婚約破棄、ありがとうございます!引継ぎは完璧ですので。

ちゃっぴー

文字の大きさ
3 / 28

3

しおりを挟む
「出したまえ! 馬を潰しても構わない、時速制限の限界を超えて突き進むのです!」


王宮の正門を抜けた瞬間、シェリルは馬車の中で御者に向けて叫んだ。
公爵家の紋章が入った豪華な馬車は、主人の言葉に応えるように猛然と加速する。


「お、お嬢様! そんなに急がずとも、もう追っ手は……」


向かいに座る専属侍女のマーサが、ガタガタと揺れる車内で必死に座席にしがみついている。
彼女はシェリルの激務を支えてきた唯一の理解者だが、今の主人の形相には引き気味だった。


「甘いわよマーサ! あの殿下の無能さを甘く見ないで! おそらく一時間もしないうちに、彼は『朝食のメニューが分からない』とか『靴下の替えがどこにあるか思い出せない』といった低次元な理由で、私を連れ戻しに騎士を派遣するわ!」


「……さすがにそこまででは……」


「いいえ、確信があるわ! あの男は自分の胃袋の位置さえ私に確認しなければ不安になるレベルなのよ! そんなことより、予定のルートの確認を。検問所は?」


シェリルは懐から分厚い手帳……ではなく、一枚の簡潔な地図を取り出した。
そこには王都から領地の別荘まで、最短かつ「追っ手を撒きやすい」ルートが緻密に書き込まれている。


「第一検問所まであと十分です。お嬢様の指示通り、昨夜のうちに『公務による緊急通行許可証』を偽造……いえ、用意しておきました」


「よくやったわ、マーサ。後で昇給してあげる。今の私は公爵家の令嬢ではなく、ただの『全力で逃亡する有給休暇の亡者』よ。何者にも私の眠りを妨げさせないわ!」


馬車が激しく跳ねる。
だがシェリルは、その振動すら心地よいマッサージのように感じていた。
王宮という名の牢獄から遠ざかるほど、肩の凝りが魔法のように解けていく。


「……来ましたわね」


シェリルが背後の窓から顔を出すと、遠くの方で土煙が上がっていた。
数騎の馬が、こちらを追ってきているのが見える。


「お嬢様、やはり追っ手です! あれは近衛騎士団の紋章……まさか、殿下が本当に?」


「ふん、仕事の速さだけは一人前ね。マーサ、あれを使いなさい。私の『退職金代わり』に王宮の備品庫からくすねて……いえ、譲り受けてきた魔導具よ」


シェリルが指し示したのは、小さな煙玉のような形をした魔導具だった。
マーサがそれを窓から放り投げると、背後で巨大なカーテンのような煙が立ち込める。


「な、なんですのこれ!? ただの煙じゃありませんわ!」


「ふふふ。それは私が独自に開発した『事務作業欲減退ガス』を込めた煙玉よ。あの煙を吸った者は、十五分ほど『なんだか今日はもう定時だし帰りたいな』という気分に支配されるわ。騎士といえど人間、労働意欲を削がれれば追撃など不可能です!」


「お嬢様……その才能を、もっと平和なことに使いませんか?」


煙に巻かれた騎士たちが、明らかにスピードを落としていくのが見えた。
一人の騎士にいたっては、馬を止めて空を見上げ、物思いに耽っている。


「さあ、今のうちに国境を越えるわよ! 目指すは領地の最果て、通信も届かない、社交界の噂も聞こえない、楽園の別荘!」


馬車は爆音を立てて街道を駆け抜ける。
シェリルは座席に深く背を預け、ようやく一つ、大きな溜息をついた。


「……終わったのね。本当に」


「はい。お疲れ様でした、お嬢様。……寂しくはありませんか?」


マーサの問いに、シェリルは目を閉じた。
三年間。
愛など微塵もない婚約者のために、国を支える影の主役として馬車馬のように働いてきた。
裏切られ、汚名を着せられ、追放される。
普通なら悲劇のヒロインとして泣く場面だろう。


「寂しい? 冗談言わないで。私は今、人生で一番幸せよ。マーサ、別荘に着いたらまず何をするか、リストを作成しておいて」


「はあ。例えば、どのような?」


「まず、ドレスをすべて燃やす。代わりに一番安くて肌触りのいいパジャマを用意して。それから、鏡をすべて布で覆うわ。化粧なんて二度としない。食事はすべてワンプレート。洗い物を減らすためよ」


シェリルの瞳には、野心でも復讐心でもなく、純粋な「怠惰」への情熱が灯っていた。


「そして……朝の十時まで寝るわ。いえ、昼の二時まで。いいえ、いっそ一日中!」


「それはもう、ただの廃人ではありませんか?」


「最高じゃない。誰にも文句は言わせないわ。私は悪役令嬢として国を追われた身なんですもの。不貞腐れて寝込む権利くらいあるはずよ!」


馬車が大きく揺れ、国境のゲートを強引に突破した。
背後の王都は、もう豆粒ほどにしか見えない。


その頃、王宮の執務室では。


「……シェリルはどこだ!? この『第七公文書』の三ページ目の、この数字の根拠がどこに書いてあるのか分からないんだ!」


ジュリアンの悲鳴が響き渡っていた。
彼の足元には、昨日シェリルが置いていった「引継ぎ資料」が散乱している。
その横で、ライラが半べそをかきながら、逆さまに持った書類を眺めていた。


「殿下ぁ……文字が多すぎて、目が回りますぅ……。あと、お腹空きましたぁ……」


「ライラ、君が代わりをやるんだろう!? ほら、ここにあるチェックリストを……。待て、チェックリストの使い方の説明書が、別の箱に入っているのか!? あああ、シェリルを連れ戻せ! 今すぐにだ!」


ジュリアンの叫びが虚しくこだまする中。
シェリルを乗せた馬車は、誰にも追いつけないスピードで、自由な北の空へと消えていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王女様は温かいごはんが食べたい ~冷えた王宮料理を変えたら、オープンキッチンと政略婚約がついてきました~

しおしお
恋愛
異世界の王女リリアーヌは、前世の記憶を持つ転生者。 豪華絢爛な王宮で暮らし始めた彼女だったが、ひとつだけどうしても耐えられないことがあった。 ――食事が、冷めているのだ。 どれほど立派な料理でも、ぬるいスープや冷めた肉ではホッとできない。 「温かいごはんが食べたい」 そのささやかな願いを口にしたことから、王宮ではなぜか大騒動が巻き起こる。 地下厨房からの高速搬送。 専用レーンを爆走するカートメイド。 扉の開閉に命をかけるオープナー。 ついには食堂に火を持ち込むオープンキッチンまで誕生して――!? 温かさは、ホッとさせてくれる。 それは料理だけではなく、人との距離まで少しずつ変えていくものだった。 冷えた王宮に湯気と笑顔を取り戻す、 食と温かさをめぐる宮廷日常コメディ! -

婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~

ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」 義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。 父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。 けれど―― 公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。 王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。 さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。 そして下されたのは――家ごとの褫奪。 一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。 欲しがったのは肩書。 継いだのは責任。 正統は叫びません。 ただ、残るだけ。 これは、婚約を奪われた公爵令嬢が “本当に継がれるべきもの”を証明する物語。

婚約破棄された宰相です。 正直、婚約者も宰相も辞めたかったので丁度よかったです

鍛高譚
恋愛
内容紹介 「婚約破棄だ! そして宰相もクビだ!」 王宮の舞踏会で突然そう宣言したのは、女性問題を繰り返す問題王太子ユリウス。 婚約者であり王国宰相でもあるレティシアは、静かに答えた。 「かしこまりました」 ――正直、本当に辞めたかったので。 これまで王太子の女性問題の後始末、慰謝料交渉、教会対応、社交界の火消し…… すべて押し付けられていたレティシアは、婚約も宰相職もあっさり辞任。 そしてその瞬間―― 王宮が止まった。 料理人が動かない。 書類が処理されない。 伝令がいない。 ついにはトイレの汚物回収まで止まり、王宮は大混乱。 さらに王太子の新たな女性問題が発覚し、教会は激怒。 噂は王都中に広がり、王宮は完全に統治不能に。 そしてついに―― 教会・貴族・王家が下した決断は、 「王太子廃嫡」 そして。 「レティシア、女王即位」 婚約破棄して宰相をクビにした結果、 王宮を止めてしまった元王太子の末路とは――? これは、婚約破棄された宰相が女王になるまでの 完全自業自得ざまぁ物語。

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

婚約破棄された幼い公爵令嬢、目覚めたら絶世の美女でした

鍛高譚
恋愛
『幼すぎる』と婚約破棄された公爵令嬢ですが、意識不明から目覚めたら絶世の美女になっていました 幼すぎる、頼りない――そんな理由で婚約者に見限られた公爵令嬢シルフィーネ。 心ない言葉に傷ついた彼女は、事故に遭い意識不明となってしまう。 しかし一年後、彼女は奇跡的に目を覚ます。 そして目覚めた彼女は――かつての面影を残しつつも、見る者すべてを惹きつける絶世の美女へと変貌を遂げていた! 周囲の反応は一変。婚約破棄を後悔する元婚約者、熱視線を送る他家の令息たち、さらには王太子からの突然の縁談まで舞い込み――? 「もう、誰にも傷つけられたくない。私は私の幸せを手に入れるの」 これは、冷たく突き放された少女が美しく咲き誇り、誇りと自由を手に入れる、ざまぁ&逆転恋愛劇。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

処理中です...