悪役令嬢の断罪――え、いま婚約破棄と?聞こえませんでしたわ!

ちゃっぴー

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「……お姉様。もう一度、確認させていただきますわ。今、帳簿に書き込まれたその『時価総額』という項目、単位が『筋肉』になっておりますけれど?」

相談所のデスクで、リルが心配そうに……いえ、獲物を観察する蛇のような目で私を覗き込んできた。
私は手に持ったペンを動かすこともなく、真っ白なページを見つめたまま、呆然と口を開く。

「……ええ。筋肉。……あの、上腕二頭筋の収縮率を、金利に換算するとですね……」

「お姉様、重症ですわ! 脳内の計算機が、ゼノ様の『愛の暴力』によって物理的に破壊されております!」

リルが机を叩いて叫ぶ。
その音にさえ、今の私は反応できない。
昨夜、バルコニーでゼノに言われたあの言葉。
『俺が力ずくで奪ってやる』
……その際の、推定される損害賠償額と、逃亡生活における食費の節約術を計算しようとするたびに、額に触れた彼の唇の感触が、私の論理回路をショートさせるのだ。

「……筋肉。……バカみたいに、格好いい、筋肉……」

「お姉様! しっかりなさい! 今のあなたの稼働率は、通常の三パーセント以下! このままでは、今月の純利益が『思い出』という名のプライスレスなゴミに変わってしまいますわよ!」

リルが私の両肩を掴んでガクガクと揺らす。
だが、私の視界には、資料の山ではなくゼノの真剣な瞳が浮かんでは消える。

「……リルさん。私、病気かもしれませんわ。……数字を見ても、ドキドキしないのです。……代わりに、あの騎士の顔を思い出すと、心臓がタイムセール開始の鐘のように鳴り止まないのですわ……」

「それは病気ではなく『恋』という名の巨大な負債ですわ、お姉様! いいでしょう、こうなったら荒療治です。……ボブ! 準備はいいわね!」

リルの合図と共に、調査部門の男たちが部屋に飛び込んできた。
彼らはなぜか全員上半身裸で、筋肉を強調するようなポーズを決めている。

「「「姐さん! 俺たちの筋肉を見て、正気に戻ってください!!」」」

「……汚いですわね。今すぐ服を着て、業務に戻りなさい。……その筋肉、一銭の価値もありませんわ」

私は冷徹に言い放った。
……おお。少しだけ、いつもの「悪役令嬢」としての感覚が戻ってきた気がする。
やはり、無価値なものを見るのが、私の精神衛生には一番いい。

「さすがはお姉様! ボブたちの筋肉では、ゼノ様の最高級筋肉の代わりにはなりませんでしたわね! では、これはどうです!? 王都中央市場、本日の『卵、お一人様一個限定、無料配布キャンペーン』のチラシですわ!!」

リルが、私の目の前に一枚の紙を突きつけた。

「……無料? タダより高いものはないと言いますが、限定一個なら集客コストとしての損失は限定的……。……あ、でも、並ぶ時間が三十分を超えるなら、私の時給換算で大赤字……」

「戻ってきた! 計算機が、計算機が再起動しましたわ!!」

私はチラシをひったくり、眼鏡の位置を直した。
そうだ。恋だの愛だの、実体のないものに振り回されている暇はない。
私はアクア・ラズライト。
一円の損失を許さず、一円の利益を追い求める、孤高の守銭奴令嬢。

「リルさん、お待たせしましたわね。……今の私は、以前の私よりも三割増しで冷酷ですわ。……さあ、クロエ様の借金再建プラン、一気に仕上げますわよ!」

「はい、お姉様! その意気ですわ!」

私が勢いよくペンを走らせ始めた、その時。

カラン、と。
あの、運命のドアベルが鳴った。

「……よぉ、アクア。顔色は戻ったか?」

入ってきたのは、よりによって、私のフリーズの原因であるゼノ本人だった。
彼は昨日と同じ、憎らしいほど爽やかな笑顔で、私のデスクに近寄ってくる。

「……ッ、ゼ、ゼノ! 事前の予約なしでの訪問は、相談料が二倍……」

「いいよ、払ってやる。……それよりお前、さっきまでボブたちの裸を見てたのか? ……趣味が悪いぞ」

ゼノが私の机に片手をつき、ぐいっと顔を近づけてくる。
……近い。
また、あの鉄と石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。
私の脳内で、ようやく再起動した計算機が、激しい火花を散らし始めた。

「……っ、そ、それは、業務上の……っ、筋肉の査定、ですわ!」

「ふーん。……俺の筋肉、まだ査定中か? ……昨日の続き、聞かせてくれてもいいんだぜ?」

ゼノが私の耳元で、わざと低く囁く。
私の顔は、一瞬で王都で一番熟したトマトのように真っ赤になった。

「……き、筋肉! 筋肉、バカ! ……時給、マイナス一億枚ですわぁぁ!!」

私は帳簿で顔を隠し、そのまま机に突っ伏した。
リセット、不可。
オーバーヒート、確定。

「お、お姉様ぁぁ!? またフリーズしましたわ! ゼノ様、今のあなたは『営業妨害』に該当いたしますわよ!」

「はは、悪いな。……だが、こいつのこういう顔を見れるなら、いくらでも賠償金は払うよ」

ゼノの楽しそうな笑い声が、事務所の空気を甘く染め上げていく。
……無理。
計算できない。
私は、この「ゼノ」という名の、あまりにも巨大すぎる不採算物件を、どうやって処理すればいいのか、一生かけても答えが出せそうにないのでした。
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