とがはらみ

藍上央理

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【美千代】

【美千代】

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 私はどうして力を受け継がずに生まれた。
 悔しい。力がないだけで虐げられる。馬鹿にされる。足蹴にされる。あんなつまらない女に見下される。
 力があると言うだけで、あんな嫌な女が持て囃されて、敬われて、ちょっと顔が良いだけで男にちやほやされる。
 あの人を先に好きになったのは私なのに。あの人だって私と一緒になったほうがいいと思っているのに。大叔母さまの命令で、可哀想に、あんな女の夫になるなんて。許嫁にされるなんて。
 当主と言うだけで、私の好きな人を奪いやがって。私のほうが先に好きになったのに。きっと、色目を使ったに違いない。あの人を誘惑したんだ。絶対に許せない。泥棒猫。あばずれ。
 神様に選ばれただって? 神様の言葉が聞こえるだって? うそつき。人に注目されたいだけのくだらないうそつき女。
 神様の子供を授かるだって? そんなことできるわけないじゃないか。本当にあの女はうそつき。皆、騙されている。どうしてあんなうそつきのことを信じるんだ。
 昔から、そう。あの顔で甘えた声を出したら、大人が皆、自分の言いなりになると思ってる。小賢しい女。
 憎い。あの女のせいで、私は同じ菟上家の娘、長女なのに、下女みたいに扱われる。全部全部、あの女のせい。許さない。いつか酷い目に遭えばいい。いいえ、酷い目に遭っていいのよ。
 そうね。痛い思いをしないと、自分がどんなに愚かか分からないんだ。
 教えてやればいい。ちょっと、痛い目に遭わせて、自分がどんなにくだらない人間か、思い知れば良いんだ。


 美千代は、菟上本家の長女として生まれた。
 しかし、大叔母や伯母は美千代の誕生を喜ばなかった。
 母が生きていた頃までは、美千代もそれなりに構われて可愛がられたが、五つ違いの水葉が生まれ、母が不慮の事故で亡くなってからは、美千代の養育は分家の乳母に任せられた。
 父は水葉が生まれるとすぐに母と別れた。何かある都度、本家の屋敷を訪れたが、水葉と接するばかりで美千代には無関心だった。
 幼い頃、美千代はそれが何故なのか分からなかった。


「お父さま、ご覧になって。美千代、お父さまの為に鶴を折ったのよ」
 八つになった美千代は、屋敷に父がいるのを見て、てっきり父が自分の誕生日を祝いに来たのだと思った。
 お誕生日よ、と言うのは恥ずかしかったので、先ほど綺麗に折った鶴を持って駆け寄った。
 父は水葉を抱っこしていて、駆け寄ってきた美千代を見下ろし、
「廊下を走るのはやめなさい。今から水葉にご祭文を教えるから、おまえの相手をしてやれない。そういうものは乳母やに見せてきなさい」
 美千代は掲げて持っていた鶴を降ろし、眉をハの字にして父を見上げる。そんな美千代を顧みもせず、父は水葉を抱っこしたまま、蔵へ続く廊下の奥へ行ってしまった。
 父は、壁のように大きくて高くて冷たくて、美千代がどんなに願っても、振り向くことも屈み込んで美千代を見ることもなかった。
 美千代は、なんとか父に振り向いて欲しくて、声を上げて泣いた。水葉ばかり相手にしないで、と言いたいけれど、どうすれば父の胸に届く言葉になるのか分からなくて、泣いて訴えることしかできなかった。
「どうしたのですか」
 泣き止まない美千代を、乳母がなだめるけれど、ますます声を張り上げていたら、とうとう奥座敷から伯母が出てきて、厳しい声で美千代を叱責した。
 美千代は伯母の鋭い声に驚いて一旦泣くのをやめる。大叔母や伯母は平気で美千代に手を上げるので、泣き止まなかったらまた叩かれると思い、体を強ばらせて黙った。唯一優しい乳母にしがみつき、その腕が自分を護ってくれると信じた。
 けれど、次の瞬間、伯母の手が美千代の細い腕を掴んで、引っ張った。乳母の腕からするりと抜けて、美千代は伯母に引っ張られて奥座敷に連れていかれた。
「嫌、嫌よ!」
 奥座敷でどんな痛い目に遭うか、美千代はよく知っていたから、泣きながら抵抗した。お灸といって、熱くて痛い思いをさせられる。もしくは、キセルの固いところで手の甲を思い切り叩かれる。そんな目に遭いたくなくて、美千代は必死に嫌がった。
「菟上本家の長女がそんなでは恥ずかしい!」
 泣けば泣くほど伯母はそんな美千代を痛めつけて、あとは乳母に押しつけ、奥座敷から放り出した。
 理不尽を受け止められない美千代は、この家の子ではないのだ、だから自分はこんな目に遭うのだ、と思うようになった。


「お姉さま、水葉とお手玉で遊びましょ」
 五つの水葉は本当に可愛らしい。母によく似た顔立ちで、幼いながらもハッとする透明な美しさがある。
 それを美千代は疎ましく感じる。
 水葉と自分は何故こんなにも似ていないのだろう。十一になった美千代は、人の美醜に敏感になった。敏感になったから、自分がそれほど可愛らしくなく、醜くはないが地味な顔立ちだと自覚するようになった。
 本当に子供の頃は、顔立ちで人から可愛がられたり、疎まれたりするのだと信じていた。持って生まれたものは仕方ないのだ、と子供なりに納得しようとしていたのだろう。
 それが、美醜でもなく、性格でも、身の不遇でもないと知ったとき、美千代は本当の意味で絶望した。
「よそに行って、私は今忙しいんだから」
「嫌よ、水葉と遊ぶの。遊んでくれなかったら、大叔母さまに言いつけるんだから」
 美千代は声を潜める。
「言いつけてごらんよ。怖くないんだから」
「じゃあ、神様に言いつける。そしたらすごく怖いのよ。神様は水葉の言うこと、皆、聞いてくれるんだから!」
 美千代は、『おかみさま』は神様ではあるが、水葉が言うような意思疎通ができる存在と思っていない。
「私は怖くないわよ。言いつけられるものならやってみなさいよ」
 と言った途端、ビシッと何かが美千代の体に当たった。
「な、何?」
 見ると、お手玉が美千代の足下に転がっている。水葉が投げつけたのだと思い、美千代はそのお手玉を拾い上げて、水葉に投げつけた。
 お手玉は、水葉に当たらず畳に転がった。まるで水葉の周囲に壁があるようだった。
 今度は背中に衝撃が走った。お手玉が何故か美千代の背中に投げつけられた。目の前には水葉がいて、妹がお手玉を投げたわけではないのは明白だった。
 どういうことだと戸惑ったとき、周囲から一斉にお手玉をぶつけられた。
「きゃっ」
 驚いて美千代は声を上げた。
「うふふ」
 水葉がおかしそうに笑いながら、畳に落ちているお手玉を拾い上げる。
「ほーら、水葉の言ったとおりになったでしょ。今度、水葉に酷いことしたら、もっと痛い目に遭わせるから!」
「やれるものならやってみなさいよ。こんなの、全然怖くないわよ!」
 本当は少し怖じ気づいていたが、水葉の生意気な態度に腹が立ったので、美千代は言い返した。
 次の瞬間、部屋のふすまが一斉に音を立てて開いた。これには美千代も驚いて息を飲む。そのまま固まっていると、騒ぎを聞きつけた大叔母がやってきて、一目で状況を察したのか、美千代の耳を掴んで引っ張った。
「美千代、何をしたのですか!」
「大叔母さま! お姉さまが水葉に意地悪を言うのよ」
 水葉が大叔母の足にしがみつく。
「私、何もしてません」
 吊り上げられる耳の付け根がちぎれるかと思うほど痛くて、涙声になった。
「こっちに来なさい!」
 水葉が、ニヤニヤと美千代を見て嗤っている。美千代はこのときから、水葉を気味の悪い子だと思うようになった。


 十六歳になった美千代は、美豆神社に養子に入った文蔵ふみぞうが気になって仕方ない。自分より一つ上の端正な顔つきをした少年で、宮司の跡取りとしても期待されている。
 文蔵も自分を慕ってくる美千代を妹のように可愛がった。それがあまりに優しくて、美千代はてっきり文蔵も自分のことが好きなのだと勘違いした。
 美豆神社の宮司は菟上家当主と結婚するのは分かっていたが、絶対なわけではないと思い込んだ美千代は、すっかり期待してしまったのだ。
 文蔵も美千代と距離を置いて遠ざけておけば良かったものを、残酷に接してしまったせいで、美千代はこのあと深く水葉を恨むことになる。
 水葉が十六歳になったある日、大叔母が水葉と文蔵を呼び、告げた。
「水葉、文蔵。おまえたち、結婚を前提に婚約しなさい。水葉が十九歳になったとき、婚儀をおこないます。異存はないですね」
 水葉が顔を赤らめて答える。
「はい、叔母さま」
「文蔵もよろしいですね」
「はい」
 許嫁として二人は三年後、結婚する約束をしたのだった。


 水葉も美千代と同じ、文蔵のことを好いていた。しかも、美千代の気持ちも知っていた上で、文蔵が自分と結婚することを美千代にひけらかした。
「文蔵さん、私と結婚するのを喜んでたわ。私も早く十九歳にならないかしら。ああ、でも、神様との赤ちゃんも望まれているんだった! 文蔵さんと、神様の赤ちゃん、どちらが先に生まれてくるのかしら。うふふ」
 美千代は二十三歳。結婚を約束した男性はいないし、お見合いの話もない。
 水葉の側付きみたいな役割をこなしているだけの存在だった。悔しくても言い返せば、水葉から得体の知れない力で痛めつけられるだけだった。
 美千代は聞こえなかったふりをして、寡黙に水葉の着替えを手伝った。屋敷に閉じこもっていたら鬱屈してしまうから、美千代は夜遅くまで町に出て遊ぶようになった。
 悪い友達もたくさんできた。学生運動をしているにわか運動家の仲間と付き合うようになったときには、ほとんど菟上の屋敷に帰ることがなくなっていた。
 日に日に積もる憎しみと恨みと嫉みに、美千代は苛まれ苦しんでいたが、水葉はそんな美千代を見てあざ笑い、如何に自分と文蔵が仲睦まじいか、見せつけた。
「ほら、このネックレス。文蔵さんがわたしにプレゼントしてくださったのよ。アコヤガイの真珠ですって! この前は町の映画館とレストランに連れていってくださったの」
 自慢げに話す水葉の言葉を美千代は無視した。祈祷の日には帰らざるをえず、水葉の世話をした。そうでないと遊ぶ金をもらえなかったからだ。
 付き人のように扱われるが、自分は付き人ではない。だから、愛想笑いも浮かべないしお世辞も言わない。黙って、巫女の装束に着替えるのを手伝った。
 あと数ヶ月で、十九歳になった水葉は文蔵と結婚する。水葉がいなければ、文蔵と結婚するのは自分だった、と美千代は歯がみする。確かにそうなのだ。巫女が亡くなった後、宮司は当主代理となった姉妹と結婚し、子をもうけることになっている。
 女系の家柄なので、どうしても跡取りの女児が必要になると言うことだった。その場合は離婚するもしないも自由だと教えられた。
 水葉が死ねば、自分と文蔵はやっと結ばれる。
 美千代はそんな仄暗い考えに囚われるようになった。
 だから、三ヶ月後に結婚を控えた水葉を、徹底的に痛めつけてやろうと計画を練ったのだ。


 水葉が死んだ。美千代は暗い笑みを浮かべる。凄惨な最期だったし、とんでもない恨み節を遺したけれど、死んだ人間に何ができるのだ。そんなもの怖くない。
 文蔵と結婚も決まったが、周囲で葬式が増えた。初めは年老いた大伯父から順に、だんだんと若い者へ、死が伝染していった。
 皆、水葉の祟りだと恐ろしがった。遺書には末代まで祟るとは書いていたが、だれにも見られないように遺書を握りつぶして破り捨てたので、水葉が何を思って死んだか、だれも知らない。
 けれど、文蔵と結婚してすぐに、度々蔵で寝るようにと、大叔母が美千代に強いるようになった。
「蔵に神様のおとないがあるから、かりはらのお役目を全うするまでは蔵で寝るように」
 気味の悪い蔵にしょっちゅう寝かされ、気味の悪い夢を見る。
 黒くて大きな靄みたいなものが蔵に入ってきて、自分の腹に潜り込み、内臓をかき混ぜる。それがおぞましく気持ち悪くて吐き気がした。
「大叔母さま、どうしても蔵で寝ないといけないのですか。あそこは気持ち悪くて……、寝るだけでかりはらが出来るとは思えないのですけど……?」
 美千代の言葉に、大叔母はヒステリーを起こした。
「口答えは許しません! 蔵で寝て、かりはらの役目を全うするのは決まり事なのですよ! とにかく、霊力のある子が出来るまで、文蔵よりもかりはらを優先させなさい!」
 大叔母は激高するだけで取り付く島もない。
 美千代は憂鬱になった。こんな決まり事など聞いてない。何故、蔵で寝るだけで神様の子を授かるというのだ。けれど、大叔母の切羽詰まった様子を見ていると、よほどのことなのかと暗に思う。何故なのかと問うても、神経質に怒鳴り返されるだけだった。
 美千代には神様を敬う気などない。神様というと水葉の憎たらしい態度を思い出すだけだ。だから平気で、独り寝は嫌だと言って、文蔵を蔵に誘い込んだ。
 どういう形で寝ようと、それは自分の勝手だ、と美千代は考えた。
 ほのかな背徳感に、文蔵もまんざらでもないようで、夜中に誘い込んでから明け方まで、美千代の体を求め続けた。これで子が出来れば、それでいいんだろう。霊力があるないは運次第だ。
 水葉が何も言い残さずに死んだので、美千代は口伝も何も受け継がなかった。期待していた大叔母ですら、口やかましく言う割りには、何も知らないのだった。知らないくせに口を挟んで命じてくるのが、美千代には忌々しく思えた。
 そのかわり、講に集まる、古いしきたりや巫女舞などを知る老人から、水葉から教わることができなかったものを教え込まれ、文蔵の養父の宮司にも教わった。毎日毎日、練習に明け暮れて、町に遊びに行く暇もなくなったし、美千代も悪い仲間と縁を切った。
 人はバタバタと死んでいき、大叔母と伯母も死に、菟上本家の人間が自分と文蔵だけになったとき、ようやく美都子が生まれた。
 それを機に人死にがパタリと止んだ。美都子は祟りを収めた文蔵との子供だ。奇跡の子に違いない。たとえ、死んだ叔母や祖母が神様の子だと言ったとしても。


 菟上本家の生き残りは、私と美都子と夫の三人だけだ。将来、美都子が菟上家を継いでいく。それまで私が菟上家の当主で巫女だ。


 ざまぁみろ、水葉。私が勝った。
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