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その41:海軍中将の俺は気が付くと皮膚病になっていた

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「クソがぁぁ! かゆい! 体かゆい! この痒さはなんだ? くそ! 俺を早く退院させろ! 治せ! この皮膚病を治せ! 殺せ! ジャップを殺せ! もっと殺すんだ!」

 病室のベッドの上で包帯でグルグルまきにされた男が叫んでいる。
 錯乱しているような叫びであるが、これがこの男の平常運転であった。
 ウィリアム・ハルゼー中将。
 彼はドゥーリトル東京空襲作戦における艦隊指揮官であった。
 4月に実施されたこの作戦は失敗。
 アメリカ海軍はエンタープライズ、ホーネットの2隻の正規空母を失った。
 彼は重巡に移り、生還していた。
 
 アメリカ海軍は敗軍の将には徹底して厳しいところがあった。
 ちょっとした落ち度もお目こぼしが無い。上に立つ者には容赦なく責任を負わせる。そのような組織なのである。ドライで温情もくそもない。

 その査問の恐ろしさゆえに、自ら命を絶ってしまう者もいたくらいだ。
 そのような者は、死して後も「卑怯者」とフルボッコにされるのだ。
 それがアメリカ海軍という組織であった。

 しかしだ――
 空母2隻を失ったにも関わらず、ハルゼーは査問にすらかかっていなかった。
 当然、処分などあるわけもない。
 それは、海軍、いやアメリカ上層部がこの作戦を「無かった事」にしたからだ。
 作戦が無いのであるから、責任も生じようがないのだ。

 しかし、打ち続く敗戦。自軍のふがいなさにゆえだろうか。ハルゼーのストレスは最高潮になっていた。
 2隻の空母を日本人に沈められたことは、彼の自尊心を大きく傷つけていた。
 それが原因かどうか分からないが、彼は凄まじい皮膚病となった。
 医者ですら一瞬目を背けるほどの、ボロボロの状態であった。
 しかし、彼は病院のベッドで吼え続けている。ジャップを殺せと吼えるのであった。
 
「提督、病院ですので少しお静かに――」

 看護婦が恐る恐る注意をした。

「殺すぞ! 貴様! ジャップと一緒に殺すぞ! 俺を早く治せ! 治すんだ! じゃなきゃ退院させろ! ジャップを殺せば治るかもしれん! ああ、殺したい! 殺したいんだ! 俺はジャップを殺す! サル肉を量産するんだ! ぐぉぉぉぉ~ かゆい! かゆいぞぉぉぉ!」

 ジャップへの復讐の信念が結晶化した恐るべき提督が生まれようとしていた。
 この狂乱の叫びは、ジャップ殺戮提督の産声であったかもしれない。

「提督、そう焦らずとも、養生して、それからジャップを殺しまくってください。ほら―― 海軍は大勝利だったじゃないですか」
 
 彼の主治医が新聞を見せながら言った。ハルゼーはそれを一瞥して「フン」と鼻をならし、ソッポを向いた。
 アメリカ海軍の大勝利が新聞一面を飾っていた。
 この医者が持ってきた新聞だけではない。全米の新聞の一面が同じようなものだった。
 ラジオでは、ルーズベルトが大勝利を宣言していた。

「日本領土にある北方の有力な基地を完全に破壊して、敵艦隊を撃破したらしいじゃないですか。だまし討ちしかできないジャップなぞ、正面から戦えば合衆国の敵ではないですね。ねえ提督」

 正面から戦って空母2隻を沈められた提督の胸に言葉の刃が突き刺さった。
 ハルゼーは医師に対して殺意を覚えた。コルトでコイツの頭をぶち抜いてやりたい衝動に駆られる。

 報道を信じ込んだ医師の言葉に、ハルゼーのストレスが更に溜まっていく。
 だが、それはこの医師の責任ではない。その思いも一方にあった。

 報道管制か――
 合衆国検閲局と戦時情報局の仕事は見事だな。この手際だけは抜群だ。ハルゼーは皮肉な笑みを浮かべ思う。

 ただ、包帯でグルグル巻きになった顔は外から表情が分からない。
 ニコニコと話しかけてくる医師を見ながら、ハルゼーはその思いを確信に変えていく。

 この両組織は合衆国に存在する報道機関を完全に統制下においていた。
 戦時体制に移行し、マスコミに対する統制、つまりコントロールをアメリカ合衆国はほぼ完全に達成していた。国家の思うとおりに情報を統制できていた。

 なにを隠し、なにを隠さないかの基準が不明確で気分だけの情報統制を行っていた日本とはわけが違っていた。

 軍国主義国家とは斯(か)くあるべし。
 それを具現化したのが、戦時体制のアメリカ合衆国であった。

 この報道は嘘ではない。嘘ではないが、真実ではない。ハルゼーは思う。
 確かに、アメリカ海軍は、敵の北方の有力な基地のある「占守島」に対する攻撃を成功させた。
 この基地は日本にとっては、対ソ防衛の最前線といえる。
 日本とソ連は戦争状態にはない。中立条約によって交戦はしていないが、潜在的には敵国だといえる。
 その最前線の基地が粉砕されたのだから、その影響は小さくはないだろう。
 日本国内は大きく動揺している可能性がある。
 それはハルゼーにも理解でき、その主張も首肯できた。

 そして、敵艦隊の撃滅。
 戦艦、空母を含む有力な日本艦隊と交戦し、それを撃退。
 敵戦艦2隻、空母1隻を撃沈。その他、戦艦3隻、空母1隻を大破したという。
 その他、駆逐艦、巡洋艦も沈めたというのだ。
 この戦闘により、日本人を数千人殺したと高らかに宣言してた。

 この報道を信じるならば、大したものと言わざるを得ない。
 
 しかしだ――
 戦果の報道は戦果を高らかに謳っているが、被害は「軽微」としか書いてない。
 これは隠ぺいだった。
 ハルゼーは自己の人脈を使い、すでに被害の状況を知っていた。
 戦艦5隻、護衛空母2隻を失い、駆逐艦も4隻が沈んでいる。
 敵に与えたダメージが真実であるとしても、高らかに勝利を誇れるものでないと思っていた。
 
 ハルゼーはその凶暴な言葉とは裏腹に、緻密な頭脳の持ち主だった。アメリカ合衆国は、莫迦を海軍提督にする国ではない。
 全ては政治的な判断で行われている物だ。理解は出来た。
 理解できることと、賛成できることは全く別物ではあったが。

『太平洋からジャップを駆逐する日はそう遠くないでしょう。合衆国大統領として国民にお約束します』

 紙面では、若者を戦場に送ることは無いと国民に約束した大統領がコメントしていた。
 ラジオでも何度も同じことを繰り返していた。
 国民は無邪気に戦果に喜び、ジャップをもっと殺せと盛り上がっている。 

 まあいい。
 戦意高揚するというなら、それもいいだろう。

 太平洋からジャップを駆逐する仕事は俺がやってやる。
 殺しまくってやる。
 この仕事(ジョブ)は誰も渡さん。俺の役目だ。

 いい気になっているなよ、ジャーーープ。
 このハルゼーが戦場に戻ってきたときが、お前らサルの終わりの始まりの日となるのだ。
 殺してやる。いいか、太平洋じゃない。この地球上からジャップを駆逐してやる。
 サル肉処分場を東京に作ってやる。

「殺す! ジャップを殺せ! もっとだ! もっと殺すんだ! サル肉を量産するんだ! くそぉぉ! かゆい! かゆすぎる!」

 不退転の復讐鬼が病院のベッドで咆哮した。

        ◇◇◇◇◇◇

「やはり、ニューギニア、ソロモンどちらかです。ハワイおよびその前衛への攻撃はあり得ません。海軍省の判断は間違っています」

 レイトン情報参謀は大きなメガネをクイッと持ち上げた。
 ハワイの太平洋艦隊司令部。ニミッツの執務室だった。
 この部屋にアポイントなしで入ることができるのは、レイトン情報参謀だけであった。

「私も同じ意見ではあるがね――」

 アメリカの情報分析組織は複数存在した。対日戦争を担当しているのはハワイの太平洋艦隊司令部に付属する情報部と海軍省の管轄下にある情報部であった。
 今、この分析結果が真っ二つに割れていた。

「海軍省の方は、陸軍の情報に影響されすぎです。現段階での日本海軍のハワイ侵攻はあり得ません」
 断言するレイトン情報参謀。神の言葉をなぞるような声音で正しさを訴える。

「ダッチハーバーへの攻撃はハワイ攻撃のための布石であるという主張については? ニューギニア、ソロモン方面侵攻が主攻線であるとするなら、あまりにも、意味のない作戦だ。この作戦の意味が不明すぎる」

 人差し指を曲げ、顎に押し当てニミッツは言った。確かに、その問題はハワイの情報部でも議論の対象になっていた。

「単に我が軍の北方からの侵攻を警戒してとのことでしょう。深い意味はないと思います。事実、我々はそれを行ったのですから」

 海軍省の情報部は、この作戦をハワイ攻略のための布石として実施されたものと分析していた。
 アリューシャン方面を警戒させることで、攻略目標を絞らせないための作戦であると主張していた。
 ハワイの前衛防衛ラインであるミッドウェー諸島、パルミラ島、ジョンストン島を一気に攻略。
 日本海軍は、そこを足掛かりに一気にハワイ攻略を目指していると海軍省では分析していたのだ。
 
「アリューシャンを意識させ、北方からハワイ攻略を目指す可能性はないというのかね」
「100%断言できるものではないですが、まずありえません。過大評価です。そのような大きな作戦を行える余裕は日本海軍にはありません」
「ほう――」

 出来のいい学生を見る指導教官のような目でニミッツはレイトン情報参謀を見つめた。

「日本の船舶量からして、攻略に必要な兵力を輸送することは不可能です。こんどこそ、間違いありません。奴らの目標はここ(ハワイ)ではないのです」

 開戦前、ハワイ攻撃を予測できず、真珠湾攻撃を許したことをレイトン情報参謀は悔いていた。そして、二度と同じ過ちは犯さないと決意してた。
 もし、日本がハワイを攻略しようというならば、最低でも5個師団の陸上戦力の投入が必要となる。
 彼は日本の船舶量データ。そして日本陸軍に大きな兵力移動の事実がないことを示した。

「では、これはどうか? 敵は空母を誘致するために、ミッドウェー、もしくはジョンストンを狙うと――」
「それは、戦略的に意味がありません。下策です。むしろ、やってくれるなら、やってほしいくらいです」

 ニミッツが口にした内容は、ハワイの情報部の中でも一部で主張されていたものだった。
 その主張を一刀両断で切り捨てるレイトンだった。

「仮にそのような作戦にでてきても、我が方は手を出さねばいのです。太平洋最大の拠点であるここハワイの圧力をまともに受けるのです。奪回は容易ですし、もし日本がこの島を守ろうとすれば、多大な出血をもらたします」
「ほう」
「日本がこの問題を解決するには最終的にはハワイを攻略するしかありません。そのため、海軍省はハワイ同時攻撃というありもしない亡霊にとりつかれているのです」
「なるほどね」
 
 ニミッツは満足したようにうなづいた。

「しかしだ――」
 
 ニミッツはそう言うと、その眉を片方だけ釣り上げ、レイトンを見やった。

「ニューギニア、ソロモンどちらなのだ? もしくは両方なのか? 彼らの主攻線はどこにあるのだ?」
「どちらであっても、そして、両方であっても、対応は可能です」
「そうではあるがね。ただ問題は――」
「敵暗号の解読は、進んでいます。ただ、敵も我々の動向を掴んでいる可能性があります。暗号表の更新頻度が上がっています」

 暗号の解読とは、敵の暗号電報を傍受し、解読できる暗号であれば、100パーセントその内容が分かるというものではない。
 解読できるのは10%ほどだ。そしてその10%で作戦の概要がほぼ推測できた。
 ただ、4月から日本海軍の暗号表が更新され、情報部はその対応に追われていた。
 解読が不可能になったわけではないが、その精度は落ちていると言わざるを得ない。
 海軍省情報部とハワイ司令部の情報分析結果の違いも、これが原因であると言えた。

「なにかだな―― 決定的な、なにかが必要だ。敵の作戦目標を特定する何かが。ワシントンを説得する材料が必要だよ。レイトン君」

 ニミッツはそう静かに言ったのであった。葉巻を手に取ると、それを手の中で転がした。 

 血みどろの戦争はまだ始まったばかりであった。 
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