婚約破棄? もちろん悲しみません。悪役令嬢ですもの。

ちゃっぴー

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「……ねえ、シリウス様」

「なんだい、私の有能な婚約者どの」

「その呼び方は外でだけにしてとお伝えしたはずですが。それより、この書類の山を見てください」

私は、目の前にそびえ立つ紙の要塞をペンで指し示した。

王城の最上階に近い、宰相執務室。

以前私が使っていた事務室の三倍はあろうかという広さだが、今やそこは書類とインクの瓶、そして魔導書によって埋め尽くされている。

「これは昨日、ギルバート殿下が『わからないからリコに投げる』と言って置いていった予算申請書。こっちは外務省が『翻訳が追いつかない』と泣きついてきた親書。そしてそっちは……」

「私の趣味で集めた、隣国の絶品スイーツの取り寄せリストだね」

「仕事に私情を挟まないでください!」

私は手首を繋ぐ鎖をジャラリと鳴らし、彼を睨みつけた。

私たちは今、一つの長いデスクを並んで使っている。

物理的に離れられないのだから、こうするしかない。

しかし、至近距離に絶世の美形がいるというのは、精神衛生上非常によろしくない。

特に、彼が仕事中、時折熱っぽい視線をこちらに向けてくる時は。

「いいじゃないか。美味しいものを食べれば脳が活性化する。君の仕事効率はさらに上がるはずだ」

「私の効率を心配する前に、ご自分の手を動かしてください。閣下の分の決済、まだ半分も終わっていませんよ」

「ふむ……。君が隣でそんなにキビキビと働いている姿を見ていると、つい見惚れてしまってね。ペンを持つ手が止まるんだ」

「……その口、縫い合わせましょうか?」

私は冷たく言い放ち、手元の書類に『却下』の特大スタンプを叩きつけた。

「おや、手厳しい。だがそんな冷たいところも君の魅力だ」

シリウスは事もなげに笑い、ようやく重い腰を上げて羽ペンを取った。

彼が本気を出せば、処理スピードは私と同等、あるいはそれ以上だ。

氷の瞳が書類を走る。

その横顔は、先ほどまでのふざけた態度が嘘のように理知的で、冷徹な美しさを放っていた。

(……癪だけど、仕事をしている時のこの人は格好いいのよね)

私は内心で舌を打ち、自分も作業に集中することにした。

カリカリ、と二人のペンが走る音だけが室内に響く。

時折、鎖が触れ合う音が心地よいリズムを刻む。

沈黙の共有。

それは、ギルバート殿下といた時には決して味わえなかった、奇妙な『連帯感』だった。

「――リコ」

不意に、シリウスが私の名前を呼んだ。

「何ですか。話しかけるなら手を動かしながらにしてください」

「君が持っている『裏帳簿』……あれ、少し見せてもらえるかな」

私はピクリと肩を揺らした。

「……何のことでしょう。私はそんな恐ろしいもの、持っていませんわ」

「とぼけなくていい。ベルクの宿でリュックを抱きしめていた君の必死な顔、今でも鮮明に思い出せる。あれには、この国の貴族たちの『弱み』が全て記されているんだろう?」

シリウスはペンを置き、私の方へ体を向けた。

「今、城内には君の復帰を快く思わない連中もいる。殿下の婚約者だった君が、私の婚約者として戻ってきたことを『節操がない』と叩こうとしている奴らだ」

「……わかっています。廊下ですれ違うたびに、ひそひそ声が聞こえますから」

「そんな奴らを一掃するために、その帳簿の情報が必要だ。……どうだい、私に投資してみないか?」

私はしばらく沈黙した。

そして、引き出しの奥から一冊の薄い黒革の手帳を取り出し、デスクの上に置いた。

「……これは私の『生命保険』です。渡すわけにはいきません」

「だろうね。では、閲覧料を払おう。金貨百枚でどうだい?」

「あら、安すぎますわ。私の労力を舐めないでください」

私は不敵に笑い、手帳をトントンと叩いた。

「金貨五百枚。それと、今夜の残業は無しにしてください。私はゆっくりお風呂に入りたいんです」

「……交渉成立だ。今すぐ会計局に支払わせよう。残業の件も承知した。ただし、風呂には私が入れてあげようか?」

「死んでもお断りです。閣下は一人で水風呂にでも浸かっていてください」

私は手帳を開き、特定のページを彼に示した。

そこには、私を陰口で叩いている急先鋒――バルガス伯爵の、王室費横領の証拠がびっしりと書き込まれていた。

シリウスはその内容に目を通すと、楽しそうに目を細めた。

「くく……。素晴らしい。リコ、君はやはり最高の『悪女』だね」

「お褒めに預かり光栄ですわ。有能な上司を持つと、部下も悪知恵が働くようになりますの」

「上司、か。……いつか『旦那様』と呼ばせてみせるよ」

シリウスは私の手を取り、その甲に軽く唇を寄せた。

鎖が短く鳴り、私の心臓が不自然な音を立てる。

「……っ、仕事に戻ります!」

私は顔が熱くなるのを隠すように書類に顔を埋めた。

シリウスは満足げに笑い、手帳の情報を元に『粛清』の計画を練り始めた。

窓の外では、夕闇が王都を包み込み始めている。

ギルバート殿下が作り出した無能な混沌。

それを、私たち二人の『悪意』と『知能』が、塗り替えていく。

過酷な労働環境には違いないけれど。

(……まあ、少しだけなら、悪くないかもしれないわね)

そんなことを考えながら、私は次の書類を手に取った。

もちろん、残業を回避するために、指が壊れるほどのスピードでペンを走らせることも忘れずに。
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