文芸部に興味ない?
高校で葉瑠に再会して、すこし経った頃のことだ。彼女は、僕にそう言った。
高校時代のことは、あまり思い出したくない。
悪い想い出ばかりではない。良かったことだって、もちろんある。だけど城阪と、そして葉瑠との暗い記憶が、僕の心に深い影を落とす。
でもこうやって葉瑠と再会してしまった以上、その記憶を無視し続けることはできない。
彼女が目の前にいるせいで、記憶はどこまでも明瞭になっていく。
かつて再会した春も、雨が降っていて、
「春に長く降る、こういう雨を、春霖、って呼ぶんだよ。雨、って普通は……、すこし哀しい感じがするものだけど、春の、特に小雨が長く続くような雨は、どこか明るい感じがして、好きなんだ。まぁ哀しい感じ、って、私が勝手にそう思ってるだけ、なんだけどね」
と葉瑠が、僕の隣で、つぶやいたのだ。
時間としては短く、だけど体感としてはどこまでも長く思える回想は、ようやく高校時代へ、とたどり着く。ようやく、という表現はどこか待ちわびている色合いもあるけれど、正直なところ、いますぐにでも忘れてしまいたい記憶だ。
葉瑠は、そんなことを絶対に許してくれないだろうけど……。
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