残夏

ハシバ柾

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清夏

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 とっ、とっ――。
 鼓動が聞こえる。小さくやさしい振動に、少年はゆっくりと目を開いた。まぶたの隙間から薄明かりが差しこみ、まだ形になっていない意識を照らし出す。
 少年の目がはじめに捉えたものは、灰色の天井だった。
 ここは何だろう。少年は、ぼんやりと考えた。からだはあお向けで、伏せた手のひらには、ざらざらとした感触がある。指先を動かすと、ほどよく切りそろえられた爪が、すじのようななにかにひっかかった。同時に、嗅ぎなれた、懐かしいような匂いもする。
 気だるいからだを横に倒したところで、少年は、自分がなんの上に横たわっていたのかを知った。畳だった。なるほど、先刻ひっかいたのは、い草のすじなのだった。
 少年は上体を起こし、ぼうっと周囲を見回す。そうして、今いるこの場所が、打ちっぱなしのコンクリート壁に形作られた部屋なのだと理解した。床は正方形に近い形をしていて、向かい合った壁同士の間には、大股で五歩分の距離もない。

 次に少年は、鎖骨のあたりをなで、声を出してみた。のどは少しの抵抗もなく震えたが、狭い部屋は少しも音をはね返すことなく、黙り込んだままだった。少年はしばらく、自分以外のだれか、あるいはなにかの応えを求めて呼びかけ続けた。けれども、どれだけ経っても返事は来ない。
 やがて少年は疲れて声を出すのをやめ、代わりに、この部屋についてもっと調べてみることにした。自分はどうしてここにいるのか、あるいは、どうすればここから出ることができるのか。どちらでもいいから、とにかく知りたかった。知らない場所にひとりで放り出されたまま、なにもせずにいるのがたまらなかった。
 少年がまず目に留めたのは、目の前に置かれていた、幅のある木の箱だった。だが、少年はすぐに、それに対する興味を失った。木の箱には引き出しなどがあるわけでもなく、装飾らしい装飾もない。箱そのものと同じ素材で作られたふたがかぶせられているだけで、そのふたを開けてみても、中身は空なのだった。

 木の箱を調べ終えた少年は、座ったままの体をひねり、新たに、右後ろのかどに文机が据えられているのを見た。立ち歩く必要もない狭い部屋だ、少年は畳の上をはうようにして、文机に近づく。卓上には万年筆が転がっていた。少年は、ペン先を親指に押し当てて、それが使えるかどうかを確かめた。万年筆は暗赤色のインクで、少年の親指の先に傷のような線を引いた。
 続けて少年は、文机の右側に目をやった。引き出しが上下に二つ並んでいる。下段の引き出しは、内側に何かが引っかかっているようで、開けることができなかった。上段の引き出しの方は、開きはしたものの、何も書かれていない原稿用紙が一枚入っているきりだった。
 少年は原稿用紙を取り出して卓上に置き、しばらく頭を悩ませた。左手の壁に横たわる木箱はさておき、目の前には原稿用紙と筆記具がある。少年はペンを取り、思いついた言葉を原稿用紙の一行目に記した。
 〈青〉。
 言葉にしてみると、〈青〉のイメージはより鮮明になった。白みがかった、まぶしい青だ。〈青〉は少年の中に、また別の記憶を浮かび上がらせた。今度は、鼓膜をくすぐる、律動的なノイズだった。少年はためらいがちにペンを走らせ、〈青〉の下に、〈蝉の声〉、〈夏〉と書き足してみる。そして、いっときの逡巡を経てから、思いつくだけのすべてを、無心で原稿用紙に書き連ねていった。〈ざらざらした白壁〉、〈芝生〉、〈裸足〉、〈猫〉、〈坂〉、〈風の通り道〉……。原稿用紙の三分の一が埋まったところで、〈金魚〉と書き終えた彼は、ある情景がまなうらに浮かんでくるのを感じた。

 一匹の金魚が、畳の上で跳ねている。すると、そばにいたらしい黒猫が視界の端からすべりこんできて、苦しげに悶える金魚をぱくりと一口にすると、再び姿を消していった。少年は、どうしてかもわからないままに、〈やってしまった〉と思った。自身に非があることを、彼は知っていた。
 カルキの臭い。空になった金魚鉢に水を注ぐと、底の砂利が水流に踊る。猫が金魚鉢をじっと見つめている。金魚は……。
 少年はこめかみを押さえた。なにか、大切なことを忘れている。それなのに、その〈大切なこと〉が何なのかもわからない。少年は、こみ上げてくる衝動のままに、浮かんできた情景を書き記す。

〈蝉の声がする。夏。ふすまに区切られた畳の部屋。振り返ると、隣の家との間、木のフェンスに、下半分を斜めに切り取られた光が差している。風が抜けると、ぬれた肌が乾いて、すっとする。静か、先生はいない。金魚鉢は、背の低いたんすの上に置かれている。金魚を見ていると、ふすまの向こうから黒猫が現れる。猫は金魚鉢のそばに飛び乗る。猫の力で金魚鉢を倒せないというのは思い違い、鉢に頭をつっこむようにして、鉢を引き倒す。砂利と水草と金魚が底にたまっているが、水は空。金魚鉢をキッチンに持って行く。……〉

 そこまで書いて、少年はようやく思い出した。
 彼は、金魚の墓をたてたのだった。彼自身の心にあった、金魚の残滓を弔う墓を。

――

 夏は青い。息を切らせて立ち止まった少年は、やけに眩しく見える空に、そう思った。
 通い慣れた下り坂は、陽炎にゆらいでいる。夏に入り、少しだけ焼けてなお生白い彼の肌から、玉のような汗が滴った。街路樹も途絶えた街中では、青空の眩しさに目がくらみそうになる。日に焼かれることにも、走ることにも慣れていない少年は、ため息のかわりに短く息を吐くと、短い袖に額を押しつけて汗を拭った。アスファルトの熱気で、からだの中まで煮えてしまいそうだ。
 例年のこの時期なら、空調のきいた図書館に一日中入り浸っていたはずだった。それがなぜ、こんなふうに陽の下を走り回ることになっているのか。少年は、これから会いに向かう相手の背中を思い浮かべて、頬を緩めた。
 壁に寄せた文机にかけ、使い込まれた万年筆を走らせる和装の猫背。彼の周囲に満ち満ちる、肩越しに手元を覗くなどという無粋な行為を思いつきもしないほどの静謐。何より、骨ばった手で紡がれる文字ひとつひとつから、読者の心を躍らせる作品が織りあげられていくさまの、なんと神秘的なこと! 思い返すだけで胸がいっぱいになった少年は、両腕で抱えていた茶封筒をひしと抱きしめた。何を隠そう、少年はこれから、最も敬愛する小説家に、自分の小説を読んでもらいに行くのだ。

 黒々とした下り坂も半ば、見慣れた日本家屋の前に辿りついた少年は、やっと足を止めた。彼はひとたび大きく深呼吸をしてから、門扉に手をかける。
 門扉を抜け、控えめな芝生に足を踏み入れるたびに、この家は夏に愛されているのだと少年は思う。それは今日も変わらなかった。左右を二、三階建ての家に挟まれているために――真昼を除けば――隣家のシルエットがちょうど縁側にさしかかり、庭は心地よい涼しさに包み込まれる。風も、辺りではいっとう背の低いこの家を好んで吹き抜けていく。門扉の正面奥では、ずんぐりとした土蔵が、いつもと同じ穏やかさで少年を出迎えてくれていた。
 少年はしばらく、芝生に立ち止まったまま風をあびて、動悸がおさまるのを待った。敷地を囲う木々と、庭に植わったびわの木が、少年のまねをするかのように葉をさわつかせる。少年はそれらに不思議な親しみを感じながら、開け放たれた縁側に上がり、座敷をのぞき込む。そこに、彼のあこがれの人の姿があった。

「嵯峨先生! 僕です」

 少年の声に、文机にひじをついてうたた寝をしていた中年の男がうなる。男――嵯峨は目をこすり、やがて少年の姿を捉えると、気の抜けた調子でこう言った。

「おや、佐伯少年。よう来たなあ」

 聞き慣れた耳触りのいい声に、少年――佐伯の頬が喜びに染まる。寝起きの嵯峨はまだぼうっとしているようだったが、彼のそんな姿を見慣れている佐伯は、〈おじゃまします〉と嵯峨に声をかけて、座敷に上がりこんだ。
 嵯峨は佐伯に、不在でも家の中に立ち入ってかまわないと言ってくれていた。それで佐伯は、この家のどこに何があるのかをよく知っていた。
 佐伯が二つのグラスに麦茶を注いで戻ると、嵯峨は、縁側に出て佐伯を待っていた。二人は、並んで縁側に腰を下ろして、しばらく黙って風に当たった。静かな庭、静かな家、それに、静かな〈嵯峨先生〉。佐伯は、その何もかもが好きだった。この静けさがどんなに長く続いても、退屈にも、気まずくもならないことも含めて。

「さて。今日は、どんな作品を持って来てくれたのや」

 ようやく意識がはっきりしてきたらしい嵯峨が切り出すと、佐伯は、腕の中の茶封筒に視線を落とした。その中に入っているのは、佐伯のいちばん大切なもの――彼が持てるすべてを尽くして書いた、小説の原稿だった。佐伯がそれを嵯峨に手渡すと、引き換えるようにして、嵯峨も文机のかたわらに積んであった紙束を佐伯に差し出した。佐伯は目を輝かせながら、その紙束――嵯峨の原稿を受け取る。互いの原稿が入れ替わると、二人はそれぞれに手元の原稿を読みはじめた。

 佐伯少年にとって、嵯峨という男は不思議な存在だった。どこのものかもわからない不思議な訛りのかかった穏やかな話しぶり、印象的な和装のすがた。それだけでなく、彼は日がな一日眠っているか、散歩をしているか、あるいはものを書いているかで、佐伯や、ほかのあらゆる人が抱えているような〈しなければならないこと〉とは縁がないように見えた。彼は佐伯と同じこの町に暮らしていて、わずかではあるが人付き合いもある。けれども、それがかえって不思議に思えるほど、嵯峨は他から〈外れ〉ていた。彼の周りでは時間がゆったりと流れていて、彼と言葉を交わした誰もが、その特別な空気の中にとりこまれてしまうようだった。
 佐伯が嵯峨に関して知っていることは、そう多くない。わかることといえば、見た限りの彼の生活と、おおよその年齢――四十代後半から六十代はじめくらいに見えるが、ミステリアスな空気のせいで定かではない――と、職業と、彼自身の性格の一面と、幅の狭い人間関係、それに、彼の書く文章が美しいことだけだ。筆名からそのまま〈嵯峨先生〉と呼んでいるだけで、出会ってから半年が経つというのに、彼の本名すら知らないのだった。けれども佐伯は、すでに知っている以上のことを、積極的に知りたいとは思わなかった。嵯峨にあれこれ問いただすのは、たとえば澄んだ水面をかき乱すようで、いやだったのだ。佐伯は、紙の表が見えればじゅうぶんなたちだった。

 嵯峨はもの静かな人で、話すよりは人の話を聞くことが好きだと言った。けれども、佐伯の話を聞いてうなずいているときも、佐伯には、彼の心がどこか別のほうを向いているように思えてならなかった。そんな嵯峨がはじめて佐伯に深い興味をかたむけたのは、佐伯が自身の小説を持ち出したときだった。嵯峨は書き手である以前に、意欲的な読者であり、他人の作品に敬意を払うことのできる人だった。やがて、佐伯の作品と引き換えに、嵯峨は自身の原稿を佐伯に読ませるようになり、互いの原稿を取り替えたことで、二人はいっそう親しくなった。そうして嵯峨と佐伯は、作家と読者であり、師と弟子であり、歳の離れた友人という、なんとも形容しがたい関係を今日まで続けてきたのだった。
 嵯峨の作品を読んでいるさなか、ふと息をついて、佐伯は顔を上げた。原稿用紙をめくる手を止め、鼓膜を擦るようなノイズに耳をかたむけてみると、ずっと聞こえていたその音が、ようやく蝉の声として聞こえはじめた。佐伯は驚いて、思わず嵯峨に声をかける。

「嵯峨先生、蝉が鳴いてます」

「うん? ああ、そうやなあ」

 佐伯の原稿を読みふけっていた嵯峨は、思い出したように庭を見渡しながら答えた。嵯峨が余計なことを言わず、ただ肯いてくれたので、佐伯は嬉しくなった。

「蝉が鳴いてます」

 佐伯は、確かめるようにもう一度そう言ってから、借り物の原稿を抱くように膝を抱えて、夏の横たわる庭をうっとりと眺めた。ずいぶん読書に集中していたからか、そうして風に頬をなでられるままにしていると、意識の輪郭がとろけてしまいそうだった。

――

 〈嵯峨先生、蝉が鳴いてます〉〈うん? ああ、そうやなあ〉――自宅の階段を上がりながら、佐伯は昼に嵯峨としたやり取りを思い出していた。
 父親の帰りは遅く、家での佐伯は、たいてい母親と二人きりで過ごしている。けれども、ここ数年、佐伯は母親といると息苦しさを覚えるようになっていた。母親との仲が悪いわけではない。むしろ、一緒にすごした時間の分だけ、佐伯は母親が好きだった。母親もまた、一人息子を心から大切に思ってくれているようだった。それなのに、なぜ苦しくなってしまうのか、佐伯にはわからなかった。わからないからこそ、いっそう苦しかった。
 ふと、歯ぐきに違和感を覚えた佐伯は、爪のかけらがまだ口の中に残っていたことに気がついた。佐伯には、母親を前にすると、無意識のうちに爪を噛んでしまう悪癖があった。この癖のせいで、左手の親指の爪はいつもぼろぼろだった。外でその癖が表れるかもしれないと心配する母親に、佐伯は〈お母さんの前でしかしないよ〉とは言えずにいた。
 佐伯が母親に言えずにいることは、年々少しずつ増えている。エビフライが好きだったのは小学生のころであることも、いつもの夕食の量が小食の佐伯には多すぎることも、無理やり入部させられたテニス部にはもう三か月も行っておらず、帰りが遅いのは嵯峨の家に通っているからであることも、小説を書き続けていることでさえも、母親を前にするとのどが詰まるような感覚がして、言えなくなってしまうのだ。それで佐伯は、本当のことを言う代わりに、母親が喜びそうなうそをつくようになった。先ほども、二人きりの食卓で、〈明日も練習あるから、もう寝るね〉と言ったばかりだ。

 詰め込むようにして食べきった夕食のせいで苦しい腹をさすりながら、やっと階段の末にたどり着くと、右手すぐに佐伯の自室がある。佐伯は肩にかけたかばんのひもを片手で強く握った。自室の扉を開けるこの瞬間、佐伯はいつも、ひどく緊張するのだった。
 部屋をのぞきこんでみると、佐伯の想像していたとおり、主のいない間に誰かが部屋を片付けた形跡があった。佐伯の母親は潔癖と言ってもいいほどのきれい好きで、いつも佐伯が出かけている間に部屋を掃除してしまうのだった。佐伯がどんなに精一杯きれいにしても、母親の目には粗が見えてしまう。でなければ、母親や他人に見えるような粗が、佐伯の目には映らないのかもしれない。どちらにせよ、〈あなたはおかしい〉と言われているようで、ひどくみじめな気持ちになる。
 いっそ、自室に鍵をかけてしまえたらと思ったこともあった。扉には鍵がついている。けれども、鍵をかけたときのことを想像すると、佐伯にはどうしてもそれができないのだった。心配性な母親は、きっと泣きながらこう言うのだ――〈私がなにかしたの?〉と。その言葉が、叱るよりも佐伯を苦しめることなど知らずに。
 母親が善意から部屋を片付けてくれていることは、佐伯にもわかっている。だが、片付いた部屋に帰ってくるたびに、佐伯は泣きたくなった。自分の居場所がどこにもないような気になるのだ。

 佐伯はかばんを放り投げると、ベッドをわざと乱して、その上に膝を抱えた。目を閉じると、自分の内側にあるものに浸ることができる。誰にも触れられない佐伯だけの居場所は、そこにあった。頭のなかで、佐伯が知っているあらゆるものが、おもちゃ箱を引き倒したときのように、ごちゃ混ぜになって広がる。浮かんでくるおもしろいものたちは、次から次へと佐伯に声をかけてきて、彼の心のなかに長らく居座ろうとする。そして、いずれは物語に組み込まれたいと願っている。
 心の中のものたち皆が佐伯の気を引こうとする中で、ひとつだけ、佐伯のほうに呼びかけてくることのないものがあった。注意を向けてみると、それがなにであるのか、すぐにわかった。自分の世界の中で一番すてきなそれの正体に、佐伯はもう気づいていた。

「蝉が鳴いてます」

 佐伯は、ぽつりとつぶやいた。耳の奥で嵯峨の返事が聞こえた気がして、佐伯はうれしくなった。ジェットコースターのように流れていくすてきなものたちの群れが、佐伯を包み込んでいる。その中に、いっとう輝く〈嵯峨先生〉がいる。佐伯は小説が書きたくなり、ベッドから身を乗り出した。原稿用紙は、持っている分をすべてかばんに詰めてある。かばんに手を差し込むと、佐伯の期待通りに、すべらかな紙の感触があった。無意識にしていた爪いじりは、いつの間にか止んでいた。

――

 翌日も、佐伯は嵯峨の家を目指していた。手には、行きつけの弁当屋の日替わり弁当がぶら下がっている。
 嵯峨は自分自身にも頓着のない人で、家政婦に休みをやっている木曜には、食事を取り忘れることがままある。それで、佐伯がこうして弁当を買っていくのが習慣になりつつあった。
 三者面談の期間中、中学校の授業は午前で終わる。おかげで、嵯峨の家に着くころには、ちょうど昼食時とおやつ時の境、一緒に食事をするには最高の時間になるのだ。
 佐伯は、慣れた調子であいさつをして門扉をくぐり、縁側から家の中をのぞき込んだ。けれども、定位置である文机の前に、嵯峨の姿はない。諦めきれなかった佐伯は、靴を履いたまま座敷に身を乗り出して、奥をのぞきこむ。そうして、左側に寄せられたふすまの影、安楽椅子にかけたその人の姿を見つけると、ぱっと表情を明らめた。勢い良く脱ぎ捨てられた靴が、青い芝生にうずもれる。
 椅子に身を預けた嵯峨は、心地よさそうに眠っていた。彼の膝上には読みかけの本が開いたままになっていて、そのさらに上には、見慣れた黒猫が丸まっている。黒猫は佐伯に気がつくと、不満そうに鳴いた。嵯峨はこののら猫を〈気ままな隣人〉と呼び、出るも入るも勝手にさせていた。佐伯は黒猫をなでてやると、嵯峨を起こすことなく庭に出た。

 縁側から座敷を出て右手、嵯峨が暮らす家のすぐそばに置かれた書庫は、書庫として利用できるように、もともとあった蔵の内装をいじったものだ。本にかびが生えてしまわないように、あるいはここに入り浸る熱心な読み手のために、半ば無理やりながらも窓が取り付けられ、内側の壁に沿ってぎっしりと本棚が並べられている。窓を少しだけ開け、本に日光が当たらないようにと取り付けられた厚いカーテンのすそを壁に引っかけると、風が吹き込むとともに三角形の日光が床に落ちて、読書にはちょうどいいスペースができることを佐伯は知っている。
 佐伯は、たびたびこの書庫に足を運んでいた。嵯峨が執筆に集中している様子の時、食事をしている最中だった時、佐伯の原稿を読みふけっている時、風呂から戻ってこない時、それに、今日のように眠ってしまっている時。そんな時に佐伯が退屈しないようにと、嵯峨が佐伯に書庫を開放してくれたのだ。
 佐伯は本棚をぐるりと見回す。同じ本を読んだとしても、同じことを感じるとは限らないが、佐伯には、嵯峨の見た世界を少しでも感じられることがうれしかった。〈いつか、この中のどの本よりも、嵯峨先生を楽しませられるような小説が書けるだろうか〉と、ひっそりと野望を募らせてもいた。

 しばらくして、嵯峨が目を覚ましたらしく、膝から振り落とされた黒猫が、書庫まで佐伯を迎えにきた。口よりおしゃべりな尻尾の後に着いて縁側に戻ると、ちょうど、二人分の麦茶を盆にのせた嵯峨が座敷に現れたところだった。佐伯は座るよう嵯峨に促し、涼しい日陰に置いてあった弁当を手渡す。
 嵯峨は、割り箸を線から二つに分けつつ、穏やかに微笑んだ。

「いつもありがとうな、少年。弁当屋、通学路から外れるやろ」

「ううん、大丈夫です。ぼくが食べたいから……。その、ついでなんです」

 佐伯が照れたようにそう言うと、彼のそばで寝ころんでいた猫が、文句ありげに身をよじらせる。
 佐伯の弁当は、きまって小サイズだった。給食と夕食の間で、あまりたくさん食べられないことを、佐伯は嵯峨に黙っていた。一方の嵯峨は、佐伯の事情に気づいてはいるものの、少年のそんなところをいじらしく思い、何も聞かずにいた。佐伯と嵯峨の関係は、互いに互いを深く理解しないことで保たれているところがあった。そして二人は、口には出さなかったが、それぞれにこの関係性を気に入っていた。自身の内に踏み込まれないことが、大変に心地良いのだった。ことに、まだ幼く、心の守り方を会得していない佐伯にとっては。
 起き上がった黒猫が、嵯峨の弁当をもの欲しげに見つめる。嵯峨は主菜の鮭をほぐし、内側の柔らかいところを猫にやった。

「塩が多いですよ」

「一口くらいなら大丈夫やろ。ほれ、向こうに行きなさい」

 猫は返事をするように尻尾をふると、座敷に上がって、文机の下で身を丸めた。グラスの中の氷が溶けて落ち、軽い音を立てる。二人は、わけもなく顔を見合わせて微笑んでから、それぞれの弁当に手をつける。

 とはいえ、佐伯には、食べているものの味なんて少しもわからなかった。学校から持ち帰ってきた考え事に気をとられていたのだ。佐伯は機械的に食べ物を口に運びながら、嵯峨の骨ばったのどが食べ物を飲んで上下するのをながめていた。

「どうした、少年」

 自分ではうまく隠しているつもりになっていた佐伯は、嵯峨の言葉に驚いてしまった。いつだって、佐伯がなにか思い悩んでいると、嵯峨はすぐに気がついてしまうのだ。二人の目が合うときは、決まって佐伯のほうから視線を向けている。それなのに嵯峨は、ずっと佐伯を観察しているかのような正確さで、佐伯の異常を見つけてしまうのだった。嵯峨はあまり人をじっと見るようなたちではないが、それは嵯峨があまりに敏いからかもしれないと佐伯は思っていた。
 くわえて嵯峨は、決して〈大丈夫か〉だとか、〈なにかあったか〉だとか、そういった表現を使わなかった。佐伯ははじめ不思議に思っていたが、あるとき、自分が〈大丈夫か〉、〈なにかあったか〉と言われたら、きっと〈大丈夫〉と答えてしまうことに思い当たったのだった。今もまた、嵯峨の心遣いに気づいて、佐伯は頬を緩めた。

「たいしたことじゃないんですけど。……最近、もの忘れがひどいっていうか、よくものをなくしてしまって。それで……」

 それは、四時限目の国語の授業でのことだった。どこに忘れてきたのか、佐伯の教科書がかばんの中から姿を消していた。これまでにも、そういうことはたびたびあった。学用品をやたらとなくしてしまうのだ。彼の母親はそれを〈落ち着きがないから〉だと言い、くり返しそう言われてきた佐伯自身も、そうなのだと思うようになっていた。
 悲しいのは、こんなときに限って運悪く音読をしろと指名され、ひとり立たされて〈教科書を忘れてしまいました〉と言わされるはめになることだった。〈近くの席の友だちに貸してもらって〉と言われてようやく、ほとんど話したこともないような隣人に教科書を貸してもらうことができる。これが佐伯には恥ずかしくて、情けなくてたまらなかった。しかも、なくした学用品の多くは、必要な授業の後になると、不思議と返ってくるのだった。

「今日も、クラスメイトが放課後にその教科書を見つけてくれて、それでやっと戻ってきたんです。だから、もう大丈夫なんですけど……」「それでも腑に落ちんところがある、と」

 〈かばんにはちゃんと入れたはずだったのに〉。佐伯が飲み込んだその言葉が、嵯峨には伝わっていたらしかった。

「えっ? あ、腑に落ちないっていうか……ええと、そう、そうかもしれません。かばんには入れたはずだったんです。たしかにぼくは不注意だし、よくものをなくしてしまうけど……。いえ、やっぱり気のせいだと思います。そのクラスメイトも、廊下に落ちてたって言ってましたから。たぶんかばんが開いていて、落としてしまったんだろうと……」

 佐伯は、どもりながら答えた。こうして改めて事実を口に出してみると、嵯峨の言うとおり、なにか〈腑に落ちない〉ものを感じる気もする。けれども佐伯は、自分の落ち度を認めたくないためにそう思っただけに違いないと、すぐに考え直した。それに、ことの中身がどうあれ、嵯峨に話したことで、佐伯の心は楽になっていた。

「そうか」

「そうです」

 嵯峨のつぶやきに、佐伯が短く答えた。
 嵯峨の前では、恥ずかしい話や、罪悪感を伴う話をするときにも、佐伯ののどが詰まることはなかった。嵯峨はああしろこうしろと口を出すこともなく、年長者らしく助言を押し付けることもなく、ただ黙って佐伯の話を聞いた。そしていつも、ひとりごとのように〈そうか〉と言った。佐伯が〈そうです〉と返事をすると、その話は終わりになる。
 佐伯はいくぶん楽な心持ちで、弁当の残りを味わった。少し塩が強くて米が足りないような気もしたが、慣れてしまうと、これがくせになる。白飯の量が少し多い並サイズの弁当を食べている嵯峨はこの感覚を知らないだろうが、佐伯は少し考えて、このことは彼に言わないでおこうと思った。

――

 今日も、うだるように暑い。午前授業を終え、嵯峨に会いに向かっていた佐伯は、熱さにもうろうとした頭で、嵯峨宅で飼われている金魚のことを思い出していた。
 佐伯と嵯峨が話すとき、たいてい縁側か、その先の座敷を使う。そのため、茶の間の桐だんすの上におかれた金魚鉢を佐伯が目にするのは、敷地に入ってすぐに嵯峨を見つけることができなかったときか、嵯峨に特別に用を頼まれて、キッチンに行くときくらいのものだった。その金魚について、嵯峨はいつか、〈自分のものではない〉と言っていた。それが〈飼っていない〉という意味なのか、それとも〈自分の持ちものだと思ったことはない〉という意味なのか、佐伯にはわからなかった。嵯峨はそういったことをはっきりとは言わない人であるし、佐伯も、嵯峨の意図がどちらであってもいいと思って、問い返さなかった。
 佐伯がその金魚に興味を持ったことはほとんどなかった。けれども、嵯峨宅に通っている家政婦が〈神経質な子なのよ〉と言っていたのが妙に印象的で、その言葉を聞いて以来、こうしてときどき思い出すようになっていた。金魚は水質の変化には強い魚であるというが、嵯峨宅の金魚は、水を入れ換えるたびに、落ち着かない様子でぐるぐると泳ぎ回る。金魚のそんな様子を一度だけ見たことのある佐伯は、そのときの金魚によく似たものを知っている気がしたが、それがなんなのかは思い出せなかった。そのときに消化できなかった〈わからなさ〉が、今もこうして佐伯に金魚のことを考えさえせているのかもしれない。

 いつもの坂を下って、慣れた門扉をくぐると、みずみずしい芝生が、肌に触れる空気の温度を少し下げてくれるようだった。肩掛けかばんを縁側に下ろして、家の中に向けて呼びかけるが、返事はない。文机の下で丸まっている黒猫が、尾をぱたりとしただけだった。佐伯は靴をぬいで座敷に上がり、ふすまを隔てた先の茶の間で足を止めた。畳の真ん中に立って、じっとしていると、蝉が空気を焦がす音だけが、やけに色濃く聞こえる。
 ふいに、まるで別の世界に迷いこんでしまったような感覚にとらわれて、佐伯は戸惑いながら振り返った。室内から見ると妙に狭く見える庭は、いつもと変わらない様子でありながら、やけに遠い。隣家と嵯峨宅の敷地を隔てる木のフェンスに、家の頭によって斜めに切り取られた光が差している。汗をかいた額がむず痒い。
 一瞬、蝉の鳴き声が静かになった気がしたとき、すんとした風が佐伯のそばを抜けていった。汗でぬれた肌が風で乾く数秒だけ、佐伯は肌寒さを感じた。冷たく湿った腕をなでながら、佐伯はまた、金魚のことを思い出した。

 佐伯の左手にある、背の低い桐だんすの上に、金魚鉢はあった。佐伯は桐だんすの前にかがみこみ、〈こんなにじっくりと見るのはいつぶりだろう〉と思いながら、まじまじと金魚を見た。見れば見るほど、どうということもない、ただの金魚だった。実際に目にしてみると、金魚のことを考えていたときよりも心は動かず、佐伯は少しがっかりした。ふとしたときに思い出してしまうほど意識のすみに焼きついていたために、いつの間にか、この金魚が特別なものであるように思いはじめていたのだった。
 佐伯が失望して立ち上がろうとしたとき、かたわらに黒猫がやってきた。猫は何を思ったか、金魚鉢ののったたんすの上に飛び上がる。佐伯は、水や砂利の入った重い金魚鉢を猫が倒せるはずもないとは思いつつ、猫を見守ることにした。金魚鉢を前にした猫がなにをするか、興味もあった。
 猫は、しばらくじっと金魚を観察していた。やがて、思い切ったように前足を水面につっこむと、水の感触に驚いたのか、とび跳ねて金魚鉢から離れる。しかし、再びたんすの天板の端から金魚鉢へとにじり寄ったかと思えば、今度は金魚鉢のふちに前足を引っかけ、頭を突き入れるようにして鉢にしがみついた。

 佐伯が〈あっ〉と声を上げるも遅く、ずっしりとした金魚鉢は右に倒れてしまった。腹を押しつぶされ、頭から水をかけられた猫は、驚きと恐怖に奇妙な鳴き声をあげて逃げ去っていく。佐伯はあわてて金魚鉢をもとに戻したが、すでに水はほとんど空になってしまっていた。鉢のふくらみに収まっていた砂利と水草、それに金魚だけが、こぼれることなく底にたまっている。
 佐伯は半ばパニックになって、びしょ濡れの天板と、床板と、畳と、水のなくなった金魚鉢を次々に見やる。こぼれた水は、たんすの天板から床に伝い、床板と、畳の端を濡らしていた。たんすの天板が少し突き出ているおかげで、たんすの中身はなんともないようだ。鉢の中では、何が起こったのかもわからないだろう金魚が、苦しげにあえいでいる。
 佐伯はキッチンに走っていって、水道から金魚鉢に水を汲んでやった。ついでに、キッチンにあったぞうきんを借りて、水びたしになった茶の間の畳を拭く。そうして、ようやくごまかしがきく程度には片付いたところで、話し声とともに、門扉がきしる音がした。嵯峨が戻ってきたのだ。一緒にいるのは、声からして、嵯峨宅の家政婦だろう。

 佐伯が畳を拭いたぞうきんを金魚鉢の裏に隠して嵯峨を出迎えようとしたとき、水を替えたためにせわしなく泳ぎ回っていた金魚が、とうとう鉢から飛び出した。佐伯は驚いて、畳の上に落ちた金魚に手を伸ばす。けれども、佐伯の手があと数センチというところで、キッチンのところに逃げていた猫が飛ぶような勢いでやってきて、畳の上を跳ね回る金魚をひと口でさらってしまった。佐伯は猫を追いかけようとしたが、ちょうど、帰ってきた二人が縁側に姿を現した。家政婦の小宮と、彼女に支えられた嵯峨だ。
 嵯峨宅に勤める家政婦の小宮は、はつらつとして、他人との間にまったく壁を築かない女性だった。物寂しい嵯峨と並ぶと、その明るさがいっそう際立って見える。ずいぶん年上であるにもかかわらず、佐伯は彼女に〈愛くるしい〉という印象を持っていた。ぽっちゃりとした姿が、小動物を思わせるためかもしれない。
 小宮は、佐伯を見つけると顔をほころばせた。

「あら、いらっしゃい、佐伯君。ごめんなさいね、今日の先生、具合がすぐれなくって……。ほら、よかったですねえ、先生。佐伯君がいらしてますよ」

 嵯峨の返事は、痰の絡んだ咳だった。嵯峨の様子を見た佐伯は、金魚についての心配ごとをほとんど忘れてしまった。嵯峨はぐったりとして、小宮の支えがなければ、立っていることもままならない様子だった。佐伯はいたたまれなくなり、縋るような思いで小宮のほうを見やる。

「小宮さん、嵯峨先生が……」

「そうね、しばらくお休みにならないと。佐伯君も心配してくれているんですから、今日は安静にしていてくださいね。先生、佐伯君が来てくれるのをとても楽しみにしていらしたんですけどねえ。……あ、佐伯君、先生の履きものをお願いできる?」

 こういうとき、小宮は驚くほど冷静だった。佐伯は、嵯峨の足からこぼれた下駄を並べながら、ぽっちゃりとした家政婦に支えられた嵯峨の背中を見やる。こうしてみると、嵯峨の背中はあまりにも痩せて、頼りなく見えるのだった。
 嵯峨は肺を悪くしていた。若いころに煙草を吸いすぎたのだという。ここ一週間ほどは調子がいいようだったが、きっと長くは続かないと、嵯峨自身が言っていた。

 小宮は手早く布団を用意し、嵯峨を寝かせてやると、苦しくないようにと彼のからだを横向きにしてやった。佐伯は小宮がたくましいのをを知っていたが、それでも、女ひとりの力で簡単に持ち上げられてしまう嵯峨を見ていると、切ない気持ちになった。

「さ、どうぞ。先生のことはあんまり心配しすぎなくてもいいから。でも、できることならそばにいてあげてちょうだいね。ひとりで寝ていると、退屈で布団から出てしまいたくなるでしょうから。ねえ、先生」

 小宮がそう言うと、嵯峨の表情が和らいだ気がした。佐伯は小宮が廊下に出て行くのを見送ってから、彼女の言うとおりに、嵯峨の布団のそばで正座をする。嵯峨はたびたび咳をしたが、帰ってきたそのときよりは落ち着いた様子に見えた。

「すまんなあ。これでは、ろくに話もできん」

 咳きこまないよう慎重に発された言葉に、佐伯はただ首を横にふった。嵯峨と話をしたいのと同じだけ、嵯峨には自分の体を気遣ってほしくもあった。本当はしゃべらずにいるよう注意をすべきなのかもしれないが、そよ風のような嵯峨の声は、黙っているよう言いつけるには、あまりに心地がよすぎるのだった。
 嵯峨が少し咳をする。彼が息を整えている間、そのこめかみにひとすじの汗が伝うのを見つめていた佐伯は、金魚鉢が空であることを思い出した。

「書くのは、楽しいかいな」

 金魚のことをどう切り出そうかと考えていた佐伯は、嵯峨に突然そう問いかけられて驚いてしまった。佐伯は金魚のことを考えながら、嵯峨の不思議な問いについて、〈書くこと〉について考えた。
 佐伯にとって、書くことは〈表現すること〉であり、〈吐き出すこと〉でもあった。内気な佐伯は、しかし内側に豊かな世界を持っている。口にできなかった言葉があまりに多すぎて、いつからか、自然とペンを持つようになっていたのだった。

「はい。……楽しいって言うとちょっと違うかもしれないけど、好きです。むしろ、書いていないと落ち着かなくて」

 佐伯の答えを聞いた嵯峨は、枕に顔を半分うずめて、なにか考え込んでいるようだった。嵯峨が、作品そのものではなく、〈書くこと〉に対する佐伯の気持ちに言及したのは、思えばこれがはじめてだった。佐伯は妙なものを感じたが、あまり嵯峨にしゃべらせてはいけないと、問いただすのはやめにした。
 次に二人の間に沈黙が降りたとき、佐伯は、金魚のことを話そうと口を開いた。けれども、ちょうどそのとき、切り分けた西瓜を盛った皿を手にした小宮が茶の間に現れたのだった。小宮は〈先生の分も、ちゃんと残してありますよ〉と笑って、すぐにキッチンに戻っていったが、金魚についてどう説明するべきかもわからないことに気がついた佐伯は、話す勇気を失ってしまった。

――

 明けて土曜、佐伯は図書館の端で、原稿用紙を前にひじをついていた。嵯峨の家に行ってしまえば、気を遣った嵯峨が無理にでも話そうとすると思い、佐伯はこの土日を図書館で過ごすと決めていた。
 執筆のために訪れた図書館だったが、このときの佐伯は、プロットをまとめたノートを開きもせず、ただぼうっとしていた。手元に集中しようにも、すぐに嵯峨宅の金魚のことが頭に浮かんでくるのだ。苦しげに畳の上を跳ね回っていた金魚の姿を思い出すと、佐伯はやけに落ち着かない気持ちになった。
 佐伯が帰ったあと、小宮はきっと、金魚がいなくなったことに気がついただろう。金魚鉢のそばで寝ている嵯峨が先かもしれない。二人は金魚がどうしていなくなったのかわからず、首をかしげるのだ。そして、どちらが先に気づいたにせよ、空になった金魚鉢を、小宮が片付ける。鉢の裏にあるぞうきんも、さほどなにかの感傷を引き起こすでもなく洗われて、もともとそうだったように、キッチンに引っかけられる。やがて、二人とも金魚のことなどすぐに忘れてしまう。そんな二人のそばで、佐伯だけが、ときどき金魚のことを思い出す。そう考えれば考えるほど、佐伯は空恐ろしくなってきた。
 それで佐伯は、この土日を費やして、金魚の話を書くことにした。自己満足でも、金魚がそこにいた証を形にしなければ、この先ずっと、透明な水槽を幻視し続けることになりそうに思えたのだ。

 佐伯が実際に見た金魚は、特別なものではなかった。だが、それを知った今でも、金魚は佐伯の中で異彩を放っていた。記憶の中の金魚は、肌に合わない水の中をそわそわと泳ぎまわり、やがて、金魚鉢を飛び出してくる。呼吸のできる水中を離れてでも、違和感から逃れようとするのだ。〈ここにいるくらいなら、死んだほうがましだ〉と言わんばかりに。
 金魚の話を書くさなか、金魚に対する佐伯の興味は、かえって膨らんでいった。佐伯は浮かんできた疑問に想像で答えを作ると、それらを原稿用紙に書き記していった。いつしか、紙の上の金魚は、佐伯が長らく抱いていたイメージそのままの〈特別なもの〉になっていた。
 すべて書き終えてペンを手放したとき、文章の上に残る金魚は、実際の姿と想像の姿がごちゃ混ぜになった、実物とはまるで違う姿になっていた。だが、それを書き終えた佐伯にはもう、実際の金魚の姿を思い出すことができなかった。佐伯はでき上がった原稿をまじまじと見つめる。
 佐伯は、あの金魚が金魚鉢から飛び出してしまったのは、自分が水を換えたせいだと思っていた。元はといえば、猫が金魚鉢を引き倒して水をこぼしてしまったせいなのだが、そうだとしても、水を入れたのは佐伯だった。それで佐伯は、自分が金魚を殺したような気がして、なにかしないことにはたまらなくなっていた。けれども、そのあせりに似た気持ちさえ、書き終えてしまうと同時に消えていった。佐伯の中にあった金魚の残滓は文字にまぎれて溶けていき、目の前には金魚の〈墓〉が残されているばかりだった。

――

 気づけば、佐伯は嵯峨宅の門扉を前に立ちすくんでいた。行き場のない足が自然と嵯峨の宅に向いたことに戸惑いながら、佐伯は青い庭を見つめた。早足で歩いてきたために心臓は早鐘を打ち、息をするたび肺がしめつけられるようだった。
 宅は静かだった。本当なら、すぐにでもこの門扉をくぐって縁側で息をつきたかったが、佐伯は一歩踏み出すことができず、肩掛けかばんのひもを握りしめた。かばんの中には、紛失して数時間後に返ってきた教科書と、折れ曲がり、順番のばらばらになった原稿が入っている。床に散らばったそれらをかき集めたときのみじめさと、なんとも言いがたい罪悪感らしきものが再びわき上がってきて、佐伯の足首をつかむ。

 今日――金魚を弔った翌日の月曜は、佐伯がひそかに恐れていた三者面談の日だった。 
 中学三年生の夏休みを目前にしたこの三者面談は、進路決定に直接かかわる、重要なものだ。緊張しながらもそのときを待っていた佐伯のもとに、彼の数少ない友人が現れた。佐伯をテニス部に誘った、気の優しいクラスメイトだ。教室の前で時間を持て余している佐伯に気がついてか、彼はいろいろと雑談に付き合ってくれた。けれども、その末に、とても言いにくそうに言ったのだ――〈佐伯君、まだ気づいていないの? きみの教科書、なくなってなんかないって……〉と。〈気をつけたほうがいいよ〉とも。
 その後の三者面談も、ひどいものだった。佐伯は、進路はともかく、小説を書くことだけは続けたいと思っていた。小説を書いていることを、母親に隠し続けられないだろうこともわかっていた。それで、勇気を出して、担任教師と母親の前で、すべてを打ち明けようとしたのだった。話している間、何度ものどが詰まるようなあの感覚があったが、〈今言わなければ、ばれてしまうまで、きっと言えない〉と思っていた佐伯は、嵯峨がいつか褒めてくれた原稿を二人の前に広げ、なんとか最後まで話そうとした。しかし、佐伯がすっかり話せなくなってしまう前に、母親が佐伯をとがめた。佐伯の覚悟もそこまでだった。

 その面談がどういうふうに終わり、自分がどうやってここまでやってきたのか、佐伯には思い出せなかった。ただ人の目が恐ろしく、どこか落ち着けるところでひとりになりたい気持ちだけがあった。少なくとも、息の詰まる家には帰りたくなかった。図書館は月曜休館で、学校に戻れば誰に会うかもわからない。行くあてもないが、今嵯峨と会ってしまうのは、一番いけないことであるように思えた。佐伯は周囲を見回して、誰もいないことを確かめると、嵯峨の宅の前から離れようとした。
 けれどもそのとき、なにを感じたか、嵯峨がちょうど庭に現れた。嵯峨はすぐに、門扉向こうに立ち尽くす佐伯に気がつき、声をかけてくる。

「おや。いらっしゃい、少年。この前はすまんかったなあ。さ、お上がんなさい」

 嵯峨の声はいつもと変わらず穏やかで、張りつめた佐伯の心を弛ませてくれるようだった。ひどい一日だったというのに、急に普段のとおりに引き戻されたようで、佐伯は戸惑いながらも芝生に足を踏み入れる。
 この日の嵯峨は、だいぶ調子がよさそうに見えた。佐伯は嵯峨に導かれるまま縁側に掛ける。

「あ……。えっと、今日はお元気そうで……その、よかったです」

 佐伯はいつもどおりに話そうとしたが、うまくいかなかった。学校から引きずってきたいくつもの〈考えごと〉が、佐伯を嵯峨から遠ざけようとしていたのだった。けれども、敏い嵯峨は、今日も佐伯の変化を見逃さなかった。

「なにか、悲しいことがあったのやな」

 嵯峨の言葉に、佐伯ははっとした。教科書のこと、三者面談のこと、それに伴って心の中で渦巻いていたなにかを、〈悲しいこと〉と形容してみると、そうである気もした。

 沈黙の中、長らく考えこんでいた佐伯は、結局、迷いながらも口を開いた。ひとりで胸の中にしまいこんでいるには、大きすぎる荷物に思えたのだった。

「この前、教科書がなくなった話、しましたよね。あれ、なくなったんじゃなかったんですって。僕が困ってるところがばかみたいでおもしろいからって……からかわれてたんだって……。もの忘れなんか、してなかったんです。僕が勝手に……」

 佐伯は、ぼろぼろになった親指の爪をいじりながら、途切れ途切れに話す。
 教科書が盗まれていたことを知った佐伯は、悔しいというより、情けなくてたまらなかった。仲のいい友人の口からそう告げられることにも、背後から刺されたようなショックがあった。その友は、きっと前々から佐伯の教科書が〈盗まれている〉ことを知っていたに違いない。彼が佐伯をどんな風に見ていたか、想像するだけでやりきれなくなるのだった。もちろん、友が心から佐伯を心配して、ああ言ってくれたことも佐伯には理解できた。だからこそ深く傷ついたのだ。

「僕、ばかだなあって思いました。鈍いし、弱虫だし……どこか、変なのかもしれないって、前から本当は思ってて。でも、小説は好きだし、書きたいです。取り柄と言えるようなものでもないんですけど、それしかないし……。ちゃんと話せば、お母さんも、先生も、わかってくれると思って……。〈そんなこと、今じゃなくてもできるでしょ?〉って、言われてしまったんですけど」

 そう言いながら、佐伯は、母親と話しているときのような息苦しさを感じていた。
 〈そんなこと、今じゃなくてもできるでしょ?〉。三者面談のとき、母親は、そう言って原稿用紙を床に払い落とした。必死に〈書きたい〉と伝えようとしていた佐伯は、呆然として、床に滑り落ちていく原稿用紙を見ていた。整えられた原稿用紙が、机のへりから滑り落ちて、床に散らばっていく。その光景が、今このときにも、佐伯のまなうらによみがえっていた。
 原稿用紙をかき集めたときに感じたのと同じみじめな気持ちで、佐伯は力なく微笑んだ。

「お母さん、きっとすごく驚いて、混乱してしまったと思うんです。僕がちゃんとしなくちゃいけないのに……。お父さんは帰ってくるのが遅いし、ひとりっ子なので、お母さんと一番長く一緒にいるのは、僕なんです。だから……」

 佐伯の語尾が、弱々しく消えていく。削られすぎた親指の爪のふちに、うっすらと血がにじんでいた。
 佐伯は、母親を傷つけたいわけでも、嫌っているわけでもなかった。それなのに、佐伯が小説を書き続けることが、彼女を傷つけることになる。母親も小説も、佐伯にとってはとても大切なものだった。どちらかを選ぶなんて、考えたこともなかった。

 庭の芝生が、みずみずしい風にそよぐ。佐伯は靴先で芝生をなでて、唇を噛みしめた。思いきり泣きたかったが、反面、泣きたくなかった。泣くことは母親を不安にさせることだと知っている佐伯の心が、泣くことを拒んでいた。
 ふと、静かに佐伯の告白を聞いていた嵯峨が、血のにじむ親指を守るようにして、佐伯の手に手を重ねる。嵯峨はあまり自分から他人に触れることのない人だったため、佐伯は少し驚いてしまった。

「佐伯少年。君はよう頑張った。頑張ったのやで」

 嵯峨は、確かめるようにそう言った。骨ばった、ひんやりとした手が、佐伯の生白い指を包み込む。嵯峨の言葉の意味を飲みこんだ佐伯は、こらえていた涙が、とうとう溢れ出すのを感じた。
 母親の前に原稿を差し出したとき、せめて、少しでいいから読んでほしいと佐伯は思っていた。言えずにいる心の欠片を、母親に見てほしかった。彼女の知っている姿が佐伯のすべてではないのだと、認めてほしかったのだ。そんなことを考えはじめると、さらに涙は止まらなくなった。嵯峨は怒りもせず、やさしく佐伯の手を握っていた。佐伯は嵯峨の頼りない手のひらにすがって、気の済むまで泣いた。
 それからしばらく、小宮がやってきて、あれこれと嵯峨の世話を焼きはじめると、佐伯には身の置き所がなくなった。帰り際、嵯峨は佐伯を呼び止めて、メモ用紙の切れ端に電話番号を書いて、佐伯に手渡した。話したいことができたら電話をかけろ、ということらしかった。佐伯には、その紙切れがお守りのように思えた。これから家に帰って母親とどんなやり取りをするのだとしても、この紙切れがあれば大丈夫な気がしたのだった。

――

 玄関から、乱暴に扉が閉められる音がした。佐伯はそれを聞きながら、心に穴が開いたような気持ちで、ゴミ箱を見下ろしていた。ゴミ箱には、三者面談のときに差し出した原稿と、まだ白紙の原稿用紙が雑に放り捨てられている。
 嵯峨宅から帰ってきた佐伯は、家で待っていた母親と顔を合わせた。疲れ切った様子の彼女は、泣きはらした佐伯の顔を見るなり、半狂乱になって飛んできて、佐伯を抱きしめた。そして、佐伯にとって受験を目前にしたこの時期がどれほど大切かを語りはじめたのだった。話を終え、夕飯の買い物に出て行った母親の背中を、佐伯は〈いってらっしゃい〉も言えずに見送った。今日の夕飯は、きっとエビフライになるだろうと思いながら。
 〈今はとても大事な時期なの。お願い、遊びならあとにしてちょうだい〉。佐伯のためにと放たれた言葉が、佐伯の中で、治りきっていない傷にしみこんでいく。佐伯にとっては、今がすべてだった。書きたいことは常に目の前にあって、紙の上に吐き出すことで心が楽になる。言いたくても言えなかったことの多くが、そうすることで、ようやく消化されていく。けれども、その感覚は母親には伝わらなかった。
 〈ごめんなさい。もう二度と、小説なんか書かないから〉。佐伯がそう言うと、母親はほっとしたようだった。佐伯は、自分の中の大切ななにかが崩れていくのを感じながらも、母親が笑っているのを見て、うれしく思った。
 母親の背中を見送ってずいぶん経ってから、佐伯はようやく、自分がなにを捨ててしまったのか、理解したのだった。佐伯は、かばんの中にあった原稿用紙の束を、埋まっているいないにかかわらず、すべてゴミ箱に投げ入れた。本当は燃やしてしまいたかったが、母親が燃えがらを見れば、佐伯がおかしくなったと思って泣くだろうと思ったのだった。

 ゴミ箱を見つめていた佐伯は、母親の前に出した原稿の中に、金魚の話が混じっていることに気がついた。佐伯は短い話の原稿用紙を拾い上げ、目を通す。意外なことに、そこにあったのは悲劇ではなかった。佐伯が作り上げた〈特別な〉金魚は、とても美しい姿をしていた。体に合わない水を捨てて逃れた末に死を迎える金魚は、とても勇ましく、儚く描かれていたのだった。佐伯は、あの金魚を思い浮かべたときの自分がなにを求めていたのか、やっとわかった気がした。

 ずっと、苦しかったのだ。体に合わない水の中で、人の中で泳いでいることが。けれども、息ができなくなるのはもっと恐ろしかった。金魚鉢から飛び出すことが死ぬことであると、佐伯の無意識は知っていた。
 だが、佐伯は出会ってしまった。あの青い庭、自分の体にぴったりの、居心地のいい水に。それからは、もともとの水に戻るたび、違和感を覚えるようになった。あの水で生きたいという気持ちが、心の端で芽生えはじめた。それは少しずつ枝葉を伸ばし、夏の陽を浴びて、佐伯の中にしっかりと根を張った。
 佐伯と嵯峨、二人の名もない関係は、ふとしたきっかけですぐに切れてしまいそうなほどささやかなもので、佐伯自身、それはよくわかっているつもりだった。二人を結んでいた小説という結び目がほどけていくのを感じながら、佐伯は息苦しさに水面を仰いだ。
 こんなとき、嵯峨ならなんと言うだろうか。大好きな小説を、小説〈なんか〉と貶めた佐伯を見て、どう思うだろうか。大切な心の一部をゴミ箱に捨てて、立ち尽くすことしかできない佐伯に、どう声をかけるだろうか。
 佐伯が訪ねて行かなければ、嵯峨に会うような場所に行かなければ、二人の付き合いはそれきりだ。もう二度とあの宅に行くことがないのなら、最後に、嵯峨に別れを告げなければならないと佐伯は思った。もう一度だけ、嵯峨の声を聞きたい気持ちもあった。佐伯のポケットには、帰り際に嵯峨からもらった紙切れが入っていた。電話はゴミ箱のすぐそばにある。

 〈さようなら、もう先生のところには行けません〉と、そのひと言を伝えるために、佐伯は電話の前に立った。ボタンを押す指が震えていた。なにを言うのも、なにを聞かれるのも怖かった。だが、嵯峨の静かな声で〈どうしたのや〉と言ってもらえたなら、すべてを話して楽になれる気もしていた。受話器を耳に寄せ、破裂しそうな心を抱いて、佐伯は待った。
 コール音。
 コール音。
 何度も繰り返す、コール音。
 佐伯は辛抱強く待った。そうしているうちに、話したいことはどんどんと膨らんでいった。嵯峨なら、佐伯自身が見捨ててしまった心の欠片を拾い上げて、〈大事に持っていなさい〉と言ってくれる気がした。それで佐伯は、ゴミ箱の中の原稿を拾い上げて、かばんに戻すのだ。そして、明日からも変わらず、あの宅に行くのだ。あの澄んだ水に……。

 ……コール音。

 佐伯は、そっと受話器を置いた。涙は出なかった。自分がもうあの庭に戻れないことを思い知っただけだった。
 濁った水面を再び仰いだ佐伯は、金魚鉢を飛び出したあの瞬間、金魚はなにを見ただろうかと考えた。そして、〈できることなら、あの庭の夢がいい〉と思った。

――

 思い出したすべてを記し終え、少年――佐伯は、ペンを置いた。
 埋められた原稿用紙の束は、もうずいぶんな厚みになっていた。というのも、最初の一枚を書き終え、その一枚が入っていた引き出しを開けてみると、次の一枚が佐伯を待っていたのだ。佐伯は戸惑ったが、ペンの先から勝手に流れ出ていく文字たちを書き綴り続けた。この部屋で目を覚ましてからはだいぶ時間が経ったようにも思われるが、佐伯の体には、空腹感もなければ睡魔も現れず、疲れもない。それがどういうことか、何もかも書き終えた佐伯にはわかっていた。
 最期のときの記憶は、水でぬれたようにぼやけている。シンクに横たわっていた包丁の白さと、首に感じた熱い不快感を覚えているきりだ。首筋に手をやると、耳の下からのどのあたりにかけて、ひと筋の厚いかさぶたが走っているのがわかった。触れた佐伯自身の肌からは、体温も、心拍も感じられなかった。
 佐伯は、〈お母さん〉と言ってみた。佐伯が最後に見たのは、傷ついた彼女の背中だった。母親は、血まみれの遺体に、どんな言葉をかけただろうか。佐伯は罪悪感を覚えると同時に、もう隠しごとをしなくていいのだと、心が楽になるのも感じていた。
 佐伯は、幅のある木箱のほうを見やった。今なら、それが何のために置かれているのかもわかる。妙に切なくなった佐伯が〈嵯峨先生〉とつぶやくと、何かが引っかかっていた引き出しの中で、かたりと音がした。取っ手を引いてみると、引き出しは簡単に開いた。中には、白い封筒がひとつ、横たわっていた。その裏面に嵯峨の名前を見つけた佐伯は、震える手で封を切り、収められていた数枚にわたる紙束――手紙を開く。

 佐伯が亡くなったことを小宮から知らされ、葬儀に参列しようとしたが、佐伯の母親に門前払いを食らったこと。この手紙を書いている今でも墓前に参ることができず、ただ墓地のベンチから佐伯の墓を見つめていること。そして、あの日、具合を悪くして病院に行っていたため、電話に出られなかったこと。感情を押し殺したような文面だったが、文字の端に残る液だまりが、嵯峨の思いを表していた。〈本当なら、二十歳になった少年へ〉――手紙は、そう締めくくられていた。
 佐伯は、ただ黙り込んでいた。嵯峨はどんな心持ちでこれを書いたのだろうか。佐伯にとっての嵯峨は、どこか遠くの世界にいる人だった。佐伯とは別の感性をもって、別のものを見つめている人だった。彼の考えていることなど想像しようと思ったこともなく、手紙の中にあるような嵯峨の姿も、佐伯は知らなかった。
 佐伯は、手紙を握って立ち上がった。あの青い庭に、静かな宅に、行かなければならないと思った。二人でいるうちは問わず問われずの関係が心地よかったはずなのに、今は、嵯峨に伝えなければならないことが、嵯峨に聞かなければならないことがたくさんあった。けれども、四方は壁に閉ざされている。佐伯はもうどこにも行けなかった。この狭い部屋だけが、彼に残されたすべてだった。〈嵯峨先生〉と、佐伯はもう一度、宙に呼びかけた。返事はなかった。

 佐伯は手紙を手に、幅広の木箱に歩み寄り、そのふたをずらす。すると、空だと思っていた木箱の中から、黒猫が顔を出した。猫は木箱から飛び出すと、畳の上に何かを吐き出した。死んだ金魚だった。佐伯は、〈そうか〉と、かすれた声でつぶやいた。
 佐伯は金魚の話を書いた。彼自身もよく知らない金魚の話を、とびきり美しく書いた。それが、佐伯の中にあった〈金魚〉の墓になった。佐伯は原稿用紙の束を見下ろした。そこにあったのは、他の誰にもわからなかった、彼の心の墓だった。心に姿があったなら、誰かが佐伯の心の墓を作ったかもしれない。だが、佐伯の心は、体の死とともに消えてしまった。だから佐伯はこうして、誰かに届くこともない墓標を立てた。自分の心を葬るために。くすぶっていた思いが、すっかり燃えがらになるのを見届けるために。
 これが終われば、きっと、今ここにいる佐伯は消えてなくなる。佐伯の心は、猫に持ち去られた金魚のように、行方もしれないところに流れていく。あるいは、どこかでとどまるのかもしれない。それすらも佐伯にはわからず、どうすることもできそうになかった。

 佐伯は、死んだ金魚を拾い上げた。そして、木箱のふたをずらすと、手紙と金魚を胸に抱いて、その中に身をすべらせた。ふと、猫が木箱のふちに前足をかけて、木箱の中を覗きこんでくる。その姿は、ちょうど、金魚鉢を引き倒したときのそれに似ていた。
 〈見送りに来てくれたんだね。それとも、僕を食べに?〉。佐伯がそう言うと、猫はおもしろがるようにひと声鳴いてから、棺のふちから前足を離し、見えなくなった。佐伯は、くすくすと笑いながら、棺のふたを引き上げる。ふたは、案外軽かった。
 佐伯は最後に、〈そうです〉とつぶやいた。部屋を揺らしていた鼓動が、少しずつ弱まっていくのが感じられた。
 棺の中には暗闇があった。ただはてしない暗闇があった。
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