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終わりゆく過去で、最後の記憶と。
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自分しかいない部屋に自分しかいない状態で、体育座りをして部屋の隅にいる理由があるとすれば、それは大抵落ち込んでいる時だ。分かりやすいほど分かりやすい態度だ。そんなあからさまな様子を外に出してしまうほどに、田中少年は光の死に、ショックを受けたのだろう。僕が彼の部屋に入った時点でもう、彼はそんな様子だった。
両親も心配はしているものの、部屋に閉じこもる彼に声を掛けることもできずにいる、という感じだった。祖父は我関せず、という雰囲気で、もしかしたら心の中では多少は心配していたのかもしれないが、表情や行動に現れるタイプではなかった。
僕の記憶にある限り、その夜、僕は誰とも口を利かなかった覚えがある。だから、きっと彼もそうするだろう。
僕はいま両親のあの頃の会話に、耳を傾けている。
不思議な気分だ。
田中少年が不在の時の、両親の会話も、いま初めて聞く僕の知らないものだった。
「どうしよう、部屋にごはん持っていこうかな」
「いや、やめといたほうがいいんじゃないか? いまはたぶん、誰とも話したくないだろうし」
「まぁそうよね」
「それにしても、交通事故で死んだ子が友達だったなんて、な」
「仮に友達じゃなかったとしても、つらいのに。クラスメートの子が死ぬ、なんて」
落ち込む息子に対して、どう接するべきか悩む両親の姿を見ていると、なんとも言えない気持ちになり、そして僕が知ることのできなかった、僕不在の場での両親の姿がやけに気になってしまう。もしかしたら、ソウとその父親のことがあったから、あらためて自分自身の親にも目を向けてみる気になったのかもしれない。
母よりも目が向かうのは、どちらかと言えば、父だ。
いまはそんなことはあまり思わなくなったが、当時の僕にとって、祖父に対する感情とは別の意味で、父はすこし怖い存在だった。口数がすくなく、感情のあまり出ない雰囲気に、当時は威圧感を覚えていたのかもしれない。多くの思春期の子どもと同様、僕も、両親とほとんど口を利かない時期を過ごしたのだけれど、それでも母とは、なんだかんだ、と会話の記憶を掘り返すことができる。ただ父とはあの頃、話した覚えがまったくない。
そんな距離を感じ、怖かった父を見ながら、いまは父がどこか頼りなく見えた。思えばもう僕は、この頃の父よりもずっと年上なのだ。自分がこの父と同じ年齢だった時に同じ環境に置かれたとしたら、僕はもっとひどい醜態を晒しているだろう。きっと。
「うーん、大丈夫かな……? 急に早まったことしたりしないかしら?」
「早まった、ってなんだよ?」
「いや、その……自殺とか……」
母は結構な心配性で、こういう時に最悪な考えをまず浮かべてしまうタイプだった。
「それは心配しすぎだよ。一日もすれば、部屋からは出てくるさ」
そう、それは心配しすぎだ。確かに僕は光の死に落ち込んでいたし、告白をしたことが事故のきっかけになったのかもしれない、と罪悪感にも囚われていたが、だから、と言って、じゃあ自分が死のう、なんて思考にはならなかった記憶がしっかりとある。ただまぁ、死んで光が生き返るなら、迷わず死を選ぶくらいには思い詰めてはいたかもしれない。
両親が心配する田中少年の部屋に戻ると、彼は心ここにあらず、といった表情を虚空に向けていた。
彼の足もとに目を向けると、一冊の文庫本がある。
まだ読み掛けの、そして光のことを思い出してしまいそうな気がして、最後まで読み終えることのできなかった推理小説だ。
東野圭吾の『卒業』だ。
早くしないと、卒業で離れ離れになってしまうと、焦ったうえでの告白だったが、結局僕たちは卒業も待たずに離れることになってしまった。ただ離れるだけなら、それでも良かった。振られて終わってしまうだけの恋だったならば、そりゃ僕自身は多少の時間、引きずるだろうけれど、この状況に比べれば、どれだけましな話だろうか。
あの時の自分の気持ちなんて、そこまで覚えていない。ただ唯一覚えているのは、憎かったことだ。光の命を奪った世界と同じくらい、自分自身が憎かった。直接的に光を死へと追いやったのは僕ではないけれど、光の命を奪ったものよりも、僕は僕が憎かった。この感覚を言葉で説明するのは難しい。
田中少年は泣いていなかった。僕自身も泣いた記憶がない。
冷たい人間だ、と何度自身を呪っただろう。その感情も手に取るように分かる……、というよりは思い出せる。
僕は、田中少年の頭に手を置く。もちろん田中少年からすれば、触れられている、という意識はひとつもないだろう。
どうせ聞こえない、と分かっていても、何か声を掛けたい、なんて気持ちにはなった。だけど掛けるべき言葉は見つからない。当然だ。だって僕自身が自分の気持ちをいまだに整理できずにいるのだから。
何も言わず、僕は外に出た。
これからどうしようか。
もうここからは、ずっと光のいない世界が続いていく。光のいない世界に似合いの、光彩のない暗く澱んだ世界が眼前には広がっている。当てもなく歩いたつもりだったが、無意識に僕は光と関わりのある場所を目指していたのだろう、事故現場まで来ていた。
もちろん、もう光の姿がそこに残っているわけでもなく、事故を起こした車が置かれているわけでも、おそらく多くいたのだろう警察や野次馬の類も、そこからは姿を消している。
誰もいなくて、しんと静まり返った道にひとり立っていると、遠くに誰かは分からないが街灯に照らされるひとの姿が見えた。
ゆっくりと僕に近付いてくる足取りは、別に僕を目指しているわけではないのだけれど、言いようのない緊張感はあり、僕は握りこぶしをつくった。
村瀬だ。
泣き腫らしたあととしか考えられないほど、目の周りは赤くなっている。
当たり前だ。
長く一緒にいた幼馴染のような親友が死んだのだから。でも本当にそれだけなのだろうか、と彼女の表情を見ていると、そんな気持ちが萌してくる。
哀しみじゃなかったとしたら、それは怒りなのか、それとも不安だろうか。
いまにもその場で膝を付いてしまいそうなその歩き方を見ていると、心配になってくる。さっきまで母は、僕、つまり田中少年が自殺するんじゃないか、と不安になっていたが、田中少年と村瀬の姿を見た僕から言わせてもらえば、村瀬のほうがその心配をしたほうが良さそうな雰囲気を外に放っている。実際、僕は心配で仕方ない。
ただ唯一、救いがあるとしたら、田中少年も村瀬も、僕がいた時代でまだ生きている。
元気に、と付けてしまっていいかは分からないけれど、それでも生きている事実に変わりはない。だからと言って、簡単に安心してしまっていいのかは分からない。例えば僕が知らないだけで、自殺未遂を起こして一生消えない傷痕が残る可能性だってある。
あるいは可能性は低いとしても、僕やソウの存在が未来を変えてしまう、という考えを完全に捨ててしまえる証拠はまだなく、田中少年や村瀬がいまの僕が生きていた時代まで存在している、と言い切れるだろうか。そんな不安もある。
立ち止まって、見ているしかできない僕のことなど知りもしないだろう。ふらつくように僕に向かってくる彼女のくちびるが、僕の首すじに触れそうなほど近付いた時、僕と彼女が触れるわけなどない、と知りながら、気付けば僕は眼を瞑っていた。
「ごめん……、本当にごめん……」
眼を閉じて、真っ暗になった世界で聞こえたのは、そんな声だ。
眼を開くと、街灯のぶんだけすこし明るさを取り戻した景色の中で、彼女はしゃがみこんでいた。僕はどうしていいか分からず、でもたとえどうすればいいか分かったとしても、僕は何もできないのだ。ここでは僕はただの透明人間でしかないのだから。
「嘘つき」
ふと嗚咽に混じって、そんなつぶやきが聞こえた。
僕に向けたものではなければ、もちろん他の誰かに向けたものでもない。ここには僕と彼女しかいなくて、そして彼女にとっては彼女ひとりしかいないのだから。村瀬は自分自身に憎しみを向けるように、そう言葉を吐き出したのだ。
村瀬の嘘が何かを、僕はもう知っている。なぜ嘘をついたのかは知らない。彼女の嘘がなければ、光はいまも生きていたのだろうか。そうかもしれない。
だけど僕たちは事前に未来を知らなくて、たったひとつの嘘を粒立てて、光を死に追いやった、と怒りを向けるのは、あまりにも酷だ。でも、これはきっと、こうやって何年もの日々が過ぎ去ってしまったからこそ感じることで、もしもかつて、何も知らない状態の僕がこの場にいたとしたら、どんな行動を取るかは分からない。
それに……、
きっと、他の誰よりも彼女が、自分自身を責め続けているはずだ。自分の言葉が、光を殺した、と。その感情を僕は知っている。だって僕もそうだったから。告白なんて馬鹿なことをしなければ、いまも彼女は生きていて、素敵な人生を送っていたかもしれない、と何度、おのれを呪ったか、もう覚えていないくらいだ。
ひとつ息を吐く。
「勝手に聞いちゃって、ごめん」
と僕は、村瀬に声を掛ける。当然聞こえているはずもなく、反応はない。それでも何か言わずにはいられなかった。
その場を離れて、五分経ったくらいだろう。
僕は自分の両足首が消えていることに気付いた。驚きもなく、意外なほどすんなりと僕はその状態を受け入れていて、あぁついにはじまったか、と他人事のように思う、そんな感じだ。
僕はこれから消えてしまうのだろう。
やっぱりすでに僕は死んでいて、このあとに待つのは完全な消滅なのだろうか。あるいは以前に会った老人が言っていたように、僕は元の世界に戻るために、ふたたびあの電車に乗っているのだろうか。それは実際に僕が消えてしまうまで分からない。
怖い、と言えば、怖い。何が起こるか分からない状況ほど怖いものはない。
ただひとつだけ分かっていることがあるとすれば、それがどんな形であれ、僕はもうすぐこの世界からいなくなる。何かやり残したことはないだろうか、なんてタイムリミットのある中で急いで考えても、そんな簡単に浮かんだりはしない。
僕はまだ残っている時間を、当てもなく歩くことで費やし、そして気付くと、かつて光と一緒に帰る時に通った懐かしい歩道橋が目に入った。
『ねぇ、死にたい、って思ったこと、ある?』
歩道橋の上から、代わる代わる車道を流れていく車を見下ろしながら、一度、光がそんなことを言った記憶がある。いまになってよみがえってきた記憶は、ずっと覚えていても良さそうな想い出だけど、その瞬間まで僕はそんな会話があったことを忘れていた。古い記憶の世界にずっといるから忘れそうになってしまうけれど、三十年近く経てば、そんな記憶のほうが多くて当然なのだ、きっと。
『ある、……かな?』
『なんで、自信なさそうなの?』
くすり、と光が笑った。
『いや……、もう死んじゃいたいな、って思ったことはあるよ……』
僕はどう言葉を続ければいいか分からず、そこで言葉を一度、止めてしまった記憶がある。だからその時は言えなかったのだけれど、僕はこう続けたかったのだ。でもその、死にたい、がどれくらいのものだったのか、自分でもよく分かっていないんだ、と。
『私は、あるよ。一度、ね。ここから飛び降りようと思ったんだ。最近の話なんだけど、ね』
『どうして?』
『ひとつひとつはそれほどのことじゃなくて、色んなことが積み重なった結果、って感じかな。これ、っていうひとつの大きな出来事がきっかけで自殺するひとのほうが少数派だと思うよ。人間の心がそんなにも明快だったら、すごく楽なのに、ね』そう言って溜め息をつく光の顔は大人びて見えた。『もちろん、思ったって、そんな簡単には死ねないんだけど、ね……』
『いつの話?』
『田中くんに会う、ちょっと前、かな』
あぁ、そうだ。光と関わり合うようになってから、まだそんなに経ってない頃に、僕たちはこんな会話をしたのだ。
『そう、なんだ』
『だから、ね。……ありがとう』
『なんで、ありがとう?』
『さぁ、ね。まぁ、私はまだ生きたい、ってことだよ』
光はあの時、僕に、ありがとう、と言った。その感謝の意味を彼女は僕に教えてはくれず、僕は首を傾げるしかできなかった。
光、きみと未来を歩けなくても良かったから、きみに生きていて欲しかった。
歩道橋の上から車道を見下ろすと、疎らに光をともして走行する車が流れては、消えていく。
僕はそこで歩くことをやめた。
ただいつもよりも緩やかに流れていく時の中で、僕は終わりの瞬間を待つことにした。
やがて僕は意識を失い、
気付くと、僕はあの電車の中にいた。まるで長い夢から醒めたように、僕のそばには見覚えのある老人がいて、
「お帰り」
と言った。
いまさらだけど、ひとつ気付いたことがある。僕はこの老人を、この車内で会うよりもずっと前から知っている。
「ソウには会えましたか? ソウの、お父さんですよね?」
両親も心配はしているものの、部屋に閉じこもる彼に声を掛けることもできずにいる、という感じだった。祖父は我関せず、という雰囲気で、もしかしたら心の中では多少は心配していたのかもしれないが、表情や行動に現れるタイプではなかった。
僕の記憶にある限り、その夜、僕は誰とも口を利かなかった覚えがある。だから、きっと彼もそうするだろう。
僕はいま両親のあの頃の会話に、耳を傾けている。
不思議な気分だ。
田中少年が不在の時の、両親の会話も、いま初めて聞く僕の知らないものだった。
「どうしよう、部屋にごはん持っていこうかな」
「いや、やめといたほうがいいんじゃないか? いまはたぶん、誰とも話したくないだろうし」
「まぁそうよね」
「それにしても、交通事故で死んだ子が友達だったなんて、な」
「仮に友達じゃなかったとしても、つらいのに。クラスメートの子が死ぬ、なんて」
落ち込む息子に対して、どう接するべきか悩む両親の姿を見ていると、なんとも言えない気持ちになり、そして僕が知ることのできなかった、僕不在の場での両親の姿がやけに気になってしまう。もしかしたら、ソウとその父親のことがあったから、あらためて自分自身の親にも目を向けてみる気になったのかもしれない。
母よりも目が向かうのは、どちらかと言えば、父だ。
いまはそんなことはあまり思わなくなったが、当時の僕にとって、祖父に対する感情とは別の意味で、父はすこし怖い存在だった。口数がすくなく、感情のあまり出ない雰囲気に、当時は威圧感を覚えていたのかもしれない。多くの思春期の子どもと同様、僕も、両親とほとんど口を利かない時期を過ごしたのだけれど、それでも母とは、なんだかんだ、と会話の記憶を掘り返すことができる。ただ父とはあの頃、話した覚えがまったくない。
そんな距離を感じ、怖かった父を見ながら、いまは父がどこか頼りなく見えた。思えばもう僕は、この頃の父よりもずっと年上なのだ。自分がこの父と同じ年齢だった時に同じ環境に置かれたとしたら、僕はもっとひどい醜態を晒しているだろう。きっと。
「うーん、大丈夫かな……? 急に早まったことしたりしないかしら?」
「早まった、ってなんだよ?」
「いや、その……自殺とか……」
母は結構な心配性で、こういう時に最悪な考えをまず浮かべてしまうタイプだった。
「それは心配しすぎだよ。一日もすれば、部屋からは出てくるさ」
そう、それは心配しすぎだ。確かに僕は光の死に落ち込んでいたし、告白をしたことが事故のきっかけになったのかもしれない、と罪悪感にも囚われていたが、だから、と言って、じゃあ自分が死のう、なんて思考にはならなかった記憶がしっかりとある。ただまぁ、死んで光が生き返るなら、迷わず死を選ぶくらいには思い詰めてはいたかもしれない。
両親が心配する田中少年の部屋に戻ると、彼は心ここにあらず、といった表情を虚空に向けていた。
彼の足もとに目を向けると、一冊の文庫本がある。
まだ読み掛けの、そして光のことを思い出してしまいそうな気がして、最後まで読み終えることのできなかった推理小説だ。
東野圭吾の『卒業』だ。
早くしないと、卒業で離れ離れになってしまうと、焦ったうえでの告白だったが、結局僕たちは卒業も待たずに離れることになってしまった。ただ離れるだけなら、それでも良かった。振られて終わってしまうだけの恋だったならば、そりゃ僕自身は多少の時間、引きずるだろうけれど、この状況に比べれば、どれだけましな話だろうか。
あの時の自分の気持ちなんて、そこまで覚えていない。ただ唯一覚えているのは、憎かったことだ。光の命を奪った世界と同じくらい、自分自身が憎かった。直接的に光を死へと追いやったのは僕ではないけれど、光の命を奪ったものよりも、僕は僕が憎かった。この感覚を言葉で説明するのは難しい。
田中少年は泣いていなかった。僕自身も泣いた記憶がない。
冷たい人間だ、と何度自身を呪っただろう。その感情も手に取るように分かる……、というよりは思い出せる。
僕は、田中少年の頭に手を置く。もちろん田中少年からすれば、触れられている、という意識はひとつもないだろう。
どうせ聞こえない、と分かっていても、何か声を掛けたい、なんて気持ちにはなった。だけど掛けるべき言葉は見つからない。当然だ。だって僕自身が自分の気持ちをいまだに整理できずにいるのだから。
何も言わず、僕は外に出た。
これからどうしようか。
もうここからは、ずっと光のいない世界が続いていく。光のいない世界に似合いの、光彩のない暗く澱んだ世界が眼前には広がっている。当てもなく歩いたつもりだったが、無意識に僕は光と関わりのある場所を目指していたのだろう、事故現場まで来ていた。
もちろん、もう光の姿がそこに残っているわけでもなく、事故を起こした車が置かれているわけでも、おそらく多くいたのだろう警察や野次馬の類も、そこからは姿を消している。
誰もいなくて、しんと静まり返った道にひとり立っていると、遠くに誰かは分からないが街灯に照らされるひとの姿が見えた。
ゆっくりと僕に近付いてくる足取りは、別に僕を目指しているわけではないのだけれど、言いようのない緊張感はあり、僕は握りこぶしをつくった。
村瀬だ。
泣き腫らしたあととしか考えられないほど、目の周りは赤くなっている。
当たり前だ。
長く一緒にいた幼馴染のような親友が死んだのだから。でも本当にそれだけなのだろうか、と彼女の表情を見ていると、そんな気持ちが萌してくる。
哀しみじゃなかったとしたら、それは怒りなのか、それとも不安だろうか。
いまにもその場で膝を付いてしまいそうなその歩き方を見ていると、心配になってくる。さっきまで母は、僕、つまり田中少年が自殺するんじゃないか、と不安になっていたが、田中少年と村瀬の姿を見た僕から言わせてもらえば、村瀬のほうがその心配をしたほうが良さそうな雰囲気を外に放っている。実際、僕は心配で仕方ない。
ただ唯一、救いがあるとしたら、田中少年も村瀬も、僕がいた時代でまだ生きている。
元気に、と付けてしまっていいかは分からないけれど、それでも生きている事実に変わりはない。だからと言って、簡単に安心してしまっていいのかは分からない。例えば僕が知らないだけで、自殺未遂を起こして一生消えない傷痕が残る可能性だってある。
あるいは可能性は低いとしても、僕やソウの存在が未来を変えてしまう、という考えを完全に捨ててしまえる証拠はまだなく、田中少年や村瀬がいまの僕が生きていた時代まで存在している、と言い切れるだろうか。そんな不安もある。
立ち止まって、見ているしかできない僕のことなど知りもしないだろう。ふらつくように僕に向かってくる彼女のくちびるが、僕の首すじに触れそうなほど近付いた時、僕と彼女が触れるわけなどない、と知りながら、気付けば僕は眼を瞑っていた。
「ごめん……、本当にごめん……」
眼を閉じて、真っ暗になった世界で聞こえたのは、そんな声だ。
眼を開くと、街灯のぶんだけすこし明るさを取り戻した景色の中で、彼女はしゃがみこんでいた。僕はどうしていいか分からず、でもたとえどうすればいいか分かったとしても、僕は何もできないのだ。ここでは僕はただの透明人間でしかないのだから。
「嘘つき」
ふと嗚咽に混じって、そんなつぶやきが聞こえた。
僕に向けたものではなければ、もちろん他の誰かに向けたものでもない。ここには僕と彼女しかいなくて、そして彼女にとっては彼女ひとりしかいないのだから。村瀬は自分自身に憎しみを向けるように、そう言葉を吐き出したのだ。
村瀬の嘘が何かを、僕はもう知っている。なぜ嘘をついたのかは知らない。彼女の嘘がなければ、光はいまも生きていたのだろうか。そうかもしれない。
だけど僕たちは事前に未来を知らなくて、たったひとつの嘘を粒立てて、光を死に追いやった、と怒りを向けるのは、あまりにも酷だ。でも、これはきっと、こうやって何年もの日々が過ぎ去ってしまったからこそ感じることで、もしもかつて、何も知らない状態の僕がこの場にいたとしたら、どんな行動を取るかは分からない。
それに……、
きっと、他の誰よりも彼女が、自分自身を責め続けているはずだ。自分の言葉が、光を殺した、と。その感情を僕は知っている。だって僕もそうだったから。告白なんて馬鹿なことをしなければ、いまも彼女は生きていて、素敵な人生を送っていたかもしれない、と何度、おのれを呪ったか、もう覚えていないくらいだ。
ひとつ息を吐く。
「勝手に聞いちゃって、ごめん」
と僕は、村瀬に声を掛ける。当然聞こえているはずもなく、反応はない。それでも何か言わずにはいられなかった。
その場を離れて、五分経ったくらいだろう。
僕は自分の両足首が消えていることに気付いた。驚きもなく、意外なほどすんなりと僕はその状態を受け入れていて、あぁついにはじまったか、と他人事のように思う、そんな感じだ。
僕はこれから消えてしまうのだろう。
やっぱりすでに僕は死んでいて、このあとに待つのは完全な消滅なのだろうか。あるいは以前に会った老人が言っていたように、僕は元の世界に戻るために、ふたたびあの電車に乗っているのだろうか。それは実際に僕が消えてしまうまで分からない。
怖い、と言えば、怖い。何が起こるか分からない状況ほど怖いものはない。
ただひとつだけ分かっていることがあるとすれば、それがどんな形であれ、僕はもうすぐこの世界からいなくなる。何かやり残したことはないだろうか、なんてタイムリミットのある中で急いで考えても、そんな簡単に浮かんだりはしない。
僕はまだ残っている時間を、当てもなく歩くことで費やし、そして気付くと、かつて光と一緒に帰る時に通った懐かしい歩道橋が目に入った。
『ねぇ、死にたい、って思ったこと、ある?』
歩道橋の上から、代わる代わる車道を流れていく車を見下ろしながら、一度、光がそんなことを言った記憶がある。いまになってよみがえってきた記憶は、ずっと覚えていても良さそうな想い出だけど、その瞬間まで僕はそんな会話があったことを忘れていた。古い記憶の世界にずっといるから忘れそうになってしまうけれど、三十年近く経てば、そんな記憶のほうが多くて当然なのだ、きっと。
『ある、……かな?』
『なんで、自信なさそうなの?』
くすり、と光が笑った。
『いや……、もう死んじゃいたいな、って思ったことはあるよ……』
僕はどう言葉を続ければいいか分からず、そこで言葉を一度、止めてしまった記憶がある。だからその時は言えなかったのだけれど、僕はこう続けたかったのだ。でもその、死にたい、がどれくらいのものだったのか、自分でもよく分かっていないんだ、と。
『私は、あるよ。一度、ね。ここから飛び降りようと思ったんだ。最近の話なんだけど、ね』
『どうして?』
『ひとつひとつはそれほどのことじゃなくて、色んなことが積み重なった結果、って感じかな。これ、っていうひとつの大きな出来事がきっかけで自殺するひとのほうが少数派だと思うよ。人間の心がそんなにも明快だったら、すごく楽なのに、ね』そう言って溜め息をつく光の顔は大人びて見えた。『もちろん、思ったって、そんな簡単には死ねないんだけど、ね……』
『いつの話?』
『田中くんに会う、ちょっと前、かな』
あぁ、そうだ。光と関わり合うようになってから、まだそんなに経ってない頃に、僕たちはこんな会話をしたのだ。
『そう、なんだ』
『だから、ね。……ありがとう』
『なんで、ありがとう?』
『さぁ、ね。まぁ、私はまだ生きたい、ってことだよ』
光はあの時、僕に、ありがとう、と言った。その感謝の意味を彼女は僕に教えてはくれず、僕は首を傾げるしかできなかった。
光、きみと未来を歩けなくても良かったから、きみに生きていて欲しかった。
歩道橋の上から車道を見下ろすと、疎らに光をともして走行する車が流れては、消えていく。
僕はそこで歩くことをやめた。
ただいつもよりも緩やかに流れていく時の中で、僕は終わりの瞬間を待つことにした。
やがて僕は意識を失い、
気付くと、僕はあの電車の中にいた。まるで長い夢から醒めたように、僕のそばには見覚えのある老人がいて、
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