神の盤に抗う者

デンデンムシ

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勝てぬ戦の始まり

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白い城が、霧の向こうに浮かんでいた。

姫路城。
だが、見慣れた姿とはどこか違う。

天守は確かに白鷺のように空へ伸びている。
けれど城下には、瓦屋根の町並みと、見覚えのない石畳が混じり合い、
和でも洋でもない建物が、静かに息をしていた。

風が吹く。

瀬戸内の湿り気を含んだ風が、草を揺らし、
同時に、遠い異国の砂の匂いを運んでくる。

その城下の外れ。
かつて街道が交わっていたであろう場所に、四人は立っていた。



最初に口を開いたのは、管仲だった。

「異国の城が白いのは、理由がある」

誰に向けた言葉でもない。
ただ、事実を述べる声。

「威圧ではなく、秩序を示すためだ。
恐怖で従わせる城は、長くは持たぬ」

視線は天守に向いたまま。
この世界に来てもなお、彼の目は“国家”を見ている。

その隣で、低く笑った者がいる。

「秩序、か」

裸足に近い簡素な履物。
粗末な衣。
だが、その眼だけが、異様に澄んでいた。

ソクラテスだった。

「君は“役に立つ”話をするね。
だが聞こう。
この城は、正しいのか?」

管仲は即答しない。

代わりに、彼は問い返した。

「正しさとは、誰にとってだ?」

ソクラテスは肩をすくめる。

「ほら、もう分からなくなった」

そのやり取りを、少し離れた場所から眺めていた男がいる。

長い外套。
学者のような、放浪者のような佇まい。

イブン・ハルドゥーン。

「どちらも、いずれは無意味になる」

静かな断言だった。

「城も、制度も、信仰も。
長く続くほど、人はそれに寄りかかり、腐る」

彼は城下町を見渡す。

「この地も例外ではない。
混じり合った世界は、より早く崩れる」

その言葉に、風が一瞬だけ冷たくなった。

だが。

「それでも」

小さな声が、その空気を断ち切った。

甲冑ではない。
剣も、王の印もない。

ただ、旗を握る少女。

ジャンヌ・ダルク。

「それでも、守られる人がいるなら」

彼女は城を見上げる。

「滅びると知っていても、立ち上がる意味はあります」

誰かを説得する声ではない。
自分に言い聞かせる声。

管仲は、初めて彼女を見るように視線を向けた。

「疑わぬのか?」

「疑いました」

即答だった。

「それでも、進みました」

沈黙が落ちる。

白い城の上を、雲が流れていく。

管仲は、ゆっくりと息を吐いた。

「……ならば、この地はまだ救える」

ソクラテスが微笑む。

「“救える”かどうかは、また別の問いだね」

ハルドゥーンは目を伏せる。

「だが、試みた記録は残る」

ジャンヌは何も言わず、旗を強く握った。

そのとき。

城下のさらに奥、霧の濃い場所から、
重く、引きずるような気配が立ち上がる。

怒りでも、哀しみでもない。

――執念。

管仲は、そちらを見た。

「来るな」

誰に向けた言葉かは分からない。

だが確かに、
このかつての姫路という“混じり合った地”に、
もう一人の英雄が近づいていた。

信を、最後まで捨てなかった者が。



「おい!異国の者!」

霧を裂くように、声が飛んだ。

「そこに立つな。
この辺りは、夜になると危ない」

白い城を背に、男が現れた。
飾りのない胴丸。使い込まれた刀。
だが足運びに無駄はなく、視線は常に周囲を測っている。

管仲たちを一瞥し、男は続けた。

「この地は、今はまだ昼だ。
だが日が沈めば、秩序を失った者たちが動き出す」

ソクラテスが、軽く首を傾げる。

「君は、彼らを“敵”だと?」

男は否定も肯定もしなかった。

「敵かどうかは知らぬ。
だが、放っておけば刃になる」

そう言って、男は城下の方を指さした。

その先には、
甲冑の形も、肌の色も、言葉も異なる人々が集まっていた。

和装の農民。
西洋の外套をまとった旅人。
角を持つ異族の子供。
異国の祈りを口にする老女。

混じり合った世界の“民”たち。

男の指は、迷いなく彼らを示していた。

「戦う理由なぞ、分からぬ」

低い声だった。

「だがな」

一歩、前へ出る。

「何もしなければ、
この国も、
名も姿も分からぬ弱き者たちも、
皆、死ぬ」

風が吹き、霧が揺れた。

「それだけは、分かる」

管仲は、初めて男を正面から見た。

「……名を聞こう」

男は、短く答えた。

「楠木正成」

その名は、どこか古く、
だが今この場に、確かに重みを持っていた。

「勝てる戦ではない」

正成は、民たちから視線を外さずに言う。

「だが、退けば、
この場に立つ理由そのものが消える」

ジャンヌが、思わず息を呑む。

ハルドゥーンは、静かに呟いた。

「国家が生まれる前に、人は守られねばならぬ……か」

ソクラテスは、苦笑する。

「答えを知らぬ者ほど、
時に正しい行動を取る」

楠木正成は、ゆっくりと刀に手を掛けた。

「夜は近い。
異国の理を語る者たちよ」

その眼は、戦場のそれだった。


霧の向こうで、城下のざわめきがかすかに高まっていた。
夜が近い。

楠木正成は、ひとつ息を整えると、こちらを振り返った。

「夜まで、そう長くはない。
だが……名も知らぬまま背中を預けるのは、具合が悪い」

そう言って、自分の胸に軽く手を当てる。

「河内国の武士、楠木正成だ。
山と地を使って戦ってきた。あの城は私の居た時代には無かったが、その裏の書写山は見覚えがある。
ここでは、この地を守る役を引き受ける」

それだけ言って、口を閉じた。

次に一歩前へ出たのは、管仲だった。

「斉の者だ。名は管仲。
剣ではなく、国を続かせる仕組みを作ってきた。
飢えと乱れを減らすのが役目だ」

誇りも謙遜もない、事実だけの名乗りだった。

「では、次は私かな」

柔らかく声を挟んだのは、痩せた男。

「アテナイの市民、ソクラテスだ。
私は命じない。
ただ、なぜそうするのかを問うだけだ」

そう言って、小さく肩をすくめる。

「今夜も、答えは出ないかもしれないね」

外套の男が、静かに続いける。

「マグリブの者、イブン・ハルドゥーン。
王朝が生まれ、衰える理を記してきた。
長く続くものほど、崩れ方を知っている」

視線は城ではなく、城下の民に向いていた。

最後に、少女が一歩前へ出る。

甲冑ではない。
だが、その姿勢は、誰よりもまっすぐだった。

「フランス、ロレーヌの村の娘、ジャンヌ・ダルクです。
私は剣の理屈は知りません。
ただ、立つべき場所に立ちました」

短い沈黙。

五人分の名が、夜気の中に落ちる。

楠木正成は、再び城下を見渡し、低く言った。

「よし」

刀に手を掛け、霧の奥へ目を向ける。

「この夜を凌げば、また語ろう」

そして、はっきりと告げた。

「――異国の武士たちよ」

白い城の影が、城下を覆い始める。
姫路に、夜が降りようとしていた。

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