夏と夏風夏鈴が教えてくれた、すべてのこと

サトウ・レン

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十八になった僕たちは

彼女たちは新たな関係を築きはじめる

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 七月八日になった。プールの一件について、夏風の真相を告げられてから三日が経っている。

 いま僕は水野と近所の体育館を訪れていた。百円を払えば場所を借りることができる。常設してある卓球ルームがあり、僕たちはそこですこし卓球をした。僕と水野は決して長い期間ではないが、小学生の一時期、卓球クラブに入っていたことがあった。と言ってもお互いにそれ以降はまったくやっていないので、当然、下手くそだった。ただ普段から運動しているぶん、水野のほうがすこしだけうまかった。

 一時間ほど汗を流して、僕たちは休憩室で座る。流れる汗をタオルで拭っていると、
「どう、運動をしない不健康な身体にはちょうど良かったんじゃない」
 と水野が言った。

「とりあえず疲れたよ。どういう風の吹き回し? いきなり卓球をしようなんて」
「感謝を伝えよう、と思って」
「感謝がなんで卓球?」
「直接は恥ずかしいでしょ」

 だとしても、卓球である意味は分からない。考えるだけ無駄なのかもしれないが。

 七月五日から七月八日までの間、意外と僕は慌ただしかった。と言っても、慌ただしかったのは、心だ。夏風と水野のふたりに挟まれて、僕はずっと気を揉んでいた。七月六日。彼女たちは、たったふたりで話し合うことになった。空き教室にふたりは入り、僕はその教室の前に立っていた。誰かが間違って入ってしまわないように。あと、ふたりの会話を聞くことに躊躇いがあったからだ。

「まさか仲良くなる、とは思わなかったよ」
 僕の言葉に、水野がひとつ息を吐く。「私、前に言ったでしょ。夏風さんのことが嫌いだって。たぶん、どうでもいい、だったら、私たちの関係は平行線をたどったままだった、と思う。でも、嫌い、は、好き、に逆転することがあるから」

 教室の前にいた僕は、彼女たちがそこで何を話していたのか、ほとんど知らない。かすかに声は聞こえてきたが、はっきりと聞き取れるほど、夏風と水野の声は大きくはなかった。

 ただ途中、水野の激昂するような声が聞こえてきた。入ろうかどうか迷って、僕はその場に留まった。いまはふたりの時間なんだ、と言い聞かせて。でもそれは言い訳なんじゃないのか、と心の中の僕が、動かない僕を嘲笑ってきた。

 大きな声はその一度だけだった。たった一度だけのそれは、幼い頃から水野を知る僕が、人生で一度も聞いたことがないものだった。

 その強く響いて、逆に何を言っているか分からない声から三分ほど経って、ふたりが出てきた。泣いている水野の肩を抱く、夏風がほほ笑んで、
「私たちは仲直りしたよ」
 と僕に向かって、ピースする。ありがとう、私たちはもう大丈夫、とそのピースには込められている気がした。

「げんが、なんで、しでないから、ながなおりじゃない」
 と泣きながら、ガサガサとした声で水野が笑う。泣き笑いだ。霧が晴れるように、ふたりの間に、もやもやとしたものはなくなった、と僕は信じたくなった。もちろん人間関係なんてそんな簡単なものではないだろう。でも、それでも、と。

「女も、拳を交わせば仲良くなるから、ね」夏風がそう言った。
「殴り合ったの?」と僕がびっくりして聞くと、
「言葉で、ね」と水野が答えた。夏風が笑った。

 これがふたりの会話をする場所を設けた際に起こった出来事で、僕が知っているすべてだ。つまり僕はあまり知らない。ふたりから具体的に何があったのかも聞いていない。聞く必要もない、と思った。僕としては互いに悩みを抱えるふたりが、肩を抱ける関係になってくれただけで、じゅうぶんだ。ふたりの問題においてあくまでも主役は彼女たちで、僕は脇役でしかないのだから。

 そして七月八日。僕は水野から卓球に誘われた。唐突なことに驚いたのは事実だが、彼女なりの感謝なのだろう、というのはすぐに分かった。

「今度、夏風さんと映画を観に行く約束をしたんだ」
「映画って、もう?」
 僕はまだ、だらだらと流れて汗が止まらないのに、水野はからりとして涼しい顔をしている。汗の引き具合もそうだが、関係の変化も早い。僕がのんびりとしている間に、周囲が大きく動いているとなんだか焦ってしまう時があるが、今がまさにそうだ。

「せっかく仲良くなったんだから、色々と話したり、恋愛話をしたり、応援したり、したいでしょ。いいの? 青春みたいなことをしちゃうよ。日比野くんの知らないところで」
 何故か、からかうように水野が言う。

 夏風は安達のことを水野に話したのだろうか。だけど話していたなら、恋を応援、なんて言葉は使わないはずだ。うーん、と僕が悩んでいると、水野が呆れたような表情を浮かべていた。
 これが七月五日から七月八日までのことだ。たった三日間の出来事だ。

 翌日、七月九日、野球部は三回戦にもしっかりと勝利し、ベスト16が決まった。教えてくれたのは、国崎だった。

「最近は、夏風と一緒に帰ってるんだろ。まったく親友を放っておいて、困ったやつだなぁ」
 とからかう言葉を口にしていた国崎と、僕は一緒に下校していた。まぁ国崎の言葉は冗談にしても、彼と一緒に帰る機会がすくなくなっていたのは、事実だ。国崎は最近、将棋部には顔を出していないらしい。佐野さんが受験勉強の忙しさもあり、現役の部員がいない日にふたりで、というのは、なかなか難しいみたいだ。

 佐野さんは東京にある有名な私立大学を目指しているそうだ。国崎が教えてくれた。なんとなくの印象でしかないのだが、確かに佐野さんは勉強ができそうだし、そういう大学に入ったとしても別に驚かない。憧れの先輩が入った大学なんだって、とすこし投げやり気味に国崎が言ったのは、その憧れの先輩が競争相手だ、と思っているからだろう。

「俺も野球を続けてたら、行けたかな」と自嘲するような笑みだった。
 佐野さんが目指している私立大学の野球部は、東京六大学のひとつに数えられる。いわゆる名門の野球部だ。

「それか必死に勉強するか、かな。別にお前だって、成績悪くないだろ」と国崎に言う。
「まぁそれはそうなんだが、どっちのほうが可能性があったか、って言うと、ほら。悪くない、って言っても、そんなところを気軽に狙える成績じゃないのは、日比野だって知ってるだろ」

 聞きながら、佐野さんのこと以上に、やっぱり国崎は野球に未練があるんじゃないか、と思った。離れて分かった未練が。だから事あるごとに、野球の話を添えてしまう。

「まぁ、色々あるんだろうけど」
「こういう時、深く突っ込んで聞こうとしないよな。日比野、って」夏風にも似たようなことを言われたばかりだ。
「やっぱりこの性格には問題があるんだな」
「もしかして別の奴にも言われたのか。良いところだよ。もちろんそれを嫌、って言うやつもいるかもしれないけど。早急に答えを出さないようにするのは才能だ。俺はそういうやつのほうが信用できる。俺の信用にどれだけ価値があるのか、俺もよく分かってないけど」
「照れるな、そう言われると」
 と僕は軽口を返す。

「よし、照れろ」彼が笑う。「でも聞くべき時はちゃんと聞いたほうがいいぞ。大切な何かを取りこぼすかもしれないからな」
 この言葉に、言葉以上の深い意味はないだろう。にも関わらず、僕の耳には未来を暗示させるように響いた。

「分かった。じゃあ聞くけど、国崎、しっかりと野球と訣別できそうか」
「いま聞くのか」国崎が困ったような笑みを浮かべる。「そういう意味で言ったんじゃないんだけど、な。どちらかと言えば、お前と夏風の関係についての話で。……まぁでも、確かにこの流れだと、そうなるか。正直、まったくできていないよ。勝ち進んでいくチームの話を聞くたびに、それまですでに膨らんでる、って思ってた黒い感情が、どんどん膨らんでいくんだ。空気が過剰に入っていく風船は、あとは割れるしかない。いつかそんな日が来るんじゃないか、って怖くなるよ。俺はこんなにも嫉妬深い人間だったのか、って愕然とするんだ。自分に嫌気が差してくる。その感情を知らなかっただけで、知ってしまった以上、無視できなくなる。本当にどうしたらいいのかねぇ」
 何気なさを装った、冗談めかした語尾は震えていた。

「きょうも駅のところで、話していくか」
「いや、今回はいいや」
「そうか」
「あぁ、駅に着くまでで」
 駅までは、あと歩いて五分といったところだ。一度だけ眩い光をはなつ陽を、国崎がうんざりするように睨んだ。いや厳密には睨んだわけではないのだろう。ただ僕にはそう見えただけだ。

「うちは三回戦にも勝ったらしい」
「らしい?」
「実際に見たわけじゃないからな。観戦に行って、実際に自分の目で見ない限り、それは真実かどうかなんて分から……冗談だよ、冗談。ベスト16だよ。もちろんそれ自体はそこまで驚くことじゃない。それなりに強いチームなんだから、組み合わせ次第では、狙える場所だ。すくなくともベスト8くらいまでは。あくまで組み合わせ次第では。三回戦の相手は、今年もっとも甲子園に近いチームだったんだ。何度も甲子園に出てるし、去年も準優勝だった。俺たちと同い年のあっちのチームのエースは、プロ間違いなし、って言われてて」
 彼の告げたその名前をどこかで聞いた記憶があった。

「どこかで聞いた記憶が」
「聞いたんじゃなくて、見たんじゃないか。新聞とか、で。去年の夏、うちはノーヒットノーランを食らったから」
 それで思い出す。『二年生エース、ノーヒットノーランを達成』みたいな記事を地方新聞の記事で見たのだ。新聞を読んでいた父が、「お前のところ、負けたみたいだな」と言って、僕に記事を見せてくれたのだ。

「たぶん、それだ」
「絶対に負ける、と考えていた。本当に自分で嫌な奴だな、って思うんだけど、これでひと息つける、なんて思ってたんだ。もちろんジャイアントキリングが起こるスポーツだって分かってる。でも覆せないものだ、って。たぶん俺はこの呪縛から逃れられなくて、逃れられないのは、中途半端に逃げ出したからだって分かってる」
「大学に行ったら、もう一度、野球やったら」
「そうだな。たぶんこの呪縛から逃れるとしたら、もう一度、同じことに挑戦するか、それがどうでもよくなるくらい熱中できる何かを見つけるしかないんだろうな」
「何かあったりする?」
「将棋、って言いたいところだけど、まだそこまでじゃない、ってのが正直なところだよ。俺は悩むために、大学に行こうかな。四年間、悩みながら、自分を見つけるんだ。いわゆる自分探しだ」

 彼自身、自分探し、という言葉がしっくりときていない感じだった。
 大学か。もう受験も近くなってきているのに、僕はまだふらふらとしている。多少、受験勉強をしているが、たとえば佐野さんのように必死になっているわけじゃない。別に行けるところに行ければいいや、なんて考えている。行かなくてもいい、とさえ思っている。

 僕も、悩むために大学に行こうかな。
 悩むために、と国崎は言った。そんな国崎のほうが、先を見据えている。
 悩むかどうかにさえ悩んでいる僕は、本当にどうすればいいんだろう。そう考えて、とても怖くなった。

「どうしたんだ、難しい顔をして」と国崎に言われた。
「いや、みんな、しっかりしてるんだな、って思って」と答えるのが精一杯だった。
 国崎と駅で別れ、僕は帰り道、書店に寄った。偶然、夏風と出会うようなことは、さすがになかった。ほんのわずかに期待してしまっていた自分に気付いて、おかしくなった。書店のど真ん中あたりで、僕は思わず吹き出してしまっている。ちょうど近くに他のお客さんがいなかったから良かったが、もしも誰かがいたら、気味悪がられてしまったはずだ。

 文庫コーナーに行く。
『野菊の墓』『うたかたの日々』『風立ちぬ』『いちご同盟』
 今まで読んできて、夏風と一緒に語り合った四冊の本は棚にしっかりと収まっていた。何気なく文庫の棚を中心に、書店をぐるぐると回りながら、最後に一冊の本を手に取った。

『世界の中心で、愛をさけぶ』

 彼女のひいおばあさんが彼女のために買った、という夏風の話の中に出てきた本だ。映画やドラマになっていて、もちろんタイトルは僕も知っている。読んだことはないし、映像化した作品も観たことはない。だけど、なんとなく、内容は知っている。

 購入して、書店を出る。
 今度は僕から提案してみよう、と思った。感想を言い合う日々に、最初は困ってしまうだけだったが、今は彼女と僕を繋ぐ何よりも大切な時間になっているのだ、と改めて確信した。

 だけど結局、ふたりで『世界の中心で、愛をさけぶ』の感想を語る日は、訪れなかった。
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