婚約破棄、ありがとうございます!引継ぎは完璧ですので。

ちゃっぴー

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「……完了。現時刻、午後十一時五十八分。目標より二分早く、王宮内の滞留書類全ての処理を完遂しましたわ」


シェリルは手に持っていた印章をデスクに置き、深く椅子にもたれかかった。
執務室の床を埋め尽くしていた書類の山は消え去り、今や整理整頓された棚に整然と収まっている。


「お、お疲れ様です、シェリル先生……。私、もう目から数字がこぼれそうですぅ……」


隣でライラが机に突っ伏した。
彼女の指はインクで真っ黒だが、その表情にはかつての依存的な弱さはなく、戦い抜いた戦士のような充足感が漂っている。


「よくやったわ、ライラ。……さて、ウォルフ。約束通り、私はこれでお暇(いとま)をいただくわよ。馬車の準備は?」


「……いや、シェリル。それが、そう簡単にはいかないようだぞ」


窓際で腕を組んでいたウォルフが、苦い顔をして廊下の方を指差した。
そこには、王宮の重鎮たちを引き連れた、一人の威厳ある老人が立っていた。
現国王、アルフォンス・フォン・ベルトラン。ジュリアンの父であり、この国の頂点に立つ男である。


「……おやおや。これほど短期間で王宮の機能を正常化させるとは。やはり君は、我が国の国宝だね、シェリル嬢」


「陛下。夜分にわざわざ御足労いただき、恐縮ですわ。……ですが、褒め言葉は不要です。私は契約通り仕事を完遂しました。明日の朝には別荘へ戻らせていただきます」


シェリルは立ち上がり、完璧な、しかし心のこもっていない礼をした。
対する国王は、食えない笑みを浮かべて一歩前へ出た。


「戻る? 何を言っているんだね。君がいなくなれば、また三日でこの国は瓦解する。……そこでだ。君に新しい『契約』を提示したいと思ってね」


「……契約? お断りしますわ。私の時給に見合う報酬を、この国の財政はもう捻出できないはずよ。先ほど私が予算を削ったばかりですから」


「ふふふ。金銭の話ではない。……シェリル嬢、君は『自由』を求めているのだろう? なら、この王宮を君の『自由な遊び場』にするというのはどうかな?」


国王が広げたのは、一枚の古びた羊皮紙だった。
そこには、王国の憲法に記された特例条項が並んでいる。


「君を『王宮特別全権代行』に任命する。君の命令は、私の命令と同等。ジュリアンはもちろん、私に対しても『効率化』を理由に拒否権を発動できる権利を認めよう。……どうだね? 君を縛るものは、この国から一切なくなる」


「……全権代行? それはつまり、休む間もなく働けということでしょう? そんな名誉職という名の『終身刑』、誰が受けるものですか。私は、パジャマで二度寝がしたいの。それだけなのよ!」


シェリルが声を荒らげると、国王は「困ったな」という顔をしながら、横にいるウォルフに視線を送った。


「……だが、君が去れば、ウォルフ団長も元の『近衛騎士団長』に戻ることになる。あいにく、今の騎士団は規律が乱れていてね。彼はこれから数年間、王都を離れることはできないだろう」


「……! それは……」


シェリルは絶句した。
ウォルフは無言のまま、ただシェリルを見つめている。
もし彼女が別荘に戻るなら、ウォルフは義務としてこの王都に残り、あのアホなジュリアンの護衛を続けなければならないのだ。


「……卑怯だわ。あなたは、私の『資産(ウォルフ)』を人質に取るというのね?」


「人質だなんて人聞きが悪い。私は、適材適所の配置を考えているだけだよ。……ああ、そうそう。もし君が全権代行を引き受けるなら、ウォルフ君の配属先も君が自由に決めていいことにしよう。……君の『個人秘書』としてね」


「……っ!」


シェリルの脳内の計算機が、激しく火花を散らした。
全権代行(激務) VS 自由な隠居(孤独)。
しかし、そこに「ウォルフを私物化できる権利」という変数が投入された瞬間、方程式のバランスが崩壊した。


「……お嬢様。これ、完全に陛下の手の平の上ですわよ」


マーサが横から耳打ちするが、シェリルの耳には届いていない。
彼女は真っ赤な顔で、ウォルフと国王を交互に見つめた。


「……ウォルフ。あなた、どうなのよ。私の秘書なんて、地獄のようなスケジュール管理をさせられるのよ? 剣を振るより過酷だわよ?」


「……言ったはずだ、シェリル。俺は、お前の隣にいたいんだ。……秘書でも、盾でも、呼び方は何でもいい」


ウォルフが、不器用ながらも力強い声で答えた。
その言葉が、シェリルの最後の防御壁を粉砕した。


「……っ。……わかったわよ! 引き受けるわ! 引き受ければいいんでしょう!」


シェリルは国王から羊皮紙を奪い取ると、凄まじい筆圧でサインを書き込んだ。


「ただし! 条件があるわ! 年に三ヶ月は『完全有給休暇』を認めなさい! その間は国王だろうと誰だろうと、私に連絡を取ることは禁じます! それと、ジュリアン殿下の更生プログラムはライラ様に一任しますわ!」


「……ええっ!? 私、殿下を教育するんですかぁ!?」


ライラが叫ぶが、シェリルは止まらない。


「当然よ! 『無能の再教育』は、あなたの実務訓練に最適よ。……さあ、陛下! 契約は成立したわ! 今すぐウォルフの異動届を用意しなさい! 一秒の遅れも許さないわよ!」


「ははは、相変わらず仕事が早い。……これで作戦成功だな、ウォルフ君」


国王が楽しげにウィンクした。
ウォルフもまた、シェリルに見えないところで静かに親指を立てた。


(……待て。今、この二人……結託していたのかしら?)


一瞬、シェリルの脳裏に疑念がよぎったが、すでにサインはなされた後だった。


「……あーっ、もう! 自由を掴むための戦いだったはずなのに、なんで私が『国そのもの』を背負わされているのよ! 非効率! 人生最大の計算ミスだわ!」


夜の執務室に、シェリルの絶叫が響き渡った。
しかし、その表情は不思議と、これまでのどんな仕事よりも活き活きとしていた。


彼女の「究極の休息」への道は、さらに長く、険しいものへと更新されたのである。
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