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Ⅰ
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Ⅰ
ヴィンセント・シルバとリリィ=アンジェ・ファロアの出逢いは、もう十五年も前のことだ。
当時、ヴィンセントはこの世ならざる世界に身を置いていた。闇を溶かし込んだような黒髪と鮮血の紅を思わせる双眸。誰もが畏怖する死神という“役職”だったのだ。
死神とはいえ、神格位を保持し、この世とあの世を行き来できる存在である。人のみならず、同じ神の死も司る存在――それがヴィンセント・シルバという男だった。
ヴィンセントには兄弟が居た。アベルという兄だ。兄弟と言っても、兄は死神ではなかった。神としては力が弱く、また死神を弟に持つとは到底考えられない程のお人好しだった。ゆえに神格位を持つだけの、あちらの世界――人間が言うところの神界ではヴィンセントの使い魔のような雑務をこなしていた。
「ヴィンセントー……」
今日も地上の偵察から帰ってきたと思ったら、情けない声を出しながら出窓に腰掛けて本を読んでいたヴィンセントにひょっこりとドアから顔を出す。
「なんだ、アベル……おい、血の匂いがするぞ」
「うん。あの、さ……」
歯切れの悪い回答に若干ヴィンセントは眉をひそめる。血の匂いだけではない。むせかえりそうな百合の匂いもしていたからだ。
ようよう本を閉じ、ヴィンセントは重い腰を上げた。それを確認するとアベルは、やっとドアから部屋に入ってきた。
「……なんだ、コレ」
「見ての通り、女の子――人間の」
アベルの腕の中には、歳の頃なら五つくらいだろうか、ハニーブロンドと碧い眼をした愛らしい少女が抱かれていた。
その子供はヴィンセントを恐れるように、ひたすらアベルにしがみついている。微かに震えているが、視線は虚空にあるのでどうやらヴィンセントを恐れている訳ではなさそうだと憶測をつける。
問題はこの少女の右手と纏うオーラだった。ヴィンセントは思わずこめかみを押さえる。
「アベル……拾い物は考えて拾えといつも言っているだろう」
「あー……うん、わかっているんだけどねえ……どうしても見過ごせなくて」
「だからと言って、コレは第一級の曲者だぞ! 神界に入れて良いものじゃない! わかってんのか、このガキは“聖女”だ!」
感情の希薄なヴィンセントが声を荒げるとは珍しい、などと考えながらアベルは苦笑する。だが、ヴィンセントの大声に驚いたのか、腕の中の少女は驚き慄いて震えを強くした。
「ああ、もう! 大声出すから怯えちゃったじゃないか。僕だけはこうやって触れても大丈夫だったのに」
「これが大声を出さずに居られるか。右手の白十字! この百合の匂いに加えて守護神までおおっぴらにしているガキを死神のところに連れてくるからだ! 良いか、アベル。お前のお人好しに治療法が無いことは知っている。だが、このガキは危険すぎる。――人間の中でも唯一、神を殺せる人間、それが“聖女”だ!! こんなところに置いておいたら、それこそこのガキの命が危うい。“聖女”を憎んでいる奴で溢れかえっているんだからな!」
「わかってるよ! でも、仕方ないじゃないか……この子、雨の中で泣きながら右手のタトゥーを滅多刺しにしていたんだ。……あまりにひどいから見かねて、つい連れてきちゃった。ここなら君が居るから。今だけで良いんだ! すぐに下界のグランパに引き取ってもらうから、それまで、それまでで良いから、頼む。ヴィンセント……」
ぎゅうぎゅうとアベルにしがみつく少女からは相変わらず強い百合の香りが漂ってくる。彼女の守護神と守護天使であろう金色のオーラも、先刻から不安定にゆらゆらとオーラを危うくしている。これでは“神殺しの聖女”がここにいることがバレるのも時間の問題だ。ヴィンセントには選択権が無いも同然だ。
「ちっ……! 早く連絡して来い。その間だけなら見ておいてやる」
嫌々ながらも、そう言い捨てるとアベルはぱっと明るい表情をして、少女をヴィンセントに押し付けた。
「……っ!」
少女は突如、アベルから引き離されて息を詰まらせ、戸惑いに目を揺らす。それを落ち着かせるように、そっとアベルが諭した。
「大丈夫だよ、彼は僕の弟でヴィンセント。十分もしたら戻るよ。ね、絶対大丈夫だから、僕を信じて? リリィ=アンジェ」
離れがたくアベルの袖を引いたリリィの頬に小さなキスをしてアベルはにっこりと笑った。それに納得はしていないようだったが、不承不承にリリィは手を放した。
「良い子。――じゃあ、行ってくるね。ヴィンセント、リリィをいじめちゃ駄目だよ」
「うるさい。さっさと行け」
バタバタと慌ただしくアベルは去っていった。残されたヴィンセントは改めてリリィを見た。おそらく名家の令嬢だろう。身につけている衣服は上質の物だった。だが、雨の中に居たとのことだから、せっかくのフレアスカートも泥まみれだ。
「……着替え、するか?」
なんとかそれだけを口にするが、リリィは首を横に振った。たとえ十分とは言え、この時間はなかなかに苦痛であった。たまりかねたヴィンセントは、一つ息を吐く。そして自身を融かして十二、三歳くらいの人間の姿へと変じた。
「これならまだマシか?」
着ていたVネックのアラン織りのセーターはぶかぶか、洗いざらしの黒いジーンズまで丈が長過ぎてなんともみっともない姿だ。だが、視線が近くなったリリィは大きな碧い両目をくりくりとさせてヴィンセントを見て、ほんのりとだが確かに笑った。
『ありがとう』
声が出ないのか、口の動きだけでリリィはヴィンセントに礼を述べた。
◇
その後、戻ってきたアベルが驚いていたが、ヴィンセントは憮然として兄を睨んだ。二人だけで下界まで行かせるのはあまりに不安だったので、ヴィンセントは元の青年の姿に戻り、最大限の警戒をしながらアベルとヴィンセントはパリのシテ島のアパルトマンに人間として住まう、通称・グランパと呼ばれる好々爺の元にリリィを預けた。
なぜかリリィは最初だけグランパにひどく怯えたが、アベルの説得とグランパの世話役であるジャンヌという女性に諭され、そこに留まることに頷いた。
「随分な拾い物じゃのぉ。まさか“聖女”を匿うとは」
「アベルが勝手にやっただけだ。詳細はあいつに訊け。もしくはあんたらの十八番の情報収集をすればいいだろう。俺は関係ない」
グランパは蓄えた白髭を撫でつけながら、ヴィンセントに問う。だが、ヴィンセントはどこまでも冷たい。
「ふむ……ファロア家と言えば、パリのみならず欧州の財界でも屈指の財閥じゃ。特に一代でファロア家を大きくしたシャルル・ファロア翁が数年前から“聖女”が誕生したと教会関係者から果ては暗黒街の者にまでどう育てるかを訊きまわっていたと聞く。かなり狂信的にな」
「……つまりリリィは実家のじじいのところから逃げ出したってことか?」
「いや、アベルがあの子の話を持ってきた前日にシャルル翁は亡くなっておる」
まったく話が見えてこない。だが、あまり関わり合うのは得策ではないと判じ、ヴィンセントは踵を返した。
「言ったはずだ。俺は関係ない」
そう言って、影の中に消えてしまった。
しかし、アベルがグランパの処に住むと言いだし、ヴィンセントはまた頭を抱えた。元々、アベルの仕事は雑務がほとんどなので、神界としては痛手ではない。代わりなどいくらでもいる。
問題は、どこの世界に死神の兄が神殺しの少女を育てる事例があるだろうか。
アベルの言い分はこうだ。
「だって離れないんだもん……。僕が出て行こうとしたら、過呼吸起こしてしがみついてこられたら、見捨てられないよ」
「だからって、お前……」
「ヴィンセントだって気になってるくせに……」
気にならないとは言えない。けれど、この兄にはリリィの危険性を解っているのだろうか。今のところ、リリィはジャンヌに風呂に入れられ、アベルの膝を枕にしてソファで夢の中だ。とてもこんな幼気な少女が神を殺す存在とは思えない。だが、確かに彼女は最高位に近い守護神と天使が背後に居る。それを説いたところで揚げ足取りのような答えが返ってくるだけだった。
「“聖女”が殺す神ってのは、彼女の守護神と守護天使が、神格位を持つ者の罪を断罪する為だ。人間界でいう裁判官を裁く弾劾裁判のようなものでしょ、グランパ」
「まあ、そうとも取れるのぉ。死神は同じ神格を有する者は裁けん。ゆえに原初の頃から“聖女”の制度ができた、じゃったか」
神格位の者としての力は弱いアベルだが、こうと決めた事には頑として捻じ曲げないところがある。要は頑固なのだ。加えてグランパの援護まであっては、ヴィンセントに勝ち目は無かった。
二人に言い負かされる形で、リリィとアベルはグランパの家に隠れ住むこととなったのだった。
◇
それから二週間が過ぎた。なんだかんだ言いつつも、ヴィンセントはパリのグランパの家に三日に一度は顔を出している。リリィは最近小さくではあるが、声がでるようになってきた。それの祝いという名目で、ヴィンセントは適当な土産を見繕っては差し入れている。
だが、その日は違った。ヴィンセントが顔を出すなり、グランパのみならずアベルまでヴィンセントにリリィを預けて出て行ってしまったのだ。ただ唖然と立ちつくしているヴィンセントのシャツの裾をリリィが引っ張った。
「どうしたっていうんだ?」
「……お、兄様、が、迎えに来たって……グランパが、言ってた」
「お前の兄貴?」
ヴィンセントが反芻すると、リリィはこくりと頷いた。
「……ドイツ、に、留学、していた、一番上の、お兄様。――ルイス=ブライアン。私の、たった一人の、味方だったの……」
「どういうことだ? ゆっくりでいいから、話せるところまで話してみろ」
リリィの視線までしゃがみ込んで、ヴィンセントはリリィに問う。彼女は白いワンピースの裾を握りしめて、たどたどしく話し始めた。
シャルル・ファロア翁にとって、“聖女”の誕生は生涯最後の奇跡だった。黄金の神と天使に守られ、祝福と洗礼を授けられたリリィ=アンジェを祖父はとても厳格に育てたそうだ。聖女足りうる行動、言葉遣い、品格、マナーなどまだ言葉も解らない頃からリリィに文字通り叩き込んだ。聖女の名にそぐわぬ行動があれば、杖で何度も叩かれたのだという。それは彼女の成長と共に過激になっていった。父母も姉も、祖父を恐れてリリィを擁護しなかった。次第に死んでいく心に、ただ一人、十二歳も歳の離れた長兄・ルイス=ブライアンだけが祖父に異を唱えた。
「貴方のしていることは、ただの虐待だ!! リリィはまだ四つになったばかりですよ!? どうして周りも止めない!! この子を殺すつもりか!!」
兄の腕の中で、泣くこともしない#__あおあざ__#だらけの少女はそれを遠い場所での出来事のように聞いていた。
明くる日、まだ中学に上がったばかりの兄は留学という名目でドイツに送られたのだ。救いのない日々がまた戻ってきた、とリリィは兄のいるドイツと繋がる空を見上げた。その翌年、持病の狭心症を悪化させた祖父は呆気なくこの世を去った。
そしてアベルに拾われた、あの雨の日に至る。祖父であるシャルル・ファロア翁の葬儀をこっそりと抜け出し、あの墓地でリリィは佇んでいた。もう脅威は去ったのだ。リリィに害をなす者はいない。そのはずなのに、忌々しい右手の白十字は決して消えてはくれなかった。祖父と共に消えてくれたらどれほど心の平穏が訪れたことだろうか。
「……っ!!」
葬儀の間、こそこそと心無い大人達が陰で話しているのが聞こえた。
『あれが噂の……?』
『まだ幼すぎないか? あれで重大な役目が果たせるのかね』
祖父は死んでもリリィが生涯背負った弾劾者の役割はそのままに――リリィは墓地に落ちていた変色したガラスの破片を手に取った。
――こんなものが! こんなものがあるせいで!
右手の白十字をめがけて、何度も何度もガラス片を突き刺した。しかし、右手には確かに激烈な痛みを感じるのに傷はみるみる癒えていく。リリィがどんなに刺し貫いても、白十字には傷痕ひとつ残らないのだ。
どれほどそうしていたのかは解らない。気が付けば、左手を掴む温かい手がリリィの手を止めた。
「……見ている方が痛いから……止めてくれると嬉しいなぁ」
黒髪の青年の柔らかい笑顔が兄を思い出させた。あまりに優しい声と笑顔に、機能を失っていたはずの涙腺が決壊してしまった。
その後はヴィンセントも知っての通り、アベルに連れられて、リリィは神界へと行ったのだという。
「……あいつ……! ファロア家の承諾を取って無かったのかよ……」
兄の行動を責めるヴィンセントに、リリィは首を横に振った。
「アベルは悪くないの。私の、配慮が足りなかっただけ……」
「五つの子供のセリフとは思えないな。お前は、兄貴に逢いたいのか?」
リリィは小さく首を横に振った。
「ブライアン兄さんは、優しい、けど……ファロアの家には、関わりたくない、ってグランパに話した」
「そうか。なら、そんなに縮こまらなくても堂々としていろ。あの爺さんは、ああ見えて暗黒街のボスだ。どうとでもなる」
「ヴィンセントもアベルも、みんな、優しい。こんなに幸せで良いのかな」
肯定も否定もせず、ヴィンセントはただリリィの髪をすいた。猫がそうするようにリリィは目を細めてただヴィンセントの手を受け入れていた。
リリィ=アンジェは幸せだった。
――数年後、大好きだったアベルをその手にかけるまでは。
続...
ヴィンセント・シルバとリリィ=アンジェ・ファロアの出逢いは、もう十五年も前のことだ。
当時、ヴィンセントはこの世ならざる世界に身を置いていた。闇を溶かし込んだような黒髪と鮮血の紅を思わせる双眸。誰もが畏怖する死神という“役職”だったのだ。
死神とはいえ、神格位を保持し、この世とあの世を行き来できる存在である。人のみならず、同じ神の死も司る存在――それがヴィンセント・シルバという男だった。
ヴィンセントには兄弟が居た。アベルという兄だ。兄弟と言っても、兄は死神ではなかった。神としては力が弱く、また死神を弟に持つとは到底考えられない程のお人好しだった。ゆえに神格位を持つだけの、あちらの世界――人間が言うところの神界ではヴィンセントの使い魔のような雑務をこなしていた。
「ヴィンセントー……」
今日も地上の偵察から帰ってきたと思ったら、情けない声を出しながら出窓に腰掛けて本を読んでいたヴィンセントにひょっこりとドアから顔を出す。
「なんだ、アベル……おい、血の匂いがするぞ」
「うん。あの、さ……」
歯切れの悪い回答に若干ヴィンセントは眉をひそめる。血の匂いだけではない。むせかえりそうな百合の匂いもしていたからだ。
ようよう本を閉じ、ヴィンセントは重い腰を上げた。それを確認するとアベルは、やっとドアから部屋に入ってきた。
「……なんだ、コレ」
「見ての通り、女の子――人間の」
アベルの腕の中には、歳の頃なら五つくらいだろうか、ハニーブロンドと碧い眼をした愛らしい少女が抱かれていた。
その子供はヴィンセントを恐れるように、ひたすらアベルにしがみついている。微かに震えているが、視線は虚空にあるのでどうやらヴィンセントを恐れている訳ではなさそうだと憶測をつける。
問題はこの少女の右手と纏うオーラだった。ヴィンセントは思わずこめかみを押さえる。
「アベル……拾い物は考えて拾えといつも言っているだろう」
「あー……うん、わかっているんだけどねえ……どうしても見過ごせなくて」
「だからと言って、コレは第一級の曲者だぞ! 神界に入れて良いものじゃない! わかってんのか、このガキは“聖女”だ!」
感情の希薄なヴィンセントが声を荒げるとは珍しい、などと考えながらアベルは苦笑する。だが、ヴィンセントの大声に驚いたのか、腕の中の少女は驚き慄いて震えを強くした。
「ああ、もう! 大声出すから怯えちゃったじゃないか。僕だけはこうやって触れても大丈夫だったのに」
「これが大声を出さずに居られるか。右手の白十字! この百合の匂いに加えて守護神までおおっぴらにしているガキを死神のところに連れてくるからだ! 良いか、アベル。お前のお人好しに治療法が無いことは知っている。だが、このガキは危険すぎる。――人間の中でも唯一、神を殺せる人間、それが“聖女”だ!! こんなところに置いておいたら、それこそこのガキの命が危うい。“聖女”を憎んでいる奴で溢れかえっているんだからな!」
「わかってるよ! でも、仕方ないじゃないか……この子、雨の中で泣きながら右手のタトゥーを滅多刺しにしていたんだ。……あまりにひどいから見かねて、つい連れてきちゃった。ここなら君が居るから。今だけで良いんだ! すぐに下界のグランパに引き取ってもらうから、それまで、それまでで良いから、頼む。ヴィンセント……」
ぎゅうぎゅうとアベルにしがみつく少女からは相変わらず強い百合の香りが漂ってくる。彼女の守護神と守護天使であろう金色のオーラも、先刻から不安定にゆらゆらとオーラを危うくしている。これでは“神殺しの聖女”がここにいることがバレるのも時間の問題だ。ヴィンセントには選択権が無いも同然だ。
「ちっ……! 早く連絡して来い。その間だけなら見ておいてやる」
嫌々ながらも、そう言い捨てるとアベルはぱっと明るい表情をして、少女をヴィンセントに押し付けた。
「……っ!」
少女は突如、アベルから引き離されて息を詰まらせ、戸惑いに目を揺らす。それを落ち着かせるように、そっとアベルが諭した。
「大丈夫だよ、彼は僕の弟でヴィンセント。十分もしたら戻るよ。ね、絶対大丈夫だから、僕を信じて? リリィ=アンジェ」
離れがたくアベルの袖を引いたリリィの頬に小さなキスをしてアベルはにっこりと笑った。それに納得はしていないようだったが、不承不承にリリィは手を放した。
「良い子。――じゃあ、行ってくるね。ヴィンセント、リリィをいじめちゃ駄目だよ」
「うるさい。さっさと行け」
バタバタと慌ただしくアベルは去っていった。残されたヴィンセントは改めてリリィを見た。おそらく名家の令嬢だろう。身につけている衣服は上質の物だった。だが、雨の中に居たとのことだから、せっかくのフレアスカートも泥まみれだ。
「……着替え、するか?」
なんとかそれだけを口にするが、リリィは首を横に振った。たとえ十分とは言え、この時間はなかなかに苦痛であった。たまりかねたヴィンセントは、一つ息を吐く。そして自身を融かして十二、三歳くらいの人間の姿へと変じた。
「これならまだマシか?」
着ていたVネックのアラン織りのセーターはぶかぶか、洗いざらしの黒いジーンズまで丈が長過ぎてなんともみっともない姿だ。だが、視線が近くなったリリィは大きな碧い両目をくりくりとさせてヴィンセントを見て、ほんのりとだが確かに笑った。
『ありがとう』
声が出ないのか、口の動きだけでリリィはヴィンセントに礼を述べた。
◇
その後、戻ってきたアベルが驚いていたが、ヴィンセントは憮然として兄を睨んだ。二人だけで下界まで行かせるのはあまりに不安だったので、ヴィンセントは元の青年の姿に戻り、最大限の警戒をしながらアベルとヴィンセントはパリのシテ島のアパルトマンに人間として住まう、通称・グランパと呼ばれる好々爺の元にリリィを預けた。
なぜかリリィは最初だけグランパにひどく怯えたが、アベルの説得とグランパの世話役であるジャンヌという女性に諭され、そこに留まることに頷いた。
「随分な拾い物じゃのぉ。まさか“聖女”を匿うとは」
「アベルが勝手にやっただけだ。詳細はあいつに訊け。もしくはあんたらの十八番の情報収集をすればいいだろう。俺は関係ない」
グランパは蓄えた白髭を撫でつけながら、ヴィンセントに問う。だが、ヴィンセントはどこまでも冷たい。
「ふむ……ファロア家と言えば、パリのみならず欧州の財界でも屈指の財閥じゃ。特に一代でファロア家を大きくしたシャルル・ファロア翁が数年前から“聖女”が誕生したと教会関係者から果ては暗黒街の者にまでどう育てるかを訊きまわっていたと聞く。かなり狂信的にな」
「……つまりリリィは実家のじじいのところから逃げ出したってことか?」
「いや、アベルがあの子の話を持ってきた前日にシャルル翁は亡くなっておる」
まったく話が見えてこない。だが、あまり関わり合うのは得策ではないと判じ、ヴィンセントは踵を返した。
「言ったはずだ。俺は関係ない」
そう言って、影の中に消えてしまった。
しかし、アベルがグランパの処に住むと言いだし、ヴィンセントはまた頭を抱えた。元々、アベルの仕事は雑務がほとんどなので、神界としては痛手ではない。代わりなどいくらでもいる。
問題は、どこの世界に死神の兄が神殺しの少女を育てる事例があるだろうか。
アベルの言い分はこうだ。
「だって離れないんだもん……。僕が出て行こうとしたら、過呼吸起こしてしがみついてこられたら、見捨てられないよ」
「だからって、お前……」
「ヴィンセントだって気になってるくせに……」
気にならないとは言えない。けれど、この兄にはリリィの危険性を解っているのだろうか。今のところ、リリィはジャンヌに風呂に入れられ、アベルの膝を枕にしてソファで夢の中だ。とてもこんな幼気な少女が神を殺す存在とは思えない。だが、確かに彼女は最高位に近い守護神と天使が背後に居る。それを説いたところで揚げ足取りのような答えが返ってくるだけだった。
「“聖女”が殺す神ってのは、彼女の守護神と守護天使が、神格位を持つ者の罪を断罪する為だ。人間界でいう裁判官を裁く弾劾裁判のようなものでしょ、グランパ」
「まあ、そうとも取れるのぉ。死神は同じ神格を有する者は裁けん。ゆえに原初の頃から“聖女”の制度ができた、じゃったか」
神格位の者としての力は弱いアベルだが、こうと決めた事には頑として捻じ曲げないところがある。要は頑固なのだ。加えてグランパの援護まであっては、ヴィンセントに勝ち目は無かった。
二人に言い負かされる形で、リリィとアベルはグランパの家に隠れ住むこととなったのだった。
◇
それから二週間が過ぎた。なんだかんだ言いつつも、ヴィンセントはパリのグランパの家に三日に一度は顔を出している。リリィは最近小さくではあるが、声がでるようになってきた。それの祝いという名目で、ヴィンセントは適当な土産を見繕っては差し入れている。
だが、その日は違った。ヴィンセントが顔を出すなり、グランパのみならずアベルまでヴィンセントにリリィを預けて出て行ってしまったのだ。ただ唖然と立ちつくしているヴィンセントのシャツの裾をリリィが引っ張った。
「どうしたっていうんだ?」
「……お、兄様、が、迎えに来たって……グランパが、言ってた」
「お前の兄貴?」
ヴィンセントが反芻すると、リリィはこくりと頷いた。
「……ドイツ、に、留学、していた、一番上の、お兄様。――ルイス=ブライアン。私の、たった一人の、味方だったの……」
「どういうことだ? ゆっくりでいいから、話せるところまで話してみろ」
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「貴方のしていることは、ただの虐待だ!! リリィはまだ四つになったばかりですよ!? どうして周りも止めない!! この子を殺すつもりか!!」
兄の腕の中で、泣くこともしない#__あおあざ__#だらけの少女はそれを遠い場所での出来事のように聞いていた。
明くる日、まだ中学に上がったばかりの兄は留学という名目でドイツに送られたのだ。救いのない日々がまた戻ってきた、とリリィは兄のいるドイツと繋がる空を見上げた。その翌年、持病の狭心症を悪化させた祖父は呆気なくこの世を去った。
そしてアベルに拾われた、あの雨の日に至る。祖父であるシャルル・ファロア翁の葬儀をこっそりと抜け出し、あの墓地でリリィは佇んでいた。もう脅威は去ったのだ。リリィに害をなす者はいない。そのはずなのに、忌々しい右手の白十字は決して消えてはくれなかった。祖父と共に消えてくれたらどれほど心の平穏が訪れたことだろうか。
「……っ!!」
葬儀の間、こそこそと心無い大人達が陰で話しているのが聞こえた。
『あれが噂の……?』
『まだ幼すぎないか? あれで重大な役目が果たせるのかね』
祖父は死んでもリリィが生涯背負った弾劾者の役割はそのままに――リリィは墓地に落ちていた変色したガラスの破片を手に取った。
――こんなものが! こんなものがあるせいで!
右手の白十字をめがけて、何度も何度もガラス片を突き刺した。しかし、右手には確かに激烈な痛みを感じるのに傷はみるみる癒えていく。リリィがどんなに刺し貫いても、白十字には傷痕ひとつ残らないのだ。
どれほどそうしていたのかは解らない。気が付けば、左手を掴む温かい手がリリィの手を止めた。
「……見ている方が痛いから……止めてくれると嬉しいなぁ」
黒髪の青年の柔らかい笑顔が兄を思い出させた。あまりに優しい声と笑顔に、機能を失っていたはずの涙腺が決壊してしまった。
その後はヴィンセントも知っての通り、アベルに連れられて、リリィは神界へと行ったのだという。
「……あいつ……! ファロア家の承諾を取って無かったのかよ……」
兄の行動を責めるヴィンセントに、リリィは首を横に振った。
「アベルは悪くないの。私の、配慮が足りなかっただけ……」
「五つの子供のセリフとは思えないな。お前は、兄貴に逢いたいのか?」
リリィは小さく首を横に振った。
「ブライアン兄さんは、優しい、けど……ファロアの家には、関わりたくない、ってグランパに話した」
「そうか。なら、そんなに縮こまらなくても堂々としていろ。あの爺さんは、ああ見えて暗黒街のボスだ。どうとでもなる」
「ヴィンセントもアベルも、みんな、優しい。こんなに幸せで良いのかな」
肯定も否定もせず、ヴィンセントはただリリィの髪をすいた。猫がそうするようにリリィは目を細めてただヴィンセントの手を受け入れていた。
リリィ=アンジェは幸せだった。
――数年後、大好きだったアベルをその手にかけるまでは。
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ちょっぴり切ない、でもちょっとした剣と魔法の冒険ありの(私とヒロイン的には)ハッピーエンド(執着心むき出しのヒーローに囚われてしまったので、見ようによってはメリバ?)のお話です。
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