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Ⅱ
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Ⅱ
それは甘く芳醇な香りと共にやってくる。
紅い花びらが嵐のようだった。美しく、神々ですら畏怖させる茨の防柵が眼の前に現れた。
「ハウンド、仕留める。――引け」
ヴィンセントが紅い影に命じると、赤黒い犬はずるりと影の中に吸い込まれた。
「……死神ヴィンセント・シルバ」
男は平静を装った。だが、叱咤しようとも両足の震えは止まってはくれない。それほどに、対峙した死神の存在感が恐ろしかった。
「ロイド・スティンガー、残念ながら懺悔の暇はやれない」
死神は無情にもそう宣告すると、漆黒のマントからロイドに手を翳した。
「う、ぐ――っ!!」
ロイドは急に灼(や)けつく喉を押さえた。
「あ、が!」
その灼熱に耐え切れず、天を仰ぐ。
彼の全身を走る血管には茨が走り、ロイドは口から大輪の紅い薔薇を咲かせ――絶命した。
ヴィンセントは地に落ちた茎に向かう程、紅が黒に変わる剣弁の薔薇を拾い、ぐしゃりと花を握りつぶす。手に薔薇の香りが移るが意にも介さず、ヴィンセントは花びらを風に乗せてその場を離れた。
◇
一仕事終わり、着替えるとパリに向かった。時刻はちょうど午後の三時半を示していた。
「この時刻なら、あちらか」
ぽつりと呟いて、グランパのアパルトマンではなく、学生街であるカルチェ・ラタン方面に歩を進める。
十月にさしかかったパリの気候はすっかり秋の匂いに包まれていた。そろそろオフシーズンに入るパリは博物館などの閉館時刻が早まるのだろう。ならば、早めに連れて行っておかないと後々ヴィンセントが困る事態になる。
カルチェ・ラタンに到着すると、やはり授業終わりの学生達で賑わっていた。常人であれば、この中から少女一人を探し出すのは骨が折れると思うのだろうが、ヴィンセントは死神である。探し求めている香りがこちらに向かってくると、彼女もまたヴィンセントを発見したのだろう。満面の笑顔で駆け寄ってくる。
「ヴィンセント!!」
「お疲れ。今日もアラン爺さんのところに寄って帰るか?」
「うん!!」
ヴィンセントが荷物を持ってやると、いつもと同じように少し戸惑いながらもリリィはヴィンセントの隣を歩き出した。
「ねえ、ヴィンセント。アベル、今日は神界の偉い人に呼び出されているんでしょ? 大丈夫なの?」
リリィ御用達の、アラン・オーリックという老人が夫妻で経営しているカフェに向かう道々、リリィはどこか憂いを内包させて尋ねてくる。
「心配ない。どうせあいつは、いつもの二枚舌で逃れてくる。何も今日が初めてじゃないだろう。お前も慣れろよ」
「……だって、私のせいで怒られているのかと思ったら、やっぱり気になるじゃない」
歩調をリリィに合わせて悠々と歩くヴィンセントは、ポケットに突っ込んでいた方の手をリリィの頭に置いた。
「問題ないって言ってるだろう。俺は信用ならないか? そんな顔で行くと、せっかくのアラン爺さんのパイが不味くなるぞ」
「あ、そ、それは……困る!」
しょぼくれていたリリィはこの一言で、慌ててヴィンセントに食い下がってくる。「やはりまだ色気より食い気か」と思わず、ヴィンセントも笑みが漏れた。
◇
リリィがグランパのところに引き取られて二年が過ぎた。
ファロア家の現当主であるリリィの実兄ルイス=ブライアンは、未だに時折リリィとの面会を求めているが、それには弁護士資格を有しているジャンヌがグランパやアベルの代行として対応していると聞く。
「ところで、リセ(高校)には馴染めそうなのか? まだ新学期が始まって一カ月だが……」
今日もアラン翁とミッシェル夫人がにこにこと迎え入れてくれた『カフェ・サンミッシェル』で発酵バターを贅沢に織り込んだきつね色のパイ生地と甘すぎないシャキシャキの食感が残った林檎の砂糖煮が絶妙なショソン・オ・ポム(アップルパイ)に舌鼓を打ちながら、ヴィンセントはリリィに問うた。
フランスの新学期はバカンスが終わった九月から始まるのだ。
「最近はじろじろ見られるのはマシになったよ。科は違うけど、ユエっていう私より三つ年上で、日本とイギリスのハーフでフランスが四分の一の女の子が居てね。彼女もスキップでリセに入って仲良くしてくれているから平気」
「日本とイギリスのハーフでフランスが四分の一? ……また濃いガキだな」
「歌とピアノがすごく上手なの。いずれコンセルヴァトワール(音楽院)に進むそうなんだけれど、日本の音楽大学とイギリスの方からも声がかかっていて迷っているんだって」
「だからキャラクターが濃いって……。なんなんだ、お前も七つで高等部に編入した天才児なのに、その友人はまだ上を行くのか。まあ、日本に音楽院は無いだろう。本気で音楽を仕事にするならヨーロッパに留まるのが賢明だろうな」
ヴィンセントはアラン翁が淹れてくれた、ヴィンセント好みのうんと濃いアッサムのストレートティーを口にしながらリリィの話題に応じる。
フランスでは、通常五、六歳から十年間の義務教育が定められている。それ以前にも、三年間の義務教育就学前の準備期間があるのだ。
だが、リリィはつい先年まで祖父に家庭教師を付けられ、家でその三年間を過ごした。アベルに保護され、初等科への入学が決定したものの、それも束の間、彼女の能力値は既に大学レベルにまで達していたと判明した。そして特例として義務教育期間を一年も経たずに修了され、現在は高等教育期間のリセで情報工学と歴史学を学んでいる。
これには保護者一同、口を開けて呆けるしかなかった。しかし、グランパとジャンヌだけは、共に生活しているせいか、納得もしていた。
ジャンヌ曰く「だって、元々英語とドイツ語の読み書きも会話もできたし、バカンスでアジア諸国を周ったら三日もあれば現地の人とも会話してるんだもの。お試しでやらせたTOEICとTOEFLの模擬試験も満点。知らない国の言葉も辞書をぱらっと読めば読み書きできる。あとは――」
「もういい、充分解った」
「ねえ、リリィ。……言いにくいかもしれないけど、それも全部お祖父様に勉強しろって言われたの?」
あまりの情報量にヴィンセントは制止をかけ、アベルは膝の上に座っているリリィの様子を窺いながら尋ねた。
「英語とドイツ語は……ブライアン兄さんのお友達がドイツに居たし、語学は好きだったから本を読んだり、CDで勉強したりした。……あとのは、お祖父様が付けた家庭教師から」
「そっかぁ。リリィの将来は選び放題だね」
「選び放題?」
アベルが嬉しそうな声音で話す。対して、思わずリリィは訝しむような語調になった。
――己の将来は“神殺しの聖女”でしかないのではないか。
そう問おうとしたのが伝わったのか、アベルはリリィの視線を受けてにっこりと笑う。
「だって“神様の断罪”なんて、そう毎日あることじゃないよ。現にリリィは今、普通の生活をしている訳だし、今までもまだ“仕事”をしたことないでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「でしょ。じゃあやりたいことが多すぎて迷っちゃうねえ。できのいい娘を持つとパパは困っちゃうなあ」
リリィを後ろから抱きしめて頬ずりしているアベルは、スキンシップに慣れないリリィが硬直しているのを良いことにやりたい放題だ。しかし、決して嫌なのではないことはリリィの表情からもうかがい知れる。ほんのりと薄紅に上気した様子は、嬉しい反面、反応に困っている時だ。
己も遠い昔に同じことをされたので、リリィの気持ちがヴィンセントにはよく解った。書類上の正式な後見人はグランパだが、ファロア家もリリィの親権を放棄していない為、厳密に言えばアベルはリリィの父にはあたらないのだが、本人がそれを指摘すればむくれて面倒くさいことになるので、ヴィンセントもジャンヌもあえて地雷原を踏みはしない。ただ見守るだけに治めていた。
◇
そんな遣り取りがあったのが、ちょうど一年前の話だ。
あれから学校に通いだし、アベルが甘やかして毎日学校まで迎えに行ったついでにカフェでおやつを済ませてから帰宅するものだから、少しずつだがリリィも情緒が豊かになってきた。こうしてアベルと離れても問題が無い程度にだが、最初の頃を考えると子供の適応力には舌を巻く。
バカンス中はグランパとジャンヌしかいないと聞いて、アベルはひやひやしていたが、毎日写真付きのメールと夜の電話を必須にすることで何とかアベルを納得させた。
「親バカすぎる」
「何言ってんの!? だって初めての海外!! しかも一カ月も僕と離れての旅行なんだから、そりゃ心配もするよ!!」
「……落ち着け。俺が悪かった」
何気なく言った一言に、アベルは怒涛の反論を返してくる。あまりの必死さに、さすがにヴィンセントの方が折れた。すると、アベルは肩を落として唇を尖らせる。
「ああ……なんで僕は人間じゃないんだろ……。やっぱり君の使い魔を一匹付ければ良かった」
「言っておくが、そんなことに俺の使い魔は貸さないからな」
メールも電話もあるこのご時世――しかも、力が弱いとは言え、仮にも神格位を有する者が天敵とも言える“神殺しの聖女”を過保護に育てているなどと誰が信じるのか。しかし、哀しいことにヴィンセントにとっては、兄の過保護な一面を知り、頭が痛い毎日だった。
結局、リリィは怪我どころか、膨大な量の写真と土産と共に帰宅し、まだ興奮が冷めないのか、アベルとヴィンセントに旅行の間にあった出来事を延々と語り続けた。特に日本が気に入ったようで、京都で着た着物まで買ってきた。
「おい……じいさん」
「すまん。よう似合っておったから、アベルにも見せてやれば喜ぶと思っての」
グランパまですっかりリリィに骨抜きにされ、ヴィンセントは呆れ返るばかりだった。加えて、リリィの両耳にいつの間にやら付けている薄紅色のピアスがあった。シンプルな八ミリ球のピアスはリリィのハニーブロンドによく似合っていた。
「コライユ(珊瑚)か」
「よく解ったな。日本で紅葉を見たんじゃが、同じく春にはサクラという花が咲くと写真を見せたら、いたく気に入ったようでな。次は桜の季節に連れて行く代わりに、とジャンヌがよく似た色のこのピアスを付けたんじゃ」
「……あんたら、リセへの入学祝いにもオーダーメイドのオルゴールだの、パーティドレスだのとやってただろう……。いい加減に甘やかしすぎだぞ」
「老い先短いおいぼれの楽しみなんじゃよ」
「人間みたいなこと言うな。あんた、死なないだろう」
冷たく言い放つヴィンセントにグランパはなぜか口だけで笑んだ。
「おい、まさか……」
「ほほ、死神の嗅覚を誤魔化せる程度にはまだ生きられるということかのぉ。じゃが、そう永くはないことは解るじゃろう?」
グランパのいう通り、意識を集中させてみればこの老人からはまだ微かだが、しかし確実な死の匂いがする。ヴィンセントは思わず舌打ちを漏らした。
「のう、ヴィンセント。儂はリリィが可愛い。アベルやお前さん、ジャンヌも実の子のように思っておる。いずれ来る別れの時でも、儂は笑って逝けそうじゃよ」
もう既に末期の事を語るグランパに、ヴィンセントは返す言葉が見つからなかった。むっつりとしているヴィンセントを見てただ微笑んでいた。
続...
それは甘く芳醇な香りと共にやってくる。
紅い花びらが嵐のようだった。美しく、神々ですら畏怖させる茨の防柵が眼の前に現れた。
「ハウンド、仕留める。――引け」
ヴィンセントが紅い影に命じると、赤黒い犬はずるりと影の中に吸い込まれた。
「……死神ヴィンセント・シルバ」
男は平静を装った。だが、叱咤しようとも両足の震えは止まってはくれない。それほどに、対峙した死神の存在感が恐ろしかった。
「ロイド・スティンガー、残念ながら懺悔の暇はやれない」
死神は無情にもそう宣告すると、漆黒のマントからロイドに手を翳した。
「う、ぐ――っ!!」
ロイドは急に灼(や)けつく喉を押さえた。
「あ、が!」
その灼熱に耐え切れず、天を仰ぐ。
彼の全身を走る血管には茨が走り、ロイドは口から大輪の紅い薔薇を咲かせ――絶命した。
ヴィンセントは地に落ちた茎に向かう程、紅が黒に変わる剣弁の薔薇を拾い、ぐしゃりと花を握りつぶす。手に薔薇の香りが移るが意にも介さず、ヴィンセントは花びらを風に乗せてその場を離れた。
◇
一仕事終わり、着替えるとパリに向かった。時刻はちょうど午後の三時半を示していた。
「この時刻なら、あちらか」
ぽつりと呟いて、グランパのアパルトマンではなく、学生街であるカルチェ・ラタン方面に歩を進める。
十月にさしかかったパリの気候はすっかり秋の匂いに包まれていた。そろそろオフシーズンに入るパリは博物館などの閉館時刻が早まるのだろう。ならば、早めに連れて行っておかないと後々ヴィンセントが困る事態になる。
カルチェ・ラタンに到着すると、やはり授業終わりの学生達で賑わっていた。常人であれば、この中から少女一人を探し出すのは骨が折れると思うのだろうが、ヴィンセントは死神である。探し求めている香りがこちらに向かってくると、彼女もまたヴィンセントを発見したのだろう。満面の笑顔で駆け寄ってくる。
「ヴィンセント!!」
「お疲れ。今日もアラン爺さんのところに寄って帰るか?」
「うん!!」
ヴィンセントが荷物を持ってやると、いつもと同じように少し戸惑いながらもリリィはヴィンセントの隣を歩き出した。
「ねえ、ヴィンセント。アベル、今日は神界の偉い人に呼び出されているんでしょ? 大丈夫なの?」
リリィ御用達の、アラン・オーリックという老人が夫妻で経営しているカフェに向かう道々、リリィはどこか憂いを内包させて尋ねてくる。
「心配ない。どうせあいつは、いつもの二枚舌で逃れてくる。何も今日が初めてじゃないだろう。お前も慣れろよ」
「……だって、私のせいで怒られているのかと思ったら、やっぱり気になるじゃない」
歩調をリリィに合わせて悠々と歩くヴィンセントは、ポケットに突っ込んでいた方の手をリリィの頭に置いた。
「問題ないって言ってるだろう。俺は信用ならないか? そんな顔で行くと、せっかくのアラン爺さんのパイが不味くなるぞ」
「あ、そ、それは……困る!」
しょぼくれていたリリィはこの一言で、慌ててヴィンセントに食い下がってくる。「やはりまだ色気より食い気か」と思わず、ヴィンセントも笑みが漏れた。
◇
リリィがグランパのところに引き取られて二年が過ぎた。
ファロア家の現当主であるリリィの実兄ルイス=ブライアンは、未だに時折リリィとの面会を求めているが、それには弁護士資格を有しているジャンヌがグランパやアベルの代行として対応していると聞く。
「ところで、リセ(高校)には馴染めそうなのか? まだ新学期が始まって一カ月だが……」
今日もアラン翁とミッシェル夫人がにこにこと迎え入れてくれた『カフェ・サンミッシェル』で発酵バターを贅沢に織り込んだきつね色のパイ生地と甘すぎないシャキシャキの食感が残った林檎の砂糖煮が絶妙なショソン・オ・ポム(アップルパイ)に舌鼓を打ちながら、ヴィンセントはリリィに問うた。
フランスの新学期はバカンスが終わった九月から始まるのだ。
「最近はじろじろ見られるのはマシになったよ。科は違うけど、ユエっていう私より三つ年上で、日本とイギリスのハーフでフランスが四分の一の女の子が居てね。彼女もスキップでリセに入って仲良くしてくれているから平気」
「日本とイギリスのハーフでフランスが四分の一? ……また濃いガキだな」
「歌とピアノがすごく上手なの。いずれコンセルヴァトワール(音楽院)に進むそうなんだけれど、日本の音楽大学とイギリスの方からも声がかかっていて迷っているんだって」
「だからキャラクターが濃いって……。なんなんだ、お前も七つで高等部に編入した天才児なのに、その友人はまだ上を行くのか。まあ、日本に音楽院は無いだろう。本気で音楽を仕事にするならヨーロッパに留まるのが賢明だろうな」
ヴィンセントはアラン翁が淹れてくれた、ヴィンセント好みのうんと濃いアッサムのストレートティーを口にしながらリリィの話題に応じる。
フランスでは、通常五、六歳から十年間の義務教育が定められている。それ以前にも、三年間の義務教育就学前の準備期間があるのだ。
だが、リリィはつい先年まで祖父に家庭教師を付けられ、家でその三年間を過ごした。アベルに保護され、初等科への入学が決定したものの、それも束の間、彼女の能力値は既に大学レベルにまで達していたと判明した。そして特例として義務教育期間を一年も経たずに修了され、現在は高等教育期間のリセで情報工学と歴史学を学んでいる。
これには保護者一同、口を開けて呆けるしかなかった。しかし、グランパとジャンヌだけは、共に生活しているせいか、納得もしていた。
ジャンヌ曰く「だって、元々英語とドイツ語の読み書きも会話もできたし、バカンスでアジア諸国を周ったら三日もあれば現地の人とも会話してるんだもの。お試しでやらせたTOEICとTOEFLの模擬試験も満点。知らない国の言葉も辞書をぱらっと読めば読み書きできる。あとは――」
「もういい、充分解った」
「ねえ、リリィ。……言いにくいかもしれないけど、それも全部お祖父様に勉強しろって言われたの?」
あまりの情報量にヴィンセントは制止をかけ、アベルは膝の上に座っているリリィの様子を窺いながら尋ねた。
「英語とドイツ語は……ブライアン兄さんのお友達がドイツに居たし、語学は好きだったから本を読んだり、CDで勉強したりした。……あとのは、お祖父様が付けた家庭教師から」
「そっかぁ。リリィの将来は選び放題だね」
「選び放題?」
アベルが嬉しそうな声音で話す。対して、思わずリリィは訝しむような語調になった。
――己の将来は“神殺しの聖女”でしかないのではないか。
そう問おうとしたのが伝わったのか、アベルはリリィの視線を受けてにっこりと笑う。
「だって“神様の断罪”なんて、そう毎日あることじゃないよ。現にリリィは今、普通の生活をしている訳だし、今までもまだ“仕事”をしたことないでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「でしょ。じゃあやりたいことが多すぎて迷っちゃうねえ。できのいい娘を持つとパパは困っちゃうなあ」
リリィを後ろから抱きしめて頬ずりしているアベルは、スキンシップに慣れないリリィが硬直しているのを良いことにやりたい放題だ。しかし、決して嫌なのではないことはリリィの表情からもうかがい知れる。ほんのりと薄紅に上気した様子は、嬉しい反面、反応に困っている時だ。
己も遠い昔に同じことをされたので、リリィの気持ちがヴィンセントにはよく解った。書類上の正式な後見人はグランパだが、ファロア家もリリィの親権を放棄していない為、厳密に言えばアベルはリリィの父にはあたらないのだが、本人がそれを指摘すればむくれて面倒くさいことになるので、ヴィンセントもジャンヌもあえて地雷原を踏みはしない。ただ見守るだけに治めていた。
◇
そんな遣り取りがあったのが、ちょうど一年前の話だ。
あれから学校に通いだし、アベルが甘やかして毎日学校まで迎えに行ったついでにカフェでおやつを済ませてから帰宅するものだから、少しずつだがリリィも情緒が豊かになってきた。こうしてアベルと離れても問題が無い程度にだが、最初の頃を考えると子供の適応力には舌を巻く。
バカンス中はグランパとジャンヌしかいないと聞いて、アベルはひやひやしていたが、毎日写真付きのメールと夜の電話を必須にすることで何とかアベルを納得させた。
「親バカすぎる」
「何言ってんの!? だって初めての海外!! しかも一カ月も僕と離れての旅行なんだから、そりゃ心配もするよ!!」
「……落ち着け。俺が悪かった」
何気なく言った一言に、アベルは怒涛の反論を返してくる。あまりの必死さに、さすがにヴィンセントの方が折れた。すると、アベルは肩を落として唇を尖らせる。
「ああ……なんで僕は人間じゃないんだろ……。やっぱり君の使い魔を一匹付ければ良かった」
「言っておくが、そんなことに俺の使い魔は貸さないからな」
メールも電話もあるこのご時世――しかも、力が弱いとは言え、仮にも神格位を有する者が天敵とも言える“神殺しの聖女”を過保護に育てているなどと誰が信じるのか。しかし、哀しいことにヴィンセントにとっては、兄の過保護な一面を知り、頭が痛い毎日だった。
結局、リリィは怪我どころか、膨大な量の写真と土産と共に帰宅し、まだ興奮が冷めないのか、アベルとヴィンセントに旅行の間にあった出来事を延々と語り続けた。特に日本が気に入ったようで、京都で着た着物まで買ってきた。
「おい……じいさん」
「すまん。よう似合っておったから、アベルにも見せてやれば喜ぶと思っての」
グランパまですっかりリリィに骨抜きにされ、ヴィンセントは呆れ返るばかりだった。加えて、リリィの両耳にいつの間にやら付けている薄紅色のピアスがあった。シンプルな八ミリ球のピアスはリリィのハニーブロンドによく似合っていた。
「コライユ(珊瑚)か」
「よく解ったな。日本で紅葉を見たんじゃが、同じく春にはサクラという花が咲くと写真を見せたら、いたく気に入ったようでな。次は桜の季節に連れて行く代わりに、とジャンヌがよく似た色のこのピアスを付けたんじゃ」
「……あんたら、リセへの入学祝いにもオーダーメイドのオルゴールだの、パーティドレスだのとやってただろう……。いい加減に甘やかしすぎだぞ」
「老い先短いおいぼれの楽しみなんじゃよ」
「人間みたいなこと言うな。あんた、死なないだろう」
冷たく言い放つヴィンセントにグランパはなぜか口だけで笑んだ。
「おい、まさか……」
「ほほ、死神の嗅覚を誤魔化せる程度にはまだ生きられるということかのぉ。じゃが、そう永くはないことは解るじゃろう?」
グランパのいう通り、意識を集中させてみればこの老人からはまだ微かだが、しかし確実な死の匂いがする。ヴィンセントは思わず舌打ちを漏らした。
「のう、ヴィンセント。儂はリリィが可愛い。アベルやお前さん、ジャンヌも実の子のように思っておる。いずれ来る別れの時でも、儂は笑って逝けそうじゃよ」
もう既に末期の事を語るグランパに、ヴィンセントは返す言葉が見つからなかった。むっつりとしているヴィンセントを見てただ微笑んでいた。
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