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インタールード
夏風との記憶を辿る三十歳の僕
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軒下の風鈴がまた、ちりん、と音を立てる。
三十歳になった僕は、十八の頃の夏風との記憶を辿っている。妻がお節介焼きの友達にそそのかされて、夏っぽい世界を演出しようとしなかったら、こんなことを思い出すこともなかっただろう。この友達のことは僕もよく知っている。本当にお節介焼きだし、妻とは昔から仲が良い。
回想というのは、思えば不思議なものだ。もう戻ってこないと分かっているのに、辿らずにはいられない。
スマホに突然掛かってきた電話は、さっき終わった。確かにかつて連絡先を交換した記憶はあるが、まさか本当に電話が掛かってくるとは思わなかった。悪い連絡かもしれない、と身構えてしまったが、内容は結婚報告、という祝うべきものだった。祝福の言葉を掛け、お互いに近況を話して、電話は終わった。驚きつつも、ほっとして、僕は心から祝うことができた。
時間にすれば、三分程度の短いものだ。お湯を入れたカップラーメンが食べられるようになるくらいの、短い時間だ。ただ話している間は懐かしさも相まって、もっと長く感じた。
当然、花火大会の準備をするために着替えに行った妻はまだ戻ってこない。待つ時間というのは苦手だ。普段よりも時間が長く感じられてしまうから。
待っている間、僕はもう一度、パソコンを開くことにした。
『夏の夜風に光を落として』
舞台は新潟県の片隅。僕たちの生まれた場所だ。土地や建物は架空の名前を使っているが、それがどこのことか、知っている人間からすれば、すぐに分かってしまう。作者と僕にとって、思い入れの深い場所だ。実は上司にはすでに、「僕はこの作品をフラットな気持ちで読むことができません」と伝えてある。その事情も言い添えた。でもこれはさすがに分かりやすすぎるよ、と今はこの場にいない作者に向けて、文句を吐きたい気持ちになった。もちろん念願が叶っての、小説の出版。祝福する気持ちは当然ある。ただそれとこれとは別の問題だ。
明らかにモデルは、僕と夏風だ。もちろんこの作品に起こるような陰惨な事件なんて、僕たちの間では起こらなかったし、その辺りは完全にフィクションなのだが、人物造形は間違いなく僕たちだ。半年前、作者から当時のことを振り返って欲しい、と言われて、昔を懐かしむように話した記憶はある。まさかあれが取材を兼ねていた、なんて。なんだかインタビューみたいだな、と怪しさはあったのだ。
僕はいいとしても、もし妻が読んだら、どう思うだろう。そんなことを考えて、暑さとは別の汗がつたってくる。妻は絶対に気付くはずだ。
妻はまだ戻ってこないので、僕は『夏の夜風に光を落として』を読み進めていく。
それから二十分くらい経って、妻がようやく戻ってくる。
浴衣姿の妻を見るのは、初めてだ。これも夏らしさの魔法だろうか。妻がいつもより輝いて、僕の目に映る。もちろんそれを言葉にはしない。してしまえば、じゃあ普段の私は輝いていないのか、と怒られそうだからだ。もちろん、いつもより、というだけの話で、普段から妻は魅力的で間違いはないのだけれど。とはいえ、今の僕は十八の頃の夏の日々に思いを馳せていたので、なんだか後ろめたいような気持ちもある。
浴衣は藍色で、波のような線を泳ぐように、数匹の金魚の絵が描かれている。
「お母さんから昔、貰ったんだ」
と妻がにこやかな笑みを浮かべる。着る機会なんて絶対ない、と思ってたけどね、と続ける。
「意外だよ。浴衣を持っているなんて」
「どう、似合うでしょ。私の浴衣姿なんて中々見れないよ。最初で最後かもしれない」
妻の言葉に、僕は無言で頷く。態度が素っ気なさすぎ、と彼女が文句を言う。
そのあと、妻が急に黙る。
「どうしたの?」
「さっき、誰かと電話してた? 声がちょっとだけ聞こえてきたけど」
「えっ、まぁ」
「誰と?」
申し訳なさそうに僕を見ながら、妻が言う。緊張しているのだろうか。声がわずかに震えている。
世の中には、パートナーが、自分以外の誰と、どんな時間を過ごしているかをつねに把握しておきたい性格のひともいる。ただ妻はそういう性格ではなかったので、意外な気もした。僕の表情から感じるものでもあったのだろうか。
僕が電話相手の名前を告げると、彼女が困惑したように首を傾げた。
「僕の学生時代の友達なんだ。きみは話でしか知らないと思うけど、結構、不思議な奴で。ただちょっと昔話に花が咲いただけだよ」
素直に話そうかとも思ったが、知らないひとの結婚について聞かされても困るだけだろう。すこし悩むところだ。
「そっか」と妻がひとつ息を吐く。「ごめんね。なんだか急に不安になったんだ。結婚はしたけど、もしかしたらあなたは私以外の誰かを見ている。時々、怖くて仕方なくなる。ほら、私たちが結婚するまでの過程でも色々とあったし。結婚して五年も経つのに、何を言ってるんだろうね」
「そんなことないよ」
本心だった。妻にしっかりと伝わったかどうかは分からないけれど。結婚するまでの過程で色々あったのは事実だが、今、僕は誰よりも妻を愛している。そこに疑う余地はひとつもない。
風鈴がまた、ちりん、と音を立てる。
あと数時間もしたら、僕たちは花火大会の行われている海岸で、打ち上がる花火の音に耳をそばだてているだろう。それが終わったら、ふたりで、いつもと違う話をしてもいいかもしれない。あの頃の僕について、そして、それを経たうえでの、今の僕について。過去をつぶさに語ることは避けてきた。特に妻と関係のない話は。今を大切にしたい、と自分自身に言い訳をして。だけど未来へとさらに一歩、足を踏み出すためには、必要なことなのかもしれない。それで妻が僕に対して、どう思ったとしても。
夏の魔法が、僕を勇気付けてくれたのかもしれない。
僕は決心した。
三十歳になった僕は、十八の頃の夏風との記憶を辿っている。妻がお節介焼きの友達にそそのかされて、夏っぽい世界を演出しようとしなかったら、こんなことを思い出すこともなかっただろう。この友達のことは僕もよく知っている。本当にお節介焼きだし、妻とは昔から仲が良い。
回想というのは、思えば不思議なものだ。もう戻ってこないと分かっているのに、辿らずにはいられない。
スマホに突然掛かってきた電話は、さっき終わった。確かにかつて連絡先を交換した記憶はあるが、まさか本当に電話が掛かってくるとは思わなかった。悪い連絡かもしれない、と身構えてしまったが、内容は結婚報告、という祝うべきものだった。祝福の言葉を掛け、お互いに近況を話して、電話は終わった。驚きつつも、ほっとして、僕は心から祝うことができた。
時間にすれば、三分程度の短いものだ。お湯を入れたカップラーメンが食べられるようになるくらいの、短い時間だ。ただ話している間は懐かしさも相まって、もっと長く感じた。
当然、花火大会の準備をするために着替えに行った妻はまだ戻ってこない。待つ時間というのは苦手だ。普段よりも時間が長く感じられてしまうから。
待っている間、僕はもう一度、パソコンを開くことにした。
『夏の夜風に光を落として』
舞台は新潟県の片隅。僕たちの生まれた場所だ。土地や建物は架空の名前を使っているが、それがどこのことか、知っている人間からすれば、すぐに分かってしまう。作者と僕にとって、思い入れの深い場所だ。実は上司にはすでに、「僕はこの作品をフラットな気持ちで読むことができません」と伝えてある。その事情も言い添えた。でもこれはさすがに分かりやすすぎるよ、と今はこの場にいない作者に向けて、文句を吐きたい気持ちになった。もちろん念願が叶っての、小説の出版。祝福する気持ちは当然ある。ただそれとこれとは別の問題だ。
明らかにモデルは、僕と夏風だ。もちろんこの作品に起こるような陰惨な事件なんて、僕たちの間では起こらなかったし、その辺りは完全にフィクションなのだが、人物造形は間違いなく僕たちだ。半年前、作者から当時のことを振り返って欲しい、と言われて、昔を懐かしむように話した記憶はある。まさかあれが取材を兼ねていた、なんて。なんだかインタビューみたいだな、と怪しさはあったのだ。
僕はいいとしても、もし妻が読んだら、どう思うだろう。そんなことを考えて、暑さとは別の汗がつたってくる。妻は絶対に気付くはずだ。
妻はまだ戻ってこないので、僕は『夏の夜風に光を落として』を読み進めていく。
それから二十分くらい経って、妻がようやく戻ってくる。
浴衣姿の妻を見るのは、初めてだ。これも夏らしさの魔法だろうか。妻がいつもより輝いて、僕の目に映る。もちろんそれを言葉にはしない。してしまえば、じゃあ普段の私は輝いていないのか、と怒られそうだからだ。もちろん、いつもより、というだけの話で、普段から妻は魅力的で間違いはないのだけれど。とはいえ、今の僕は十八の頃の夏の日々に思いを馳せていたので、なんだか後ろめたいような気持ちもある。
浴衣は藍色で、波のような線を泳ぐように、数匹の金魚の絵が描かれている。
「お母さんから昔、貰ったんだ」
と妻がにこやかな笑みを浮かべる。着る機会なんて絶対ない、と思ってたけどね、と続ける。
「意外だよ。浴衣を持っているなんて」
「どう、似合うでしょ。私の浴衣姿なんて中々見れないよ。最初で最後かもしれない」
妻の言葉に、僕は無言で頷く。態度が素っ気なさすぎ、と彼女が文句を言う。
そのあと、妻が急に黙る。
「どうしたの?」
「さっき、誰かと電話してた? 声がちょっとだけ聞こえてきたけど」
「えっ、まぁ」
「誰と?」
申し訳なさそうに僕を見ながら、妻が言う。緊張しているのだろうか。声がわずかに震えている。
世の中には、パートナーが、自分以外の誰と、どんな時間を過ごしているかをつねに把握しておきたい性格のひともいる。ただ妻はそういう性格ではなかったので、意外な気もした。僕の表情から感じるものでもあったのだろうか。
僕が電話相手の名前を告げると、彼女が困惑したように首を傾げた。
「僕の学生時代の友達なんだ。きみは話でしか知らないと思うけど、結構、不思議な奴で。ただちょっと昔話に花が咲いただけだよ」
素直に話そうかとも思ったが、知らないひとの結婚について聞かされても困るだけだろう。すこし悩むところだ。
「そっか」と妻がひとつ息を吐く。「ごめんね。なんだか急に不安になったんだ。結婚はしたけど、もしかしたらあなたは私以外の誰かを見ている。時々、怖くて仕方なくなる。ほら、私たちが結婚するまでの過程でも色々とあったし。結婚して五年も経つのに、何を言ってるんだろうね」
「そんなことないよ」
本心だった。妻にしっかりと伝わったかどうかは分からないけれど。結婚するまでの過程で色々あったのは事実だが、今、僕は誰よりも妻を愛している。そこに疑う余地はひとつもない。
風鈴がまた、ちりん、と音を立てる。
あと数時間もしたら、僕たちは花火大会の行われている海岸で、打ち上がる花火の音に耳をそばだてているだろう。それが終わったら、ふたりで、いつもと違う話をしてもいいかもしれない。あの頃の僕について、そして、それを経たうえでの、今の僕について。過去をつぶさに語ることは避けてきた。特に妻と関係のない話は。今を大切にしたい、と自分自身に言い訳をして。だけど未来へとさらに一歩、足を踏み出すためには、必要なことなのかもしれない。それで妻が僕に対して、どう思ったとしても。
夏の魔法が、僕を勇気付けてくれたのかもしれない。
僕は決心した。
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