婚約破棄、ありがとうございます!引継ぎは完璧ですので。

ちゃっぴー

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「……シェリルはまだか! シェリルを連れ戻した騎士からの報告はまだ入らんのか!?」


王立王宮、執務室。
第一王子ジュリアンの叫び声が、埃っぽく淀んだ空気の中に虚しく響いた。


かつては常に清潔で、甘い花の香りが漂っていたこの部屋も、今や見る影もない。
床には出所不明の書類が散乱し、机の上には中身の固まったコーヒーカップが地層のように積み重なっている。


「殿下、落ち着いてくださいまし……。あ、あの、私が肩をお揉みしますから……っ」


ライラがおずおずと手を伸ばすが、ジュリアンはその手を乱暴に振り払った。


「肩など揉まなくていい! そんなことより、この『隣国への宣戦布告書』と間違えて送られそうになった『お茶会の招待状』の山をどうにかしろ!」


「だ、だって……封筒の形が似ていたんですものぉ!」


ライラが泣きべそをかくが、事態は一刻を争っていた。
そこへ、真っ青な顔をした財務大臣が、ノックもせずに飛び込んできた。


「殿下! 大変です! 王宮の食料庫が空になりました!」


「はあ!? 昨日の今日で空になるわけなかろう! 備蓄は三ヶ月分あるはずだ!」


「それが……シェリル様がいらっしゃった頃は、彼女が独自のルートで、賞味期限が近いものを市場と物々交換し、常に最新の備蓄を『ゼロコスト』で維持していたのです! その契約書が……彼女が持っていった三十巻の引継ぎ資料の中にしかなくて、誰も更新の手続きが分からず、業者がすべて回収していきました!」


「な、なんだと……!? では、今日の晩餐はどうなる!」


「パンと、水だけですな。あ、水も水道局への支払いが滞っておりまして、あと一時間で止まるとの連絡が……」


ジュリアンは頭を抱えて椅子に崩れ落ちた。
彼はようやく理解し始めていた。
「悪役令嬢」と蔑んでいた婚約者が、実はこの国の「生命維持装置」そのものだったということに。


「……あいつ、どれだけの仕事を一人で回していたんだ……」


「殿下! さらに問題が! 近衛騎士団の半分が『有給休暇を申請する』と言って、勝手に詰め所から出ていきました!」


「なんだそれは!? 騎士に有給などあるか!」


「シェリル様が残した『騎士団福利厚生・改善案』という書類を、誰かが勝手に見つけ出したようで……。そこに『週休二日、深夜手当なしの労働は騎士道精神に反する』と書かれていたとかで、みんな納得して帰ってしまいました!」


「シェリルぅぅぅぅ! 貴様、いなくなってからも余計なことを……!」


ジュリアンの絶叫が響く中、場面は北の果ての別荘へと移る。


そこでは、シェリルが「劇物」と書かれた小瓶を手に、実に楽しそうな顔をしていた。


「ふふふ。準備はいいかしら、ウォルフ? 敵の馬車が村の入り口に到達してから、私の作戦終了までの目標時間は三分。それ以上かかったら、あなたの今日の夕飯は抜きよ」


「……お前、王宮があのザマだと知っていて、よくそんなに落ち着いていられるな」


ウォルフは、シェリルから手渡された「謎の粉末」を怪訝そうに見つめた。


「知っているも何も、そうなるように仕組んで……いえ、当然の帰結ですわ。メンテナンスを怠った機械が壊れるのは道理でしょう?」


「……仕組んで、と言いかけなかったか?」


「気のせいよ。さあ、来たわ。王宮の『お掃除部隊』のお出ましね」


窓の外、街道の先から、豪華な装飾が施された騎士団の馬車が数台、猛烈な勢いで近づいてくるのが見えた。
先頭を走る騎士が、大声で布告する。


「シェリル・ノーザランド様! ジュリアン殿下の命により、貴女を王都へ護送に参りました! 速やかに姿を現してください!」


シェリルは窓を開け放ち、優雅に……というよりは、獲物を前にした捕食者のような笑みを浮かべて身を乗り出した。


「ご苦労さま! でも残念ながら、今の私は『無職』を全力で楽しんでいる最中なの。営業時間は終了したわ。お帰りはあちらよ!」


「拒否は認められません! 無理やりにでも……」


「あら、無理やり? 効率の悪い言葉ね。それなら、こちらから『粗品』を差し上げるわ!」


シェリルが合図を送ると、屋根の上に待機していたマーサが、特大の蛇腹式送風機を起動させた。


「いっけぇー! お嬢様特製・『超・労働意欲喪失香料』、散布開始ですわ!」


「な、なんだこの煙は……!? うっ、この匂い、実家の母さんの焼いたパイの匂いが……」


「お、俺……。なんでこんなところで、鎧なんて重いもの着てるんだっけ……?」


煙に包まれた騎士たちが、次々と馬から降り、その場に座り込み始めた。
ある者は故郷を想って涙を流し、ある者は「明日から本気出す」と呟いて横になる。


「……おい、シェリル。これ、中身は何だ?」


ウォルフが引き気味に尋ねる。


「ただのアロマテラピーの応用よ。人間の脳に『極上の安らぎ』を強制的に叩き込む成分を配合したわ。これで彼らは、少なくとも丸一日は立ち上がれない。追っ手としては機能停止ね」


シェリルはパチンと指を鳴らし、窓を閉めた。


「さあ、邪魔者は消えたわ。ウォルフ、今の散布で三分二秒。目標をオーバーしたから、今日の麦粥のトッピングの漬物は半分にするわよ」


「……厳しすぎないか、お前」


「時間は命。私の睡眠時間を削ろうとする者には、一秒の猶予も与えない。それが私の、新しい『悪役』の流儀よ」


王宮が崩壊の序曲を奏でる中、北の別荘では、一人の令嬢が勝利の美酒(ただの安ワイン)を掲げていた。
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