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容態の悪化
しおりを挟む麗が百合と一緒に住むようになり、一月。
百合は転移した腰骨の破壊が進み、起きることもままならなくなった。
痛みを止めるための麻薬の副作用で食欲も無くなり、ベッドの上で毎日点滴を打っていた。
日々衰えていく母の身体に、麗は心を蝕まれてしまう。
そんな母子を琴乃の明るさが雰囲気を和ませた。
そして麗には静流がおり、毎晩電話で互いの疲れを労いあった。
静流は後期研修医で外科を回っており、なかなか休みもとれず麗に会うことができなかった。
しかし百合の容態を案じて、当直明けの平日の昼に急に訪れることになった。
麗の身体はもう妊娠後期を迎えており、隠すことはできなかった。
静流は百合に向日葵の花束を渡し、リビングで二人他愛ない昔話で笑い合う声が聞こえた。
そして小一時間ほどで百合は自室に戻ったとのことで、静流は麗の部屋を訪れた。
「妊娠してたの?その子の父親って…。」
静流が麗を見て言った第一声はそれだった。
麗は身体に悪いほど、胸の鼓動が速くなった。
しかしそれは既に予期していたことで、静流に返す言葉はとっくに決めていた。
「静流じゃないよ。」
「そっか…。」
そう言い切った麗に、静流はどこか寂しそうな目をしながら麗の下腹部を見つめた。
「可愛いだろうな、麗の子供は。」
そう言って柔らかい表情になり微笑む静流の姿に、麗の心は苦しくなった。
もし本当に結ばれてもいい二人だったのであれば、これ以上幸福なことなどないだろう。
静流に似た子を抱き上げる自分の未来を思い浮かべると、涙が溢れてきた。
「ごめん。体調悪くて。出て行って欲しい。」
麗は俯きながら、冷やかな口調でそう言った。
そして頷いて静かに出ていく静流の背に、麗の頰には一筋の涙が伝っていた。
母が亡くなったら、静流との関係はもう終わりにしようと決めていた。
もちろん子供を育てていくことに、静流に認知も関与してもらう気はなかった。
今までずっと静流に頼り、縛って生きてきてしまった。
兄弟で子供を作ってしまった罪は、自分だけで背負っていこうと決めていた。
静流にはもう自分じゃない誰かを愛し、幸せになって欲しいと思っていた。
しかし麗は考えれば考えるほど胸が苦しく、声を出して泣いた。
麗の様子に気付いた琴乃が部屋に訪れ横に座り、優しく抱きしめてくれた。
「あの人が子供のお父さんなのですか?」
「はい…でももう別れようと思ってます。」
「それで、麗さんもその子も幸せになれますか?」
琴乃の問いに、麗は答えられなかった。
特にこの国ではシングルマザーで子供を育ててる人は多い。
しかし悲劇の最期を迎えた父でも、麗は父から愛されて育った記憶は強く残っている。
ただ今更、静流と共に暮らす未来をもう想像できなかった。
麗の涙は明け方まで止まることがなかった。
癌が進行していく百合は、日に日に眠っている時間の方が長くなっていった。
目を覚ませば麗は寄り添い、痩せ細った手を握った。
二人は離れて暮らしていた二十年の時を埋めるかのように、沢山の話をした。
百合は仕事の話をするのが好きだった。
麗は最初はあまり気が向かなかったが、母の洗練されたデザインを見せられすぐ魅了された。
母が人生で何よりも夢中になったものが、亡くなったとしてもずっと世界に存在し続けることは偉大なことだと思えた。
しかしある秋晴れの朝、目を覚ました百合は麗に言うのだった。
「私は人生を後悔しているわ。」
「どうして…?あんなに素敵なものをこの世に残してきたじゃない。」
「そんなものよりも大切なものは、貴方だということに気付いていながらも楽な方に逃げていた。私が愛したロウェナとのたった一人の子供なのに。ごめんなさい。気付くのが遅くて。」
そう言った百合は、静かに涙を流していた。
麗は、病に蝕まれ気丈さを無くした母とは穏やかにこれまで過ごしてきた。
そして母の最期に漏れた本音に、麗も目頭が熱くなった。
「せめて貴方の子供を見たかった。私の最期の希望だったわ。」
百合はそう言って麗の下腹部を撫でて、微笑んだ。
そしてしばらくするとまた目を瞑った。
それから母の意識が戻ることはなく、最期の言葉になっていた。
百合の葬儀は家族のみで静かに行われた。
百合は父に病気のことを告げていなかったが、麗にはずっと嘘をついていた。
だから娘の病気を亡くなってから知った祖父は酷く憔悴していた。
麗もまた祖父に妻を亡くしたときのような辛い思いを二度経験させてしまったことを悔いたが、祖父は葬儀が終わるとすぐに日本に帰ってしまった。
静流は忙しいのにもかかわらず百合が亡くなってから数日、葬儀を手伝い麗に寄り添っていた。
身体のことも気を遣ってくれ、特にあれから深追いすることもなかった。
そして静流が仕事に戻る前夜、琴乃を早めに家に帰した麗は料理を振る舞った。
秋が深まりつつある季節にちなんできのこのチーズグラタンを作り、二人で暖まり笑顔が漏れた。
しかしこれが二人の最後の晩餐だと、麗は決めていた。
夜が更けて帰り際、玄関の前で麗は静流に深呼吸をして静かに告げた。
「もう会いに来ないで欲しい。連絡もしたくない。」
麗はそう言うと、しっかりと静流の顔を見ていた。
いつも穏やかに優しく微笑む、愛していた人の顔を脳裏に残して置きたかった。
静流はそんな麗を優しく自分の胸の中に抱き寄せて言った。
「なんとなく、こうなることは想像していたよ。俺は今でも麗のことが愛してやまないし、その子が誰の子であろうと愛する自信がある。でももう、無理なんだろう?」
そう言う静流の言葉に、麗はゆっくりと頭を縦に振った。
胸が苦しく、呼吸することを忘れないように必死だった。
「安産を祈ってるよ。愛してる。」
静流はそう別れの言葉を言わず、麗の頰に接吻をすると振り返らずに家を出ていった。
麗は腰が抜けたように玄関にしゃがみ込み下腹部に触れながら、脳裏に響く苦しいほどの優しい言葉に嗚咽した。
「私が愛した静流との赤ちゃん…。」
母の残した最後の言葉を思い出し、二人分の愛情を持ってこの子を育てていくことを誓った。
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