婚約破棄、ありがとうございます!引継ぎは完璧ですので。

ちゃっぴー

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「……ああ、この世からすべての仕事が消滅すればいいのに」


シェリルは、よだれで濡れた枕に頬を寄せながら、幸福な独り言を漏らした。
カーテンを閉め切り、時計の針も見ず、ただ重力に従って布団と一体化する。
これこそが、彼女が二十年の人生で求めていた真の聖域だった。


しかし、運命……あるいは王都の無能どもは、それを許さなかった。


ドンドンドンドンドンドンドン!


「シェリル・ノーザランド! いるのは分かっている、開けろ!」


鼓膜を突き破らんばかりの、力強い、そして聞き覚えのある硬質な声。
シェリルは布団を頭まで被り、この世の終わりのような呻き声を上げた。


「……マーサ。マーサはどこ? 今すぐあの玄関に落とし穴を作ってちょうだい。物理的に、再起不能なレベルの深いやつを」


「お嬢様、残念ながら私は庭で洗濯物を干しておりますので、落とし穴の掘削には間に合いません。あと、あの方は騎士団長様ですよ。並の落とし穴では無傷で生還されます」


階下からマーサの冷静な声が返ってくる。
シェリルは舌打ちし、三日三晩着替えていない(が、最高に肌触りのいい)寝巻き姿のまま、のろのろと這い出した。


「……もう。どいつもこいつも、人のプライベートをコストゼロで侵害して……!」


階段を転げ落ちるように降り、玄関の閂を乱暴に外す。
勢いよく扉を開けると、そこには案の定、銀の鎧を朝日よりも眩しく輝かせた男が立っていた。


「……何の用かしら。聖域への不法侵入なら、今すぐ憲兵を呼ぶわよ。あ、憲兵のトップはあなただったわね。じゃあ、神殿に不敬罪で訴えるわ」


「……それが、かつて王国の至宝とまで謳われた公爵令嬢の姿か」


騎士団長ウォルフ・アイゼンは、目の前に立つ女性をまじまじと見つめ、絶句していた。
髪は鳥の巣のように乱れ、顔には枕の跡がくっきりと残り、高級シルクとは程遠い、ぶかぶかの寝巻きに身を包んでいる。


「至宝? そんなキラキラした肩書きは昨日、ゴミ箱に捨ててきたわ。今の私はただの『眠れる森の美女(自称)』よ。で、何の御用? サインなら書かないし、借金の保証人にもならないわよ」


「ふざけるな。王都が大混乱に陥っている。殿下は発狂し、ライラ嬢は書類の山を見て失神した。財務大臣は倒れ、外交官たちは『シェリルを出せ』と暴動寸前だ」


ウォルフが深刻な顔で一歩踏み込む。
シェリルはそれを、玄関の箒で器用に押し返した。


「あら、素晴らしいわ! それはつまり、私がこれまでどれだけ過剰なサービスを提供してきたかっていう証明じゃない? 彼らにはいい勉強になるわ。自分の足で歩くことを覚えるのね」


「……帰ってこい、シェリル。これは命令ではなく、俺個人の頼みだ。このままだと、一週間以内にこの国は事務手続きの遅延だけで滅びる」


「滅びればいいじゃない。新しい国ができたら、次は『週休五日制』の憲法を作るように進言しておいて。じゃ、私は寝るから」


「待て! 話は終わっていない!」


ウォルフが強引に扉に足をかけ、閉じるのを阻んだ。
その腕力はさすがに大陸最強と名高い騎士だ。シェリルの貧弱な筋力では太刀打ちできない。


「しつこいわね! あなた、そんなに私を働かせたいの? 私を過労死させて、その葬儀でかっこいい弔辞でも読むのが目的?」


「誰がそんなことを言った! 俺は……俺は、お前が正当な評価も受けず、あんな無能な王子に使い潰されるのが、見ていられなかっただけだ」


ウォルフの言葉に、シェリルはふっと動きを止めた。
少しだけ、意外そうな顔をして彼を見上げる。


「……あら。意外ね。あなた、私のこと嫌いかと思ってたわ。いつも私の指示に対して『合理的すぎて血も涙もない』なんて文句を言っていたじゃない」


「……嫌いなら、わざわざ王都から三日三晩、馬を飛ばしてこんな辺境まで来ない」


ウォルフはバツが悪そうに視線を逸らした。
その耳の端が少しだけ赤いことに、シェリルは気づかないふりをする。
今の彼女にとって、恋愛感情は「睡眠時間を削るノイズ」でしかないのだ。


「とにかく、私は戻らない。どうしても戻せというなら、まずは私の有給休暇(隠居)を妨害したことによる精神的苦痛への慰謝料として、国庫の半分を要求するわ。それと、殿下の前歯を二本、私の目の前で折ること。それが条件ね」


「……前者はともかく、後者は反逆罪になるぞ」


「じゃあ交渉決裂ね。さようなら」


「待てと言っているだろう! ……分かった、戻るのが嫌なら、せめてこれに目を通せ」


ウォルフが懐から一通の封筒を取り出した。
シェリルは警戒しながらそれを指先でつまみ上げる。


「……何? 果たし状? それとも呪いの手紙?」


「……俺が書いた、この別荘周辺の警備計画書だ。お前がここに残るというなら、勝手にしろ。だが、王都の刺客や、お前を連れ戻そうとする馬鹿どもがここへ押し寄せるのは時間の問題だ」


シェリルは封筒を開き、中身を数秒でスキャンした。
そして、鼻で笑う。


「……不合格。ここ、裏の林からの侵入経路がガバガバよ。それからこの見張り位置、死角が多すぎるわ。こんな計画じゃ、私の二度寝は三日で妨害される」


「……なんだと?」


「貸しなさい。私が赤ペンで修正してあげる。……あ、しまった! 私、もうペンは握らないって決めたんだったわ!」


シェリルは慌てて書類をウォルフに押し返した。
しかし、一度「非効率」を見てしまうと、修正せずにはいられないのが彼女の性分だった。


「……いいわ。あなたがここに居座って、私の安眠を守る盾になるというなら、最低限の『コンサルタント』だけはしてあげる。ただし、労働時間は一日十分よ。それ以上は一秒につき金貨一枚を請求するわ」


「……十分か。随分と高価なコンサルタントだな」


「当然よ。私の休息には、それだけの価値があるの」


シェリルは勝ち誇ったように笑い、今度こそ扉を閉めた。
外では、騎士団長が大きな溜息をつく気配がした。


「……マーサ! 客間に一人追加よ! 食事は一番安い麦粥でいいから、彼をしっかり働かせなさい!」


「かしこまりました、お嬢様。……なんだかんだ言って、結局仕事をしておられますね」


「うるさいわね! これは将来の快眠のための『投資』よ!」


シェリルは再びベッドへダイブしたが、その頭の中では、すでに別荘の防衛ラインをどう効率化するかという計算が、止まらなくなっていた。
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