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「……はぁ。昨日のバラの件といい、あの王子の脳内構造を解析するだけで脳のカロリーを無駄に消費しましたわ」
私は相談所のデスクに突っ伏し、数字だらけの帳簿を眺めていた。
すると、背後から「よっこらしょ」という、およそ騎士団長らしからぬ掛け声と共に、私の視界が遮られた。
「おい、アクア。そんなに眉間にシワを寄せてると、せっかくの三白眼がさらに凶悪になるぞ。ほら、今日は市場に行く予定だっただろ」
見上げると、そこには私服姿のゼノが立っていた。
今日は珍しく、いつもより少しだけ質の良さそうな麻のシャツを着ている。
……あ、あのシャツ。去年の冬のセールで私が『絶対にお買い得よ』と無理やり買わせたやつですわね。
「……覚えていたのね、ゼノ。でも今は、リールの書いた『王子のポエム撃退マニュアル』の校閲が……」
「そんなもん後回しだ。今日は騎士団の買い出しじゃなくて、お前の『息抜き』が目的だ。……ほら、行くぞ」
ゼノは私の腕を掴むと、拒否する暇も与えず外へと連れ出した。
まったく、この男の強引さは私の計算外ですわ。
でも、その腕の力が少しだけ心地よいと思ってしまう自分に、私はこっそりと「疲れのせいよ」と言い訳をした。
王都の市場は、今日も人々の活気と「安売りの叫び」に満ちていた。
その音を聞いた瞬間、私の仕事モードがスイッチオンになる。
「ゼノ! 見てください、あちらの八百屋。キャベツが三玉で銀貨一枚ですわ! 一玉あたりに換算すると通常より二割も安い……あっちの店に並びますわよ!」
「おい、待てアクア! 今日はそういう買い出しじゃないって……あぁもう、足が速いな!」
私は人混みを縫うようにして、獲物を狙う鷹のように市場を突き進んだ。
手に取ったキャベツの重さを確かめ、芯の太さをチェックする。
これこそが、私の生きる喜び。
「……よし、完璧ですわ。ゼノ、これを持っていてくださる?」
「……お前、本当にデートを荷物運搬作業に変える天才だな」
ゼノは呆れながらも、渡されたキャベツの袋を軽々と片手で持った。
その太い腕の血管が浮き出るのを見て、私は不覚にも「……機能的な筋肉ね」と見惚れてしまった。
「……な、何を見てるんだ。キャベツの鮮度でも確認してるのか?」
「いえ、あなたの筋肉の収縮効率が素晴らしいと思っただけですわ。……さて、次はあちらの装飾品店へ行きましょう。あそこの店主、値切り交渉に弱いんですの」
私はゼノを引っ張って、小さなアクセサリーショップの前に辿り着いた。
そこには、色とりどりのガラス細工や、安価な宝石が並んでいる。
私は値札を一つずつチェックし、心の中で「原価率」を計算し始めた。
「……アクア。これ、どう思う?」
ゼノが指差したのは、青い小さな石がついたシンプルな髪留めだった。
私の瞳の色によく似た、深い青色。
「……あ、これ。石のカットが甘いですわね。あと、土台の金具の強度が足りませんわ。金貨二枚? 高いですわね、銀貨五枚が妥当ですわ」
私が即座にダメ出しをすると、ゼノは苦笑いをして店主に声をかけた。
「……これを一つくれ。値切りはなしだ」
「えっ、ちょっとゼノ!? 私の交渉術を使えばもっと安く――」
「いいんだよ。これは俺がお前に買うんだから。……交渉で勝ち取った戦利品じゃなくて、ただの『贈り物』だ」
ゼノは代金を支払い、包んでもらった小さな箱を私に差し出した。
……贈り物。
その言葉の響きが、なぜか胸の奥をチクりと刺す。
私は慌てて、脳内の計算機を再起動させた。
「……ゼノ、無駄遣いですわ。この金額があれば、もっと実用的な……例えば、高品質な砥石とかが買えたのに」
「砥石を贈って喜ぶ令嬢がどこにいるんだよ。……ほら、つけてやる。じっとしてろ」
ゼノが大きな手で、私の髪にそっと触れた。
彼の指先が耳に触れるたび、そこから熱が伝わってくる。
私の冷徹な頭脳が、「心拍数上昇につき、冷却が必要です」と警告を発している。
「……よし、似合ってる。やっぱりお前には、あの王子のバラより、こういう質素だけど強い石の方が似合う」
ゼノが満足げに笑った。
その笑顔は、どんな高価な宝石よりも眩しくて、私は思わず視線を逸らしてしまった。
「……あ、ありがとう。……この貸しは、次回の相談業務の際に、手数料の割引として返しますわ」
「……お前、本当に可愛げがないな。だが、まぁ……そこがいいんだが」
ゼノが小声で呟いた言葉は、市場の喧騒にかき消された。
……はずなのに、私の耳にははっきりと届いていた。
その時、後方から大きな馬車が無理やり人混みをかき分けて進んできた。
「危ない!」
ゼノが瞬時に私の腰を引き寄せ、自分の胸の中へと抱き込んだ。
「っ……!」
鼻先をかすめる、ゼノの香りの。
鉄の匂いと、微かな石鹸の、清潔で力強い匂い。
私の顔は、彼の胸板に押し付けられ、耳元でドクドクと力強い鼓動が聞こえる。
「……怪我はないか、アクア」
上から降ってくるゼノの声が、いつもより低くて、震えているように聞こえた。
「……え、ええ。大丈夫ですわ。……それよりゼノ、近い、ですわ……」
私は真っ赤になった顔を隠すように、彼の胸から離れた。
三白眼の視界が、なんだかふわふわと滲んでいる。
計算できない。
今のこの状況、私の損失なのか、それとも、莫大な利益(ときめき)を得たのか。
「……アクア。顔が真っ赤だぞ。やっぱり日差しが強すぎたか?」
「……ち、違いますわ! これは、その、急に動いて血流が良くなっただけですわ! ……さ、さあ、帰りましょう! 卵のタイムセールに遅れてしまいますわ!」
私はゼノの手を振り切り、逃げるように歩き出した。
心臓がうるさすぎて、歩くたびにそのリズムが脳内に響く。
「……おい、待てよアクア! 卵は明日でもいいだろ!」
追いかけてくるゼノの足音。
私は自分の髪に触れた。
そこには、彼がくれた小さな青い石が、確かに留まっている。
……金貨二枚の、贈り物。
私の計算では「割に合わない」はずのその小さな石が、今は何よりも重く、価値のある資産のように感じられてしまった。
「……ったく。あんなに熱心に口説かれたって、時給は上げませんわよ……」
私は独り言を呟き、緩みそうになる口元を必死に引き締めながら、夕暮れの市場を駆け抜けた。
恋という名の投資。
その損益分岐点を、私はまだ、見極められそうにありませんでした。
私は相談所のデスクに突っ伏し、数字だらけの帳簿を眺めていた。
すると、背後から「よっこらしょ」という、およそ騎士団長らしからぬ掛け声と共に、私の視界が遮られた。
「おい、アクア。そんなに眉間にシワを寄せてると、せっかくの三白眼がさらに凶悪になるぞ。ほら、今日は市場に行く予定だっただろ」
見上げると、そこには私服姿のゼノが立っていた。
今日は珍しく、いつもより少しだけ質の良さそうな麻のシャツを着ている。
……あ、あのシャツ。去年の冬のセールで私が『絶対にお買い得よ』と無理やり買わせたやつですわね。
「……覚えていたのね、ゼノ。でも今は、リールの書いた『王子のポエム撃退マニュアル』の校閲が……」
「そんなもん後回しだ。今日は騎士団の買い出しじゃなくて、お前の『息抜き』が目的だ。……ほら、行くぞ」
ゼノは私の腕を掴むと、拒否する暇も与えず外へと連れ出した。
まったく、この男の強引さは私の計算外ですわ。
でも、その腕の力が少しだけ心地よいと思ってしまう自分に、私はこっそりと「疲れのせいよ」と言い訳をした。
王都の市場は、今日も人々の活気と「安売りの叫び」に満ちていた。
その音を聞いた瞬間、私の仕事モードがスイッチオンになる。
「ゼノ! 見てください、あちらの八百屋。キャベツが三玉で銀貨一枚ですわ! 一玉あたりに換算すると通常より二割も安い……あっちの店に並びますわよ!」
「おい、待てアクア! 今日はそういう買い出しじゃないって……あぁもう、足が速いな!」
私は人混みを縫うようにして、獲物を狙う鷹のように市場を突き進んだ。
手に取ったキャベツの重さを確かめ、芯の太さをチェックする。
これこそが、私の生きる喜び。
「……よし、完璧ですわ。ゼノ、これを持っていてくださる?」
「……お前、本当にデートを荷物運搬作業に変える天才だな」
ゼノは呆れながらも、渡されたキャベツの袋を軽々と片手で持った。
その太い腕の血管が浮き出るのを見て、私は不覚にも「……機能的な筋肉ね」と見惚れてしまった。
「……な、何を見てるんだ。キャベツの鮮度でも確認してるのか?」
「いえ、あなたの筋肉の収縮効率が素晴らしいと思っただけですわ。……さて、次はあちらの装飾品店へ行きましょう。あそこの店主、値切り交渉に弱いんですの」
私はゼノを引っ張って、小さなアクセサリーショップの前に辿り着いた。
そこには、色とりどりのガラス細工や、安価な宝石が並んでいる。
私は値札を一つずつチェックし、心の中で「原価率」を計算し始めた。
「……アクア。これ、どう思う?」
ゼノが指差したのは、青い小さな石がついたシンプルな髪留めだった。
私の瞳の色によく似た、深い青色。
「……あ、これ。石のカットが甘いですわね。あと、土台の金具の強度が足りませんわ。金貨二枚? 高いですわね、銀貨五枚が妥当ですわ」
私が即座にダメ出しをすると、ゼノは苦笑いをして店主に声をかけた。
「……これを一つくれ。値切りはなしだ」
「えっ、ちょっとゼノ!? 私の交渉術を使えばもっと安く――」
「いいんだよ。これは俺がお前に買うんだから。……交渉で勝ち取った戦利品じゃなくて、ただの『贈り物』だ」
ゼノは代金を支払い、包んでもらった小さな箱を私に差し出した。
……贈り物。
その言葉の響きが、なぜか胸の奥をチクりと刺す。
私は慌てて、脳内の計算機を再起動させた。
「……ゼノ、無駄遣いですわ。この金額があれば、もっと実用的な……例えば、高品質な砥石とかが買えたのに」
「砥石を贈って喜ぶ令嬢がどこにいるんだよ。……ほら、つけてやる。じっとしてろ」
ゼノが大きな手で、私の髪にそっと触れた。
彼の指先が耳に触れるたび、そこから熱が伝わってくる。
私の冷徹な頭脳が、「心拍数上昇につき、冷却が必要です」と警告を発している。
「……よし、似合ってる。やっぱりお前には、あの王子のバラより、こういう質素だけど強い石の方が似合う」
ゼノが満足げに笑った。
その笑顔は、どんな高価な宝石よりも眩しくて、私は思わず視線を逸らしてしまった。
「……あ、ありがとう。……この貸しは、次回の相談業務の際に、手数料の割引として返しますわ」
「……お前、本当に可愛げがないな。だが、まぁ……そこがいいんだが」
ゼノが小声で呟いた言葉は、市場の喧騒にかき消された。
……はずなのに、私の耳にははっきりと届いていた。
その時、後方から大きな馬車が無理やり人混みをかき分けて進んできた。
「危ない!」
ゼノが瞬時に私の腰を引き寄せ、自分の胸の中へと抱き込んだ。
「っ……!」
鼻先をかすめる、ゼノの香りの。
鉄の匂いと、微かな石鹸の、清潔で力強い匂い。
私の顔は、彼の胸板に押し付けられ、耳元でドクドクと力強い鼓動が聞こえる。
「……怪我はないか、アクア」
上から降ってくるゼノの声が、いつもより低くて、震えているように聞こえた。
「……え、ええ。大丈夫ですわ。……それよりゼノ、近い、ですわ……」
私は真っ赤になった顔を隠すように、彼の胸から離れた。
三白眼の視界が、なんだかふわふわと滲んでいる。
計算できない。
今のこの状況、私の損失なのか、それとも、莫大な利益(ときめき)を得たのか。
「……アクア。顔が真っ赤だぞ。やっぱり日差しが強すぎたか?」
「……ち、違いますわ! これは、その、急に動いて血流が良くなっただけですわ! ……さ、さあ、帰りましょう! 卵のタイムセールに遅れてしまいますわ!」
私はゼノの手を振り切り、逃げるように歩き出した。
心臓がうるさすぎて、歩くたびにそのリズムが脳内に響く。
「……おい、待てよアクア! 卵は明日でもいいだろ!」
追いかけてくるゼノの足音。
私は自分の髪に触れた。
そこには、彼がくれた小さな青い石が、確かに留まっている。
……金貨二枚の、贈り物。
私の計算では「割に合わない」はずのその小さな石が、今は何よりも重く、価値のある資産のように感じられてしまった。
「……ったく。あんなに熱心に口説かれたって、時給は上げませんわよ……」
私は独り言を呟き、緩みそうになる口元を必死に引き締めながら、夕暮れの市場を駆け抜けた。
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