光へ、と時を辿って

サトウ・レン

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実体のない姿で、ソウと。

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「遠くから兄貴の顔が見えてさ、すぐに兄貴だって気付いたよ。いまここの兄貴よりずっと未来の兄貴だって。久し振り。おじさんになっていても、意外と分かるもんだね。ここに来てからもう数ヶ月くらいかな、結構経つけど、俺の姿が見えるひとなんて誰もいなかったんだ。誰も気付いてくれない。良かった。話せるひとに会えて。で、それが兄貴で本当に」

 そんなふうに切り出したソウは、彼自身がこれまで辿ってきた経緯を感情的になることもなく、淡々と話してくれた。

 ソウは中学校の制服を着ていた。この時期のソウと僕に、接点なんてほとんどなかった。僕が知っているのは、このソウよりも、もっと幼い時期のソウだ。僕の記憶にあるソウは、すぐ怒るし、それに泣き虫で、感情豊かなイメージが強い。だから、この落ち着いた雰囲気を見ながら、すこし意外に思う気持ちもあった。すこし成長した彼は、こんなふうになるのか。

 ソウが話してくれたことについて語る前に、まずソウ自身のこと、僕とソウの関係について説明しておいたほうがいいだろう。

 僕が初めて会った時のソウの名字は、雨坂で、途中で岡山という姓に変わった。
 彼の両親の離婚が原因だ。僕としては雨坂のイメージが強いけれど、雨坂ソウにしても、岡山ソウにしても、ソウはソウだ。ちなみにソウは、漢字で、聰、と書く。幼心に、その漢字が格好良く見えて、羨ましかった記憶がある。

 僕はいつも彼をソウと呼んでいたから、離婚直後の頃、名字を呼ぶ時に気を遣う感覚はあまりなかったような覚えがある。ただ年上だった僕と違って、ソウと同級生の子たちは、子どもながらにかなり気を遣ったんじゃないかな、と思う。いまだって根強く残っている部分はあるものの、やはり当時の離婚という出来事に対するイメージの悪さはいまの比ではなかった。特に田舎という事情もあって、変な噂や憶測は、たとえそれが嘘まじりのものだったとしても、都会よりもずっと回りやすい。僕はその当時の学校での彼をほとんど知らないが、勝手に想像するなら、嫌う、というよりは、腫れ物のように扱われていた部分が多少あったのではないだろうか。

 ソウの両親が離婚したのは、一九九〇年という西暦に変わってすぐの頃だった。
 かつての僕が空野光に告白したのは、夏休みが明けた後の九月で、一年の大体四分の三、この三つくらいの季節を経るあいだの時期に、よくソウは僕の家を訪れた。
 
 お互いにもっと幼かった頃、家が近所だったこともあり、僕たちは本当の兄弟ではなかったけれど、ソウは弟のように僕を、兄貴、と呼んで、僕を慕ってくれていたし、僕は恥ずかしいと思いつつも、それを嬉しく感じていた。

 ……とはいえ僕が中学へ行き、中学校生活に馴染んでくると、どうしてもまだそれよりも幼い小学生のソウと関わる機会は減っていく。ソウが同級生の子たちと遊んでいる姿を見掛けたことも何度かあったので、ソウはソウのほうで充実した小学校生活を送っている、と勝手にそんなふうに考えていた。

 だから僕が二年から三年に進級する直前の頃に、いきなりソウが僕の家を訪ねてきたことには驚いたし、離婚したことは聞いていたので、何から話せばいいか戸惑ったのを覚えている。

『兄貴、うち、離婚したんだ』
 と言って、寂しそうな笑みを浮かべていた。

 はっきりと聞いたわけではないが、周りから腫れ物のように扱われる状況を思い起こさせる近い年の相手よりも、その時のソウにとっては、僕くらい離れた年齢の相手のほうが、居心地が良かったのかもしれない。

 そんなソウが失踪したのは、それから二年後のことだ。


「死んだ、と思ってた」
「あの日、俺、家出したんだ。母さんと大喧嘩した翌日に、家出。でもどこへ行けばいいのか分からなくて、さまよい歩いているうちに、気付いたらあの電車に乗ってたんだ。たったひとりで」

 あの電車の存在、そして過去へ行く出来事がなぜ起こるのか、については分からないことが多い。だけど僕には解明するための知識もなければ、義務もない。どんな変なことであっても実際に起こってしまったのだから、そういうものとして受け入れてしまうのが精神的にも一番楽なのかもしれない。

 ただソウとの会話の中で分かったこととして、同時代を生きる人間だけがあの電車に乗っているわけではない、ということだ。同じ時代のソウが存在するとしたら、それは僕と同じく四十近い中年男性になっていなければならない。

 そして本当に中年男性になったソウは存在するのだろうか。
 ふと小さな不安が萌した。もしかしたら僕もソウも死んでいて、幽霊となった僕たちが過去を旅しているだけなのではないか、という不安だ。だっていままで二十年以上、死んだとばかり思っていた少年が実は生きていて、過去へと向かう電車を使って、いまは過去を旅しています、なんて話よりも、そっちのほうが同じ変な話にしてもリアリティのある感じがする。いや、どっちもリアリティがないのは承知しているが、なんとなく腑に落ちやすい。

 僕たちは本当に帰れるのだろうか。
 あの老人は元の世界に戻ってこれたひとがほとんどだ、と言っていた。

「ソウが降りた時は、この年のいつだったの?」
「離婚が決まった日。両親の」

 年のはじめ頃だ。つまりいま僕たちのいる時期を考えると、ソウは約八ヶ月間近く、この過去の中をひとりで過ごしたことになる。その間の、現実の時間の進みはどうなっているのだろう。たとえばソウが戻った時、彼は約八ヶ月分、年を取っているのだろうか。その間の実世界での彼は、どういうふうに過ごしているのか。その辺がまったく分からない、という怖さもある。

「そう言えば、すごい現実的な話なんだけど、食べ物はどうしていたの?」
「何も食べてないけど、お腹が空いた、って感覚はここに来てから一度もないよ」

 もう死んでいる可能性を除けば、おそらくだけど、死ぬことはないみたいだ。それだけでもまだましと開き直って、いま自分のできることをするしかないのだろう。そして僕たちが唯一できることは、見ること。それだけだ。

「どうやったら戻れるんだろう?」
 老人と話したことをソウに聞かせた後に、そう呟くと、ソウは、

「そんなひといたんだ、知らなかった。老人か……。どんなひとなんだろう。会ってみたいな。兄貴はもう戻りたいの?」
 とソウが言った。冗談のつもりとは思えない、真面目な表情をしている。

「ソウは戻りたくないのか?」
「まぁ別に向こうにいたって、良いこと何もないし。……ここにいる間、ずっと考えていたんだけど、もし戻れるとしたら、ここでの用事が済んだ時なんじゃないか、って俺、思ってるんだ。いまの兄貴のそのじいちゃんとの話を聞くと、やっぱりそうなのかな、って気持ちが強くなってきた。もちろんただの想像なんだけど……。でも俺のこの後の人生で、特別な用事なんて思い付かないから、兄貴と違って、俺はずっとこのままの気がしてきた」と寂しそうにソウが笑って、僕は何か言わなければ、と反射的に慰めの言葉を探したが、続くソウの言葉のほうが早かった。僕の表情から察して、下手な同情は言われたくない、と思ったのかもしれない。「久し振りに、離婚した日の親父を見たんだ。親父は、さ。離婚したその日まで、最後まで、俺に優しかった」

 彼の父親は、僕も知っている。
 確かに村上春樹を知る前まで、僕は小説家をひとりも言えないような状態だったが、たったひとりだけ知っている小説家がいた。作品も読んだことはなく、理由はただの知り合い、というそれだけの話だ。

 ソウの父親だ。

 知り合いの父親だから知っていただけで、ソウの父親がどんな小説を書いているのか、その部分に関する知識はあまりなかった。彼が専業作家だったかどうかは分からない。当時の僕にとって作家さんと言えば作家さんで、そこに専業も兼業もなかったのだ。ただ記憶の中にあるソウの父親がどこかに勤めて、毎日出社している、という印象はなく、家にいつもいるおじさんのイメージが強かったので、多分専業作家だったのだろう。

「ソウの親父さんは確かに優しかった。そんなイメージが僕にもあるよ」

 そう、だからこそ意外だったのだ。
 ソウの両親はふたりとも優しくて、仲睦まじい夫婦で、喧嘩の数で言えば間違いなく僕の両親のほうが多かっただろう。

 いまになってしまえば、もちろん夫婦や家族の関係が外側から見える印象だけで判断できるものではない、と知っているし、勝手に判断してはいけない、とも思っているが、当時の僕は外側から見えているその印象だけに引っ張られて、あのふたりが離婚するなら、もっと離婚するべき夫婦なんてそこら中にいるだろう、くらいに考えていたのだ。

「うん。……あぁ、まあ、いいや。とりあえず俺の話はやめようよ。兄貴はなんで、そんなに年を取ってから、ここに来たんだ」
「年を取っては余計だよ。いや、まあ事実だけど。あぁ、そうだなちょっと前に同窓会があって、それで昔の……友達、のこと思い出してたら会いたくなって。そんなこと考えてた時に、気付いたらあの電車に乗ってて」
「友達……?」
「友達……悪い、嘘ついた。好きだった子だよ。もう死んだんだ」
「死んだ……」
「一九九〇年、この年に、……もうすぐ死ぬんだ」
「……次は兄貴の番だ。教えてよ。多分、兄貴は何かを見るためにここに来て、それが終わったら、ここから帰ることになるんだ、と思う。俺はまだ全然分からないけど、兄貴のほうは分かるかもしれない」

 見当は、ついていた。
 僕は答えを知りたかったんだ、と思う。でもそれはもっとも困難なことだ。だって他人の心は知りようがないのだから。
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