婚約破棄、ありがとうございます!引継ぎは完璧ですので。

ちゃっぴー

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「……却下です、殿下。その修正案では、輸送コストが三割増しになる計算ですぅ。やり直し」


王宮の一角、かつてはジュリアンが優雅に昼寝をしていた執務室。
そこには今、無機質な紙の擦れる音と、ライラの冷徹な宣告が響いていた。


「ら、ライラ……。もう三時間も書き直しているんだ。少し休憩して、中庭のバラでも見に行かないか? 君の瞳には、やはり美しい花が……」


「殿下。バラを眺める五分間で、処理できる領民からの嘆願書は平均三通ですぅ。バラは逃げませんが、民の信頼は逃げていきます。……いいから、そのペンを動かしてください」


ライラは顔を上げることなく、猛烈な勢いで計算盤(アバカス)を弾いている。
その手つきは、一週間前までペンを逆さまに持っていた少女のものとは思えないほど、洗練されていた。


「……信じられん。ライラ、君はあんなに可愛らしく、愛の言葉を囁き合っていたではないか。今の君は、まるで……まるで、小さなシェリルじゃないか!」


ジュリアンの悲鳴に近い抗議。
その時、部屋の扉が音もなく開き、本物の「全権代行」が姿を現した。


「……私の名前を、安易な比較対象に使わないでいただけますか、殿下。不快指数の上昇は、業務効率の低下を招きますわよ」


シェリルが、ウォルフを伴って入室してくる。
彼女はライラの机に近づくと、彼女が今しがた完成させたばかりの収支報告書を指先でつまみ上げた。


「……ライラ様。この、第四区の土木予算の振り分け。予備費を二パーセント上乗せした根拠は?」


ライラは、反射的に背筋を伸ばし、淀みなく答えた。


「はい、シェリル先生! 過去十年の気象データから、来月の降水量が例年より一五パーセント増加すると予測しました。土砂崩れのリスクを考慮し、事後処理コストを事前に計上した方が、最終的な純利益は八パーセント改善されますぅ!」


「…………」


シェリルは数秒、無言でその書類を見つめた。
そして、フンと鼻を鳴らす。


「……及第点よ。一点(パーフェクト)はあげられないけれど、〇・八点くらいはつけてあげてもいいわ。……まさか、あなたが『予測値』を計算に組み込むようになるとはね」


「えへへ……。ありがとうございます、先生! 数字って、嘘を吐かないから大好きですっ!」


ライラが、かつての甘ったるい笑顔ではなく、どこか狂気すら感じる「効率への歓喜」に満ちた笑顔を見せた。
ジュリアンはそれを見て、ガタガタと震えながら後ずさった。


「お、恐ろしい……。ライラまで、シェリルと同じ毒に侵されてしまった……。俺の愛した、儚い花のようなライラはどこへ……」


「殿下。儚い花は、嵐が来れば枯れて終わりですわ」


シェリルが冷たく言い放つ。


「ですが、強固なインフラと正確な予算管理に守られた花は、次の年も咲き誇ります。……ライラ様。殿下の『更生プログラム』の進捗はどう?」


「はい! 殿下は現在、『公金と私金の区別』という初歩的な概念を、ようやく脳にインストールし終えたところです。……ただ、まだ『我慢』という変数の処理が甘いので、おやつのケーキを三割カットして負荷を与えていますぅ」


「いいわ。甘やかしは教育のノイズよ。徹底的にやりなさい」


ウォルフが、横で腕を組んで感心したように呟いた。


「……すごいな。あのライラ嬢が、今や殿下を完全に支配している。……シェリル、お前の教育(デバッグ)は、ある意味で騎士団の訓練より恐ろしいぞ」


「失礼ね。私はただ、彼女の脳内に眠っていた『最適化への欲求』を呼び覚ましただけよ。……これで、私の全権代行としての負担はさらに一五パーセント削減されるわね。素晴らしいわ」


シェリルは、窓の外を眺めながら、密かに「完全有給休暇」のカウントダウンを開始していた。
ライラという優秀な「実務ユニット」が育ったことで、彼女の隠居生活は、現実的な射程圏内に入りつつあったのだ。


「……さて。殿下、ライラ様。今日はここまでよ。ただし、明日の朝までにこの『流通改革案』の草稿をまとめておくこと。……一分の遅れも許しませんわよ」


「は、はい! 頑張ります、シェリル先生!」
「……う、うわぁぁぁん! 俺の人生、これからずっとこれなのかぁぁぁ!」


王子の叫び声を背中で聞き流しながら、シェリルは優雅に部屋を去った。


廊下を歩きながら、ウォルフがふと尋ねる。


「……お前、本当にライラのことを気に入っているんだろう。あんなに熱心に、自分の技術を叩き込んで」


「……何度も言わせないで。これは、私の自由時間を確保するための投資……」


「……いや。お前が教える時、少しだけ『姉』のような顔をしているのを、俺は見逃していないぞ」


「……! ……ウォルフ。あなたの視覚情報の解釈には、重大なバグがあるようね。今すぐ眼科へ行くことをお勧めするわ!」


シェリルは顔を真っ赤にして、早歩きで去っていった。
ウォルフは楽しげに笑いながら、その後を追う。


王宮の「悪役」たちは、今や王国で最も有能な「歯車」へと生まれ変わっていた。
そして、その中心にいる令嬢は、自らが作り上げた平和(効率)の園で、ようやく本当の休息を掴み取ろうとしていた。
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