神の盤に抗う者

デンデンムシ

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名だけが残った

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異形の兵が、なだれ込む。

数は多い。
だが、動きに無駄がない。

信玄が前に出る。

「前列、受け止めよ!」

衝突。
異形が倒れる。

だが、次が――
死体を踏み越えて来る。

その背後、
少し離れた位置に、帳面を持つ異形が立っていた。

声は大きくない。
だが、命令は正確だ。

「右、三十」

右側の異形が、一斉に突撃する。

信玄が踏みとどまり、弾き返す。

「……来たな」

そのとき、曹操が叫んだ。

「待て!
今までと違う!」

信玄が半瞬、動きを止める。

曹操は霧の奥を睨む。

「昨夜までの攻めは、意味のない消耗線だ。
数を投げ、こちらの呼吸を乱すだけ」

異形の動きが、微妙に変わる。

「だが、今回は違う」

声が低くなる。

「死ぬ順番が決められている」

信長が、鋭く目を細めた。

「……ほう」

曹操は続ける。

「最初の三十は盾だ。
我らの槍の角度、踏み込み、反撃速度を測るための数」

霧の奥で、紙をめくる音がした。

「次の二十は、その結果を前提にした投入だ」

その瞬間、霧の奥から声が落ちた。

「後備え、二十。
死体を踏み越え、速度を維持」

信長が吐き捨てる。

「人を、人として数えてねぇ……」

そのときだった。

帳面を持つ異形が、ふと顔を上げた。

視線が――
信長に絡みつく。

ほんの一瞬。
だが、確かに、躊躇があった。

信長は、その間を見逃さない。

「……やっぱりな」

低く言う。

「その目だ。
戦場の前じゃねぇ。
後ろで人を見てた目だ」

異形の唇が、わずかに動く。

「……どこかで」

乾いた声。

「見たことがある」

信長は鼻で笑った。

「京か。近江か。
サルの後ろに立ってたな」

霧の向こう、
軍議の片隅。
帳面を抱え、口を挟まず、
だが盤面から目を離さなかった若者。

「顔は覚えてる」

信長は言う。

「だが、名までは知らぬ。サルの後ろに立つ若造だったか」

異形の目が、わずかに細まる。

怒りではない。
修正だ。

「それで十分だ」

異形は静かに言った。

「勝つ側に立つには」

信長の声が冷える。

「違うな」

一歩、前に出る。

「お前は、
勝った後に――誰も残らねぇ側だ」

一瞬、
帳面を持つ手が止まった。

曹操が、歯を見せて笑う。

「……効いたな」

信玄が低く言う。

「心を削るのは、剣だけではない」

異形は視線を外す。

「右、十五。
間合いを詰める」

だが、その声は――
完全な平坦さを失っていた。

信長は霧の奥を睨み据える。

「思い出したなら、上等だ」

一歩踏み込む。

「サルの丁稚の分際でこの織田信長に勝つつもりか」

小さく言う。

「戦はな、
誰が率いるかだ。そしてどれだけ準備しておるかで変わる」

霧が、再びうねる。

だが、もう誰も座り込まない。

集まり、
立ち上がり、
並び、
考える。

霧の中で、
英雄たちは剣を取らずして、軍を作っていた。

そして、盤の外から、
誰にも逆らえぬ声が、最後に静かに落ちた。

『――これが、答えだ』

次の瞬間。

霧が、静かに割れた。

帳面を持つ異形が、前に出る。

歩みは速くない。
だが、その一歩ごとに、周囲の流れが整えられていく。

異形の兵が、無言で間合いを詰める。

「前列、捨て置け」

淡々とした声。

「右、十。
左、十五。
死体は踏み越え、速度を落とすな」

命令が落ちるたび、
異形は迷わず死んでいく。

信玄が、低く吼えた。

「……人の命を、石のように扱うか」

曹操は、目を細める。

「いや……石ですらない。
数だ」

劉備が、思わず一歩前に出る。

「やめろ!
それ以上――」

だが、その声は、届かなかった。

帳面を持つ異形は、
英雄たちではなく、
信長だけを見ていた。

視線が、絡む。

「……やはり、誤差だ」

異形は言う。

「感情がある。
だが、それでも――」

帳面が、閉じられる。

乾いた音。

「勝つのは、こちらだ」

その瞬間。

信長が、前に出た。

合図もない。
叫びもない。

ただ――
踏み込む。

「信長!」

信玄が名を呼んだ時には、
もう遅かった。

信長の動きは、速い。

理を挟ませない速さ。
考えを挟ませない距離。

帳面を持つ異形が、
初めて、目を見開く。

「……っ!」

剣を抜こうとしたのではない。
距離を測ろうとしたのでもない。

次の命令を考えようとした。

だが――
間に合わない。

「サルの丁稚風情が、
人を数でしか見られぬまま、
この織田信長に並べると思うたか」

信長の刃が、
一閃。

音は、しなかった。

血も、飛ばなかった。

ただ、
帳面ごと、異形の胴が断たれた。

一拍遅れて、
異形の体が、静かに崩れる。

「ふん。他愛もない」

帳面が地に落ち、
紙が、風もないのに散った。

そこに書かれていた文字は、
誰にも読めなかった。

だが、
全員が分かった。

「……終わった、か」

信玄が、低く言う。

曹操は、息を吐いた。

「いや……
断たれた」

劉備は、異形の兵たちを見る。

命令を失った兵は、
立ち尽くし、
次の瞬間――

霧に溶けるように、消えていく。

一体、また一体。

そして帳面が、地に落ちた。

霧に濡れた紙が、一枚、また一枚と開いていく。

風はない。
だが、文字だけが、ゆっくりと浮かび上がった。

かつて名乗られなかった名。
呼ばれることのなかった名。

墨が滲み、
二文字だけが残る。

――石田。

次の頁。

消えかけた筆跡の中に、
もう二文字。

――三成。

信長は、それを一瞥し、鼻で笑った。

「……そうか」

名は、霧に溶ける。

だが、
名だけが、確かに残った。


誰かに問いかけたわけではない。

だが、その名は、
確かにこの場に落ちた。

曹操が、ゆっくりと頷く。

「理を信じ、
信を信じなかった男の名か」

信玄は、目を閉じた。

「武ではなく、
政で戦うはずだった男じゃな」

劉備は、民の方を振り返る。

誰も、追おうとしなかった。

誰も、歓声を上げなかった。

ただ、
静かに、理解していた。

霧が、ゆっくりと晴れていく。

盤の上から、
一つの駒が消えた。

そして、どこか――
盤の外で。

声は、もう落ちなかった。

だが、
評価は終わっていた。


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