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婚約破棄から一夜明けた、王城の朝。
小鳥のさえずりが聞こえる爽やかな目覚め――のはずだった。
「……おい、まだリコは来ていないのか?」
第一王子ギルバートは、天蓋付きの豪華なベッドの上で不機嫌そうに声を上げた。
控えていた侍従長が、困り果てた顔で一礼する。
「は、はい。リコ様のお姿はどこにも……」
「ふん、強情な女だ。昨夜あれほど大見得を切って出ていったのだから、今頃枕を濡らして後悔しているに違いないと思ったのだが」
ギルバートはあくびを噛み殺しながら、サイドテーブルの水を飲み干す。
彼の頭の中では、リコは今頃屋敷の自室に引きこもり、泣き腫らした目で「殿下に謝りたい」と両親に懇願しているはずだった。
「まあいい。どうせ昼前には『やはり私が間違っておりました』と泣きついてくるだろう。そうしたら、少しばかり焦らしてから許してやるのが、寛大な次期国王というものだ」
「はあ……さようでございますか」
侍従長の反応が鈍いことに、ギルバートは気づかない。
「それより、今日はミナとの朝食デートだ。着替えを頼む。一番派手なやつだ。リコへの当てつけにな」
「かしこまりました」
ギルバートは鼻歌交じりに身支度を整えると、意気揚々と食堂へ向かった。
そこには、すでに可愛らしいピンク色のドレスに身を包んだ、新・婚約者(予定)のミナが待っていた。
「ギルバート様ぁ! おはようございますぅ!」
「おお、ミナ。今日も愛らしい花のような笑顔だね」
「えへへ、そんなことないですぅ。……あ、でも、リコ様がいないから、なんだか空気が美味しい気がします!」
「違いない! あの女がいると、常にピリピリとした重圧がかかっていたからな。これで城の空気も浄化されたというものだ」
二人は見つめ合い、甘い空気を醸し出す。
周囲のメイドたちが、氷点下の視線で見守っていることなど露知らず。
優雅な朝食タイム。
焼きたてのパンに、極上のベーコンエッグ。
しかし、ギルバートの手がふと止まった。
「……ん? 今日の紅茶、味が薄くないか?」
「そうですかぁ? 私は美味しいですけどぉ」
「いや、いつもリコが淹れていた紅茶は、もっとこう、身体の芯からシャキッとするような……」
給仕をしていたメイド長が、スッと歩み寄る。
「殿下。リコ様はいつも、殿下の体調に合わせて茶葉をブレンドし、滋養強壮に効く特別なハーブと、高麗人参のエキスを数滴垂らしておりました」
「なっ……!? 高麗人参だと!? 私は年寄りではないぞ!」
「ですが、激務(※実際は五分で終わる)にお疲れの殿下を気遣ってのことでございます。本日の紅茶は、通常の最高級茶葉でございます」
「ぐぬ……。まあいい、あんな薬臭い紅茶など、二度と飲みたくはないからな!」
ギルバートは強がってカップを置いた。
そうだ、リコがいなくなって清々したのだ。
あんな口うるさい管理者はもういない。
「さあ、食事を終えたら執務だ。ミナ、君も来るかい?」
「はい! 私もお仕事のお手伝いしたいですぅ!」
「うんうん、健気だねえ。リコなら『邪魔です』と一蹴するところだ。やはり君こそが私の女神だ」
二人は腕を組み、スキップでもしそうな足取りで執務室へと向かった。
しかし。
重厚な扉を開けた瞬間、ギルバートの足が止まる。
「……なんだ、これは」
執務室の光景。
それは、昨日までとはまるで違っていた。
机の上には、うず高く積まれた書類の山、山、山。
床にまで溢れ出し、雪崩を起こ寸前の羊皮紙のタワーが、部屋の半分を埋め尽くしていたのだ。
「え、えぇ……? なんですかぁ、この紙くず?」
ミナが引いたように声を上げる。
「紙くずではない、国務に関する書類だ……と思う。だが、おかしいな。いつもは机の上が綺麗に片付いているのだが」
ギルバートが不思議そうに首を傾げると、部屋の隅で死んだような目をしていた文官たちが、一斉に顔を上げた。
「殿下……! お待ちしておりました!」
「おお、ご苦労。なんだこの散らかり様は。掃除をしていないのか?」
文官の一人が、悲痛な叫び声を上げる。
「掃除ではありません! これらは全て、今朝届いた『未決済』の案件です!」
「未決済? 馬鹿な。昨日まではこんなになかったぞ」
「昨日までは、毎朝四時に登城されたリコ様が、殿下が起きる前に八割方処理されていたからです!」
「は?」
ギルバートは耳を疑った。
毎朝四時?
あのリコが?
「嘘を言うな。あいつはいつも『美容のために睡眠は七時間とっています』と言っていたぞ」
「それは殿下に余計な心配をかけまいとする、リコ様のつ・い・と・う(気遣い)です! 実際のリコ様は、ここ数年、一日三時間睡眠でこの国の行政を回していたのです!」
「三時間……?」
人間業ではない。
ギルバートの中で、リコのイメージが「口うるさい女」から「鉄の女」へと修正されかかる。
だが、すぐに首を振った。
「ふん、まあいい。たかが書類仕事だ。私が本気を出せば、こんなもの午前中で終わる」
「す、素敵ですギルバート様ぁ!」
「見ていろミナ。私の有能さを証明してやる」
ギルバートは自信満々に椅子に座り、一番上の書類を手に取った。
『国境警備隊における冬季装備の予算増額申請および、北の山脈地帯に出没する魔獣討伐に伴う特別手当の支給に関する陳情書』
タイトルだけで三行あった。
「……」
ギルバートは無言で紙をめくる。
本文には、びっしりと細かい数字と、難解な法律用語が並んでいる。
『当案件は王立憲法第12条第4項に基づき、緊急避難的措置として……』
目が滑る。
驚くほど頭に入ってこない。
「……あのさ、これの『要約』は?」
ギルバートは文官に尋ねた。
いつもなら、書類の表紙にリコの綺麗な字で『要するに:北の兵士が寒がってるからコート代くれ。承認してよし。ただし金額は一割値切れ』という付箋が貼ってあるはずなのだ。
「要約などありません。リコ様がいないのですから」
「……」
ギルバートはそっと書類を戻した。
そして二枚目を取る。
『王都下水道改修工事における資材高騰に伴う工期延長の嘆願』
戻す。
三枚目。
『隣国との塩の関税撤廃に関する再交渉の進捗報告』
戻す。
「……ミナ」
「はいっ!」
「君、これ読める?」
「えー? 漢字がいっぱいでわかんないですぅ。挿絵とかないんですかぁ?」
「ないね」
「じゃあ、折り紙にして遊びましょうよぉ!」
ミナが無邪気に書類の端を折ろうとする。
「ひいいいっ! おやめくださいミナ様! それは隣国との重要条約の原本です!」
文官たちが必死の形相で止めに入る。
執務室は早くもカオスと化していた。
ギルバートは額に汗を滲ませながら、現実逃避するように呟いた。
「……おかしい。リコなら、もっと楽しそうに判子を押していたはずだ。こんな面倒なことを、あいつは喜んでやっていたのか?」
「リコ様は楽しんでいたのではありません。誰かがやらねば国が滅ぶから、血の涙を流しながらやっていたのです」
文官の冷ややかなツッコミが刺さる。
「ええい、うるさい! わかった、やるよ! やればいいんだろう!」
ギルバートは癇癪を起こし、適当な書類に『承認』の判子を押そうとした。
その時だ。
書類の山の中から、一枚のピンク色の封筒が滑り落ちてきた。
「ん? これは……リコからの手紙か?」
封筒には『殿下へ ~愛を込めて~』と書かれている。
ギルバートの表情がパッと明るくなった。
「見ろ! やはりそうだ! 謝罪の手紙だ! 『愛を込めて』だとさ、くくく、素直じゃないやつめ」
「まあ、リコ様ったら未練がましいですわねぇ」
ギルバートは勝ち誇った顔で封を切る。
中から出てきたのは、一枚の紙切れ。
「えーっと、なになに……『親愛なる元婚約者殿下へ』……うむうむ」
ギルバートは声に出して読み上げた。
『昨日のパーティーでミナ様が私のドレスにこぼした赤ワインのクリーニング代、および、私の精神的苦痛に対する慰謝料(少額)、並びにこれまで立て替えていた殿下のおやつ代。締めて金貨三百枚。以下の口座にお振込みください』
「…………」
執務室に静寂が訪れる。
紙の下の方には、追伸があった。
『P.S. 書類の処理方法は、全て私の脳内にしかありません。頑張ってくださいね(はぁと)』
(はぁと)の部分は、殴り書きのような筆圧で書かれていた。
「ふ、ふざけるなあああああっ!」
ギルバートは請求書を床に叩きつけた。
「金貨三百枚だと!? ただの嫌がらせじゃないか!」
「殿下……そ、その請求書、日付が今日になっております。期限は『即日』と……」
「払うかボケ! 無視だ、無視!」
ギルバートは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「リコめ、今に見ていろ。すぐに音を上げて戻ってくるに決まっている! その時、この請求書を突きつけて、逆に金貨千枚を請求してやるからな!」
怒鳴り散らす王子の横で、文官たちは静かに天を仰いだ。
(((あ、これ詰んだわ)))
彼らの心が一つになった瞬間である。
◇ ◇ ◇
同時刻。
王都から遠く離れた街道沿い。
ガタゴトと揺れる乗り合い馬車の中で、私は優雅に足を組んでいた。
「ん~っ! 空気が美味しい!」
窓から入ってくる風を胸いっぱいに吸い込む。
平民向けの安馬車だけれど、私にとっては王族専用の豪華馬車より遥かに快適だ。
だって、隣に「これ何て読むの?」と聞いてくる大きな子供がいないのだから。
「さて、と」
私は膝の上に広げた地図と、小さな革袋を確認する。
昨夜、屋敷を出てすぐに駅馬車に飛び乗った。
追っ手がかかる可能性を考えて、目立つ個人馬車は使わず、庶民に紛れる作戦だ。
今の私の服装は、地味な茶色の旅装束。
髪も帽子の中に押し込んで隠している。
誰がどう見ても、田舎へ帰省する商人の娘だ。
「えーっと、現在の所持金は……」
革袋の中身をジャラジャラと数える。
当面の逃亡生活には困らない額だ。
それに、いざとなれば私の頭脳がある。
どの街に行っても、帳簿の計算や代筆業くらいならすぐに職が見つかるだろう。
「お嬢ちゃん、一人旅かい?」
向かいに座っていた行商人のオジサンが声をかけてきた。
私は営業用スマイル(王城仕込み・好感度補正+20%)を貼り付ける。
「ええ。ブラックな職場を退職しまして、傷心旅行なんです」
「そりゃあ災難だったな。まあ、この辺りの景色を見れば気も晴れるさ」
「はい。本当に晴れ晴れとしていますわ」
私はバスケットから、駅の売店で買ったサンドイッチを取り出した。
固いパンに、薄っぺらいハムが挟まっているだけの代物。
王城の食事に比べれば天と地の差がある粗末な食事だ。
ガブリ、と一口かじる。
「……うん、最高」
味がしないと思っていたけれど、噛み締めると『自由』の味がした。
スケジュールも、締め切りも、予算会議もない。
このサンドイッチを食べるのに、誰の許可もいらないのだ。
「さて、国境の街まであと二日……」
私は地図上のルートを指でなぞる。
「まずは温泉。次に名物の地酒。それから……イケメン探しでもしようかしら」
うふふ、と笑いが漏れる。
もう、あの元婚約者の顔など思い出すこともない。
きっと今頃、私の残した『呪いの置き土産(未決済書類の山)』を見て、青ざめていることだろう。
「ざまぁみなさい」
小さく呟いて、私はサンドイッチの最後の一口を飲み込んだ。
この時の私は、完全に油断していた。
まさか、この国の『真の支配者』とも呼ばれるあの男が、すでに私の逃走ルートを予測し、先回りして網を張っているとは露知らず。
馬車は軽快な音を立てて、私の『誤算』へと向かって進んでいくのだった。
小鳥のさえずりが聞こえる爽やかな目覚め――のはずだった。
「……おい、まだリコは来ていないのか?」
第一王子ギルバートは、天蓋付きの豪華なベッドの上で不機嫌そうに声を上げた。
控えていた侍従長が、困り果てた顔で一礼する。
「は、はい。リコ様のお姿はどこにも……」
「ふん、強情な女だ。昨夜あれほど大見得を切って出ていったのだから、今頃枕を濡らして後悔しているに違いないと思ったのだが」
ギルバートはあくびを噛み殺しながら、サイドテーブルの水を飲み干す。
彼の頭の中では、リコは今頃屋敷の自室に引きこもり、泣き腫らした目で「殿下に謝りたい」と両親に懇願しているはずだった。
「まあいい。どうせ昼前には『やはり私が間違っておりました』と泣きついてくるだろう。そうしたら、少しばかり焦らしてから許してやるのが、寛大な次期国王というものだ」
「はあ……さようでございますか」
侍従長の反応が鈍いことに、ギルバートは気づかない。
「それより、今日はミナとの朝食デートだ。着替えを頼む。一番派手なやつだ。リコへの当てつけにな」
「かしこまりました」
ギルバートは鼻歌交じりに身支度を整えると、意気揚々と食堂へ向かった。
そこには、すでに可愛らしいピンク色のドレスに身を包んだ、新・婚約者(予定)のミナが待っていた。
「ギルバート様ぁ! おはようございますぅ!」
「おお、ミナ。今日も愛らしい花のような笑顔だね」
「えへへ、そんなことないですぅ。……あ、でも、リコ様がいないから、なんだか空気が美味しい気がします!」
「違いない! あの女がいると、常にピリピリとした重圧がかかっていたからな。これで城の空気も浄化されたというものだ」
二人は見つめ合い、甘い空気を醸し出す。
周囲のメイドたちが、氷点下の視線で見守っていることなど露知らず。
優雅な朝食タイム。
焼きたてのパンに、極上のベーコンエッグ。
しかし、ギルバートの手がふと止まった。
「……ん? 今日の紅茶、味が薄くないか?」
「そうですかぁ? 私は美味しいですけどぉ」
「いや、いつもリコが淹れていた紅茶は、もっとこう、身体の芯からシャキッとするような……」
給仕をしていたメイド長が、スッと歩み寄る。
「殿下。リコ様はいつも、殿下の体調に合わせて茶葉をブレンドし、滋養強壮に効く特別なハーブと、高麗人参のエキスを数滴垂らしておりました」
「なっ……!? 高麗人参だと!? 私は年寄りではないぞ!」
「ですが、激務(※実際は五分で終わる)にお疲れの殿下を気遣ってのことでございます。本日の紅茶は、通常の最高級茶葉でございます」
「ぐぬ……。まあいい、あんな薬臭い紅茶など、二度と飲みたくはないからな!」
ギルバートは強がってカップを置いた。
そうだ、リコがいなくなって清々したのだ。
あんな口うるさい管理者はもういない。
「さあ、食事を終えたら執務だ。ミナ、君も来るかい?」
「はい! 私もお仕事のお手伝いしたいですぅ!」
「うんうん、健気だねえ。リコなら『邪魔です』と一蹴するところだ。やはり君こそが私の女神だ」
二人は腕を組み、スキップでもしそうな足取りで執務室へと向かった。
しかし。
重厚な扉を開けた瞬間、ギルバートの足が止まる。
「……なんだ、これは」
執務室の光景。
それは、昨日までとはまるで違っていた。
机の上には、うず高く積まれた書類の山、山、山。
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「え、えぇ……? なんですかぁ、この紙くず?」
ミナが引いたように声を上げる。
「紙くずではない、国務に関する書類だ……と思う。だが、おかしいな。いつもは机の上が綺麗に片付いているのだが」
ギルバートが不思議そうに首を傾げると、部屋の隅で死んだような目をしていた文官たちが、一斉に顔を上げた。
「殿下……! お待ちしておりました!」
「おお、ご苦労。なんだこの散らかり様は。掃除をしていないのか?」
文官の一人が、悲痛な叫び声を上げる。
「掃除ではありません! これらは全て、今朝届いた『未決済』の案件です!」
「未決済? 馬鹿な。昨日まではこんなになかったぞ」
「昨日までは、毎朝四時に登城されたリコ様が、殿下が起きる前に八割方処理されていたからです!」
「は?」
ギルバートは耳を疑った。
毎朝四時?
あのリコが?
「嘘を言うな。あいつはいつも『美容のために睡眠は七時間とっています』と言っていたぞ」
「それは殿下に余計な心配をかけまいとする、リコ様のつ・い・と・う(気遣い)です! 実際のリコ様は、ここ数年、一日三時間睡眠でこの国の行政を回していたのです!」
「三時間……?」
人間業ではない。
ギルバートの中で、リコのイメージが「口うるさい女」から「鉄の女」へと修正されかかる。
だが、すぐに首を振った。
「ふん、まあいい。たかが書類仕事だ。私が本気を出せば、こんなもの午前中で終わる」
「す、素敵ですギルバート様ぁ!」
「見ていろミナ。私の有能さを証明してやる」
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「……」
ギルバートは無言で紙をめくる。
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目が滑る。
驚くほど頭に入ってこない。
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いつもなら、書類の表紙にリコの綺麗な字で『要するに:北の兵士が寒がってるからコート代くれ。承認してよし。ただし金額は一割値切れ』という付箋が貼ってあるはずなのだ。
「要約などありません。リコ様がいないのですから」
「……」
ギルバートはそっと書類を戻した。
そして二枚目を取る。
『王都下水道改修工事における資材高騰に伴う工期延長の嘆願』
戻す。
三枚目。
『隣国との塩の関税撤廃に関する再交渉の進捗報告』
戻す。
「……ミナ」
「はいっ!」
「君、これ読める?」
「えー? 漢字がいっぱいでわかんないですぅ。挿絵とかないんですかぁ?」
「ないね」
「じゃあ、折り紙にして遊びましょうよぉ!」
ミナが無邪気に書類の端を折ろうとする。
「ひいいいっ! おやめくださいミナ様! それは隣国との重要条約の原本です!」
文官たちが必死の形相で止めに入る。
執務室は早くもカオスと化していた。
ギルバートは額に汗を滲ませながら、現実逃避するように呟いた。
「……おかしい。リコなら、もっと楽しそうに判子を押していたはずだ。こんな面倒なことを、あいつは喜んでやっていたのか?」
「リコ様は楽しんでいたのではありません。誰かがやらねば国が滅ぶから、血の涙を流しながらやっていたのです」
文官の冷ややかなツッコミが刺さる。
「ええい、うるさい! わかった、やるよ! やればいいんだろう!」
ギルバートは癇癪を起こし、適当な書類に『承認』の判子を押そうとした。
その時だ。
書類の山の中から、一枚のピンク色の封筒が滑り落ちてきた。
「ん? これは……リコからの手紙か?」
封筒には『殿下へ ~愛を込めて~』と書かれている。
ギルバートの表情がパッと明るくなった。
「見ろ! やはりそうだ! 謝罪の手紙だ! 『愛を込めて』だとさ、くくく、素直じゃないやつめ」
「まあ、リコ様ったら未練がましいですわねぇ」
ギルバートは勝ち誇った顔で封を切る。
中から出てきたのは、一枚の紙切れ。
「えーっと、なになに……『親愛なる元婚約者殿下へ』……うむうむ」
ギルバートは声に出して読み上げた。
『昨日のパーティーでミナ様が私のドレスにこぼした赤ワインのクリーニング代、および、私の精神的苦痛に対する慰謝料(少額)、並びにこれまで立て替えていた殿下のおやつ代。締めて金貨三百枚。以下の口座にお振込みください』
「…………」
執務室に静寂が訪れる。
紙の下の方には、追伸があった。
『P.S. 書類の処理方法は、全て私の脳内にしかありません。頑張ってくださいね(はぁと)』
(はぁと)の部分は、殴り書きのような筆圧で書かれていた。
「ふ、ふざけるなあああああっ!」
ギルバートは請求書を床に叩きつけた。
「金貨三百枚だと!? ただの嫌がらせじゃないか!」
「殿下……そ、その請求書、日付が今日になっております。期限は『即日』と……」
「払うかボケ! 無視だ、無視!」
ギルバートは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「リコめ、今に見ていろ。すぐに音を上げて戻ってくるに決まっている! その時、この請求書を突きつけて、逆に金貨千枚を請求してやるからな!」
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(((あ、これ詰んだわ)))
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◇ ◇ ◇
同時刻。
王都から遠く離れた街道沿い。
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だって、隣に「これ何て読むの?」と聞いてくる大きな子供がいないのだから。
「さて、と」
私は膝の上に広げた地図と、小さな革袋を確認する。
昨夜、屋敷を出てすぐに駅馬車に飛び乗った。
追っ手がかかる可能性を考えて、目立つ個人馬車は使わず、庶民に紛れる作戦だ。
今の私の服装は、地味な茶色の旅装束。
髪も帽子の中に押し込んで隠している。
誰がどう見ても、田舎へ帰省する商人の娘だ。
「えーっと、現在の所持金は……」
革袋の中身をジャラジャラと数える。
当面の逃亡生活には困らない額だ。
それに、いざとなれば私の頭脳がある。
どの街に行っても、帳簿の計算や代筆業くらいならすぐに職が見つかるだろう。
「お嬢ちゃん、一人旅かい?」
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「はい。本当に晴れ晴れとしていますわ」
私はバスケットから、駅の売店で買ったサンドイッチを取り出した。
固いパンに、薄っぺらいハムが挟まっているだけの代物。
王城の食事に比べれば天と地の差がある粗末な食事だ。
ガブリ、と一口かじる。
「……うん、最高」
味がしないと思っていたけれど、噛み締めると『自由』の味がした。
スケジュールも、締め切りも、予算会議もない。
このサンドイッチを食べるのに、誰の許可もいらないのだ。
「さて、国境の街まであと二日……」
私は地図上のルートを指でなぞる。
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うふふ、と笑いが漏れる。
もう、あの元婚約者の顔など思い出すこともない。
きっと今頃、私の残した『呪いの置き土産(未決済書類の山)』を見て、青ざめていることだろう。
「ざまぁみなさい」
小さく呟いて、私はサンドイッチの最後の一口を飲み込んだ。
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