宵月桜舞

雪原歌乃

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第五章 呪縛と執愛

第一節

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 いったい、何があったのか。美咲は状況を掴むまでに時間を要した。
 美咲が気付いた時には、古い倉庫らしき中にいた。周りを見回すと、年季の入った書物や骨董のような品が所狭しと置かれている。
 そして、床には伯父の藍田がうつ伏せの状態で倒れていた。
 美咲は未だにぼんやりしている頭で、気を失うまでのことを想い返す。だが、全てを想い出したとたん、酷い吐き気に見舞われた。
 幸い、嘔吐するまでには至らなかったものの、それでも気持ち悪さからは解放されない。
 自分の着衣を改めて見てみると、ニットの首回りは胸の谷間の辺りまで引き裂かれ、スカートは纏ったままの状態であったが、ショーツは完全に剥ぎ取られていた。
(まさか、伯父さんに……)
 考えるのもおぞましい。しかし、状況的に美咲の純潔は藍田に奪われたとしか思えない。
 美咲は自らの身体を抱き締めた。全身に悪寒が走り、身体がカタカタと震え出す。
 だが、不思議なのは藍田だ。
 美咲は恐怖を感じつつ、しかし、ゆっくりと倒れている藍田に手を伸ばす。
「……ん……」
 肩の辺りに振れた時、微かに呻き声を上げた。どうやら、気を失っているだけらしい。
(けど、どうして……?)
 美咲が限界に達して意識を失くしたのはともかく、藍田が倒れている理由が分からない。もしかしたら、美咲が襲われているのを誰かが気付き、藍田に一撃を食らわせたのか。いや、この家で藍田に手を下せそうな者なんているはずがない。
(なら、誰が伯父さんを……?)
 考えれば考えるほど混乱してくる。同時に、いつまでもここにいては危険な気がした。今は藍田が気を失っている状態だが、目を覚ましたら、また、いつ襲われるか分からない。
 美咲は近くに落ちていた下着を拾い、素早く身に着ける。そして、胸元を押さえた状態で、足早に倉庫を後にした。

 ◆◇◆◇

 部屋に戻り、着替えを済ませてから、美咲はまた考え込む。
 やはり、不可解としか言いようがない。藍田はそれほど体格に恵まれてはいないが、外見に似合わず力は相当ある。女は当然、藤崎でも太刀打ちできるかどうか。
 美咲はふと、部屋の隅に置かれた全身鏡に視線を向ける。死んだ魚のように呆然と見つめ返す鏡の向こうの美咲。美咲自身を映し出しているはずなのに、美咲にそっくりな別な誰かに見える。もちろん、そんなのは気のせいだ。そう思っていたのだが――
 鏡の向こうの美咲の姿が、グニャリと歪み出した。
「――え……?」
 美咲は眉間に皺を刻んでから、数回、瞬きを繰り返す。
 幻覚、もしくは夢でも見ているのかと思いたかったが、現実は決して甘くはなかった。
 歪みが静まったのと同時に、鏡には、明らかに美咲とは違う少女の姿が映し出されている。
 美咲は絶句したまま、鏡の向こうの少女を凝視した。
 年齢的には美咲と同じぐらいだろうか。背格好は優奈と同様に小ぢんまりとしているが、対照的に、癖の全くない黒く艶めく髪は地に着かんほどの長さだ。そして、身に纏っているものは洋服ではない。学校の歴史の教科書でよく目にしたことのある、いわゆる十二単姿だった。
「いつまで惚けているつもりだ?」
 鏡の向こうの少女が、呆れたように口にする。
 美咲はそこで、ようやく我に返った。
「――あなた、は……?」
 美咲の問いに、少女は、ホウと溜め息を吐く。
「そなた、本当に私が分からぬのか? 姿は見えずとも、そなたと常に行動を共にしていたし、たまにそなたに言葉をかけていたというのに……」
 少女のこの言葉に、美咲はハッと気付いた。いや、本当はすでに分かっていた。ただ、こうして実際に現れたことで、美咲もすっかり戸惑っていたのだ。
「――桜、姫……、なの……?」
 少女――桜姫は肯定も否定もせず、代わりにニヤリと口元を歪める。
「本来であれば、こうして姿を現すことなんてしないのだがな。私の身が滅んだ後、私を見た者はそなたが初めてだ」
 そこまで言うと、桜姫はジッと美咲を見据える。一見すると、ただの愛らしい人形のような少女だが、彼女の漆黒の双眸に睨まれると全身が粟立つ。
 美咲は息を飲み、全身から吹き出る冷たい汗を感じつつ、それでも桜姫から視線を外さずに耐えた。
「ふふっ……」
 桜姫から、小さく声が漏れた。着物の袖で口元を押さえ、クスクスと笑い続けていたかと思ったら、再び美咲に向き直った。
「そなたは本当に面白い女子おなごだ。周りに守られるだけの弱い子鹿かと思えば、不意に毒蛇に豹変する」
 恐ろしや、と自らを抱き締めながら身を縮ませたが、本当に怖がってなどいないのは美咲も分かった。
 それにしても、表現の仕方こそ違うものの、桜姫といい、綾乃といい、美咲を凶暴な生き物に例えるとはどういうつもりだろう。そもそも、美咲自身は強い自覚が全くない。むしろ、〈守られるだけの弱い子鹿〉の方がしっくりくる。
「――私は、毒蛇でも虎でもないんだけど……」
 眉をひそめて静かに抗議する美咲に、桜姫はなおも愉快そうに笑う。
「何を言うかと思えば……。そなた、つい先ほど、あの男を殺しかけたではないか」
「あの男……?」
 口にしてから、〈あの男〉が藍田だとすぐに気付いた。
「伯父さんを……、殺しかけた、って……、どうゆうこと……?」
 恐る恐る問う美咲に、桜姫は笑うのをやめ、「そのままの意味だ」と冷ややかに答えた。
「まあ、ほとんどは私の力でもあるがな。あの男の手に落ちかけた瞬間、そなたは意識を失くした。だが同時に、そなたの中で、恐怖、憎悪、悲嘆――全ての負の感情がぶつかり合い、その結果、私に力を与えた」
「桜姫に……、私が……?」
「信じておらぬようだな」
 美咲は異を唱えようとしたが、出来なかった。確かに桜姫の指摘通り、気を失う寸前まで、抵抗出来ずにいるのをいいことに、美咲を穢す藍田を恐れ、同時に、この世から消えてしまえと思うほど憎しみを覚えた。そして何より、南條を裏切ってしまうという深い哀しみと恐怖が。
「ヒトとは、まこと愚かで哀れな生き物だ……」
 口を真一文字に結んだまま黙り込んだ美咲に、桜姫は抑揚のない口調で続けた。
「私利私欲のためにヒト同士で醜い争いを続け、殺し合う。それによって憎しみや哀しみが増幅し、また争いの種を生む。
 特に、男という生き物ほど穢らわしいものはない。女を、ただ〈子を産む道具〉としか見ておらぬ。――あの男と同様にな」
 〈あの男〉とはきっと、藍田のことを言っているのだろう。しかし、藍田と美咲は伯父と姪の関係だ。襲ってきただけでも異常な行為なのに、美咲との間に子を望んでいたのだとしたら、それこそ正気の沙汰ではない。
「――伯父さんは……、桜姫が転生するのをずっと待ち望んでた、って……」
 美咲が口を開くと、桜姫の眉がピクリと痙攣した。美咲はそれを一瞥してから、訥々と語った。
「正直、凄く戸惑ってる。桜姫の魂を持ってる私は伯父さん達にとって忌まわしい存在なはずなのに、どうして私に――桜姫に執着するのか……。もし……、私に新たな命が宿ったとしたら……、きっとその子も禍いの元となるかもしれないのに……」
 自分で言いながら、また、嘔吐感に見舞われた。本当は、藍田との間に子供など欲しくはない。しかし、たった一度とはいえ、身籠る時はすぐに身籠ってしまうものだと美咲も知っている。
「――そなた」
 これまで黙って耳を傾けていた桜姫が、ゆったりと言葉を紡いだ。
「もしやと思うが、誤解しておらぬか?」
「――誤解……?」
 怪訝に思いながら首を傾げる美咲に、桜姫は、「そうだ」と頷く。
「そなたの話を聴いていたら、どうやら先走り過ぎているようだからな。黙っていた方が面白いかと思ったが、どうせすぐに分かることだ」
「――何が言いたいの……?」
 不快感を露わにして美咲が眉をひそめると、桜姫は微苦笑を浮かべながら肩を竦めた。
「そなた、本当にもう〈乙女〉ではなくなったと思っているのか?」
「どうゆう、こと……?」
「――鈍いにもほどがある……」
 桜姫は深い溜め息を吐いた。
「先ほど、私は言ったはずだが? 『あの男の手に落ちかけた』と。済んでしまった後であれば、こんな言い回しは普通しないと思うが、違うか?」
 この言葉に、美咲は目を見開く。信じられない。だが、本当に〈乙女〉でなくなったのであれば痕跡が残っているはずだと、改めて冷静になって思い至った。
「ほんとに……?」
 探りを入れるように訊ねる美咲に、桜姫は、しつこいと言わんばかりに頭を何度も横に振る。
「自分の身体のことぐらい、自分で把握出来ぬのか? まあ、私自身、男と交わったことがないからよく知らないが。だが、耐え難い痛みを伴うというぐらいなら私でも知っておる」
「――痛く、なかったの……?」
「だから自分のことぐらいは……。いや、意識を失っていたのでは痛みもなにも感じるはずがないか……」
 鏡の向こうでひとりごちる桜姫を傍観しながら、美咲は心の底から安堵していた。だが、それでも身体を弄られたショックからは完全に立ち上がれるはずがない。耳朶を這いずる舌の感触、時々かかった生温い息、そして、秘所で蠢き続けた指――
「グッ……」
 また、吐き気を覚えた。今度は耐えることが出来ず、蛙の鳴き声のように小さく呻くと、乱暴に障子を開け、そのまま縁側で胃の中のものを戻してしまった。息の詰まるような苦しさと惨めさで、美咲はその場に座ったまま、嘔吐しながら嗚咽を漏らす。
 むざむざと殺されたくない。しかし、生かされる代償として、先ほどのように身体を藍田の意のままにされたくもない。これこそ、生きながら地獄に落とされるようなものなのではないか。
(どうして私は桜姫に……。私は無力で、結局、ただの人形も同然なんだ……)
 服の上にじわじわと涙の痕が広がるのを見つめながら、美咲は唇を強く噛み締めた。
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