婚約破棄、ありがとうございます!引継ぎは完璧ですので。

ちゃっぴー

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「……よし。これで最後の一枚ね。チェック終了。不備なし、誤差ゼロ、完璧だわ」


深夜の全権代行執務室。
シェリルは、自らの署名が入った『王国行政完全自動化マニュアル』の最終ページを閉じると、大きく背伸びをした。


彼女の目の前には、かつてのような「未決済」の山はない。
代わりに、彼女が育て上げた有能な事務官たちが明日から迷いなく動くための、精密な「設計図」が完成していた。


「お疲れ様です、シェリル先生。……本当に、本当に行ってしまうのですね……?」


隣で最後の記録を整理していたライラが、潤んだ瞳でシェリルを見上げた。
今のライラは、どんな複雑な予算編成も数分で解決する、王国屈指の実務家へと成長している。


「当然よ。私のリソースは、この国を再建するために一時的に貸し出していただけだわ。……ライラ様、これからはあなたがこの部屋の主よ。私が作ったシステムを保守し、無能なノイズ……主に殿下を、適切に排除し続けなさい。それがあなたの使命よ」


「はいっ! 先生の教え、一生忘れません! 殿下が『愛の歌』を歌い出したら、即座に減俸処分を下すようにしますぅ!」


「いい心掛けだわ。……さて、ウォルフ。私の荷物は?」


シェリルが振り返ると、そこにはすでに旅の支度を終え、漆黒の礼服から動きやすい旅装へと着替えたウォルフが立っていた。


「……玄関に馬車を待たせてある。マーサも先に向かわせた。……あとは、お前がこの部屋の鍵を閉めるだけだ」


「……そう。それじゃあ、行きましょうか。二度寝とジャガイモの楽園へ!」


シェリルが意気揚々と歩き出そうとしたその時。
ウォルフが、その大きな手で彼女の肩をそっと掴んで引き止めた。


「……待て、シェリル。出発する前に、もう一通だけ、確認してほしい書類がある」


「……書類? もう業務はすべて終わらせたはずよ。もし追加の予算申請なら、ライラ様に……」


「いや、これはお前にしかサインできないものだ」


ウォルフが懐から取り出したのは、王家の紋章が入った正式な書状……ではなく、彼自身の手で丁寧に書かれた、一枚の羊皮紙だった。


シェリルは怪訝そうに眉をひそめ、その書類を手に取った。
そこには、事務的なフォントを模した美しい手書きの文字で、こう記されていた。


『共同生活および人生の経営における、恒久的なパートナーシップ契約書』


「……な、何よ、これ。契約書? 条項第一条……『乙(ウォルフ)は、甲(シェリル)の安眠を妨げるあらゆる外的要因を、物理的かつ永続的に排除する義務を負う』。第二条……『甲は、乙の提供する安全保障に対し、乙の胃袋と精神の安定を維持するための食事および適度な小言を提供するものとする』……」


読み進めるうちに、シェリルの顔がじわじわと赤くなっていく。


「……第三条、『本契約の有効期間は、両名の生命維持機能が完全に停止するまでとし、更新は不要とする』。……な、何なのよ、これ! これじゃあ、まるで……」


「……婚姻届だ。お前の好む、最も『効率的』で『合理的』な書式に書き換えておいた」


ウォルフは、真剣な眼差しでシェリルを真っ直ぐに見つめた。


「……お前は、この国を救った。だが、お前自身の幸せについては、まだ計算が甘いんじゃないか? ……一人で別荘に引きこもるより、俺という『永久欠番の護衛兼・秘書』を雇っておく方が、人生のパフォーマンスは最大化されるはずだ」


「………………っ!」


シェリルの脳内の計算機が、激しく火花を散らした。
恋愛、結婚。
それは彼女の論理回路において、最も予測不能で、コストのかかる「非効率」な事象だったはずだ。


しかし、目の前の男が提示したこの「契約」は。
彼女の欠点を補い、孤独という名の損失を埋め、人生の純利益を無限に高める、究極の投資案件に見えた。


「……ウォルフ。あなた、わかっているの? この契約にサインするということは、私の『効率的なわがまま』に、一生付き合わされるということよ? 返品もキャンセルも、クーリングオフも認められないわよ?」


「……望むところだ。……お前の隣で振り回されている方が、戦場で死ぬのを待つより、よっぽど生きている実感が持てる」


ウォルフが、少しだけ照れくさそうに、だが不敵に笑った。


シェリルは、震える手でペンを握りしめた。
そして、これまでのどんな公文書よりも、慎重に、かつ情熱を込めて、自らの署名を書き入れた。


「……よし。契約成立よ! ……ただし、第四条を追加するわ! 『乙は、甲を泣かせるような事態が発生した場合、全資産を甲に譲渡した上で、一生の労働を義務づける』! 異論はないわね!」


「……ああ。お前を泣かせるような男なら、俺自身が先に叩き切っているよ」


ウォルフはシェリルの腰を引き寄せ、その額に優しく、誓いのキスを落とした。


「……ひゃいっ!? ……っ。……あ、熱力学的な……体温の……移動が……」


「……黙れ、効率マニア。こういう時は、ただ『嬉しい』と言えばいいんだ」


「…………嬉しいわよ。……バカ」


シェリルはウォルフの胸に顔を埋め、消え入るような声で呟いた。
彼女の計算式に、ようやく「幸福」という名の定数が、永遠に組み込まれた瞬間だった。


「……お、おめでとうございますぅぅぅ! 先生! ウォルフさん!」


扉の影で見守っていたライラが、耐えきれずに飛び出してきて号泣した。
その後ろでは、ジュリアンが「俺の立場は……」と膝をついているが、もはや誰も彼を視界に入れていなかった。


「さあ、本当に行きましょうか。……私たちの、新しい生活の始まりよ!」


シェリルは、ウォルフの手を力強く握りしめた。
王宮の冷たい石畳を抜け、星空の下へ。
二人を乗せた馬車は、夜明け前の王都を駆け抜け、自由と愛が待つ北の果てへと、爆走を開始したのである。
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