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その44:サムライと魔王

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「先任なにをしているのですか」

「星を見ている」

 先任と呼ばれた男は短く答えた。
 腕を組んだまま、じっと空を見つめている。
 
「星ですか?」
「星だ」

 ニューギニアのラエ基地であった。
 日米戦の最前線。
 戦争特有の濃密な臭いが密林を切り開いた基地に満ちている。
 第二中隊、第二小隊の二番機である熊谷二飛曹は訝しげに、上官の顔を見つめた。
 彼の小隊の一番機。小隊長である。
 
 坂井三郎――
 生きた刀身のような雰囲気を身にまとった男だった。
 階級は一飛曹。

「今日は星がよく見える――」

 切れるような笑みを浮かべ蒼空を見つめていた。
 その目の光が尋常ではなかった。
 ここが戦場で無ければ、官憲に通報される水準だった。
 熊谷二飛曹は、心底この男が味方であることに感謝した。
 性格的にかなりきつい上官であることは差し引いたとしても、空に上がれば心強かった。

「そうですか……」

 熊谷二飛曹は、首肯するしかなかった。
 彼も青い空を見上げる。しかしいくら見つめても星など見えるわけがなかった。
 南海の空はどこまでも青く突き抜けていた。
 
(先任はバケモノだな……)

 普段の坂井一飛曹の見張り能力を考えると、その言葉には真実味があった。
 実際、昼に星が見えるかどうかは分からない。ただ、この超人ならばそのようなことも可能ではないかと思った。

 零戦が暖気運転をしている。栄12型エンジンが鬨の声を上げているようだった。
 0620よりポートモレスビーに対する攻撃が予定されていた。
 戦闘機のみによる攻撃。いわゆる航空殲滅戦であった。

 ラエ基地はラバウルの前衛基地として、ポートモレスビー攻略の拠点として占領された地であった。
 決して十分な支援機能を持った基地ではなかったが、搭乗員は手練れ揃いであった。

「星かぁ…… 自分も見えるようになるかな」
 
 不意に声が聞こえた。一瞬ここが戦場であり、血みどろの最前線であることを忘れさせる涼やかな声だった。

「笹井中尉!」

 熊谷二飛曹は、腕を折りたたむ海軍式の敬礼を行う。 
 彼の中隊の中隊長である笹井醇一中尉だった。

「中隊長なら、いずれ見えるようになりますよ。そう遠くない将来に――」

 すっと敬礼を行い、坂井一飛曹が言った。

「そうか――」
 
 爽やかな笑みを浮かべ、笹井中尉は答礼の手を下ろした。

「やはり見張りか」
「そうです。空戦は見張りです。見張りが全てといってもいいでしょう」

 坂井一飛曹は絶対の真理を口にする宗教家のような口調で言った。
 実際に、彼の見張り能力の高さは異常な水準にあった。
 10km先の敵機を発見することが再三あった。一面の青い空に針の一点を探し出すようなものだった。
 熊谷二飛曹は、こんな人間がこの世の中にいるのかと思った。

「戦闘機とは、機銃を空に上げるためのものです。その機銃を撃てる位置に機体をもってくればいいのです―― そうすれば勝てます。絶対に負けません」

(簡単に言うわな、この人……)

 熊谷二飛曹の胸の内には複雑な感情が湧いた。彼とて、ジャクではない。経験を積んだ熟練者といっていい。
 それだけに、空戦の難しさは知っている。空戦で敵機を落とすなど、走りながら針の穴に糸を通すようなものだと思っている。
 確かに自分たちの零戦の高性能には自信を持っている。世界最高の戦闘機だ。
 しかし、敵機を落とす難しさは変わらない。
 いや、むしろ20ミリ機銃と7.7ミリ機銃が混在している零戦は射撃に関しての難易度が、以前の96戦よりも上がっているように思っていた。

「機銃かぁ…… 20ミリは威力はあるが、弾数が少なすぎるな」
「7.7ミリでも敵は落ちます。可燃物を積んで飛んでいるのです」
「先任ならな――」

 なんとも言えない苦笑ともいえる表情で笹井中尉は言った。

 一方、坂井一飛曹は20ミリに信頼を置いていないような口ぶりであった。
 しかし、実戦においてその20ミリを平然と敵機にぶち込んでいる光景を笹井中尉は何度も見ていた。

 以前、当てるコツを聞いたときに、「ぶつかるつもりで突っ込めばいいのです」とこともなげに言ったのを思い出した。

 風のうわさでは、零戦を改造した新型機では20ミリの搭載弾数が大幅に増えるらしい。
 今の60発弾倉では、実戦で搭載できるのはいいところ55発。2門合せて110発だ。
 発射速度が毎分600発の二〇ミリ九九式一号機銃では5連射もすれば終了だった。
 弾道修正などできたものじゃない。

「20ミリは小便弾で当てにくいですし」

 熊谷二飛曹が口を開いた。
 実際、零戦の有効射撃距離である200メートルでは7.7ミリと20ミリの弾道特性には大きな差がなかった。
 ただ、日本海軍が弾不足から20ミリの射撃訓練を行わないため、熟練者であってもそのような印象を持っていた。

「機首を振ってマイナスGをかければ、弾道がピュッと伸びるぞ」

 坂井一飛曹がぶっきらぼうな口調で言った。その後、ホースで水をまくときに、ホースの先を下に向けて動かせば水が真っ直ぐ飛ぶと自説を主張しだした。
 空戦の最中にそんな余裕があるのは先任くらいなものだと、2人は同じことを思った。
 マイナスG機動などやりたくもなかった。はらわたの浮く感覚は戦闘機乗りでも、嫌なものだった。

「そんなことができるのは先任だけでしょう」

 明るい声が聞こえてきた。
 指揮官機である中島少佐の2番機である西澤廣義一飛曹だった。
 身長180センチの長身。彫の深い顔立ちをした男だった。
 彼もまた、海軍航空隊を代表する凄腕の搭乗員の1人であった。
 坂井三郎をサムライと称すならば、西澤廣義は敵にとってまさしく「魔王」ともいえる存在だった。
 すでに20機を超える敵機を葬り去ってきている。

「貴様だってできるだろう。西澤」

 ニヤリと笑って坂井一飛曹が言った。

「いや、自分ならそんなことしなくても、当てますから」

 笑いながら西澤一飛曹は「ホマレ」を取り出した。
 そして、坂井、熊谷が1本づつ受け取った。笹井中尉はタバコを吸わない。
 西澤は自分用の1本を抜き取り口に咥える。火をつけた。

「敵さんはどうなんでしょうかね……」

 紫煙とともに、西澤一飛曹は言葉を吐きだした。

「しぶといな……」
 
 笹井中尉がつぶやくように言った。

 4月終盤から続くポートモレスビー攻撃は1月以上経過していた。
 ポートモレスビーには、確認しているだけで飛行場が2か所。
 ラエからは戦闘機のみによる飛行場制圧攻撃が続いていた。
 20ミリ機銃は地上銃撃でも威力を発揮した。弾数は少ないが、数発で敵機を粉砕できる。
 
 その威力を発揮し、ポートモレスビー攻略戦では相当数の敵機を撃墜、撃破してきている。
 
 しかしだ――
 一向に敵の数が減らないのだ。
 彼自身、連合国側の補給力、物量というものに、うすら寒い物を感じつつあった。

「敵も必死でしょう。これは、戦争なのですから―― 諦めた方が負けるのです。だから私は絶対にあきらめないのです」

 坂井一飛曹の言葉が、ゆるゆると南海の風の中に溶け込んでいった。

        ◇◇◇◇◇◇

 ニューカレドニアのヌーメア。
 そこには、アメリカ海軍の南太平洋地区司令本部が設置されていた。
 
 ソロモン、ニューギニアエリアの作戦を担当するために設置されたものである。

 そして、その指揮官には、米海軍でもエリート街道を突き進む男が着任していた。

「オーストラリア政府は、やはり内線防衛という主張かね」

 南太平洋地区司令本部。執務室で書類を見ながらつぶやくように言った。
 ロバート・L・ゴームレー中将だった。彼こそがこの戦線における司令官であった。

「カーティン首相の意思は固いようです。野党側も支持しています」

「そうか。莫迦な話だ」

 幕僚の回答に、苦虫を潰したような顔を作るゴームレー中将だった。

 南太平洋地区司令本部は、日本の主攻線が当方面にあると判断され、急きょ設置されたものだった。
 それはかなり、泥縄的な対応ではあった。
 欧州方面で同盟国との調整を行っていた経験を買われての着任だった。

 この太平洋方面では、引きこもっての本土防衛という方針で固まっているオーストラリアを積極的に攻勢作戦に参加させる必要があった。
 ただ、欧州戦線に主要師団を抽出しているオーストラリアにとっては、、日本に対する攻勢作戦など自殺行為であると認識されていた。
 海軍力では全く比べ物にならず、シンガポールの戦闘の戦訓を考えると彼らと陸戦を行うのも自殺行為と思われた。
 ジャングル戦において、日本陸軍ほど卓越した能力を持った軍は無いという評価が固まっていた。
 彼らの迂回、浸透戦術は、ジャングル戦において、ほぼ対抗策が無いという判断であった。 

 このような軍隊と密林で覆われたニューギニアで戦闘するなど悪夢以外のなにものでもなかった。
 それよりも、内陸戦に引きずり込み、消耗を誘う方が得策であると判断された。

 要は時間と現在の状況が複雑に絡み合って出た結論だった。
 日本の攻勢も、欧州でドイツが打倒されれば立ち枯れとなるという判断がその根底にあった。
 それは日本に対する、恐怖心と過小評価が、混じったなんとも理解不能の政治判断ではあった。

 更に、アメリカ陸軍は太平洋方面で積極攻勢に出ることを望んでいない。
 欧州第一方針という連合国の合意を重視していた。
 
 ただ、これも予算と組織の都合なのだとゴームレーは理解していた。
 太平洋で攻勢に出るということは、島嶼戦が中心となる。
 これは、大規模な兵力を一気に投入できるものではない。
 そして、アメリカ陸軍にはそのようなノウハウの蓄積がなかった。

 アメリカ陸軍が、大兵力を動員できる欧州を重視するのは当然の流れであった。要求できる予算規模も全く違う。

 アメリカ陸軍とオーストラリアの消極姿勢は、太平洋戦線の作戦を窮屈にはさせていた。特に、攻勢作戦時の兵站基地として期待できたオーストラリアの軍事協力はかなり限定的なものとなっている。

 簡単に言ってしまえば、ポートモレスビーで粘って時間を稼ぐ。そのための戦力なら出しますということだ。本来であれば、攻勢時の巨大な策源地となるべきオーストラリアが、引きこもってしまっているのだ。

 大西洋と太平洋。二方面作戦の悪い面がもろに出ている形だ。
  
「オーストラリア政府からは、ポートモレスビー放棄の話すら出ていると聞きますが」
「ああ、それは事実だ」
 
 幕僚の質問にゴームレー中将は答えた。
 放棄の方針を撤回させ、なんとか日本に一撃を加える話にもってきたのは、彼の交渉力の力ゆえだったかもしれない。
 オーストラリア内部にも、ニューギニアの完全な喪失を危険視する意見もないでは無かったのだ。

「奴らは、ジャップはくるのですか?」
「来るよ―― 確実にね」

 ハワイとワシントンでは日本の主攻線に対し、意見が対立していた。
 しかし、日本側のある通信が、主攻線がニューギニア・ソロモン方面にあることを決定づけた。
 彼らは、同方面で潜水艦の攻撃が低調であることを何度も打電したのだ。
 
 敵の潜水艦の活動が活発化していることを警戒するならば分かる。
 しかし、奴らは、あえて攻撃が低調になっていることを何度も打電している。
 そこに、敵の意図が見えてくる。

 奴らはここを狙っている。
 そして、我々が待ち構えていることを察したのだ。

 これでハッタリ無しの、カードオープンだ。
 後は、どちらが強いかを比べればいい。
 ああ、話しが単純で分かりやすい。

「上等だね――」
「は?」
「いいものだな」
「なにがでしょうか」
「分かりやすい、戦争とは良いものだな――」

 ゴームレー中将は部下ですら寒気を覚える笑みを浮かべていた。

(ジャップ―― 来い。珊瑚海をお前らの墓標にしてやる。デカイ墓標だろ? サービスだ)

 その男は笑みを浮かべていた。
 戦の神――
 いや、悪魔に魂を売り渡したかのような笑みであった。

■参考文献
アジ歴:昭和17年4月~昭和17年5月 台南空 飛行機隊戦闘行動調書 
レファレンスコード:C08051602300
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