カタリーナのお店の人々

マッシ

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10. 約束のジャンダルム

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(約束のジャンダルム)

 兄はこの時、東京の画材店で働いていた。
 本当は良く言う貧乏画家、何人かで個展を開いては、売れない絵を眺めている。
 でも、時々、それも月に一度くらい週末に帰って来て、奈緒の相手をしてくれる。

 六月も終わりごろ、梅雨の晴れ間の暖かい日だった。
 今年は晴れると異常に暑い……
 奈緒はリハビリ専門病院に移っていた。

「……、リハビリしているかー?」
「嫌な言葉ねー、……」
「何か、欲しいものはないか?」
「私の代わりにリハビリしてくれるロボット……」
「ロボットがリハビリしてくれても良くならないよー」
「良くならないほうがいいわ! 毎週、お兄ちゃんに逢えるから……」
「それも困ったことだなー、毎週とはいかないけどねー」
「……、ちょっと起こしてくれない?」
「車いすに乗るか……?」
「いいわよー、その代わりにお姫様抱っこしてよー」
「はいはい、お姫様……」
 兄は、奈緒をベッドから抱きかかえた。
 奈緒は、兄の首に手を回して抱き着いた。
「……、嬉しいでしょうー、女子高生を抱けて……」
「光栄なことで……」
「他の女子高生を抱いちゃー駄目よ!」
「抱かないよ……」
 普通の生活、正常な生活では、妹とはいえ、その体に触れることなどありえない。
 しかし、彼女が動けない分、常に人が付き添うことになる。
 お風呂でも、着替えでも、トイレでも……
 十七歳のプライバシーなど何処にもない。
 そのことに彼女の心は耐えられるのか?
 そして、僕の心も、……、きっと、兄の心も、……
「じゃー、今度一緒にお風呂、入ってあげる」
「遠慮しておくよ……」
「それなら、私をオナペットにしてもいいから……」
「どこで、そんな言葉、覚えたんだー」
「じゃー、私のオナペットになって……」
 奈緒の顔は、笑っていなかった。とても切なく、その眼差しは、兄の顔を見ていた。
「勝手に言ってろー」
 兄は、しっかり抱きかかえて、車いすに静かに下ろした。
「でも私、普通の結婚はできそうにないから、一生お兄さんの傍にいたいわ」
「アキラが言っていたぞー、僕が一生、面倒を看るって、それで、今度、看護大学に入ったんだろー まあー、動機は何にせよ、いいことだから止めたりはしないがねー」
「私も、そうよー、動機は私でも、世の中の役に立ちそうだから、頑張りなさいって、言っちゃった」
 奈緒は、車いすを回して窓際まで来た。
 上半身は正常なので、車いすは、何とか動かせる。
 でも、リハビリでべッドから車いすに移る訓練をしているが、何回もベッドから転げ落ちて、もう嫌だと言ってやっていない。
 車いすから、トイレの便座への移動も同じこと、か弱い二本の腕だけでは無理があるのか……
 しかし、車いすで立派に自立している人もいる。
 症状によって、それぞれに違うといっても、それを乗り越えなければ、自立はない。
「今日は、山、見えるかな?」
「見えるよー」
「暖かいから、屋上でも行くか?」
「寒くない、……?」
「今日は、温かいよ……、でも一枚羽織るものを着ていけば大丈夫だと思うけど……」
「カーディガン、出してくれる?」

 兄は、車いすを押して、屋上に出た。
「少し風があるかな? 体が冷えたら帰ろうー」
 屋上からは、尖った山々が、まだ雪をかぶって、遥遠くに見えた。
「今年も、山、行くんでしょうー?」
「もう少し温かくなったらね……」
「私も、見たかったなー、ジャンダルム……」
「見られるさー、頑張ってリハビリして、歩けるようになれば……」
「……、もう駄目よ! 私は一生このままよ……」
「じゃー、俺がおんぶして頂まで登ってやるよ」
「……、遭難するわよ!」
「じゃー、遭難しないように、リハビリしてくれよ!」
 奈緒は、その言葉には答えず、遠い山を見た。
「まだ、絵は描いているの?」
「最近は、ご無沙汰……」
「じゃー、私にジャンダルムの絵を描いて来てくれたら、リハビリン頑張るわ!」
「そんなことは、お安い御用さー」
「でも、写真なんか見て描いちゃ駄目よ。ちゃんと重い荷物背負って、ジャンダルムの見えるところまで行って、写生して、私が感動してリハビリしたくなるような絵にして持って来てねー」
「分かった! 奈緒が唸るような絵を描いてくるよ」
「じゃー、指切り……」

 しかし兄は、それから行方不明になった。
 奈緒との約束が果たせないと思ったのか、奈緒の恋愛感情を見てしまって来られなくなったのか、その真相は分からない。
 でも電話で、今から奥穂に行くと言っていたのが最後だった。
 まだ、七月の初めで、山の上の登山道には雪が多く積もっている時期のはず、無理して登って、滑落したのではないかと僕は思っている。
 登山計画書は出ていなかった。
 いつもは、しっかりと提出していく兄だから、もしかして行っていないかもしれないという可能性もある。
 部屋には、山の道具はなかった。
 分からないまま一年が過ぎ、奈緒の足も少しは動くが、とても立てるほどの力は出ず、そのまま退院して、家で引きこもってしまった。
 奈緒は何も言わないが、ジャンダルムの絵が描けないから、来られないと思っているかもしれない……

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