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残夏

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星を待つひと

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※英語版はこちら:http://selftaughtjapanese.com/japanese-fiction-translation-final-days-of-summer-by-masaki-hashiba-table-of-contents/(Locksleyu様)

――

 もう十何年ぶりになるだろうか、この海岸を訪れるのは。
 今の会社に勤めること八年。ようやく自分の企画が認められたことを、ただ喜んでいた。プロジェクトリーダーとして負った重責も気にならないほどに。だが、私の身体は私が望むほど強くはなかったらしい。度重なる残業、徹夜を重ねたツケか、疲労のあまりに会議中に意識を失い、倒れてしまった。その結果が、この突然の夏季休暇だ。
 失望されたに違いない。きっと、あの企画からも外される――そう思うと、何もかもどうでもよくなってしまった。悔しいというよりも、虚しさにどっぷりと胸まで浸かってしまったようだ。
 会社から離れてからは、少しの外出で、スーツ姿のサラリーマンを見るたびに苦しくなった。ここでは、心も体も休めそうにない――そう悟った私は、数時間のフライトを経て、自分が生まれた集落に帰ってきた。悪く言えば、社会から逃げ出したのだった。
 私の故郷は、『自然がきれいな海近の集落』、もとい『何もないど田舎』だ。スーパーマーケットなんてものは当然ながらあるわけもなく、車で15分程度のコンビニエンスストアのありがたみに涙が出そうになる。夜は早いうちからすべての明かりが消え、葉擦れの音と鳥の鳴き声だけが満ち満ちる。そして朝も、早いうちから起き出したお年寄りが、井戸端会議やら畑作業やらを始める……どこにでもあるような田舎を体現したような、そんな場所だ。
 忙しない都会での生活に慣れていた私は、帰省して早々、時間を持て余していた。そこでふと、昔よく遊んでいた海岸のことが脳裏をよぎる。たしか、ごつごつした岩に囲まれた、小さな浜で……そうそう、たくさんの貝が転がっていた。よくそれを拾いに行ったものだ。
 行ってみようか、あの海岸に。
 思いついてからは早かった。
 子供の足で行ける距離だ。当然、今の私にはそれほど苦にもならない。幼いころの記憶をたどり、あの海岸を探す。夕闇の道を行くうちに、不思議とそれまでの倦怠感は消え、心は高揚していた。
 海岸は、私が覚えているその姿のまま、変わらずそこにあった。大きな岩山に囲まれるようにして浮かぶ砂浜に、それを彩る色とりどりの貝……変わっていない。私が大きくなったからだろうか、思い出の中以上に小さく見える以外に、何ひとつ変わっていない。
 大人になる最中に、見知った景色の面影たちは、私の周囲から消え去ってしまっていた。いいや、消え去ってしまったと思っていた。この海岸を見るまでは。私がこれほど変わってしまっても、この場所は、まったく昔のままだ。それがどうも、私を待っていてくれたかのように思えて、やけに嬉しくなってしまう。
 胸の高鳴りをおさえきれず、スニーカーと靴下をその場に脱ぎ捨てると、冷たい海水に足を浸した。私の足踏みに応えるように、水面には波紋が広がり、はねた水がズボンの裾を濡らしていく。胸の奥から込み上げてくる純粋な喜びは、笑い声となってあふれ出した。
 気持ちがいい。水がはね、滴る音が心地いい。
「っぷし!」
 ――くしゃみ?
 夢中で水をかいていた私は、あわてて辺りを見回した。そこではじめて、岩陰に一人の男が座り込んでいるのに気付いて、顔が熱くなる。いい大人が夜の海で水遊びしながら大笑いしている姿を、まさか、人に見られてしまうなんて。あわてて水から足を上げ、スニーカーと靴下を拾い上げる。
 今はとにかく、早くこの場を立ち去りたい。だが、もし男が、先ほどまでの私の様子を他人に言いふらしてしまったら――脳裏をよぎったその不安が、私を引き止めた。考えあぐねた私は、早足で男の方へ歩み寄り、彼の隣に腰を下ろす。
「隣、失礼するよ」
「どうぞ」
 男はこちらを見もしないまま、軽く応じる。彼はそれきり何を言うでもなく、星の散らばる空を、じっと見つめているだけだ。私のあんな姿を見て『引いた』だろうに、私を笑うわけでもなく、距離をとるわけでもなく……。
 訝しく思った私は、不躾だとわかっていながらも、男をまじまじと見た。そこでようやく、彼がずいぶん奇妙な見てくれをしていることに気がついたのだった。
 肩のあたりまで伸びた、灰色にくすんだ茶髪。細い体をゆったりと包む、分厚く、広い袖の外套。そのすそから伸びた裸足は、薄く砂をまとっている。どこをとっても、季節感どころか現実味すら感じられない彼の姿は、私のささやかな好奇心をくすぐった。 
「あの……あなたは、ここで何を?」
「星を待っているんだ」
 星を……? 男が六日後の流星群のことを言っているのだと気付くには、ずいぶん時間がかかった。言われてみれば、今朝、近所のお年寄りがそういう話をしていたような気もする。今の今まで、すっかり忘れていたが。
 この辺りでは、年に一度、流星群を見ることができる。私の生まれた集落では、その時期に合わせて、星祭りが催されていた。もちろん私も、昔はこの祭りに参加していた。行かなくなったのはどうしてだったか。……そう、確か、そのときにしか食べられない特別なごちそうが、どうにも苦手になってしまったんだった。
 ともかく、流星群が見られるのは六日も後の話だ。
「あいにくだけど、流星群は六日後だよ。今夜待っていても……」
「知っているよ。イルカは七日前から流星群を待つんだ」
 男はこちらに視線を向けもせず、短く答える。イルカ? 何を言っているんだ? 問い返したかったが、確信に満ちた彼の横顔に、私はなにも言えなくなってしまった。とはいえ、男の視線を追ってみても、ただ、星空が広がっているだけだ。人の作った明かりの中では、すぐに埋もれて見えなくなってしまう、かすかな光。
 ふと、男が口を開く。
「さっきの君、とても輝いていたよ。おかげで私もなんだか幸せだ。よければ、名を聞かせてくれないか」
 輝いていた、だって? はじめは嫌味だろうかとも思ったが、男の浮かべる屈託のない笑みに、警戒心が優しくほどかれていく。
 やはり、この男はどこか変だ。それなのに、彼の隣は妙に居心地がいい。
「……直行。素直の直に、行くって書いて、直行」
「ナオユキか。……ナオユキだって? 君は、ナオユキというのか?」
「そうだけど、何か?」
 問い返すと、男は何か言いたげながらも口をつぐむ。男はしばらく黙り込んでいたが、やがて、くすくすと笑いながらこう言った。
「ふふ、そうか。君は『ナオユキ』なのか。……私はナナシ。好きに呼んでくれてかまわないけれど、この名前が一番気に入っているんだ」
 ナナシ――『名無し』、だろうか? それに、私の名前のどこが気になったのだろう。問い返す前に、彼の注意は私から外されてしまった。
 男――ナナシはどことなく謎めいているが、その態度には毒がない。それにつられて私も、彼の素性や事情など、気にならなくなってしまった。それに、彼が何者であれ、こうして並んで星を見るのは、悪い気分ではなかった。
「ナナシ。あなたは星を待つんだと言っていたけど……明日もここにいるのか?」
「いるよ。明日も明後日も明々後日も、流星群を見るまでは、ずっと」
 まるで、流星群の日まではずっとここに留まり続けるかのような言いように、私は笑ってしまった。もちろん彼が言いたいのは、毎晩ここを訪れるのだということだろう。
 また明日も、彼は変わらずここにいる。またこうして、並んで星を見ることができる。そう思うだけで、なぜだか少しほっとした。素性を明かさなかったせいか、男がするりと逃げ消えてしまいそうに思えていたのだが、見つけたばかりの居心地のいい場所にもう少し浸っていられることがわかって、嬉しかった。
 私はナナシにまた明日もここに来ると告げ、スニーカーと靴下を両手に、帰り道を裸足で駆けた。足の裏の擦り傷よりも、明日の夜空のことが気になって仕方がなかった。

……

 次の夜。私は逸る心のままに、息を切らせてあの海岸に辿りついた。昨日と全く同じ場所に座りこんでいるナナシを見つけると、迷わず隣に腰かける。そんな私を、ナナシは嬉しそうに出迎えてくれた。
「本当に来たんだね」
「来る気がなければ、また明日なんて言わないよ。……こんばんは」
 ナナシは目をぱちくりさせ、こんばんは、と繰り返した。改まった挨拶には慣れていないらしい。これまで私がナナシの態度に驚くばかりだったぶん、彼の驚いた顔を見ると、なんだか不思議な気持ちになる。
 私が実家から持参した安酒を取り出すと、ナナシは、奇妙なものでも見るようにそれをじっと見つめてきた。ためしに一口飲ませてやると、彼がずいぶん酒に弱いのだとすぐに分かった。目をとろんとさせ、しゃっくりを繰り返す彼の様子はとても愉快だ。
 私は酒を傾けつつ、顔を赤くしたナナシと、そろって星空を見上げた。星は薄い雲を透かし、はるか地上の私たちにも光を届けてくれている。
 ふいに、小さな水音が立った。暗い海に視線を向けるが、何も見つからない。戸惑いながらナナシの方を見ると、彼は少し離れた浅瀬の方を指差した。ブルーライトや書類に慣れ過ぎた目を精一杯に細めて彼の指す先を注視すると、水面をさざめかせ、ぬらりと水面に顔を出した『何か』の姿を捉えることができた。
 ――イルカだ。それも、一頭や二頭ではない。たくさんのイルカが、海岸のすぐ近くに集まっていたのだ。
「彼らは、昨日からこうして流星群を待っている。言ったろう、イルカは七日前から流星群を待つ、と。このあたりのイルカは皆、流星群の日にこの海岸で一番美しい貝を拾うために、君が来る前の晩からここで、待って……。私も……」
 アルコールが回ってきたのか、ナナシの語尾は、今にもとろけてしまいそうだ。
 どうしてイルカたちはこの海岸に集まってきたのだろう。『イルカは七日前から流星群を待つ』なんて言われても、さっぱり意味が分からない。なんのためにイルカたちがこの海岸で一番美しい貝を探すというのか。そもそも、イルカがどのようにして陸の上にある貝を探すのか。それも、わざわざ流星群の日と決めて。
 そこまで考えた私に、理性が待ったをかけた。普通なら、何の違和感もなく、こんな突飛な話を信じたりしないはずだ。普通の、『ちゃんとした大人』なら……。かすかな心の痛みから目をそらして、自分を戒める。
 ナナシの方に目をやると、彼は膝を抱えて舟をこいでいた。酒を飲ませたのは間違いだった。いくらしっかり着込んでいるとはいえ、こんなところで眠ったらかぜをひいてしまう。
「ナナシ、ここで寝ちゃダメだ。僕が背負うから、今日はもう帰ろう。家はどこだ? 遠いなら、うちに泊まっていってもいいから」
「私なら、だいじょうぶ……ここが、私の帰るところ、だから……美しい貝を見つけるまでは……置いて……」
 ナナシはあいまいにそう言い残したきり、安らかな寝息をたてはじめた。『貝を見つけるまでは、ここが私の帰る場所』だなんて……。私はナナシを見おろし、妙な予感にざわつく胸に手をやった。
 この浜で最も美しい貝を探すべく、七日前から流星群を待っているナナシ。それは、彼が語ったイルカの挙動と全く同じだ。まるで、彼こそがその当人ではないかと思えてしまうほどに。
 そんなはずはない。分かっていながらも私は、ナナシを無理に連れ帰ることはしなかった。それが、彼の言葉を信じていたからかと問われると、うまく答えられないのだが。

……

 ナナシと出会って三度目の夜、私はやはりあの海岸を訪ねた。ナナシの方も、もう慣れたように私を出迎えた。もちろんイルカの群れも、海岸のすぐ近くで星を待っていた。
 私は裸足を海水に浸し、黙って空を見上げる。岩場の影に座ったままのナナシも、浅瀬に集まったイルカたちも、皆一様にただ星を眺めていた。夜の海で水遊びをする私と、それを気にもしないおかしな風体の男――ナナシと、何を考えているのか分からないような顔をしたイルカたちが、そろって同じ空を見ている。奇妙な光景だが、笑おうとも思えなかった。なにせ、私だってその奇妙な光景の一部をなしているのだから。そしてそれが、奇妙にも快いのだから。
 私は足先で水をかいて、ナナシの方を振り返る。星々を見上げるナナシの漆黒の瞳は、鏡のように夜空を映して輝いていた。
「流星群の日には、この海岸に星が降り注ぐ。降ってきた星は色とりどりな貝になって、浜に落ちてくるんだ。美しい貝もそうでない貝もないまぜに、たくさんの貝が降ってくる日……それが、流星群の日」
 そう言ったナナシの声は、静寂にしんと溶け込んでいった。私は足元に視線を落とし、浅い水底に転がった貝をつま先でつつく。
 これが、かつては星だったとナナシは言う。そして私は、そんなナナシの言葉を受け入れてしまいそうになっている。
 私は足元の貝を拾い、闇に覆われた水平線に向けて投げつけた。貝は力尽きたように少しだけ向こうの水面をはね上げ、やがて見えなくなった。
「ナオユキ……?」
 ナナシの隣は、とても居心地がよかった。だが、私では、彼の言葉に応えてやることができない。私は水から足を上げ、ナナシの方を見ないままに靴を拾い上げる。
「……空想とか、そういうものは嫌いなんだ。僕は……僕はもう、大人だから」
 絞り出した言葉は、誰よりも私自身に、深々と突き刺さった。ナナシはどんな顔をしているだろうか。振り返るのが怖かった。
 靴を手に持ったまま、裸足でその場を立ち去ろうとした私の背に、声がかかる。
「私は君をからかってなんていないよ。ナオユキ、君なら――」
 ――信じてくれるだろう?
 ナナシの声は、疑いなく澄んでいた。私は返事もせず、足早にその場を離れた。
 そうして、ナナシの背中もイルカの群れも岩陰の向こうに隠れて見えなくなったとき。全身から力が抜け、その場に蹲ってしまった。
 休暇を言い渡され社会を離れてから、ときどき、上司から休暇を言い渡された瞬間に感じた、血の気が引くような感覚に襲われるようになっていた。もしかすると、もう会社には復帰できないかもしれない――そんな不安が、心に重くのしかかる。
 私以外の誰も知らないだろうが、私は、あそこまでたどり着くために、『ちゃんとした大人』になるために、とても大切なものを捨てた。大好きだった空想をやめたのだ。子供のすることだと他人が言うから。『普通』に生きていくには、邪魔だったから。
 ――さっきの君、とても輝いていたよ。
 ナナシの言葉を思い出し、深くうなだれる。
 まだ子供だったころの私は、不思議なものが好きだった。目に見えない、私の知らない、それでも存在するものを思い浮かべるのが好きだった。そんなことを、どうして……どうして今になって、思い出してしまうのだろう。
 社会からは遠ざけられ、空想は遠ざけてしまった。もう、私の居場所はどこにもない。星にさえも見放されてしまったような寂寥が、澱んだ風と共に足元にまとわりついてくる。力の入らない身体でどうにか立ち上がり、足を引きずるようにして、長く暗い帰路へと踏み出した。
 
……

 気がつけば、私はいつもの海岸の前に立ちつくしていた。
 昨夜は一睡もできなかった。眠気は確かに感じるのだが、どうにも眠れず、時間を潰しているうちに、辺りはすっかり明るくなってしまっていた。それから日が暮れるまで、ぼうっとしながら酒を煽り、不快な酔いを醒まそうと、軽い散歩に出たところまでは思い出せる。それから無意識のうちに……そう、自分でも気が付かないうちに、吸い寄せられるようにして、この海岸まで来てしまっていた。
 ――君なら信じてくれるだろう?
 私の胸に深々と突き刺さった、ナナシの言葉。あの問いへの答えを、私はまだ持っていない。
 やはり、帰ろう。そう諦めて、身を翻しかけたときだった。
「ナオユキ!」
 私が最も聞きたくなかった、そして最も待ち望んでいた声が岩と砂の間に響く。
 ナナシはいつもの岩陰から、這うようにして表に出てきていた。その脚は脱力しきって、彼の助けになりそうもない。彼は腕だけで身体を支えたまま、へらりと笑ってみせる。
 ナナシのその姿を見て、私は、これまで一度も彼が立ち歩かなかった理由を理解した。彼は、歩かなかったのではない。歩けなかったのだ。
「もう来てくれないかと思った」
 ナナシは、私を咎めようとはしなかった。それどころか、いうことを聞かない身体を引きずってまで、私を引き止めに来たのだ。
 私はいたたまれなくなり、ただ立ちすくんでいた。彼を抱き起こしてやることも、この場から逃げ出すこともできなかった。
「生き物は死んだら星になるって、聞いたことあるかい」
 ナナシは、動けずにいた私にそう言った。自らは半分砂に伏せたままで。
 生き物は死ぬと星になる。ありきたりな話だ。それなら、星が死ぬという現象をどう説明するのだろうか。星はあくまでただの恒星であり、生き物の命なんかとは全く関係がない。科学的根拠と共にそう言われた方が、納得もいくというものだ。
 だが私は、ナナシの言葉を遮ることができなかった。彼は穏やかに言葉を続ける。
「あれは本当なんだ。生き物は死んだら星になる。そしてその星は、流星群の日に、貝となってこの浜に降り注ぐ。生前の行いに応じて、少しずつ見た目を変えてね」
 ――善い行いをした者の星は美しい貝に、悪い行いをした者の星は薄汚れた貝へとそれぞれ姿を変え、この海岸で眠りにつくんだ。
 『空想は嫌い』――そんな言葉は、もう出てこなかった。私は、彼の言葉をゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。彼の言葉は、声は、水のように私の胸の中に沁み渡った。胸のあたりにわだかまっていた酔いが、安らかな微睡みへと色を変えてゆく。
 私はナナシに数歩歩み寄り、その身体を起こしてやった。彼は少し戸惑ったようだが、私の顔を見ると、照れくさそうに微笑んだ。どうして歩けないことを教えてくれなかったのか
と尋ねた私に、ナナシは、当然のようにこう答えた。
「イルカには足なんてないだろう?」
「それじゃ、あなたが歩けないのは、イルカだから?」
 ナナシは首肯した。やはり、その表情は真剣だった。
 もし彼が私をからかっているのだとしても、どうだっていい。私は、『そうか』とだけ答え、はるかかなたの小さな輝きを見上げる。そんな私とナナシの様子を、浅瀬のイルカたちも、静かに見守っていた。
 触れることのできない、きらきらと輝くものたち。大人になって手放せたと思っていた、空想や夢。けれどもそれらは、まだ私の中に残っていた。胸の奥で、私が迎えに来るのを待っていた。
 私はナナシを浜辺に連れて行き、彼の足先を水に浸してやってから、自分も靴を脱ぎ捨てる。ナナシは水の感触に首をかしげていたが、しだいに顔をほころばせていく。そんな彼を見ていると、私までたまらなくなって、脚で水面をかき回す。
 水が跳ね、踊るたびに、水面は星を映してきらめいた。足元に広がる私たちだけの星図の中で、ひときわ強く輝くナナシの瞳が、私をあるべき場所へと引き戻してくれる気がした。

……

 流星群の二日前――ナナシと共に過ごす、五度目の夜。
 その日は、分厚い雲が空を覆い隠してしまっていた。それでも、ナナシはいつもの岩場に腰かけ、夜空を見上げていた。星も弱々しい、曇り空だったが。明日は雨になるかもしれない――私はそんな不安を抱きながらも、あえて口には出さなかった。
 ナナシは曇り空をじっと見上げていたが、やがて、くすくすと笑いだした。
「どうかしたのか?」
「いいや。また、大きな星――鯨が、月をかじってしまったのだな、と思って」
 そうしてまた、彼の空想物語がはじまった。
 全ての命は、身体を失うと、星になって空に帰る。生前の行いに関わらず、大きな生き物は大きな星に、小さな生き物は小さな星になって、夜空を泳ぎ回るのだ。月の周りを巡り、やがて自分の生に評価をつけられ、貝として降り注ぐその日を待つ。
 ところが生き物は、生きているときも星になった後も変わらず、母たる月に激しく惹かれるのだという。月に手を出すことはあの夜空で最も罪深い行いとされているが、月の魅力は、その先の地味な貝として過ごす時間と引き換えて余りある。多くの小さな星は月に触れることすらできないが、とびきり大きな星――鯨の星にはそれができるらしい。月の魔力に負けてしまった鯨の星は、その大きな口で月をかじってしまう。
「けれど、地味な貝にされるのは嫌だと駄々をこねるんだ。そして、自分が月をかじってしまったのがばれないように、思い切り潮を吹いて月を隠してしまう。あの雲が、それなんだ」
 私はうなずき、ナナシと並んで厚い雲を見上げた。
 あの雲の向こうで、鯨はひどくあわてているのだろうか。それとも、したり顔でこちらを覗き見ているのだろうか。どちらにせよ、遠い地上からではとても分かりそうにない。
「人は、空は果てしないものだという。けれど、私たちはそうではないと考えている。空は星の漂う海で、この世界には限界があるんだというふうに」
 ナナシは私の顔を覗き込むと、にこりとしてそう言った。彼自身が人間に含まれないような言い方だったが、それはきっと、彼が『イルカだから』なのだろう。
 あの空が海なのだとして、それなら、空の彼方は海底なのだろうか。たとえば、そこで空が終わっていて、私たちの生きるこの世界は一つの部屋のように閉じられた空間だというのなら、気象衛星はどこへ行くのだろう。ロケットは空の海底にぶつかってしまうんじゃないだろうか。
 気づかないうちに、難しい顔になっていたらしい。私の表情を見たナナシが、こう付け加える。
「でもね、星の住む世界はとてもとても、遠いんだ。人間の作るものは、その海面にもたどり着くことができない。だから人は、空には果てがないと思い込んでいるんだよ」
 人がたどり着けないほど遠く、私たちの呼ぶ『宇宙』の果てに、彼の言う『海』はあるらしい。確かに、失った大事な人の星に手が届くなら、人はそれをつかみ取ろうとやっきになるはずだ。だが、それが決して不可能なことだからこそ、私たちは死を、二度と互いが交わることのないような別れを、恐れるのかもしれない。
 影を帯びた大きな雲――ナナシ曰く、鯨が吹いた潮――がだんだんと夜空に広がり、やがて星はほとんど見えなくなってしまった。
 私が『明日は雨になる』と言うと、ナナシはうなずくことで答えた。少なくとも、こうして一言言っておけば、彼だって雨の中無理にこの海岸を訪れることはないだろう。本当は、歩くことのできない彼を負ぶって、家まで連れて帰ってやりたい。明日の夜、また一緒にここに来ればいいのだ。だが彼は、それを良しとしないだろう。なにを言っても、イルカは何だとか言って、かわされてしまうはずだ。
 私は諦めて、雨が降り出す前に海岸を離れた。もちろん、ナナシをその場に残して。

……

 雨は、想像以上に長かった。昨夜降り出してから、朝をひとつ越え、夕も暮れかかった今になっても、やむ気配を見せない。今日は、海岸に行くことはできないだろう。まったく、迷惑な鯨もいたものだ。自分がかじった月の始末くらい、自分でできないものだろうか……そんなことを考えて、ふと寂しくなった。今夜はナナシに会えないのだ。
 残念がる私など気にも留めず、さらさらとした雨音は、たえず耳をくすぐってくる。ため息のかたわら、雨が止んだら終いにしようと思っていた片付けが、普段は触らないようなところにまで及びはじめていた。埃の積もった本棚から、古いアルバムをいくつも掘り出した私は、ようやく片付けの手を止める。
 四冊の卒業アルバムと、母がつけた、十冊近くの分厚いアルバム。古い方から順に並んだ写真を追ってみると、なんだか不思議な気持ちになる。自分がどうやって成長してきたかなんて、写真を見てもわからないものだ。
 一冊だけ手前の方においてあったアルバムには、最近送った写真もすべてつづられていて、胸が温かくなる。遠くにいても、母は私のことを気にかけてくれていた。それなのに、私は……。
 新しいアルバムの最後に収まった、一枚の写真。プロジェクトリーダーに指名されたときに、嬉しくて送った手紙に同封していた、笑顔の写真だ。この休暇が終わったとして、私の望む居場所はあそこにはない。もう少しで、届きそうだったというのに。ようやく、手に入れたと思っていたのに。
 私は、どこに行けばいいのだろう。アルバムを閉じることもできず、心の底から嬉しそうな過去の自分を、うらめしい思いで見下ろした。
 こんなとき、ナナシなら、なんと言うだろうか。そんなことを考えはじめたとき、ふと、古い方のアルバムのすきまから、一冊のノートがこぼれ落ちた。
 妙に重たい。小さくて黄ばんだそれは、どうやら日記帳らしかった。表紙には、『なおのにっき。おかあさんきんし』などと拙い字で書いてある。身に覚えがないのだが……。私は戸惑いながらも、思い出というより、黒歴史と言った方が正しいかもしれないそれを開いた。
 一ページ目で、このノートが変にずっしりとしていた理由がわかった。どのページにも、貝がらが貼りつけられているのだ。色とりどりの貝と、色鉛筆の絵と、不器用な字。日付は書いてあることもあれば、ないこともある。記録するために書いたというよりは、ただ楽しくて書いているような雰囲気だ。
 ページをめくるごとに記憶がよみがえり、懐かしさがこみ上げてくる。これは、幼い私が、あの海岸で遊んだ日々を記したものだった。毎日お気に入りの貝を拾っては、ここに貼りつけ、海のスケッチをしていたらしい。お世辞にも上手いとは言えない海の絵を見た私は、思わず笑ってしまった。夢中になって絵を描いていた幼い私の姿が、目に浮かぶようだ。どのページを見ても、海、海、海……イルカ。
 イルカ? 私は驚いて、ページを送る手を止めた。
 それまで続いた海の絵が、ある日を境に、イルカの絵にすり替わっている。『いるかがたくさんおよいでいた』などというメモまであった。私は驚いて、さらにページを送った。イルカ。イルカ。イルカ……そこからきっかり七ページは、イルカのことしか書かれていない。それを最後に、日記は途切れていた。
 あの海岸で遊んだこと、貝を拾ったことは、うっすらとではあるが、思い出せる。だが、イルカを見たなんてことは……印象的な体験だったはずなのに、まるで思い出せない。たった七ページ――七日だけ現れたイルカの存在に、途切れた日記。
 なんて偶然だろうか。私は、ナナシのことを思い浮かべていた。
 ナナシは、『イルカは七日前から流星群を待つ』と言っていた。もしや、この日記が途切れたのは、流星群の日なのではないだろうか? 流星群前の六日のうちにイルカと出会い、最後の流星群の日に、何かがあったのではないか?
(――ナオユキか。……ナオユキだって? 君は、ナオユキというのか?)
 はじめて会った夜の、ナナシの奇妙な反応。耳の奥にこだまする波の音。力の抜けた手から、日記が滑り落ちていく。
 私が――ナナシに揺り起こされた、空想好きな『私』が、訴えかけてくる。この日記を書いたときの私は、あの浜で、彼と一緒に星を待っていたのだと。もちろんそんな記憶はないのだが、それが本当だったとしたら……。いてもたってもいられなくなった私は、痛いほど突き刺さる雨を片腕でしのぎながら、激しくうなる心臓を押さえ、あの海岸を目指した。
 とはいえ、こんな雨の中、彼が待っているわけがない。雨に打たれ、正気を取り戻した私は、いつもの浜の前で立ち止まった。水面は雨に煙り、イルカたちがそこにいるのかどうか さえわからない。
 今すぐ確かめたいことがあるのに。私はたまらなくなり、荒れた海に向かって、ナナシの名を呼んだ。返事なんてないと、わかっていながら。
 だが、虚しさの代わりに返ってきたのは、もうずいぶん聞き慣れた声だった。
「ナオユキ。私ならここにいるよ。まだ、海に帰るには早いもの」
 どうして……。私は慌てて浜へ降り、岩陰を覗きこんだ。そこでは、声の主――ナナシが、いつもと変わらない様子で、『星を待って』いた。全身、びしょ濡れになって。無造作な髪先から、雫を滴らせて。
「イルカは七日前から流星群を待つんだよ」
 彼はびしょ濡れの頬を拭おうともせずに、そう言った。自身のその言葉を体現するように、雨に打たれるまま星を待つナナシの横顔は、どこか痛々しい。私は、そんな彼を、これまでとは違う心持ちで見つめていた。
「ナナシ。僕は、あなたに会ったことがあるかもしれない」
 私の言葉に、ナナシは力なく顔を上げる。彼の困ったような微笑みは、無言の肯定に違いなかった。
 やはり私は、幼いころに彼と出会っていたのだ。だが、やはりなにも思い出せない。ナナシの寂しげな表情に、心が苦い音を立てた。
「どうしてか、全然思い出せないんだ。あなたのことも、一緒に過ごしたときのことも、流星群の日になにがあったのかも。一緒に過ごしたのは確かなのに、なにも……」
 そこまで言いかけたところで、諦めたように目を伏せたナナシの姿を見て、私はハッとした。
 ナナシは、はじめて会った日以来、私を知っているようなそぶりは見せなかった。私に、昔会っていたことを思い出させようともしなかった。それは、私が彼のことを忘れているであろうことまで知っていたからに違いない。それならば……。
「……忘れて、しまうのか?」
 ナナシは私の方を見ないまま、浅くうなずいた。
 消えてしまうのだ。この海岸で、彼やイルカたちと一緒に星を待った七日間の記憶は、いずれ、私の中から抜け落ちてしまう。幼い日の私がそうであったように。
「それなら、僕とあなたがこうして話していることも、一緒に星を見上げたことも、あの浅瀬で遊んだことも、あなたが話してくれた物語も、僕は……全部、全部忘れてしまうのか」
 彼は再び、こくりとした。
 憮然として立ち尽くす私の肩を、雨が激しく抉る。
 忘れてしまう。彼と出会ったこと、イルカたちのこと、星が貝になって地上に降り注ぐこと、鯨が月をかじること、空が本当は海で、その果ては海底であること、ナナシと過ごしたこと。記憶はひとつ残らず失われてしまう。そして私は、失くしたことにすら気付けないのだ。
「今年も、きっと素晴らしい星が降るよ。……一緒に、見てくれるかい」
 立ちつくしたままの私に、ナナシが笑いかける。いずれは私に忘れられてしまうことを、知っていながら。
「大丈夫だよ、ナオユキ。君がまたこの日にこの場所に来てくれた、それだけで私は嬉しいんだ。また、君と一緒に星を待ちたかった」
 私は何も言うことができず、彼の隣に腰を下ろした。砂はぐっしょりと湿って不快だったが、全身濡れてしまった今になっては、そう気になることもなかった。ナナシはこんなときにも変わらず、濁った空を見上げている。
 明日は、彼の待ち望んだ流星群の日だ。自称イルカの彼は、美しい貝を拾って、海に帰ってしまうのだろうか。私には分からなかったが、なんとなく、明日が彼と過ごす最後の日になるような気がしていた。確証はない。ただ、そう思った。
 私はナナシの手を取り、両手で握った。指先はすっかり雨に体温を奪われてひやりとしていたが、確かに心拍が感じられる。この感覚も、私は忘れてしまうのだ。
「ナオユキ、そんな顔をしないでくれ」
 ナナシは私の手を握り返し、目を閉じた。
「大丈夫。私が覚えているよ。君が忘れてしまっても、私がちゃんと、覚えている。だから君は、何年後になっても……導かれるままにこの場所に来ればいい」
 ――今度も、初めましてになるけれど。何度でも、この七日間を繰り返そう。君が、本当の意味でこの場所を見失ってしまうまで。君をこの場所に導く何かが消えてしまうまで。
 ナナシの言葉に、私の心が堰を切ったようにあふれ出す。
 ――忘れたくない。こうしてこの海岸に再び辿りついたこと、ナナシの言葉の全て、その温かさ……何一つ忘れたくはない。
「忘れない。忘れてたまるか。また来年の流星群も一緒に待つんだ。おかしな話をしたり、雨に降られたりしながら。だから、また来年の夏、必ずここに戻ってくるよ」
 ナナシは私の手を握ったまま、目をしばたたく。そして、頬を緩め、『待っているよ』とだけ答えた。少しの疑いもない、だが弱々しいその言葉が、私の胸をしめつける。
 結局その夜は晴れることなく、私とナナシは寄り添って雨に打たれていた。だが、早く帰ろうという気にはなれなかった。こうして彼といられる時間も、もう残り少ないかもしれないのだから。

……

 そして、とうとう流星群の日がやってきた。
 昨日の雨などなかったかのような晴天の下、集落の若者たちは星祭りの準備に追われていた。一時帰省の私も例にもれず、提灯をぶら下げ、椅子を並べる作業に精を出す。
 私も、ナナシがいてくれるならこういった場に喜んで参加していたかもしれないが、彼の居場所は、あくまであの海岸だった。それなら私が行く場所も、決まっている。祭りがはじまり次第、こっそり抜け出す気でいた。
 ……あの話を聞くまでは。
 祭りの準備も後半の夕暮れ。漁を生業とする集落の男たちは、何やら準備をしていた。その会話の端々から、『今夜はごちそう』だとか、『流星のころがねらい目』だとか、漏れ聞こえてくる。星祭りの最後に振る舞われる、私の苦手なごちそう――その正体を思いだした私は、提灯を放り捨て、走り出した。
 年に一度、夏の流星群の日には、浅瀬にたくさんのイルカが集まってくる。警戒心の強いイルカが、なんとも追い詰めやすい場所にのこのことやってくるのだ。そんな都合のいいタイミングを、漁師――人間たちが見逃すはずがなかった。
(――イルカには足なんてないだろう?)
 ナナシはイルカなんかじゃない。あれは彼の空想物語のはずだ。分かっている、分かっているのに……心臓は急いて、痛みを訴えてくる。きっと、ナナシの無事を確かめなければ、この痛みは治まらない。
 本当でありませんように。ナナシが口にしたあのすべてが――彼がイルカであるということが――、どうか、嘘であってくれますように。
 胸を押さえてたどり着いたいつもの海岸は、これまでになくざわついていた。すぐ近くに、漁船の影が見える。ここに向かっているのだ。いつもの岩陰を覗きこんだ私は、そこに、ぐったりと伸びたナナシの脚を見つけ、息をのむ。
「ナナシ!」
 私は急いで彼に駆け寄った。
 分厚い外套からのぞく手も、裸の足も……彼の体は、真新しい傷でいっぱいだった。痛々しい打撲の痕に、血に濡れたままの傷。
 私が揺さぶると、ナナシは弱々しくうめいた。私が来たことに気が付いた彼の顔が、ふわりと綻ぶ。
「よかった、死んでしまったかと思った。けど、早く手当てしないと……」
「ナオユキ。君は、イルカを友だと思うかい」
 場に不釣り合いなナナシの問いに、私は戸惑った。
 これまで、共に星を待ってきたイルカたち。彼らを友だと思うかと言われると微妙なところだが、親近感は確かにわいていた。だが、私がここまで駆けてきたのは、あのイルカたちのためというよりも、ナナシのためだった。『自称イルカ』の、ナナシのためだった。
「あなたは、僕の友人だ。何にも代えがたい、大切な友だちだよ」
 私の答えに、ナナシは寂しそうに笑った。『知っていたよ』と言って。
「君はきっと、私を――イルカである私を、助けに来てくれたんだろう? 私の言葉を信じて」
 図星だった。
 私は、ナナシがイルカであることを疑えなかったからこそ、必死でこの場所まで来たのだ。流星群を待つためだとか、星が貝になることを確かめたかったからだとか、そんな言い訳はいらない。私は今や、彼の言葉の全てを信じ、手放さないようにと握りしめていた。
「私は、群れの皆を守りたかった。無理に決まっているのに、人間の船に体当たりをして。捕まって殺されても構わないと思ったんだ。それで、傷を負って……なにもかも諦めかけていたよ。君のことを思い浮かべるまでは」
 ――君と、最後の夜を過ごしたいと願ってしまうまでは。
 ナナシの晴れ晴れとした顔に、雫が滴る。鯨が潮を吹いたのか、空の彼方の海面が水をこぼしたのかは分からない。ナナシは私の顔を見上げ、幸せそうに微笑んだ。そして、かすれた声で語り出した。
 あの流星群の日――幼い私の日記が途切れた日のことを。
「あの日も、今日のように漁船がすぐ近くまで迫っていた。イルカたちはあっという間に四方を囲まれて、私も、群れの仲間たちも逃げ場を失ってしまった。もうダメだと思ったそのとき、ナオユキ、君はね――」
 ――両手を大きく振って、思い切り声を上げて……岩場から、海に飛び込んだんだ。
 ナナシはせり出した岩場を指差し、そう言った。
 おそらく岩場から飛び降りたそこは、浅瀬とはいえ、足が海底に届くほどではなかったはずだ。幼い私は、そこに飛び込んだのだ。あわてた漁師たちが私を水から引き揚げている間に、イルカたちは網から逃れ、皆助かったのだという。もちろん、ナナシもだ。
「私は、私たちは、君に救われたんだ。遅くなったけど、ありがとう」
 何年もの時を経て、私たちは同じ場所で、同じ日に、こうしてこの白浜に並んでいる。何一つ覚えてはいなくても、彼の言葉は私の胸に確かに響いた。
 そのときだ。私の頭上に固い何かが降ってきた。私の頭を打ち、白浜に転がり落ちたところを拾い上げてみると、それは、真っ赤な貝だった。驚いて空を見上げると……空のはての水面を、星の軌跡が流れ伝っていた。
 ――流星群だ。
 それに続くように、白浜に次々と貝が降り注ぐ。美しいもの、地味なもの、欠けたもの、形のおかしなもの……あらゆる貝が白浜を転がり、眠るように砂に身をうずめていく。イルカたちは喜びにキウキウと鳴き声を上げ、水しぶきを散らせた。
 ――本当だった。ナナシの言ったことは、本当だったのだ。
「残念だけど、私はもう動けそうにない。だから、ナオユキ。君が選んでくれないか。この浜で一番美しい貝を。君が、美しいと思う貝を」
 傷だらけのナナシは、力なく言った。
 手当てが先だと言っても、彼のことだから、聞き入れてはくれないだろう。そうしているうちに、流星群の夜は終わってしまう。彼が――イルカたちが待ち続けたこの時間は、そう長くはなかった。
 私はためらいながらも、ナナシをその場に残し、砂を探った。
 際限なく振り続ける貝は私の身体を打ち、浜に散らばっていく。こうして探している間にも貝は増え続けるのに、最も美しい貝なんて見つかるはずがないではないか。そう思って半ば呆れていた私の目に、一つの貝が映る。
 美しくはない。どちらかといえば、とても地味な貝だ。他より分厚くて、くすんだ灰色をしている。私は砂を探る手を止め、その貝に手を伸ばした。
 触れた指先から、確信が伝わってくる。ナナシの髪に良く似た色に惹かれたのかもしれない。彼の袖のような分厚さに惹かれたのかもしれない……その感覚を、自分でも説明しきれないまま、私はその地味な貝を拾い上げる。
 私が選んだ貝を握らせてやると、ナナシのやつれた顔に、笑みが浮かんだ。彼の体は今にも最後の熱を失いそうで、私の手を震わせる。
「目的は果たされた。もう、海に帰らなくては……」
 ナナシは空いた手で私の手を握り、言った。
 無理に決まっている。動けもしないくせに、どこへ行くと言うのだろう。そう思う裏で、私は彼がどこにも行かないでいてくれることを望んでもいた。動けないことを言い訳に、ずっとここにいてくれるのではないかと、期待していたのだ。
 だが、ナナシの瞳に迷いはなかった。彼は、かつて私が飛び降りた高い岩場を指し示してこう言った。
「陸の空気は私には重すぎる。どうか、君が私を運んでくれないか。水に戻れさえすれば、きっと大丈夫だから」
 本当に、行ってしまうのだ。ためらいもせず、私を置いて。そして私は、そんな彼の寂しげな笑顔さえ、忘れてしまうのだ。やりきれず手に力を込めた私に、ナナシは何も言わなかった。ただ黙って、私の手を握っただけだ。
 彼を薄情だと責める権利なんて、私にはない。行かないでくれと言うこともできないのだ。彼の帰る場所は、水の中なのだから。他でもない私がそれを信じ、認めてしまったのだから。
 私は彼の言うとおり、その身体をそっと抱き上げる。期待していたほどの重さすら感じられない。こんなに拙い身体で、あんなふうに笑っていた。私を引き止めてくれた。雨に打たれていた。漁船と戦おうとした。
 傷だらけで、ろくに身動きもとれないような人間を、夏とはいえ水に放るなんて。苦々しく思いながらも、ナナシの言うとおりに、せり出した岩場を駆け上がる。天然の飛び込み台から海面を見下ろすと、その高さにめまいがした。
 人の姿をした彼をこうして海に投げ入れるということがどういうことかは、私にもわかっていた。けれど私は信じたかったのだ。彼が話してくれた全てを。イルカである彼を。
「ナナシ」
 私の改まった呼びかけに、腕の中のナナシが不思議そうな顔をする。
 私は今、笑えているのだろうか。彼との別れを知っていてもなお、うまく微笑めているのだろうか。どうか、そうあってくれればいいと思った。
「また来年、会おう」
 ――あなたを忘れない。陳腐でひねりのない別れの言葉にも、ナナシはやわらかく微笑んだ。
 彼はきっと、来年も同じ場所で、星を待っているのだろう。私はその隣に腰かけて、彼の話を肴に、酒でも飲もう。また会えるのだ。来年の夏、この場所で。
 私は、両腕の力を抜いた。はるか水面へ落ちていく彼は……とても、幸せそうな顔をしていた。水しぶきが上がり、彼の姿を覆い隠す。
 彼が浮き上がってくることは、なかった。
 しばらくして、静かになった水面に、イルカたちが集まってきた。まるで、仲間を迎えに来たかのように。彼らはナナシが落ちたあたりを囲むように泳ぐと、キウキウと声を上げた。皆一様に私を仰ぎながら。そこまで届けと言わんばかりに。
(――君は、イルカを友だと思うかい)
 ――あなたは、私の友人だ。何にも代えがたい、大切な友だちだ。たとえあなたが海に帰ってしまおうとも、それは決して変わらない。別れを惜しむこともしないよ。きっとあなたが、それを良しとしないだろうから。それに代えて私は、今、あなたのためにできることがしたい。
 集まったイルカたちが、にわかに騒ぎ出す。すぐ近くまで迫った船影に気がついたらしい。私はいくつもの漁船を睨み、一歩、岩場の端へと踏み出した。
(――私は、私たちは、君に救われたんだ)
 星を待った七日間を忘れて、大人になって、いろいろなものを背負うようになった今なお、私の選択は幼い頃のそれと同じだった。私の根っこは、笑えるくらい変わっていない。ナナシ、あなたもそう思って、懐かしんでくれていたのかもしれない。次に会ったときにでも、聞かせてほしい。
 漁船の群れは、もはや船上の人影が認識できるほど近づいてきていた。
「――!」
 逃げ遅れたイルカたちを囲い込もうと動き出した全ての漁船に向け、私は大声で叫んだ。漁師たちの注意が、私のもとに引きつけられる。眩むほどの高さも、眼下に広がる黒々とした海も、そこにナナシが消えていったのだと思うと、私を奮い立たせてくれるだけだった。
 私がこれだけ身体を張るのだから、あなたもヘマなんてせず、生き延びてくれよ。来年の夏、ここで、待っていてくれよ。
 私は一つ深呼吸をすると、思い切り飛び込み台を蹴り、海面に向かって飛び降りた。

……

 ……そのときなにが起こったのか、私はよく覚えていない。彼らが言うところによると、私は大声で叫びながら海に飛び込んだらしいのだが、そんな行動をしたことも、その理由も、まったく思い出せなかった。海から引き揚げられたときの私は、助けてくれた漁師たちが何を尋ねても答えられないまま、胸に残った苦しいほどの喪失感に身を任せて、ただ泣きじゃくっていた。
 何か、とても大切なものを、水の中に落としてきてしまった気がした。だが、それが何だったのかすら、分からなかった。
 長いようで短かった夏季休暇を終え会社に戻ると、案の定、あの企画のプロジェクトリーダーの席はもう埋まってしまっていた。悔しがるべきなのかもしれなかったが、おかしなことに、少しも悔しくはなかった。居場所を失う恐怖に怯えることも、あの夏以来ぱったりとなくなり、休暇に入るときにはあった、精神の不調からくる体調不良も、帰省を経て治まった。それでも、流星群の日に感じた正体のわからない喪失感だけは、ずっと胸の奥にこびりついて離れなかった。
 何かが欠けている。いや、違う。何かを忘れているのか。どうしても知りたかった私は、あの奇妙なできごとから一年がたった夏の日、今度は自分から休暇を得て、例の海岸を訪れた。
 貝の散らばる浜に打ち寄せる波は静かで、少しの濁りもない。私はスニーカーと靴下を脱ぎ捨てると、誘われるように、冷たい浅瀬に足を浸した。
 私がほんの少し足を動かすたび、水面に波紋が広がり、雫が散る。気がつけば、夢中になって水面をかき回していた。そうしているうちに、自分のそんな行動が面白いもののように思えてきて、笑いがこみ上げる。
 遠くで、一瞬の残光を広げ、夕日が沈んでいく。影の差した夕空に、私は、同僚に連れられて行った展覧会で見た絵画を思い出した。
 水中に降りそそぐ光の柱と、つやつやとした肌を輝かせるイルカたち。彼らを包むガラス玉のような泡を見た私は、思わず『なんだかおいしそうだね』だなんて口にして、同僚に驚かれた覚えがある。彼いわく、『そんなことは考えない人だと思ってた』らしい。
 思えば、私が不思議なことに心惹かれるようになったのも、この浜で奇妙な体験をしたあの夏からだ。私は、すっかり濡れたすそをたくし上げることも忘れ、星の兆しはじめた空を仰ぐ。
 そんなとき。
「っぷし!」
 ――くしゃみ? 私が驚いて振り返った、その先に。
 失ったはずのあの夏が、あのときと同じ姿で、私を待っていたのだ。
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