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(22)俺のところまで堕ちてきて
澪が演じるのは、金の匂いがする水商売のガキである。
強引だけど、青山君でも対等に話せると油断できる程度に可愛げがある、年齢に不相応な金と恋心を持て余した二十歳の小僧。
ようするに、圧倒的優位に立つ捕食者の牙を隠す以外の芝居はしない。素の澪だった。
その夜、身長百八十センチの澪が一番華奢で頼りなく見えるコートを選んだ。
女顔の澪は、身体のラインを隠すとかなり中性的に見える。それが夏に行動を起こさなかった理由のひとつでもあった。
初対面の澪は、線が細くてかよわそうな美青年に見えなければいけない。そうでなければ青山君は澪の誘いに乗ってこない。
いざとなったら腕力で勝てる、と青山君がなめた勘違いをして澪に気を許す瞬間が見たかった。
青山君は朝からろくなものを食べていない。数カ月にもおよぶ観察で、澪は一カ月の中で青山君の生活が一番苦しくなる時期を把握していた。
恨めしそうにハンバーガーショップの看板を見上げる青山君の腕を、背後からそっとつかむ。
十年前から夢見ていた彼の体温!手首の細さがたまらなかった。
「え、なに……」
あいかわらず青山君は声が小さい。
こちらを見上げる彼の目には、澪に対する怯えと劣等感がにじんでいる。しかし、青山君はその場から一歩も引かなかった。
男同士の関係は初対面の一瞬で決まる。
ホストクラブでくだらない雄の縄張り争いを一通り経験してきた澪は、青山君の男としての器量を瞬時に査定した。
青山君の身長は澪よりは低いが、平均よりは高かった。
十代の後半で一気に背が伸びた澪と違って、きっと青山君は子供の頃から同年代よりも長身だったのではないだろうか。
青山君の立ちふるまいには、同級生の大半を見下ろせる視界で生きてきた男にしか出せない、無自覚の余裕があった。
青山君の声の小ささは、わざわざ声を張りあげなくても人から話を聞いてもらえる環境で育ったゆえのものである。
彼が人生のレールを踏みはずす前、人間関係における強者の男だった頃の名残りだ。
どこまでも普通な、鈍い男。鈍いままここまで生きてこれた幸せな男。
喰われる側の自覚がまるでない青山君の態度に、澪はついほほえんでしまう。
笑った澪を見上げ、青山君はわずかに目を見開いた。澪は背筋が震えるのをこらえる。
青山君が今、見惚れた、澪に。
澪の半生を地獄に変えたこの美貌が、今ばかりは痛快だった。
誰が相手であろうが、澪は自分のペースに持ち込むのがうまい。
たとえ十年前から惚れ抜いている相手ですら、どこか冗談じみた柔らかな強引さでねじ伏せ、思い通りに転がせた。
するりと澪に手を引かれ、わけもわからずハンバーガーショップで相席させられ、空腹に耐えきれずにてりやきバーガーにむしゃぶりつく青山君。可愛くて仕方なかった。
彼の細い指、指についたソースを舐めとる赤い舌、その行儀の悪い無意識の仕草。あの骨ばった手に自分の指を絡め、唇を奪い、無防備すぎる舌を味わいたい。
青山君はまだ唇の端にソースをつけながらも、澪の視線にたじろいでいた。澪は愛嬌のある笑顔を作って適当にごまかす。
「あの、すみません。ありがとうございます。でも、なんで俺なんかに食事を……?」
食事の後、青山君は戸惑いつつも頭を下げる。
澪はそんな彼を見つめながら答えた。
「一目惚れなんです」
青山君はつまらない冗談を聞かされたような表情になる。しかし椅子の背もたれに背中をぴったりとつけ、澪から距離をとっていた。
「……名前は?」
「澪です。白崎澪」
澪がにこやかに答えても、青山君は愛想笑いすら返さない。
名門大学の学生証を見せても、ホストのバイトで稼いでいると明かしても、青山君の反応は薄かった。
青山君は澪の正体に気づかなかった。青山君はあの頃の澪を女だと誤解しているのだから、無理もない。
十年前、澪を少女だと思っていた頃の青山君は優しかった。
今の彼は、澪を一人の男として警戒しはじめているせいか、素っ気ない。それが少し寂しくもあり、同時に澪をひどく昂らせた。青山君に男として認識されている!
澪は可愛らしい顔を切なげに歪め、青山君に慈悲を乞う。暗い劣情を完璧に隠した純情な男の声で。俺のところまで堕ちてきて、と祈りながら。
「俺と愛人契約してくれませんか」
あえて低俗な言い方にした。そのほうが今の澪に似合っている。金払いが良い水商売のガキ。皮肉な計算だった。
今の青山君は、不意に手渡される好意と向き合えるほど強くない。だから彼が欲しいものをあげる。
青山君が住むボロアパートを見たときから作戦を決めていた。澪が持て余していて、青山君には足りないもの。金である。
「そんな言い方、嫌だよね。ごめん。金銭的援助をするかわりに、俺と恋人みたいなことしてくれませんか」
青山君はただ生活のために金を稼ぐだけと言い訳しながら、澪に愛されていればいいのだ。そして知らぬ間に澪の愛情に絡め取られ、身動きがとれなくなればいい。
青山君の卑屈なようでどこかふてぶてしい野良犬みたいな警戒心を一枚ずつ剥いで、わからせてやりたい。お前はもう大半の男に力負けするほど痩せ細った獲物の立場だということを。
澪の突拍子もない申し出に、青山君は凍りついた表情で黙り込む。
澪はこれ見よがしに悲しそうな目をして睫毛を震わせた。
「いきなり知らない男にこんなこと言われて、気持ち悪いですよね……」
そんな澪を見て、青山君がテーブルの上に置いた手を握ったり開いたりしながらおろおろしている。そして、同情している自分の危うさに気づき、ぎこちなく仏頂面を作った。
憐れみって便利だ。相手の心に植えておけば、いずれ何にでも化ける。愛にも欲望にも。
澪は同情を誘ういじらしい芝居をしながら、顔を上げた。
十年焦がれ続けた黒い瞳をまっすぐに見つめる。愛してるから落ちてきて。
「あんたが嫌がることは絶対しない。ただ会うだけでもいい」
男に媚びることを知らない身体に、下品なセックスと雌の快感を教えてやりたい。
愛情とはどういうものなのか実はわからないのだけど、その細い腰をつかんで揺さぶって鳴かせたい。
快感に震え泣いて喘ぐのを見下ろし、もう許してと怯えた声で懇願する青山君に、愛してるとささやきたかった。
「とりあえずこれ、今日食事に付き合ってくれたお礼の代金です」
青山君が判断力を失うタイミングでざらりと紙幣をテーブルに広げる。
あまりにも簡単に差し出された金に、青山君が静かに息を呑んだ。
浮世離れした美貌の澪から逆に一目惚れされるという、ふざけたシチュエーション。男と愛人契約。非現実的な話の中で、剥き出しの紙幣だけがやけに生々しい。
金を見る青山君の目は、恐怖と混乱と、わずかな期待で揺れていた。彼が今、喉から手が出るほど欲しいはずの金。
動揺しながらも、青山君は悪あがきのように訊く。この数年の色褪せた生活によって自尊心がすり減った、心もとないかすれ声だった。
「俺は、お金で釣れそうに見えるんですね」
「逆だよ。俺がそんな方法でしかあんたの気を引けないだけ」
澪は揺れている青山君の心をさらう強さで言いきった。
いつか、金なんかよりもずっと切実に澪を求めさせたかった。澪に抱かれないと生きていけない身体にしたい。どんな手を使ってでも。
「だって他にどうすればいいのかわかんない……」
だってそれ以外に、澪が青山君を手に入れられる方法なんてあるだろうか。
十年前にあのゲームセンターで優しくしてもらってからずっと、大好きでした。俺の恋人になってください。
そんなセリフで青山君が落ちるなら、この日を待たずにもう伝えている。
幼い澪が小さな手で大切に抱えていた願い事、なにかひとつでも叶ったことはあっただろうか。
愛しい人のぬくもり、安心して眠れる場所、優しい声で名前を呼んでもらうこと。欲しいものはひとつも手に入らなかった。
「今の生活、抜け出したいでしょ。俺のこと利用してよ」
澪はもう子供じゃない。ぜんぶわかっている。甘やかして、騙して、奪うしかないということを。
青山君が自らの毛羽立ったコートの袖を握りしめた。堅く握っているのに、その仕草はむしろ、彼の中の大切ななにかを手放すための儀式にも見えた。
見つめ合いながら彼が落ちることを祈っていた。澪と同じ地獄に落ちてもらわないと、青山君は澪を選ばない。
青山君が弱々しく澪から視線をそらす。睫毛を伏せたせいで彼の瞳から光が消えた。
「……よろしくお願いします」
青山君は小さな声でつぶやき、うつむきながら金を拾う。
澪という名の牢獄に獲物が一歩足を踏み入れた。彼の縮こまった肩を見下ろし、澪はひそかに口の端を上げる。
いったいどこまで人間をやめていいのか澪にはわからなかったので、ひとつルールを設けることにした。
澪が牙を見せるのは、青山君に自らの口から、犯してほしい、と言わせてから。
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