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武田義信

私的軍議3・信玄調略

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 9月『信濃・諏訪城・奥殿』

 「ねぇねぇねぇ、宗滴さんの頼み聞くの?」
 桔梗ちゃんが興味津々に聞いてくる。

 「う~ん、どうしようかな?」
 (史実の宗滴殿の後継者は無能なんだけどな、かと言ってまだ敵対するとは決まってないしな。)

 「今は同盟されてもいいのではありませんか、無下に断って一向衆と手を結ばれては信繁様が御困りに成られます。後々邪魔になればその時考えればよいのではありませんか。」
 楓ちゃんが冷静冷徹に答える。

 「若様の御考えになってる天下の構想の為に、朝倉が邪魔になった時、宗滴殿との盟約を破ることで御名に傷が付いてしまう事が心配です。」
 茜ちゃんが俺の事を思って心底心配そうな表情で、それでも楓ちゃんにも配慮する事を忘れず、直接は反対せずに会話に入って来た。

 「いや世間の評判を考えるのは止めたよ、今川の失敗を繰り返す訳にはいかないからね。」

 「では宗滴殿・延景殿(義景)連名の盟約を御屋形様と連名で結ばれ、御屋形様が延景殿の後見も御引き受けに成られるのですね?」

 茜ちゃんが念を入れる様に確認して来た、確かに御屋形様が後見まで引き受けておいて裏切るのは世間体が悪い、この決断は将来に大きな影響を及ぼすかもしれない。だがまあだいじょうぶだろう、最初の正室細川晴元の娘は娘を生んだ際に死んでいるし、継室の近衛稙家殿の娘も長らく子を成さぬので、実家に帰すから武田から継室を迎えたいと書いてきている。一緒に付いて行く家臣に優秀な者を送り込めば問題は無いはずだ。

 「茜ちゃん大丈夫よ、無能で叛意の有る一門家臣は誅してしまえばいいわ、優秀な一門家臣は近衛府で独立直臣化すればいいし、忠義の一門家臣は評してあげるの、そうすれば若様の御名に傷は付かないし、朝倉家も安泰だわ。」

 楓ちゃんが言ってる事はまるで史実の信長だな、信長も優秀な陪臣を直臣に取り立てて評価している。だがこれ功罪相半ばしてるんじゃないだろうか? 確かにこれなら、直臣に取り立てた陪臣の主人、元からの直臣への加増を減らして強大化を防ぐ事も出来る。だが陪臣を取り上げられた家臣はどんな気持ちになるのだろう? 優秀な者を育てたと評価して貰ったと喜ぶのだろうか? だが結果として領地はそれほど増えない事に成る。陪臣を取り上げられた上に加増も少ないと恨みに思う者もいるかもしれない。降伏臣従した大身の敵性陪臣を抱えた家臣なら蔵入り地や直領が増えたと喜ぶのだろうか? 1つ1つのケースで違うのだろうな、これを読み違えると謀叛が連発するかもしれないな。

 「最終決断は御屋形様がされるさ、勘助もいるし心配する事は無いよ、でもまあ俺達の考えも送るからね。」

 『はい。』

 御屋形様は更に話を詰められ、若狭の領有権にまで踏み込んだ話し合いをされたようだ。しかも宗滴殿・延景殿(義景)共に若狭は武田宗家に優先有りと認められるとは思わなかった。宗滴殿も延景殿の器量を危ぶんでおられるのかもしれないし、延景殿自身も己の器量を諦観されているのかもしれないな。

 9月『遠江沖』

 「さて向こうはどう出るか、てめ~ら油断するんじゃね~ぞ!」

 『おう!』

 間宮武兵衛の間宮造酒丞の兄弟をはじめとする伊豆水軍には武田からの調略が入っていた。安宅船1に対しては300貫、関船1に対しては150貫、小早船1に対しては50貫を扶持すると言う条件だった。しかも今川水軍を同条件で調略すれば、褒賞金を与えると言う好条件だった。

 「お頭、奴らヤル気なんですかね?」

 「俺達も今川の海賊衆も斜陽の主家に何時までもいても仕方が無い。陸には陸の、海には海の生き方が有る。何度かの接触で矢文は送っているのだ、もうそろそろ色よい返事が欲しいものだが。もうこれ以上は待てない、火矢の準備をしておけ。」

 「へい!」

 一方今川水軍へも調略が入っていたのだ。条件は義信と信玄が擦り合わせていた為に同じなのだが、切実で大きな問題が有るのだ、それは何方の誰が頭を務めるかという問題だ。双方の海賊衆にとっては大問題なのだが、義信・信玄にとっては不毛でしかない船戦が勃発してしまった。

 双方が有利な風上を取ろうとしたり、扱ぎ手に死力を尽くさせ敵陣形を崩さそうとするが、最初の矢文の応酬でとんでもない事が伊豆水軍い伝えられていた。以前から武田遠江軍からの調略があって、臣従する心算だったとの事だ。伊豆水軍にとっては寝耳に水である、それに自分達が参戦しなければ調略に応じなかっただろうと思うが、今川水軍が絶対その事を認めない事は明らかだ。

 何よりも晴信に対する不信感と焦りが心で渦巻いていた。武田が今川水軍にも調略の手を伸ばしている事を知らせなかったのは、自分達を信じていなかったという思いだが、これは自分勝手と言うものだろう、正式には自分達も未だに北条の家臣なのだから、機密を明かされるはずはないのだ。だがこれは褒賞金が無くなると言う大問題なので、身勝手極まりない思考をする者がいても仕方ないのかもしれない。焦りと言うのは、今川水軍が先に降伏してしまうと、相対的に自分達の地位が低下してしまい、下手をすると降伏すら受け入れられないかもしれないと言う事だ。

 双方夫々の船大将が思い思いの手立てを心に秘めながら陣形争いが行われていたが、双方決定的な勝敗も無く何時の間にか距離を置いて対陣する事に成っていた。最後に矢文を交わし合い、双方の調略担当者と話し合う事で分かれる事に成った。まあ仕方のない事だろう、互いに武田に降って身の安泰を図る事に決めたのだ。矢で傷つけ合う事も、火矢で焼く事も、乗り込んで切り結ぶ事も躊躇われる。後は何方が先に下って優位に立つかの先陣争いに成ってしまった。

 最終的には今川水軍・伊豆水軍の全てが一門家臣とその家族、積めるだけの家財を持って武田に降ってきた。しかし双方も思惑は外れてしまい、もっと早くから鷹司に臣従していた佐治水軍がこれからの鷹司海軍太平洋艦隊の頭となる事になった。それとこれで王直のジャンク船団への依頼は、船戦としては無駄になったのだが、早くにジャンク船を取り入れて訓練するにはよかった。

 この降伏劇は今川・北条双方に衝撃を与えた。何とか踏みとどまっていた今川方国衆が一斉に降伏して来たのだ。だがここまで決着がついてからの降伏条件は厳しい、城地召し上げの上での半知分扶持支給であった。但し召し放つことになった家臣は、望めば武田家か鷹司家で召し抱えてもらえた。強かな国衆は一門と示し合わせて、別家を立てる心算で一門衆から召し放ちして家臣を残す事にしたが、義信も信玄もそんな事は先刻承知で、本家に近い者ほど人質も兼ねて近習として召し抱えた。

 「降伏臣従した今川国衆」
 新野城主 新野親矩
 高天神城主 小笠原長忠
 など遠江国衆は全て
 富士城(大宮城) 富士信忠
 葛山城 葛山氏元
 など富士川から東の国衆の全て。

 この状態となり富士川の東で踏みとどまっていた今川勢が崩壊した。名将・岡部正綱にも最早どうする事も出来なかった。問題は武田軍に対抗する切り札である、大竹盾兵と鉄砲兵が足軽で編成されていた事だった。海賊衆の寝返りが判った後で4種の矢文が大量に射込まれた、新種の矢文には武具を持って逃げて来たら、鉄砲1丁銭2貫文・槍1つ銭500文・刀1振り銭1貫文・大竹盾1つ銭100文で買い取ると書いてある悪辣な物であった。このため夜陰に乗じて武具を持って武田に降伏する足軽が大量に出た。中には仲間の足軽や組頭の武具を盗んでいく者まで現れた。

 だからといって足軽から武具を取り上げるわけにはいかない、武田の急襲が有った場合陣立てが間に合わないのだ。籠城すれば足軽たちも逃亡できないが、兵糧攻めか火攻めで必敗する事に成る。出来る事は組頭達に厳しく監視させることだけだったが、武田は悪辣だった。大竹盾隊を先頭に毎日夜襲を仕掛けて来たのだ。応戦の陣立てに混乱するのに乗じて足軽達がまたしても大量に逃亡したのだ、後は坂道を転がる様に崩壊するだけだった。業を煮やした足軽組頭が、逃亡しようとした足軽を切り殺したところで同士討ちが始まり、それが恐慌状態を産み全面敗走となった。

 事ここに至って今川義元は打つ手無しと判断した。自身が隠居して家督を武田の血を引く氏真に譲る条件で降伏臣従の使者を送った。領地は現状維持で富士川以西の駿河半国だ。しかし相手は武田晴信である、この程度の条件では納得しなかった。確実に滅ぼせる状態で手を緩ほど晴信は甘くない。交渉相手が義信だったら変わっていただろうか? これも無理だっただろう、伊那焼き討ちを行った事で義元の未来は決まっていたのだ。

 さて北条の受けた衝撃はどうだったか。武田に対する水軍の有利を持って、出来る限りの支援を引き出そうとしたのに、肝心の水軍が武田に寝返ったのでは話にならない。しかも武田と戦っていた今川水軍まで寝返ってしまった。ここで氏康は自身が戦略判断を誤った事と、晴信に騙されたことを思い知った。もし氏康が伊豆水軍を遠江に送らなければ今川水軍も武田に降伏しなかっただろう。何より河越で負ける前に今川水軍に調略を仕掛ければよかったのだ。そうすれば圧倒的な水軍力を持って武田に対する事が出来たのだ。

 窮すれば鈍すると言うが、小笠原長時の跳梁に苦しめられて判断を過ったのかもしれないし、新九郎が暗殺された事で怒りに我を忘れ、判断を誤ってしまったのかもしれない。しかしここが正念場で有った、ここで判断を誤れば北条は滅ぶ。

 氏康は一応晴信に伊豆水軍調略に対する抗議は行ったが、案の定逃げて来たので仕方なく受け入れたと返事があった。影衆と風魔忍軍の力で辛うじて連絡は出来ているが、何時それも出来なく成るか判らない状態だ、この状態で娘の輿入れを条件に援軍を求めても受けれるはずもない。三国志の呂布のように娘を背負って討って出るなど笑止でしかない。ここは思い切った条件を示すしかない。

 駿東郡で北条が領有している足柄城・高畑城の城地を持参金として武田の子弟を養子に迎える事だ。これならば何が有ってもその地に北条の血と名跡は残るが、あの晴信ならば城地だけ受け取って、養子の話を無効にする事も有り得る。だから関東軍にも使者を送りたいのだが、前回の河越合戦で河越公方・足利義氏に偽りの降伏の使者を送り続けて裏切った前科も有る。扇谷上杉・上杉朝定を討ち取ってしまってもいる。そうなると佐竹義昭か小笠原長時の何方かだが、小笠原長時が関東軍の要だろう。もし彼を招く事が出来れば逆転の目も有る。いっそともに武田攻撃をすると約束するか? 水軍を調略された恨みも有る、長時も信濃を追われた恨みが有るだろう。小笠原騎馬隊が有れば、関東軍を討ち払う事も武田に一泡吹かせる事も不可能では無い。
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