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王都を出てから三日三晩。
馬車の車輪が悲鳴を上げ、馬が泡を吹きかける寸前で、一行は目的地に到着した。
ノーザランド公爵領の最北端。
霧深い森の奥にひっそりと佇む、かつての狩猟用別荘である。
「……着いた。着きましたわ、マーサ。見て、この素晴らしい静寂を!」
シェリルは馬車から降り立つなり、大きく両手を広げて深呼吸をした。
そこには、自分を呼びつける鐘の音も、口うるさい側近の小言も、王子の無神経な笑い声も一切ない。
「お嬢様、素晴らしい静寂というよりは、ただの放置された廃屋に見えますが……」
侍女のマーサが、埃の積もったテラスを見上げて溜息をついた。
確かに、別荘の壁には蔦が絡まり、庭の草は膝の高さまで伸びている。
「いいのよ、それで! 整いすぎた環境は、かえって私を『仕事』へ駆り立ててしまうわ。この程度の荒れ具合こそ、今の私にふさわしい。さあ、中に入るわよ!」
シェリルは重い扉を押し開けた。
室内にはカビと埃の匂いが漂っていたが、彼女の目にはそこが黄金に輝く楽園に見えていた。
「マーサ、第一の指令よ。今すぐこの屋敷の『執務室』にある机と椅子を庭へ放り出してちょうだい。私は二度とペンを握らないわ」
「……それだと日記も書けませんが、よろしいのですか?」
「日記なんて効率の悪い記録、必要ないわ! 私の脳内メモリはすべて『次にいつ寝るか』という計算だけに割り当てるのよ!」
シェリルは二階へと駆け上がった。
埃が舞うのも構わず、彼女が向かった先は主寝室である。
そこには、少し古びてはいるが、巨大なキングサイズの天蓋付きベッドが鎮座していた。
「ああ……会いたかったわ、マイ・ハニー。今日からあなたと私は一蓮托生よ」
「お嬢様、ベッドに愛を囁くのはおやめください。それより、お着替えを。そんな泥だらけのドレスで横になるなんて、公爵令嬢として……」
「マーサ。あなた、さっきから『公爵令嬢として』って何度言ったかしら?」
シェリルがゆっくりと振り返る。その瞳には、ある種の覚悟が宿っていた。
「私は昨日、正式に廃嫡と婚約破棄をセットで受理されたの。今の私は、ただの『そこらへんに転がっている無職の女』よ。だから、その仰々しいドレスも、ガチガチに固めたコルセットも、今この瞬間に……こうしてくれるわ!」
シェリルはドレスの背中の紐を、あらかじめ用意していたナイフで一気に切り裂いた。
「お、お嬢様!? なんて野蛮な……!」
「ああ、解放感! 肺が空気を吸っているわ! 内臓が元の位置に戻っていくのを感じるわ! マーサ、例のブツを出しなさい!」
マーサが呆れ果てた様子で差し出したのは、王都の裏市場でシェリルが特注させた「究極の寝巻き」だった。
それはシルクの滑らかさと、綿の柔らかさを兼ね備え、一切の装飾を省いた、まさに『寝るためだけに特化した戦闘服』である。
「ふふふ……見て。この、どこにも締め付けのないフォルム。これこそが自由の象徴よ」
シェリルは手際よく(かつ効率的に)着替えを済ませると、鏡の前に立った。
髪を振り乱し、すっぴんの顔で、ダボダボの寝巻きを纏った姿。
王宮の連中が見れば、腰を抜かして失神するような格好だ。
「完璧だわ。これなら誰にも私を『有能な王太子妃候補』だなんて思わせない」
「確かに。ただの不審者に見えますわ」
「最高の褒め言葉ね! さあ、マーサ。私はこれから、十五時間の二度寝に入るわ。たとえ隣国が攻めてこようと、殿下が泣いて土下座しに来ようと、決して私を起こさないこと。いいわね?」
「……承知いたしました。食事はどうされますか?」
「枕元に、日持ちのするスコーンと水を置いておいて。手が届く範囲以外の移動は、今日の私にはハードワークすぎるわ」
シェリルはダイビングするようにベッドへ飛び込んだ。
羽根布団の柔らかさが、全身を優しく包み込む。
「ああ……。シーツの摩擦係数が……理想的……。意識が……遠のく……」
数秒後。
そこには、かつて鉄の女と呼ばれたシェリルの姿はなかった。
ただ、幸せそうに鼻提灯を膨らませて眠る、一人の「元」悪役令嬢がいるだけだった。
その一方で。
王都のジュリアン王子の寝室。
「……シェリル。おい、シェリル! 明日の園遊会の案内状の文面、どうすればいいか聞いて……。あ、いないんだった……」
ジュリアンは、暗闇の中で一人、誰も答えない部屋に呟いた。
机の上には、ライラが「一生懸命書きましたぁ」と言って持ってきた、ハートマークだらけで解読不能な報告書が山積みになっている。
「なぜだ……。なぜあいつがいないだけで、この国はこんなに不便なんだ……」
王子の悲痛な叫びなど知る由もなく。
北の果ての別荘では、シェリルが人生で初めての「無駄な時間」を全力で謳歌していたのである。
馬車の車輪が悲鳴を上げ、馬が泡を吹きかける寸前で、一行は目的地に到着した。
ノーザランド公爵領の最北端。
霧深い森の奥にひっそりと佇む、かつての狩猟用別荘である。
「……着いた。着きましたわ、マーサ。見て、この素晴らしい静寂を!」
シェリルは馬車から降り立つなり、大きく両手を広げて深呼吸をした。
そこには、自分を呼びつける鐘の音も、口うるさい側近の小言も、王子の無神経な笑い声も一切ない。
「お嬢様、素晴らしい静寂というよりは、ただの放置された廃屋に見えますが……」
侍女のマーサが、埃の積もったテラスを見上げて溜息をついた。
確かに、別荘の壁には蔦が絡まり、庭の草は膝の高さまで伸びている。
「いいのよ、それで! 整いすぎた環境は、かえって私を『仕事』へ駆り立ててしまうわ。この程度の荒れ具合こそ、今の私にふさわしい。さあ、中に入るわよ!」
シェリルは重い扉を押し開けた。
室内にはカビと埃の匂いが漂っていたが、彼女の目にはそこが黄金に輝く楽園に見えていた。
「マーサ、第一の指令よ。今すぐこの屋敷の『執務室』にある机と椅子を庭へ放り出してちょうだい。私は二度とペンを握らないわ」
「……それだと日記も書けませんが、よろしいのですか?」
「日記なんて効率の悪い記録、必要ないわ! 私の脳内メモリはすべて『次にいつ寝るか』という計算だけに割り当てるのよ!」
シェリルは二階へと駆け上がった。
埃が舞うのも構わず、彼女が向かった先は主寝室である。
そこには、少し古びてはいるが、巨大なキングサイズの天蓋付きベッドが鎮座していた。
「ああ……会いたかったわ、マイ・ハニー。今日からあなたと私は一蓮托生よ」
「お嬢様、ベッドに愛を囁くのはおやめください。それより、お着替えを。そんな泥だらけのドレスで横になるなんて、公爵令嬢として……」
「マーサ。あなた、さっきから『公爵令嬢として』って何度言ったかしら?」
シェリルがゆっくりと振り返る。その瞳には、ある種の覚悟が宿っていた。
「私は昨日、正式に廃嫡と婚約破棄をセットで受理されたの。今の私は、ただの『そこらへんに転がっている無職の女』よ。だから、その仰々しいドレスも、ガチガチに固めたコルセットも、今この瞬間に……こうしてくれるわ!」
シェリルはドレスの背中の紐を、あらかじめ用意していたナイフで一気に切り裂いた。
「お、お嬢様!? なんて野蛮な……!」
「ああ、解放感! 肺が空気を吸っているわ! 内臓が元の位置に戻っていくのを感じるわ! マーサ、例のブツを出しなさい!」
マーサが呆れ果てた様子で差し出したのは、王都の裏市場でシェリルが特注させた「究極の寝巻き」だった。
それはシルクの滑らかさと、綿の柔らかさを兼ね備え、一切の装飾を省いた、まさに『寝るためだけに特化した戦闘服』である。
「ふふふ……見て。この、どこにも締め付けのないフォルム。これこそが自由の象徴よ」
シェリルは手際よく(かつ効率的に)着替えを済ませると、鏡の前に立った。
髪を振り乱し、すっぴんの顔で、ダボダボの寝巻きを纏った姿。
王宮の連中が見れば、腰を抜かして失神するような格好だ。
「完璧だわ。これなら誰にも私を『有能な王太子妃候補』だなんて思わせない」
「確かに。ただの不審者に見えますわ」
「最高の褒め言葉ね! さあ、マーサ。私はこれから、十五時間の二度寝に入るわ。たとえ隣国が攻めてこようと、殿下が泣いて土下座しに来ようと、決して私を起こさないこと。いいわね?」
「……承知いたしました。食事はどうされますか?」
「枕元に、日持ちのするスコーンと水を置いておいて。手が届く範囲以外の移動は、今日の私にはハードワークすぎるわ」
シェリルはダイビングするようにベッドへ飛び込んだ。
羽根布団の柔らかさが、全身を優しく包み込む。
「ああ……。シーツの摩擦係数が……理想的……。意識が……遠のく……」
数秒後。
そこには、かつて鉄の女と呼ばれたシェリルの姿はなかった。
ただ、幸せそうに鼻提灯を膨らませて眠る、一人の「元」悪役令嬢がいるだけだった。
その一方で。
王都のジュリアン王子の寝室。
「……シェリル。おい、シェリル! 明日の園遊会の案内状の文面、どうすればいいか聞いて……。あ、いないんだった……」
ジュリアンは、暗闇の中で一人、誰も答えない部屋に呟いた。
机の上には、ライラが「一生懸命書きましたぁ」と言って持ってきた、ハートマークだらけで解読不能な報告書が山積みになっている。
「なぜだ……。なぜあいつがいないだけで、この国はこんなに不便なんだ……」
王子の悲痛な叫びなど知る由もなく。
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