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「……あの、宰相閣下」
「なんだい? リコ」
「この手錠、そろそろ外していただけませんか? トイレに行くときも一緒というのは、人権侵害も甚だしいと思うのですが」
「安心してくれ。トイレの前ではちゃんと背を向けて、耳も塞いでいたよ」
「そういう問題じゃないんです!」
王都へと向かう、最高級の貴族用馬車の中。
私はふかふかの座席に座らされ、隣には涼しい顔をしたシリウス・クライヴ宰相が鎮座していた。
そして、私の左手首と彼に右手首は、依然としてあの『愛の逃避行防止ブレスレット(魔力付き手錠)』で繋がれたままだ。
馬車が揺れるたびに、チャリ、チャリ、と鎖が金属音を立てる。
まるでドナドナされる子牛の気分だ。
「大体、こんな状態で王都に戻ったら、皆になんて説明するんですか? 『元婚約者が宰相に逮捕されて連行されてきた』なんて、スキャンダルもいいところですよ」
「『愛を深めるためのスキンシップだ』と言えば、誰も何も言わないさ」
「言いますよ! 主に私が!」
私が抗議しても、シリウスはどこ吹く風だ。
彼は片手で器用に書類(馬車に持ち込んだ仕事)をめくりながら、もう片方の手――私と繋がれている方の手――で、バスケットからクッキーを取り出した。
「はい、あーん」
「……は?」
「両手が塞がっていて食べづらいだろう? 食べさせてあげるよ。王都で人気の『蜜蜂堂』の特製クッキーだ」
「……っ!」
私の好物だ。
この男、どこまでリサーチ済みなのか。
私は屈辱に震えながらも、漂ってくるバターの香りに抗えず、パクりとクッキーを口にした。
「……おいしい」
「それはよかった。君の餌付けなら任せておけ」
「誰がペットですか!」
口の中の水分を奪われたので、紅茶も所望したかったが、これ以上彼に世話を焼かれるのは癪なので我慢した。
窓の外を見る。
景色がどんどん見慣れたものになっていく。
のどかな田園風景から、石造りの建物が増え、やがて巨大な城壁が見えてきた。
王都だ。
帰ってきてしまった。
わずか三日間の逃亡生活。
私の『自由』は、儚くも露と消えたのだ。
「ああ……私の温泉……私の朝寝坊……」
「これからは私が毎日、君と一緒に朝寝坊してあげようか?」
「結構です。貴方といたら、過労か心労のどちらかで早死にしそうですから」
そんな軽口を叩いている間に、馬車は正門を通過した。
いつもなら衛兵がキビキビと敬礼して迎えてくれるはずの場所だ。
しかし。
「……なに、これ?」
窓から見えた光景に、私は絶句した。
正門を守る衛兵たちが、槍を杖代わりにして、今にも倒れそうにフラフラしていたのだ。
目の下には濃いクマ。
頬はこけ、生気がない。
まるでゾンビ映画のワンシーンだ。
「ひぃ……ひぃ……交代の時間まだぁ……?」
「無理だよぉ……シフト管理表が見つからないんだもん……」
「誰か……誰かリコ様を呼んでくれぇ……」
亡者のような呻き声が聞こえてくる。
「……シリウス様、これは一体?」
「言っただろう? 君がいなくなって行政機能が麻痺したと。シフト管理も、給与計算も、食料配給の指示も、全て君が最終チェックをしていたからね。それが止まれば、当然こうなる」
シリウスは淡々と言った。
「彼らはこの三日間、満足に交代もできず、食事も乾燥パンくらいしか食べていないんじゃないかな」
「馬鹿なんですか!? マニュアルくらい作っておきましたよ!」
「そのマニュアルの保管場所を知っているのも、君だけだったんだよ」
「うわぁ……」
私は頭を抱えた。
想像以上のポンコツ集団だ。
馬車寄せに到着し、扉が開く。
私が一歩外に出た瞬間だった。
「――リ、リコ様!?」
近くにいたメイドが、私を見て悲鳴を上げた。
いや、歓喜の叫びだ。
「リコ様だ! リコ様が帰ってこられたぞぉぉぉ!」
「うおおおおおっ!!」
ワラワラと集まってくる兵士、文官、メイドたち。
彼らは涙を流しながら、私の足元にひれ伏した。
「リコ様ぁぁぁ! お待ちしておりましたぁぁ!」
「印鑑! 印鑑の場所を教えてください!」
「備品倉庫の鍵が! 鍵が見当たらないんです!」
「今日の晩御飯の献立が決まらなくて、厨房でシェフが暴動を起こしています!」
四方八方から浴びせられる業務連絡。
私はまだ馬車から片足しか出していないのに。
「ええい、静まれ! 群がるな!」
シリウスが一喝すると、群衆はビクッとして道を空けた。
「リコは旅の疲れがある。業務連絡は後回しだ。まずは殿下への挨拶へ向かう」
彼は私の手(繋がれた方)を引き、スタスタと城内へ入っていく。
「ちょっと、引っ張らないで!」
「もたもたしていると、彼らに骨までしゃぶられるよ」
確かにその通りだ。
あの飢えた獣のような目。
完全に『リコ=救世主(という名の便利な道具)』と見ていた。
私たちは長い廊下を歩き、王子の執務室へと向かう。
すれ違う人々は皆、私を見ると拝むように手を合わせ、シリウスを見ると恐怖で震え上がって逃げていく。
まさに『飴と鞭』ならぬ『神と悪魔』の行進だ。
そして、執務室の前に到着した。
重厚な扉の向こうから、ドサッ、バサッ、という不穏な音が聞こえてくる。
「……入るよ」
シリウスがノックもせずに扉を開け放った。
「うわっ」
私は思わず鼻をつまんだ。
部屋の中は、紙とインクの匂い、そして何とも言えない『絶望』の空気が充満していた。
足の踏み場もないほど散乱した書類。
その中心で、書類の山に埋もれるようにして突っ伏している金髪の男がいた。
第一王子、ギルバート殿下だ。
「……むにゃ……もう食べられない……」
寝言を言っている。
その横で、ミナ様が顔をインクで汚したまま、白目を剥いて椅子に座り込んでいた。
「ここはどこ……私は誰……」
完全にキャパオーバーだ。
「殿下。起きてください」
シリウスが冷ややかに声をかける。
ギルバート殿下はビクリと肩を震わせ、のっそりと顔を上げた。
「んん……シリウスか? もう無理だ……書類が……文字が私を攻撃してくる……」
「リコ嬢をお連れしましたよ」
「え?」
その一言で、殿下の目に光が戻った。
ガバッと起き上がり、私の方を見る。
「リ、リコ!? リコか!?」
「お久しぶりです、殿下。……三日ぶりですね」
私は手錠を隠すように背後に手を回し、努めて冷静に挨拶した。
「おお、おおお……! 戻ってきたか! やはり戻ってきたか!」
殿下は書類の山をかき分け、転がるようにして私に駆け寄ってきた。
「待っていたぞ! いやあ、悪かった! 私が悪かった! だから早くこの書類をなんとかしてくれ! 隣国の使節団が明日来るんだ! スピーチ原稿が白紙なんだよぉ!」
開口一番、謝罪ではなく仕事の要求。
やっぱりこの男、更生していない。
私は冷めた目で彼を見下ろした。
「殿下。私は婚約破棄された身です。部外者に国家機密を触らせるのはいかがなものでしょうか?」
「何を言う! 婚約破棄は撤回だ! 無効だ! 今すぐ元に戻す!」
「……は?」
あまりの身勝手さに、血管が切れそうになる。
「私のサイン入りの合意書、お持ちですよね? あれは法的に有効です」
「あんな紙切れ、破って捨てたわ! いいから働け! これは王命だ!」
殿下が私の肩を掴もうと手を伸ばした。
その時。
ガシャン!
金属音が響き、殿下の手が空中で弾かれた。
シリウスが私の前に立ちはだかり、左手(私と繋がっている手)で殿下の手を払いのけたのだ。
「……シリウス? 何をする」
「お触り禁止です、殿下」
シリウスは氷点下の微笑を浮かべた。
「彼女は今、私の管理下にあります。許可なく触れないでいただきたい」
「管理下? 何を言って……」
そこで初めて、殿下は私たちの手元に視線を落とした。
銀色に輝く鎖。
互いの手首を繋ぐ、逃れられない枷。
「な、なんだそれは!? 手錠!? リコ、お前、逮捕されたのか!?」
「ええ、まあ、そんなところです」
私が曖昧に答えると、シリウスが被せるように言った。
「いいえ。これは『婚約の証』です」
「はあああああ!?」
私と殿下、そしてミナ様の叫び声が重なった。
「こ、婚約だと!? 貴様とリコがか!?」
「ええ。殿下が捨てた宝石を、私が拾っただけのこと。何か問題でも?」
「宝石だと!? そいつはただの口うるさい女だぞ! それに、家柄で言えば公爵令嬢のリコとお前では釣り合いが……」
「我がクライヴ家も公爵位を持っていますが?」
「ぐぬぬ……」
殿下は言葉に詰まる。
シリウスは私の方を振り返り、優越感たっぷりにウインクしてみせた。
「それに、彼女も満更ではない様子でしたよ。ねえ、リコ?」
「……ノーコメントで」
否定すると電流が流れる気がしたので、私は賢明な判断を下した。
「とにかく!」
シリウスは宣言した。
「リコ嬢は本日より、私の『宰相補佐官』兼『婚約者』として城に復帰します。殿下の元婚約者としてではなく、私のパートナーとして」
「なっ……ずるいぞ! リコがいなければ私の仕事はどうなる!」
「ご安心を。リコ嬢には、宰相府から各部署への指示出しを行わせます。殿下の書類仕事に関しても、彼女が『マニュアル』を作成し、殿下が『ご自身で』処理できるよう指導いたしますので」
「えっ、私がやるの? リコがやってくれるんじゃなくて?」
「当然です。自分の尻は自分で拭く。それが大人の常識です」
シリウスの正論パンチが炸裂する。
殿下は「うぐっ」と胸を押さえて後退った。
「さあ、リコ。行こうか。まずは私の執務室で、積もり積もった案件を片付けよう。……二人きりでね」
シリウスは私の腰を引き寄せ、これ見よがしに殿下に見せつけるようにして部屋を出ようとする。
「あ、あの……!」
部屋の隅で震えていたミナ様が、おずおずと手を挙げた。
「わ、私は……どうすれば……?」
私は立ち止まり、彼女を見た。
インクまみれの顔。破れたドレス。
かつての可愛らしい小悪魔の面影はない。
私は少しだけ憐れみを覚え、ため息交じりに言った。
「ミナ様。そこに積んである青い表紙の書類、それは『王城内清掃スタッフのシフト表』です。まずはそれの整理から始めるといいですよ。数字を埋めるだけのパズルですから、初心者向けです」
「パズル……! 私、やりますぅ!」
ミナ様は目を輝かせて書類に飛びついた。
単純だ。
でも、この単純さが今のこの地獄には必要なのかもしれない。
「リコ! 待て! 行かないでくれぇぇぇ!」
背後で殿下の情けない叫び声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
ガチャリ、と重い扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、私は大きく息を吐いた。
「……はぁ。一難去ってまた一難、ですね」
「そうかな? 私は楽しかったよ」
シリウスは上機嫌だ。
「さて、リコ。ここからは本格的な『残業』の時間だ。覚悟はいいかい?」
彼は私の手首の鎖を、クイッと引いた。
まるで飼い主がリードを引くように。
私は観念して、苦笑いを浮かべた。
「ええ、わかりましたよ。とことん付き合います。……その代わり、請求書は高くつきますからね、宰相閣下?」
「望むところだ」
私たちは手を取り合い(強制的に)、崩壊寸前の王城を立て直すべく、戦場へと足を踏み入れた。
こうして、悪役令嬢リコの華麗なる(?)復帰劇は幕を開けたのである。
ただし、手錠付きで。
「なんだい? リコ」
「この手錠、そろそろ外していただけませんか? トイレに行くときも一緒というのは、人権侵害も甚だしいと思うのですが」
「安心してくれ。トイレの前ではちゃんと背を向けて、耳も塞いでいたよ」
「そういう問題じゃないんです!」
王都へと向かう、最高級の貴族用馬車の中。
私はふかふかの座席に座らされ、隣には涼しい顔をしたシリウス・クライヴ宰相が鎮座していた。
そして、私の左手首と彼に右手首は、依然としてあの『愛の逃避行防止ブレスレット(魔力付き手錠)』で繋がれたままだ。
馬車が揺れるたびに、チャリ、チャリ、と鎖が金属音を立てる。
まるでドナドナされる子牛の気分だ。
「大体、こんな状態で王都に戻ったら、皆になんて説明するんですか? 『元婚約者が宰相に逮捕されて連行されてきた』なんて、スキャンダルもいいところですよ」
「『愛を深めるためのスキンシップだ』と言えば、誰も何も言わないさ」
「言いますよ! 主に私が!」
私が抗議しても、シリウスはどこ吹く風だ。
彼は片手で器用に書類(馬車に持ち込んだ仕事)をめくりながら、もう片方の手――私と繋がれている方の手――で、バスケットからクッキーを取り出した。
「はい、あーん」
「……は?」
「両手が塞がっていて食べづらいだろう? 食べさせてあげるよ。王都で人気の『蜜蜂堂』の特製クッキーだ」
「……っ!」
私の好物だ。
この男、どこまでリサーチ済みなのか。
私は屈辱に震えながらも、漂ってくるバターの香りに抗えず、パクりとクッキーを口にした。
「……おいしい」
「それはよかった。君の餌付けなら任せておけ」
「誰がペットですか!」
口の中の水分を奪われたので、紅茶も所望したかったが、これ以上彼に世話を焼かれるのは癪なので我慢した。
窓の外を見る。
景色がどんどん見慣れたものになっていく。
のどかな田園風景から、石造りの建物が増え、やがて巨大な城壁が見えてきた。
王都だ。
帰ってきてしまった。
わずか三日間の逃亡生活。
私の『自由』は、儚くも露と消えたのだ。
「ああ……私の温泉……私の朝寝坊……」
「これからは私が毎日、君と一緒に朝寝坊してあげようか?」
「結構です。貴方といたら、過労か心労のどちらかで早死にしそうですから」
そんな軽口を叩いている間に、馬車は正門を通過した。
いつもなら衛兵がキビキビと敬礼して迎えてくれるはずの場所だ。
しかし。
「……なに、これ?」
窓から見えた光景に、私は絶句した。
正門を守る衛兵たちが、槍を杖代わりにして、今にも倒れそうにフラフラしていたのだ。
目の下には濃いクマ。
頬はこけ、生気がない。
まるでゾンビ映画のワンシーンだ。
「ひぃ……ひぃ……交代の時間まだぁ……?」
「無理だよぉ……シフト管理表が見つからないんだもん……」
「誰か……誰かリコ様を呼んでくれぇ……」
亡者のような呻き声が聞こえてくる。
「……シリウス様、これは一体?」
「言っただろう? 君がいなくなって行政機能が麻痺したと。シフト管理も、給与計算も、食料配給の指示も、全て君が最終チェックをしていたからね。それが止まれば、当然こうなる」
シリウスは淡々と言った。
「彼らはこの三日間、満足に交代もできず、食事も乾燥パンくらいしか食べていないんじゃないかな」
「馬鹿なんですか!? マニュアルくらい作っておきましたよ!」
「そのマニュアルの保管場所を知っているのも、君だけだったんだよ」
「うわぁ……」
私は頭を抱えた。
想像以上のポンコツ集団だ。
馬車寄せに到着し、扉が開く。
私が一歩外に出た瞬間だった。
「――リ、リコ様!?」
近くにいたメイドが、私を見て悲鳴を上げた。
いや、歓喜の叫びだ。
「リコ様だ! リコ様が帰ってこられたぞぉぉぉ!」
「うおおおおおっ!!」
ワラワラと集まってくる兵士、文官、メイドたち。
彼らは涙を流しながら、私の足元にひれ伏した。
「リコ様ぁぁぁ! お待ちしておりましたぁぁ!」
「印鑑! 印鑑の場所を教えてください!」
「備品倉庫の鍵が! 鍵が見当たらないんです!」
「今日の晩御飯の献立が決まらなくて、厨房でシェフが暴動を起こしています!」
四方八方から浴びせられる業務連絡。
私はまだ馬車から片足しか出していないのに。
「ええい、静まれ! 群がるな!」
シリウスが一喝すると、群衆はビクッとして道を空けた。
「リコは旅の疲れがある。業務連絡は後回しだ。まずは殿下への挨拶へ向かう」
彼は私の手(繋がれた方)を引き、スタスタと城内へ入っていく。
「ちょっと、引っ張らないで!」
「もたもたしていると、彼らに骨までしゃぶられるよ」
確かにその通りだ。
あの飢えた獣のような目。
完全に『リコ=救世主(という名の便利な道具)』と見ていた。
私たちは長い廊下を歩き、王子の執務室へと向かう。
すれ違う人々は皆、私を見ると拝むように手を合わせ、シリウスを見ると恐怖で震え上がって逃げていく。
まさに『飴と鞭』ならぬ『神と悪魔』の行進だ。
そして、執務室の前に到着した。
重厚な扉の向こうから、ドサッ、バサッ、という不穏な音が聞こえてくる。
「……入るよ」
シリウスがノックもせずに扉を開け放った。
「うわっ」
私は思わず鼻をつまんだ。
部屋の中は、紙とインクの匂い、そして何とも言えない『絶望』の空気が充満していた。
足の踏み場もないほど散乱した書類。
その中心で、書類の山に埋もれるようにして突っ伏している金髪の男がいた。
第一王子、ギルバート殿下だ。
「……むにゃ……もう食べられない……」
寝言を言っている。
その横で、ミナ様が顔をインクで汚したまま、白目を剥いて椅子に座り込んでいた。
「ここはどこ……私は誰……」
完全にキャパオーバーだ。
「殿下。起きてください」
シリウスが冷ややかに声をかける。
ギルバート殿下はビクリと肩を震わせ、のっそりと顔を上げた。
「んん……シリウスか? もう無理だ……書類が……文字が私を攻撃してくる……」
「リコ嬢をお連れしましたよ」
「え?」
その一言で、殿下の目に光が戻った。
ガバッと起き上がり、私の方を見る。
「リ、リコ!? リコか!?」
「お久しぶりです、殿下。……三日ぶりですね」
私は手錠を隠すように背後に手を回し、努めて冷静に挨拶した。
「おお、おおお……! 戻ってきたか! やはり戻ってきたか!」
殿下は書類の山をかき分け、転がるようにして私に駆け寄ってきた。
「待っていたぞ! いやあ、悪かった! 私が悪かった! だから早くこの書類をなんとかしてくれ! 隣国の使節団が明日来るんだ! スピーチ原稿が白紙なんだよぉ!」
開口一番、謝罪ではなく仕事の要求。
やっぱりこの男、更生していない。
私は冷めた目で彼を見下ろした。
「殿下。私は婚約破棄された身です。部外者に国家機密を触らせるのはいかがなものでしょうか?」
「何を言う! 婚約破棄は撤回だ! 無効だ! 今すぐ元に戻す!」
「……は?」
あまりの身勝手さに、血管が切れそうになる。
「私のサイン入りの合意書、お持ちですよね? あれは法的に有効です」
「あんな紙切れ、破って捨てたわ! いいから働け! これは王命だ!」
殿下が私の肩を掴もうと手を伸ばした。
その時。
ガシャン!
金属音が響き、殿下の手が空中で弾かれた。
シリウスが私の前に立ちはだかり、左手(私と繋がっている手)で殿下の手を払いのけたのだ。
「……シリウス? 何をする」
「お触り禁止です、殿下」
シリウスは氷点下の微笑を浮かべた。
「彼女は今、私の管理下にあります。許可なく触れないでいただきたい」
「管理下? 何を言って……」
そこで初めて、殿下は私たちの手元に視線を落とした。
銀色に輝く鎖。
互いの手首を繋ぐ、逃れられない枷。
「な、なんだそれは!? 手錠!? リコ、お前、逮捕されたのか!?」
「ええ、まあ、そんなところです」
私が曖昧に答えると、シリウスが被せるように言った。
「いいえ。これは『婚約の証』です」
「はあああああ!?」
私と殿下、そしてミナ様の叫び声が重なった。
「こ、婚約だと!? 貴様とリコがか!?」
「ええ。殿下が捨てた宝石を、私が拾っただけのこと。何か問題でも?」
「宝石だと!? そいつはただの口うるさい女だぞ! それに、家柄で言えば公爵令嬢のリコとお前では釣り合いが……」
「我がクライヴ家も公爵位を持っていますが?」
「ぐぬぬ……」
殿下は言葉に詰まる。
シリウスは私の方を振り返り、優越感たっぷりにウインクしてみせた。
「それに、彼女も満更ではない様子でしたよ。ねえ、リコ?」
「……ノーコメントで」
否定すると電流が流れる気がしたので、私は賢明な判断を下した。
「とにかく!」
シリウスは宣言した。
「リコ嬢は本日より、私の『宰相補佐官』兼『婚約者』として城に復帰します。殿下の元婚約者としてではなく、私のパートナーとして」
「なっ……ずるいぞ! リコがいなければ私の仕事はどうなる!」
「ご安心を。リコ嬢には、宰相府から各部署への指示出しを行わせます。殿下の書類仕事に関しても、彼女が『マニュアル』を作成し、殿下が『ご自身で』処理できるよう指導いたしますので」
「えっ、私がやるの? リコがやってくれるんじゃなくて?」
「当然です。自分の尻は自分で拭く。それが大人の常識です」
シリウスの正論パンチが炸裂する。
殿下は「うぐっ」と胸を押さえて後退った。
「さあ、リコ。行こうか。まずは私の執務室で、積もり積もった案件を片付けよう。……二人きりでね」
シリウスは私の腰を引き寄せ、これ見よがしに殿下に見せつけるようにして部屋を出ようとする。
「あ、あの……!」
部屋の隅で震えていたミナ様が、おずおずと手を挙げた。
「わ、私は……どうすれば……?」
私は立ち止まり、彼女を見た。
インクまみれの顔。破れたドレス。
かつての可愛らしい小悪魔の面影はない。
私は少しだけ憐れみを覚え、ため息交じりに言った。
「ミナ様。そこに積んである青い表紙の書類、それは『王城内清掃スタッフのシフト表』です。まずはそれの整理から始めるといいですよ。数字を埋めるだけのパズルですから、初心者向けです」
「パズル……! 私、やりますぅ!」
ミナ様は目を輝かせて書類に飛びついた。
単純だ。
でも、この単純さが今のこの地獄には必要なのかもしれない。
「リコ! 待て! 行かないでくれぇぇぇ!」
背後で殿下の情けない叫び声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
ガチャリ、と重い扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、私は大きく息を吐いた。
「……はぁ。一難去ってまた一難、ですね」
「そうかな? 私は楽しかったよ」
シリウスは上機嫌だ。
「さて、リコ。ここからは本格的な『残業』の時間だ。覚悟はいいかい?」
彼は私の手首の鎖を、クイッと引いた。
まるで飼い主がリードを引くように。
私は観念して、苦笑いを浮かべた。
「ええ、わかりましたよ。とことん付き合います。……その代わり、請求書は高くつきますからね、宰相閣下?」
「望むところだ」
私たちは手を取り合い(強制的に)、崩壊寸前の王城を立て直すべく、戦場へと足を踏み入れた。
こうして、悪役令嬢リコの華麗なる(?)復帰劇は幕を開けたのである。
ただし、手錠付きで。
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