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1巻

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   プロローグ 異世界の


「こ……ここ、どこ……?」

 そう呟いたはずの声はかすれて上手く出てこなかった。
 ざらつく白い石の床。高い半球形の天井や白い壁に描かれた、複雑に繋がり合う青い幾何学模様。まるで外国の宮殿や神殿のようだ。さっきまで自分がいた教室の黒板も教卓もなく、先生もクラスメイトもいない。
 ここは一体どこなんだ?
 石造りの大きな広間の、舞台のように高くなった場所から恐る恐る身を起こす。すると突然辺りを揺るがすような歓声がとどろいた。跳び上がりそうになって声の方を見ると、下の方で大勢のよろい姿の男たちが僕を見上げて拳を振り上げ、聞いたことのない言葉で何かを叫んでいる。
 その先頭には白い衣をまとった老人がこちらを見つめていた。

「えっ、な、何……っ⁉」

 何が起きているのかわからず、驚きと恐ろしさに心臓がぎゅっと引き絞られる。
 よろい姿の男たちの大きな身体と彫りの深い顔。聞いたことのない異国の言葉。見慣れぬ光景。ほんの数分前まで自分のクラスの教室にいたはずなのに、どうして?
 硬い石の床に座り込んだままごくりと唾を飲み込む。
 その時男たちの先頭に立つ髭の老人が手を上げた。一斉に兵士たちがひざまずき、辺りが静まり返る。けれど彼らが僕を見る目は酷く熱っぽいままだ。
 訳がわからず縮こまって息をひそめていると、僕の元に髭の老人がやって来て何かを言った。
 けれどやはりその言葉の意味はわからない。

「あ、あの、ここは」

 何か言わなきゃと思うのに頭が混乱してそれ以上言葉が出ない。
 すると老人の後ろから三人の男たちが現れた。彼らは揃って長いマントをひるがえし、一段高い僕の前に膝をつく。同時に下の兵士たちの視線がさらに緊張を増すのが肌でわかった。
 彼らが何をしたいのかわからない。僕がここにいる理由もわからない。わからないことばかりでパニックになりかけた時、ひざまずいた三人が頭を上げた。
 その三人の視線の強さに僕は息を呑む。
 一番右にいたのは紺色のマントをまとった金髪の男だ。長い髪を後ろで束ねていて容姿は驚くほど整っている。しかし、彼の青い目は酷く剣呑けんのんな光を放って僕を見つめていた。
 真ん中の男は深緑色の布を頭に巻き、同じく深緑色のマントを羽織っている。岩のようにごつごつとしたいかつい顔で、この中で一番体格がいい。彼は初めの人よりも強烈な、まるで獲物を見つけた肉食獣のような目つきで僕を見ていた。
 慌てて視線を逸らして最後の一人に目を向け、――僕は思わず言葉を失った。
 三人目の男は明るい色のマントに暗赤色の服をまとっている。肩まである少し癖のある黒髪に褐色の肌。意志の強そうな凛々しい眉と黒い切れ長の目に吸い込まれそうになる。美しさと精悍せいかんさが同居したようなとんでもない美貌に思わずぽかんとれていると、その人は目を細めて僕を見ながらほんの少しだけ口角を上げた。
 恐怖と混乱の中で唯一向けられたその笑みに、どっと肩の力が抜ける。
 一体、何がどうなっているんだ。どうして僕はここへ?
 なんとかその答えを探そうと、僕はここで目覚めるまでの出来事を必死に思い出そうとした。


    ◇


「なんだはる、お前もうちの班かよ」

 夏休みが明けたばかりの今日、僕たちは高校生活最後の文化祭の班を決めていた。クラスでも特に目立つグループの加賀谷かがや君にそう言われて少しひるむ。それでも曖昧あいまいに微笑んでごまかそうとしたら、先生がやたらと陽気な声で横から言った。

「そう言うな。春瀬だって同じクラスの仲間だろー? 人数もちょうどいいし、お前らんとこに入れてやれー」

 空気を読んでくれない先生の言葉に思わず視線を逸らすと、隣の席の女子が机に出しっぱなしにしていた鏡に自分の顔が映っていた。癖のないまっすぐな黒髪とこれといって特徴のない目鼻立ち、あまり外に出ないせいで夏でも白い顔が真っ赤に染まっている。
 僕は小さい頃から緊張したり、誰かにじっと見られたりするとすぐ顔が赤くなってしまう。そんな顔を見られるのが嫌で、ついついにぎやかな人の輪から外れるように生きてきた。
 この癖があるせいで上手く感情を表すこともできない。
 高三にもなって恥ずかしいとは自分でも思う。両親から譲り受けた長所は何一つ見当たらないし、スポーツ万能で友達も多い兄とも似ていない。趣味も父親の本棚にずらりと並ぶ昔のマンガや小説を読むことという超インドア派だ。
 でも、両親も兄も呆れながらもそんな僕を温かく見守ってくれている。家族仲も悪くなく勉強もそこそこ楽しいし、自分の人生にはそれなりに満足している。
 けれど時々、一つでいいから僕にも何か特別な力があったらいいのにな、と思うことがある。
 顔がいいとか頭がいいとか、兄のように運動神経がもの凄くいいだとか。
 それが無理でもせめてこれさえなければなぁ、とうつむき、手のひらで真っ赤になった頬を隠したその時――突然、ぐらりと身体がかしいで眩しい光が視界いっぱいにあふれた。
 同時に身体がどんどん薄く軽くなって、自分の中の何かがバラバラに分解されていくような感覚に襲われる。

「おい、春瀬! どうした⁉」
「ちょ……春瀬……っ⁉ おい、手ぇ出せ!」

 先生と加賀谷君が驚いた顔で駆け寄ろうとするのが見える。とっさに手を伸ばそうとしたけれど、その手は薄く透けて眩しい光の中に消えていった。
 そしてふと気がつくと、僕は見知らぬ世界で大勢の人たちに囲まれていたのだ。


    ◇


「――――‼」

 よろい姿の人たちが叫ぶ声にハッと我に返る。慌ててまばたきをしてもう一度さっきの人を見た。僕の前にひざまずく三人の中でただ一人、ほんのかすかだけど僕に微笑んでくれた人を。
 彼はまだ僕のことを見つめていた。もの凄い美形からの視線についたじろいでしまう。
 まずい、顔と耳が凄く熱い。間違いなくいつものあれだ。よりによってこんなタイミングで……と焦っていると、三人の男たちは片膝をついたまま揃って右の手を差し出してきた。
 え? まさかこの中から一人を選べってこと⁉ ここがどこか、この人たちが誰かもわからないのに?

「そ、そんなの……!」

 そんなの無理に決まってる! 思わず床に座り込んだまま後ずさる。けれど髭の老人も三人の男たちも、下にいる大勢の兵士たちも、皆食い入るように僕を見つめたままだ。その時、下にいる彼らがよろいの上にそれぞれ紺と深緑、そして暗い赤色のマントを羽織っているのに気がついた。この色はもしかして……
 そうだ、今目の前にいる三人が身に着けている色と同じだ。きっとこの三人は、同じ色をまとう兵士たちの上に立つような人なんじゃないか。
 そう気付いた時、下にいる兵士たちの一人が突然何かを叫んだ。すると他の男たちも拳を振り上げ、僕に向かって一斉に声をあげ始める。言葉がわからなくても、彼らが僕に「早く選べ」と迫っているのが痛いほど伝わってきた。

「ま、待って、そんなこと言われても……っ」

 怖い。怖い。皆、叫びながら早く早くと僕をき立てている。頭の中がぐちゃぐちゃだ。早く、とにかく誰かを選べばこの騒ぎは収まるだろうか。そう思い視線を戻すと、三人のうちの二人がギラギラと異様に熱のもった目で僕を見ているのに気がついて身がすくんだ。

「……ッ!」

 この狂乱じみた熱気の中で、さっき僕に微笑んでくれた人だけが静かに僕を見ている。僕はすがる思いで彼が差し出す手に飛びつき、額を押し付けた。そしてきつく身を強張こわばらせる。
 これが夢なら早く覚めてくれ……! 教室には他にも大勢人がいたのになんで僕だけが! 確かに、特別な人になれたら、なんて空想したこともあった。でも、まさかこんなことになるなんて!
 すると突然たくましい腕が僕の身体に回されて、思わず息を呑んだ。

「っ、えっ⁉」

 そのまま軽々と持ち上げられて、その場にそっと立たされる。兵士たちの怒声のような声はいつの間にか収まっていたけれど、周りを見るのが怖くてどうしても目が開けられない。すると彼の手が僕の手をぎゅっと握った。
 それに励まされるように恐る恐る目を開ける。すると彼はずっと上の方から僕を見下ろしていた。どこをとっても文句がない男らしい美貌のあまりの近さに、思わずどぎまぎしてしまう。まずい、きっとまた顔が真っ赤になっているだろう。
 そんな僕にその人はまたかすかに口の端を上げると、突然僕を横ざまに抱き上げた。

「うぇっ⁉」

 驚いて腕を突っぱねたけれど彼の身体はびくともしない。不意にその人の唇がかすかに動いた。

「――――」

 聞こえた声に僕はまた息を呑む。言葉の意味はわからないけれど、深くて落ち着いた、凄くほっとするような声だった。
 恐る恐る彼の腕の中に身体を預けると、暗赤色のマントをつけた兵士たちが一斉にたけびを上げて拳を振り上げた。その声を背に黒髪の人は髭の老人に一礼すると、僕を抱えたまま横の廊下へと歩き出す。
 僕が彼を選んだことで何かが決まったのだろうか。僕はこれから一体どうなるんだろう。

「あの、お、下ろしてくれませんか……っ」

 こわごわ声をかけてみたが、彼はわずかにこちらを見下ろしただけだった。凛と前を向き、歩く彼にそれ以上何か言う勇気が出ない。一体どこに連れて行かれるのだろうと不安になる。けれど僕を抱えて歩く彼の穏やかな笑みがまだ心にほんのりと残っているようで、不思議とこの人の腕の中から逃げ出そうとは思わなかった。


 ようやく彼が立ち止まったのは、長い廊下を進んだ先の大きな扉の前だった。
 中に入ると、護衛らしき人を従え、大きなターバンを頭に巻いた壮年の男が部屋の中央に座っていた。年は四十か五十頃だろうか、立派な髭を顎にたくわえていて、まるで一国の王のような貫禄と迫力に満ちている。
 僕を抱えていた人は、僕をその男の向かいの長椅子に下ろそうとする。

「え、ちょ、待って……!」

 突然知らない人の前に放り出されそうになって思わずその腕を掴んだ。それを見たターバンの男が大きな声で笑って手を振ると、彼は僕を座らせてから隣に腰を下ろしてくれた。けれどその口元に笑みはなく、端正な横顔は正面に座るターバンの男の方を向いたままで、なんだか急に心細くなる。
 そっと辺りの様子をうかがうと、壁や窓や敷物は先程の建物と同じように幾重にも連なる幾何学模様でいろどられていた。それにここにいる人たちの頭に巻かれた布やすその長い服は、以前図書室の写真集で見たアラブや中東の世界を彷彿ほうふつとさせる。そんな中で一人だけ高校のブレザーを着た自分が凄く場違いに思えて居心地が悪い。
 その時、扉の開く音がして白い髭の老人――先程兵士たちの前に立っていた人だ――が入ってきた。彼はターバンの男に一礼すると、透明な液体で満たされたさかずきを僕に差し出してくる。
 なんだろう。飲めと言っているのかな。でも何が入っているのかもわからないのに正直怖い。
 僕がさかずきを受け取るのを躊躇ためらっていると、その老人は僕をここへ連れてきた男にさかずきを手渡した。彼は僕の肩を引き寄せると、さかずきを僕の口元に押し当てて静かに僕を見つめる。なぜか彼の視線に逆らえなくて少しだけ口を開けると、とろりとした液体が喉を滑り落ちていった。
 僕がその液体を完全に飲み込んだのを見届けて、白い服の老人は口を開いた。

「――それは《言の葉の秘薬》と呼ばれておる。どうかな、わしの言葉がわかるかな」
「え……、えっ⁉」

 ただの音の連なりだった彼らの声が突然意味を成し、僕は慌てて頷く。

「わ、わかります」
「そうかそうか、それは重畳ちょうじょう

 まるで物語の中の好々爺こうこうやのように笑って彼は言った。

「まずは、よう参られた。界渡りの君。わしはこのダーヒル神殿領の神殿長ムスタールと申す。そしてこちらは東のアル・ハダール国の皇帝ハリファ、カハル陛下であらせられる」

 やはり偉い人だったのかと硬直すると、神殿長に示された大きなターバンの男――カハル陛下はずいぶんと気さくな顔で笑った。

「いかにも、わしがハリファ・カハルだ。して、そなたの名は?」
「は、春瀬かいです」
「ほう、界渡りの君は姓を持つか。カイ……聞き慣れぬ族名だ」
「あ、すみません。名前がカイで姓がハルセです」
「そうか。名がカイ、だな。あいわかった」

 そう頷くと、カハル陛下は僕を見てまたニヤリと笑った。

「して、カイとやら。早速だが我がアル・ハダールの地に恵みの雨を降らせてもらおうか」
「あ、雨を降らせる……?」

 突然言われた言葉に僕はポカンとしてしまう。すると神殿長が頷き、僕を見つめた。

「そなたは、この大陸にいにしえより伝わる秘蹟にて呼び出された《慈雨じう神子みこ》なのじゃよ」
「は……?」

 そこから説明された内容はまさにゲームやマンガの世界としか言いようのない話だった。


 今僕が『呼び出された』このイシュマール大陸にはもともと雨季と乾季があったそうだ。でも三百年ほど前から雨がどんどん減ってきてあちこちで砂漠が増えている。そこで今は五十年ごとに一人、雨を降らせることができる神子みこをよその世界から呼び出している――そういうことらしい。
 信じられない思いで僕は彼らを見つめ返した。

「そ……それで僕がその、雨を降らせる神子みこだって……?」
「その通り」

 白い髭の神殿長が頷いた。

「そんなバカな」

 僕は確かにそういうファンタジーめいた話は好きだし、似たような設定の物語をいくつも読んだことがある。でもそんな超能力をこの僕が持っているわけがない。

「な、何かの間違いです。だって僕はそんな力は……」

 慌てふためく僕を見て神殿長が笑った。

「まあまあ、突然のことで戸惑われただろう。今日のところはゆっくり休んでまた明日話をするとしよう。それでよろしいかな、陛下」
「構わぬ」

 重々しく頷いてカハル陛下が席を立つ。すると皆が立ち上がって礼をとったけれど、僕は長椅子から腰を上げることすらできなかった。
 この世界で砂漠化が進んでいるなら確かに雨が降るかどうかは死活問題だ。でも僕が雨を? そんなの無理に決まっている。血の気が引きかけた時、突然肩をガシッと掴まれて心臓が一瞬止まった。
 見上げると、カハル陛下が豪快な笑みを浮かべていた。

「そうおびえずともよい、《慈雨じう神子みこ》よ! とりあえずは我が忠臣サイードを選んだだけでも我らにとっては僥倖ぎょうこう。そなたは男を見る目がある!」

 そう言ってバンバンと勢いよく僕の背中を叩くと、カハル陛下は二人の護衛を連れて部屋を出て行ってしまった。途端に辺りに満ちていた緊張感と威圧感が薄れる。
 ほっとしていると、少しばかり気遣わし気な表情をした神殿長が僕の顔を覗き込んだ。

「今日はもう休むといい、界渡り殿。じゃが、その前にもう一人だけ紹介させてもらおうかの」

 そう言って神殿長が僕の隣を指し示す。

「そなたが先程《選定の儀式》において選んだ者は、アル・ハダールの騎士サイードという。これからはこの者が傍にいよう。さて、サイード殿、まずは界渡り殿を休ませてやるとよい」

 その時、僕は初めてさっきの人の服のすそをずっと握りしめていたことに気がついた。

「す、すみません……っ!」

 慌てて手を放すとサイードさんは、小さく微笑んで首を振った。その微笑みは大人が子どもに対して見せるような表面的なものだったかもしれない。けれどもういっぱいいっぱいだった僕には、そんなわずかなものでも、彼が自分に向けてくれた優しさが泣きたくなるほど嬉しかった。

「さあ、部屋に案内させよう。界渡り殿」

 神殿長に促されて立ち上がる。けれど急に緊張が切れたせいで僕の意識はそこで完全に途切れてしまった。



   第一章 神子みこの役目


 朝、目を覚ました時に最初に感じた違和感は匂いだった。
 カラカラに乾いた空気に様々な香辛料が入り交じったような、馴染みのない異国の香り。
 こわごわ周りを見ると上から垂れ下がる薄いベールに囲まれている。天蓋てんがい付きベッドというやつだ。どう考えても僕の部屋ではない。そう思った瞬間、昨日の出来事を思い出してさおになった。
 そうだ、教室にいたはずなのに、気がついたら僕は突然知らない場所にいたのだ。
 確か雨を降らせる神子みことかなんとか……あれは夢じゃなかったのか。
 マンガや小説を読むのが唯一の趣味だから、異世界に飛ばされた主人公が活躍する話はたくさん知っている。でもそれはあくまで創作の世界だ。神子みこなどと言われても全く身に覚えはないし、雨を降らせる方法なんてわかるわけがない。
 息を詰めて辺りの様子をうかがうと、天蓋てんがいから垂れ下がるべールの向こうに人がいる気配はなかった。覚悟を決めてそっと薄掛けをぐ。その時、自分が寝ている間に服を着替えさせられていることに気がついた。
 普通のパジャマや部屋着と違って、上着が足までをおおっていてズボンがない。前にボタンのないワンピースのような服装だ。砂漠化が進んでいる国ではこういう通気性のいい寝巻きがちょうどいいのだろうか。昨日は動揺していて気付かなかったが、確かにこの部屋も少し暑いような気がする。
 素足のままそっとベッドから下りる。足音を忍ばせて部屋の片側にある窓を開けると、ぎ慣れない匂いと熱気が一気に押し寄せてきた。そして見えた景色に言葉を失う。僕の目に飛び込んできたのはいくつもの白い石造りの建物と外壁、その向こうにどこまでも続く砂漠、そして今まで見たことがないくらいに広く青い空だった。

「……どう見ても日本じゃない、よな」

 ありえない光景を前に、自分がとんでもないところに来てしまったのだと実感する。
 窓から手を伸ばしてみると、じりじりと焼けつくような太陽の熱が手を襲い慌てて引っ込めた。
 こんな見渡す限りの砂漠に雨を降らせるなんて、どう考えても無理に決まっている。
 一気に血の気が引いて、僕は壁にすがるようにずるずるとしゃがみ込んだ。
 こんな土地ならそりゃあ水は貴重なものだろう。雨を降らせるためならなんだってするに違いない。もしそれができなかったら僕はどうなるんだ? 昨日会ったカハル陛下という人は豪放磊落ごうほうらいらくという言葉がぴったりのように見えたが、その分やる時は躊躇ためらいなくやる性格のような感じがする。
 役立たずはいらないと言ってここから放り出されでもしたら……
 そこまで考えていてもたってもいられず、部屋の反対側にある大きな扉に駆け寄る。そして力任せに押し開けた。すると扉のすぐ横に人影が立っていて、思わず出そうになった悲鳴を呑み込む。

「――っ⁉」

 しかし時すでに遅く、男の視線は僕を捉えていた。
 それは黒革のよろいとマントをまとった、もの凄く大きくてたくましい男だった。頭にはぶかに布を被っていて、発する気配はどうもうそのものだ。視界の端からこちらを見下ろす目は恐ろしく冷ややかに見える。
 怖い。怖いのになぜか目が離せない。その場に立ちすくむと、男の黒く冷たい目がわずかに細められた。
 ほんの少しの変化だったが、一気に呼吸が戻ってくる。とっさに扉を閉めて震える息をなんとか吐き出した。
 今の人はなんなのだろう。見張り? 僕が逃げ出さないように見張っているのか?
 きっとそうだ。あの人たちは何がなんでも僕に《慈雨じう神子みこ》とかいう役目を果たさせるつもりなんだ。急いで窓のところに駆け戻って下を覗いても、とても飛び降りて逃げられるような高さではない。
 どうしよう、これじゃ逃げられない。
 でも逃げるってどこに? 知り合いなんて一人もいないし、ここがどこかもわからないのに。
 そう思った途端、目の前が真っ暗になる。

「な……なんで……」

 なんでこんなことになってしまったのだろう。
 昨日、神殿長だという髭の老人は確か、僕を「雨を降らせるために召喚した」と言っていた。
 そんなのめちゃくちゃだ。一方的に人を呼び出して、それを謝りもしないで「早速雨を降らせてみせろ」だなんてあまりにも勝手すぎる。

「……っ、ふざけるな……っ!」

 今までの恐怖の反動か、もの凄く腹が立ってきて思わず叫んだその時、扉の外から物音がした。
 誰か来た。とっさに天蓋てんがいのベールを跳ね上げ、寝台に逃げ込む。そしてヘッドボードに背中を押し付けて膝をきつく抱え、息を殺してベールの外を見つめた。扉がゆっくりと開き、誰かが室内に入ってくる。

「お目覚めでございましょうか、神子みこ様」

 ベール越しに誰かがこちらを見ている。僕は答えず、膝を抱えた腕に力をこめてじっとその人影を凝視した。

神子みこ様」

 呼びかけてくる声は若い男のもので、扉の前にいた男とは違う人物のようだ。ベール越しに白い服が見える。その声を聞きながら僕は唇を噛みしめた。
 もしかしたら彼を突き飛ばしてこの部屋から逃げ出すことはできるかもしれない。でも、その後は?
 この世界のことがほとんどわかっていない自分がここを出て、生きていくことなんてできるだろうか。
 そう思うと怖くて震えそうになる。けれどまだ腹の底でぐらぐらと煮えている怒りが収まらない。
 僕が黙りこくっていると、その人も諦めたのか、しばらくすると深く礼をして部屋から出て行った。
 僕はこわった身体から力を抜くと、抱えた膝に顔を埋めた。

「……これからどうしよう……」

 起きたばかりのはずが、一気に疲れが襲ってくる。これからのことを考えると目の奥が熱くなってきて、ぎゅっとぶたを閉じた。


 しばらくして、またドアが開く音がした。さっきの男の他に二人、部屋に入ってくる。そのうちの片方が寝台のベールの前で深々と頭を下げた。

「初めてお目に掛かりまする。私はアル・ハダール帝国さいのアドリーと申す者。恩寵おんちょうに恵まれし神子みこよ、我らはけっして貴方に害をなす者ではありませぬ。どうか寝台の外へお出ましを」

 淡々として冷静な話し方は、相手の信頼を得るのに本来充分なものだろう。けれど、彼の声は今の僕の恐怖や怒り、苛立ちや不安をやわらげるほどの力はなかった。
 僕が黙ったままでいると、アドリーと名乗った彼は隣に立つもう一人を指して言った。

神子みこよ。聞けば湯浴みも食事もまだだとか。ここに昨日貴方がお選びになり、貴方をこの部屋にお連れした者がおります。どうかもう一度、彼に身を預けていただきたく」

 そう言われて昨日僕を支えてくれた力強い腕をぼんやりと思い出す。そして初めて僕と目が合った時に彼が浮かべたかすかな笑みも。あの人は確か……
 昨日聞いたはずの名前を思い出そうとした時、人影が近づいてきた。思わず膝を抱える腕に力がもる。その影は寝台の前で立ち止まって言った。

「アル・ハダール第一の槍、サイードという。神子みこよ、どうかそこから出てきてはくれないだろうか?」

 その声はやはりどこか温かく感じられた。
 昨日、兵士たちが口々に知らない言葉を叫び、他の二人の騎士が自分を選べと血走った目で睨んでいた間、この人だけはかすかな笑みを僕に向けてくれた。単に僕が少しでも安心したくて、彼をいい人だと思い込もうとしているだけかもしれない。それでも穏やかで落ち着いたその声は、ささくれだった僕の心にじんわりと温かく染み込んだ。
 どのみち、ずっとこのままでいるわけにはいかない。そう思って恐る恐る天蓋てんがいから下がるベールに近づく。
 でもどうしても現実に向かう勇気が出ない。ベールを握ったまま固まった僕に、再びサイードさんが言った。

「ここを開けてくれ、神子みこよ」

 そう言ってサイードさんが手を差し出すのが見える。けれど自分からはベールを開けてはこない。それは彼が僕の意志を尊重してくれている証のように思えた。僕は彼に答えるように小さく息を吸い、口を開いた。

「……カイです。僕の名前は、櫂といいます」

 するとサイードさんがかすかに笑ったような気配がした。

「そうか。ではカイ殿、御手を」

 震えそうになる息をゆっくり吐き出し、重なり合うベールを掻き分ける。そして自分よりはるかに高いところにある彼の顔を見上げた。

「触れてもいいだろうか?」

 サイードさんに聞かれて慌てて頷く。するとまたしても女の子のように横ざまに抱きかかえられてしまった。

「ちょ……っ、あの、自分で歩けます!」
「わかっている」

 そう言っておきながらサイードさんは僕を下ろす気配もなく、さっさと部屋の片側へと歩き出す。
 どこへ連れて行かれるのだろう? またカハル陛下たちと会うことになるのだろうか。そう思ったけれどどうやら違うようだ。
 今まで気がつかなかったが、僕のいた部屋の奥には小さな部屋があった。サイードさんに抱えられたまま中に入ると、その小部屋のさらに奥に分厚い幕が掛けられている。最初に部屋に来た白い服の男がそれを開けると、湿気のもった暖かい空気がぶわりと押し寄せてきた。
 もしかして風呂? 砂漠の真ん中で?

蒸し風呂ハマームだ」

 思わずサイードさんを見上げると、そう言われた。
 薄暗いその部屋の中心には熱い湯気がもうもうと立ち上る大きなつぼがあり、それを照らすようにいくつかの明かりが置かれている。周囲の壁には青と白の幾何学模様が描かれ、柔らかな布を幾重にも敷いたタイル貼りのベンチがあった。唐突に連れてこられた空間に戸惑うが、サイードさんは当たり前のように僕を床に下ろす。
 すると突然誰かに袖を引かれた。驚いて振り向くと白い服の男が僕の服のすそを持ち、脱がそうとしている。

「や、やめてください……!」

 とっさにすそを振り払うと、彼は困ったようにサイードさんを見上げた。するとサイードさんは僕をなだめるように頷いて言った。

神子みこ殿、彼は貴方の近従サームだ。あらゆる身の回りの世話をする」
「ウルドと申します。お仕えできる光栄に感謝します、《慈雨じう神子みこ》よ」

 そう言って白い服の男――ウルドさんは床に両膝をついて僕に向かって深々と頭を下げた。
 明らかに年上で優しいお兄さんといった雰囲気の彼のあまりにもへりくだった仕草がどうにも落ち着かない。そう思いながらも反論することもできないまま立ちすくんでいると、サイードさんが僕の戸惑いを察したように言った。

「昨日は何も説明ができなかったからな。まずは湯浴みと食事を……と思ったのだが。何をするにも近従サームは必要だ。あまり構えず、彼にゆだねるといい」

 そう言われても見ず知らずの人に服を脱がされるのはさすがに抵抗がある。なんと言って断ろうか迷っていると、耳にサイードさんの声が飛び込んできた。

「ウルド、彼の湯浴み着を」

 そう言ってサイードさんは自分の腰帯を解き、上着とブーツを脱いで袖をまくり上げた。それからウルドさんから白い薄手の布を受け取ると、僕に向かって首を傾げた。

神子みこ殿、では私に身を預けてくれるか?」

 代わりにサイードさんが手伝ってくれようとしているのか。ウルドさんがかなり驚いた顔をしたから本当ならありえないことなんだろう。
 とっさにどうしていいかわからず動けないままでいると、サイードさんは子供にするように僕の腕を上に挙げて夜着を引き抜いてから、薄い布を広げて僕の肩に掛けた。それから僕に羽織らせた布の腰辺りで細い紐を緩く結ぶ。着せられてみると湯浴み着というのは脇と前が開いた長めのベストのような形をしていた。
 あまりにあっという間で恥ずかしがる暇もない。慌てて振り返ると、また彼は僕を軽々と抱えて傍のベンチに座らせた。

「え、いや、あの……っ」
「ウルド」

 呼ばれたウルドさんが手桶の湯で絞った布をサイードさんに渡す。それを受け取ると、彼もベンチに腰を下ろして僕の背中や腕を擦り始めた。

「あの……!」

 とっさに逃げようとしても、ひと回りもふた回りも大きいサイードさんの腕に捕まえられていてそれもできない。それどころかあの切れ長な黒い目で見られて固まってしまった。

「どうやら人に仕えられることに慣れていないようだな」
「あ……あの、元々僕はただの高校せ……ええと、ただの平民なので」

 指の間まで丁寧に拭われながらそう聞かれて、僕は真っ赤になっているに違いない顔を隠した。しかしサイードさんは気にした風もなく僕の身体を拭いていく。やがて、彼が立ち上がって僕の後ろに回った。その手が、僕の薄い湯浴み着の中に入ってきて腕の上の方や肩口を擦り始める。
 これ、まさか全身拭くつもり?
 緊張して顔は熱いし、心臓はドキドキしてくるし、部屋にもった蒸気のせいもあってか、頭がぼーっとしてくる。
 ちょ、ちょっと、暑い……かも……? こっちではこれが普通なのかな……
 だんだん意識がもうろうとしてきて、とうとう後ろのサイードさんに一瞬身体がぶつかった。慌てて離れるが、サイードさんは全然気にしていないようで黙々と僕の身体を拭っていく。

「お水でございます」

 ウルドさんに器を口元に当てられ、されるがままに水を飲む。喉を滑り落ちていく水が冷たくて気持ちがいい。その時、サイードさんに脇の下を拭われて思わず「ひゃっ!」と声が出てしまった。

「サ、サイード、さん、あの」
「サイードで構わない」
「え、いや、でも、あの」

 淡々とした言葉に戸惑っていると、今度は胸元から手が入ってきた。首筋や胸やその下を擦られて、それ以上喋ることができなくなる。

「ん、……っ」

 ど、どうしよう。手、離してほしいんだけど……!
 少し目の粗い布で脇腹や腹を拭うサイードさんの手が徐々に上がって、ついに胸の先端に当たる。

「っ、ひう」

 変な声が出てしまった。恥ずかしさに思わず口を押さえても、なぜか二人ともまったく気にしていないようだ。というか気にしなさすぎてそのまま手を止めずにあちこち拭いたり擦ったりしてくるのが本当にまずい。

「あ、あの」

 もうそこでやめてほしいと口を開こうとした時、また胸を擦られて背筋がぞくんと震えた。
 え、ほ、ほんと、ちょ、まって。どうしよう、身体を拭いてもらっているだけなのに、どんどん変な気分になってくる。なんで、身体がおかしい……!
 部屋に立ち込めた蒸気で体温がどんどん上がって、全身にうっすらと汗や水滴がまとわりつく。
 それを拭きとろうとするサイードさんの手が行き来しては胸の間を撫でるように下りてくる。恥ずかしさに顔をそむけると、その首筋まで拭われて逃げ場がない。指先に巻いた布で耳の孔やひだをなぞられ、耳の後ろを擦られると、ぞくぞくと奇妙な感覚が腹の辺りから這い上がってくる。そのぞわぞわした感覚に再び声が漏れそうになった時、また口に器を当てがわれた。水ではないとろりとした甘くて冷たいものが流れ込んでくる。
 なんだろう……蜂蜜でも溶かされているのかな……おいしい……
 もる蒸気に、時折与えられる甘い水、それにさっきからずくずくと下の方から這い上がってくるよくわからない感覚のせいで頭が上手く回らない。
 不意にサイードさんの手が内腿うちももに入ってきて、ぴくっと身体が跳ねた。

「う……、は……ぁ……っ」

 腹や顔が熱くてたまらない……身体に力が入らず、再びサイードさんにもたれてしまう。

「どうした、熱いのか?」

 すると耳元でサイードさんの声がして、また背筋が甘くうずいた。

「ウルド、少しハマームの温度を下げろ」

 サイードさんはそう言って、ももの内側を撫でるように擦った。
 どうしよう、きもちいい。危うく声が出そうになった瞬間その手が離れる。今度は膝の方を拭かれて、心底ほっとした。ヤ……ヤバかった……。すっかり反応してしまっている下半身をなんとか隠したくて前かがみになる。

神子みこ様、どうかなさいましたか?」

 僕の動きに気がついたのか、ウルドさんらしき声が聞こえてくるけど返事なんてできない。ただ身体を拭いてもらっているだけなのにってしまうなんて、さすがに恥ずかしすぎる。
 けれど、そんな僕を押さえるようにサイードさんが後ろから僕を抱く腕に力をこめた。背中に当たる彼のたくましい筋肉の感触や体温がますます強く伝わって、身体がどんどん熱く火照ほてっていく。するとサイードさんの手がまた僕の内腿うちももの際どいところをかすめた。

「っ、あ、まって、ぁ……!」

 どうしよう。我慢できずに涙がにじんできそうになる。


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