上 下
54 / 131
Beautiful spirit

2

しおりを挟む
グラフィティを描き終え、依頼による報酬(ちょっとびっくりするくらい多かった)を手にしたぼくは、それで与儀さんの所に戻ろうと思ったのたが、「お茶くらい飲んでいけ」というミキオの強い誘いを断りきれず、言葉に甘えることにした。
プレハブ小屋の中に入ると、外まで響いていた大音量の音楽が耳をつく。
クラブDJなんかもそうだけど、長い時間こんな大音量を聞き続けて、耳とか頭とかおかしくならないのだろうか? 
そんな風に不思議に思っていると、流石にこれでは話しもできないと思ったのか、音量を下げ、ぼくの方を見るミキオ。
「なあ、マクベスよ。あんた好きなラッパーは?」
いきなり返答に困る質問しないでもらいたいな。
余談だけど、アンダーグラウンドにおいて、しばしばメジャーシーンで活躍する、いわゆる売れ線に走ったラッパーというのはバッシングの対象になりやすいと、与儀さんから聞いたことがある。
ぼく個人としては、たとえ埋もれたってアングラの精神を忘れず、血なまぐさい真実をひたすらラップにするというのも、逆に多くの人に聞いてもらいたいと思い、大衆向けのリリックに走ることも、どちらも信念を持ってやっているのなら、そこに差異などないと思っている。
ただ一つ言えることは、メジャーで活躍するラッパーは偽物、アングラこそ本物だという一方的な決めつけと、それを躊躇なく公言してはばからないアングラのラッパーのことを、ぼくは少し苦手に思う。
それを与儀さんに言ったところ、彼女は、「それがヒップホップの文化でもあるからね」と嘆息した。
相手をディスり、喧嘩ビーフに発展させることで、シーンを盛り上げるやり方が文化なのだと、そう言われたら反論の余地もないが、争いをエンターテイメントにするっていうのは、ビビりのぼくからしたら考えられないことなんだけど。
ただまあ、ここは与儀さんの忠告を聞いて、アングラのラッパーの名前を出しておくことにしよう。
そうは言っても、ラップなんてほとんど聞かないため、当然アーティストだってそれほど知っているわけではない。唯一知っていた名前、『MC導歩』と答えると、ミキオは「安定だよな」と言いつつ、自分も好きだと同意した。
あまり質問ばかりされるのも面倒なので、逆に今度はこっちから話を振ってみることにした。
さっき、与儀さんのところに行く途中に、アーティスト通りでラッパーたちが円になってラップを披露し合っていた。そのことをミキオに話すと、「ああ、サイファーね」と得心がいったように頷く。
「サイファー?」
「なんだよ知らないのか? まあ、ライターじゃ知らないやつもいるかもしれないな。マクベスは見たところ若いし、ヒップホップにハマってそれほど長くないだろう? まあ、あれだけの腕前ならもう数年は経ってるだろうけどさ」
数年どころか、まだ1ヶ月くらいしか経ってないんだけど……言ったところで信じてもらえないだろうし、別にいいか。
「で、そのサイファーって具体的になんなんですか?」
「ああ。お前が見たまんまだよ。ラッパーが輪になって、即興ラップをし合うわけ。フリースタイルはバトルが取り上げられることが多いから、ラップは基本みんなディスり合ってるって勘違いしてるヤツも多いけど、サイファーでは日常的なこと、たとえば昨日の夕飯の話なんかをラップにして聞かせたりすることも多いんだ。まあ簡単に言っちまえば、スキルを磨きながら、ラップで雑談してるようなもんかな」
「なるほど。ラッパーは体一つでどこでもラップができますもんね」
「まあな。ブレイクダンスも似たようなもんだが、DJとライターに関しては道具と場所を選ぶからな。そういう意味では、ラップなんかは自由度が高いと思うよ」
「ライターの立場からすると、羨ましい話ですね」
ぼくがそう言うと、ミキオはなにかを思い出したみたいに、あっ、と声を出した。
「あるぜ。グラフィティライターにとっての、サイファー」


ーーーーーーーーーーーー


ぼくは礼を言ってプレハブ小屋を出た。
改めて自分の描いたグラフィティを眺めていると、よほど気に入ってくれたのか、スマホで写真を撮っていたミキオの女に「やるじゃんあんた」と肩を叩かれる。
「はあ」と素っ気ない返事で答えたが、内心では悪い気はしなかった。
そして、『Master peace』に帰る道すがら、ぼくは、ミキオの言っていた言葉を思い出していた。
「グラフィティライターにとってのサイファー、か」
夢のような話だ。
今回のように誰かの依頼で私有地に描くグラフィティというのは稀で、ほとんどのライターは街中で人の目を盗みながら、自己表現を繰り返す。
ミキオの話に出てきた、グラフィティライターにとってのサイファーというのは、この街にある、ライターにとっての楽園みたいな所らしい。
今度バイトの休みの日にでも行ってみるとして、いまは与儀さんに仕事の終わりを報告しに行こう。

店に戻ると、与儀さんはまだダウン状態だった。
「まだ体調戻らないんですか?」
「無理。いっそあなたの手で楽にして」
なんだこのロマンチック発言は。まだ酔っているのか?
「ほら。水持ってきますから、それ飲んだら少しはシャキッとして下さいね」
「水飲んだくらいでこの苦しみが和らぐわけないわよ。もうこうなったら、二日酔いなんて忘れるくらい迎え酒してやろうかしら」
「それやったら人間終わりですよ。与儀さんももう若くないんだから、あまり無茶しない方がいいですよ」
「アアッ?」
おっと、怒りの琴線に触れてしまった。
メガシャキ状態の与儀さんが、まるで眉間に青筋をたてていると錯覚してしまうほど、顔をひくつかせながら言った。
「まだバリバリ二十代なんだけど、誰が、なんだって? もう一回言ってみな?」
必死過ぎて怖い。
「あ、あー、ごめんなさい。失言でした。与儀さんほら、頼りになる大人の女性って感じがするから、実年齢より上に見えるんですよきっと。失敗失敗」
たははー、と無理矢理誤魔化すぼくに、与儀さんは上目遣いに聞いてくる。
「それじゃあ、あたし、いくつに見える?」
こんな可愛い素振りしてるけど、これ、ぼくの命が懸かった質問です。
こういう場合、特に年齢を気にしている女性に対して、どういう返答が正しいのかよくわからないが、基本的に受けた印象より少し下で答えればいいわけだろう? なら簡単だ。
「七歳くらいですか?」
「あんたどういう目測してんのっ!?」
「いや、精神年齢の話ですけど」
「オッケーあたしの怒りゲージが3分の1溜まった。これカンストして弾けたら、あんたの来月の給料も弾け飛ぶシステムだから覚悟しておいてね」
雇用主が理不尽極まりない発言してくるんですけど、誰か助けて。
ぼくは慌ててフォローを入れる。
「ま、まあ実際のところ、与儀さん若いですよね? まだ23歳くらいじゃないんですか?」
ええ、もちろん低めに見積りました。
「え、マジ? そんな風に見える? やだマンモスうれぴー」
訂正、何歳だこの人。
ぼくは嘆息し、呆れながら、「で、結局のところ与儀さんいくつなんですか?」と問う。
少し言い淀む素振り見せた彼女だったが、ぼくが若く見えると言ったことに自信を取り戻したのか、少し照れ臭そうに、「27歳よ」と答えた。

うん、妥当だ。ほぼ見た目通りだよ。

というか、二十代を七年間も経験していながら、バリバリ二十代発言していたあたり、なんか必死さがにじみ出て嫌だな。
だけど、「もうアラサーじゃないですか」なんてことは言わないよ。だって雇用主の精神年齢がバリバリお子様だから、大人なぼくが折れてあげないといけない。雇用主の機嫌も損なわないようにする………社会に出るってこういうことなんだなーと実感させられた。

与儀さんも少しは体調が戻ってきたのか、馬鹿話もそこそこに次の仕事を命じた。店内にはいまのところ客の姿はないため、アトリエの片付けをすることになった。
カウンターをくぐり、奥の部屋に入ると、与儀さんの使っている香水の香りと、タバコの匂い、そしてかすかに混じるペンキとシンナーの匂いが、創作意欲を駆り立てる。ついさっきグラフィティを描いてきたばかりだが、まだ物足りない。
この場所は、ぼくにとって象徴的な場所だからかもしれない。
グラフィティの練習といえば、このアトリエを使わせてもらった印象が強い。
「ライターとしての第一歩を踏み出させてもらった場所だからな。感謝の意味も込めてキレイにしよう」
そうひとりごちると、ぼくは部屋の掃除に差し掛かった。
掃除をしながら、あらためてアトリエの中を見ていると、彼女の過去の作品だろうか、木の板に描かれたグラフィティが沢山出てきた。

やはり、レベルが高い。

もっぱら与儀さんが得意とするのは、写実的なステンシルアート。
ぼくのように、フリーハンドで描くグラフィティとは、やはり完成度の高さが違う。板などの上に切り抜いたステンシルを張り付け、その上からインクを吹き付けるという手法は、グラフィティの中でもメッセージ性の高い作品を得意とするアーティストが使用することが多い。与儀さんのグラフィティも、もちろん多分に漏れない。
そんな風にメッセージ性の高い作品を見たりしながらも、掃除は着実に進め、最後に散らかったままの作業机の上をまとていく。紙の切れ端などが粗雑に散らばっているのを、ごみ袋にまとめ、ペンやカッターナイフなどの文房具を作業机の中にしまう。引き出しを開けて中を整理していると、ふと机の奥の方でなにかが手に触れた感触があった。不自然に奥の方に押し込まれていた物を取り出してみると、それは二枚の写真だった。
勝手に見てしまうのは悪いと思いながらも、ついつい好奇心が勝ってしまい、ぼくはチラッと一枚目をめくる。
そこには、まだ幼さの抜けきらない、恐らくいまのぼくとそれほど年齢の変わらないであろう与儀さんの姿があった。黒い服の印象が強い与儀さんだが、この写真では水色の上着に、薄いピンク色のパンツルックで写っている。トレードマークでもあるタバコは、この当時は棒つきのあめ玉だったのか、カメラを不機嫌そうに睨み付けながら、頬をあめ玉で膨らませている。
「可愛いな」
現在と比較して、あまりに受ける印象の違う与儀さんを新鮮に感じながら、二枚目の写真をめくる。このときには、もう既にぼくの中に勝手に写真を見ている罪悪感はなくなっていた。
そして写真を見てみたが、二枚目には、与儀さんの姿はなかった。
それはよくあるような集合写真だが、写真の中の男たち全員、見るからに不良然とした出で立ちでそこに写っている。
そういえば、前に、御堂が言っていたっけ。
与儀さんを紹介されたときに、彼女は昔は悪かったって。
この不良グループの集合写真を与儀さんが持っている時点で、彼女も昔はこういう連中と関わりがあったのだと想像できる。
なんとなしにその集合写真を眺めていると、その中に見知った顔を発見してぼくは驚いた。
写真の中心でしゃがみ込むリーダー的な男のすぐ側に、チームの団旗を持った旗持ちの巨漢の姿。

『マサムネ』のリーダー、鍛島多喜親の姿があった。
しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

毒花令嬢の逆襲 ~良い子のふりはもうやめました~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:132,835pt お気に入り:2,127

婚約者の義妹に結婚を大反対されています

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:48,991pt お気に入り:4,901

婚約破棄?私には既に夫がいますが?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:96,285pt お気に入り:701

Bグループの少年

青春 / 連載中 24h.ポイント:4,458pt お気に入り:8,332

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。