残夏

ハシバ柾

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星を辿るひと

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※英語版はこちら:http://selftaughtjapanese.com/japanese-fiction-translation-final-days-of-summer-by-masaki-hashiba-table-of-contents/(Locksleyu様)

――

 ――見上げた空の向こう、宇宙の果てを目指せば、いつかは海底に辿りつくだろう。
 “世界の果て”と呼ばれるそれの正体は、この世界を覆う海だ。この地球に生きる全ての生命はいずれ身体を捨て、魂となり、かの海へと還っていく。
 美しく輝く鱗とひれを手に入れた彼らの姿は、遠く地上からでも垣間見ることができる。遥か波間をかき分けて輝く星の一つ一つが、彼らの魚影なのだ。

 そして今また、地上から放たれた一つの魂が、戸惑いながらも海の底を目指していた。その姿は今にも溶け出しそうに霞んでいるものの、それでも確かにイルカの形をしている。
 真っ暗な水に閉ざされた世界の中、彼――とここでは呼んでおく――は何度かクリックスを発したが、応答はない。底はまだ遠いのか、そもそも底など存在しないのか……どちらにせよ、闇は深かった。
 微睡み以上の休息を知らなかった体が、溶けるような感覚に包まれていく。あるいは、これが眠りというものなのかもしれない……そう思った彼は泳ぐのをやめ、水が命じるままに沈みだした。眠りは彼を優しく包み込み、その身体をさらなる深みへと引きずり込んでいく。
 ここがどこなのか、自分が今どうしてここにいるのか、なぜ海底を目指すのか。何ひとつ分からないというのに、答えを求めようとしても、思考はすぐに根から溶けだしてしまう。何かがおかしいと気がついていながら、何もわからずただ沈んでいくこの状態が、なぜだか何より心地良く思える。
 ――このまま、どこへ向かっていくのだろう。海底には何があるのだろう。

《おかえり、愛しい子。ゆっくりおやすみ》

 かすかな問いに応じたその“声”が、彼には妙に懐かしく感じられた。彼の脳裏を、月の光が水面を柔らかく照らし出す情景がよぎる。
 その輝きが、眠りかけていた意識を覚醒させた。

 ――私は、水面の向こうに空があることを知っている。そこに月が宿ることを知っている。騒音に満ちた、さざ波立つ世界を覚えている。私が……そう、私がこれまで“生きていた”ことも。かつてひとりの人間と交わした、二つの約束のことも。

 彼の尾びれが、沈んでたまるかとばかりに強かに水を蹴った。暗く静かだった世界が音をたてて揺らぐ。危うく溶かされようとしていた“個”が記憶を得て輪郭を取り戻していく中、彼は突き動かされるままに身をよじり、ひたすらに抗った。
 海の底で待つだろう安らかな眠りに、さらには、自らが死したのだという事実にさえ。

 ――ナオユキ。君は、私が語った真理を信じた、たった一人の人間だった。君自身の“また来年、会おう”という言葉を、私の“待っているよ”という答えを、君はもう忘れてしまっただろう。けれど、私はちゃんと覚えている。もう何度も繰り返したこのやりとりは、私にとって、どんな美しい貝よりも大切な宝物だったのだから。

……

 昼も夜もない海の底。ざらついた砂原が白い光を放ち、辺りを薄らに照らし出している。何もかもが寝静まった真夜中のような静けさの中に、七色の光がぼんやりと浮かび上がった。かと思えば、その光は大きくたわんで水を蹴り、水の間を抜けては軌跡を連ねていくではないか。
 ぶわりと舞い上がった砂をかき分けてようやく姿を露わにしたそれは、どうやら鯨であるようだった。それも、体の隅から隅までを眩い光に包まれた、大きな鯨だ。
 鯨は尾びれで水を打っては巨体を器用にひねり、海底の砂と、時には通りがかった魚影と戯れる。遊んでいるようだが、楽しんでいる、というよりは暇つぶしに近いのだろう、その顔はあくまで浮かなかった。
 そんな鯨の視界の端で、ふと何かが動く。自身の眩しさのせいで危うく見過ごしてしまいそうな鯨だったが、あわてて目をしばたたき、その何かの影を追った。
 ――他の、どれも似たような姿をした魂たちとは違う。はっきりとそれ自身の形を持った、めずらしい魂だ。あの形は見たことがある……イルカ、そう、イルカってやつだ。しかも、何やら考え込んでいる様子からすると、多分、まだ自我を持っているに違いない。

 生前の姿を保ったまま海底まで下りてくる魂はそう多くない。その中でも記憶を持ち、自我を保っている者がどれほど少ないことか。数十万年をここで過ごしているこの鯨でも、そういった魂に出会ったのは数えられるほどだった。とはいえ、魂全てが等しく身を休められる、世界の胎盤ともいうべき海底において、数字なんてものは何の意味も持たないのだが。
 鯨は彼に興味をひかれ、その身をちかちかと瞬かせた。

『そこの誰かさん。誰だっていいけど、ぼくの話相手になっておくれよ。ねえねえ誰かさん。どうして黙っているんだい』

 鯨がどんなに声をかけ、身体を光らせても、イルカはぼうっとどこかを見つめているばかり。鯨はむっとして、くるくるとイルカの周りを泳ぎ回りはじめた。
 鯨自身と同じように会話のできる相手が現れるのは、良くても三千年に一度のことだ。ここはどんな魂も受け入れる不変の楽園ではあったが、己を知る魂からすれば、退屈であるばかりだった。何千年越しでようやく現れた話し相手なのだから、中身がどうであろうと、あっさり諦めるわけにはいかない。

『そんなんじゃあ素敵な貝にはなれないよ。かあさまはみんなに優しくっても、しっかり順番をつけているんだからね。美しい貝になりたかったら、ぼくとお話するんだ。いいかい、誰かさん』

 鯨はそう言って、黙りこんだままのイルカをひと睨みした。
 一度海底にやってきた魂たちはそのうち、生前の行いに応じて順序をつけられ、地上の暦で一年に一度、流星群の日になれば地上へと帰っていく。生きているうちに善い行いをした者は美しい貝に、そうでないものは醜い貝になって、その身がすり減り果てるまで地上を漂うのだ。
 貝としての第二の生を迎える上で、美しい姿を手にいれることは、全ての魂にとって最高の栄誉だった。
 それなのに、目の前のイルカは、鯨のこの言葉にも何の反応も返さない。美しい貝になりたくない魂なんているはずがないだろうに、どうも反応が薄いのだ。
 どこか上の空のイルカにも、鯨はめげずに声をかけ続ける。

『もしかして、地上に未練があるのかい? 大丈夫、すぐに帰れるさ。だから、ちょっとだけぼくと話してよ。そうすれば、美しい貝になれる方法を教えてあげる。とびっきり、誰よりもきれいな貝にして地上に帰してあげるよ。本当だよ』

 ――ねえ、ぼくと話そうよ。素敵な貝になりたいだろ? 素敵な貝になって地上に帰りたいだろ? 普通なら何百年もかかるところだけど、特別に何十年かで帰してあげるから、ねえってば。
 鯨はイルカの周囲を鬱陶しく泳ぎ回り、どうにかイルカの口から言葉を引き出そうとした。
 そうしてしばらく、イルカがふと口を開く。しかし、彼の口からこぼれた言葉は、鯨が期待していたものではなかった。

『……何十年。それじゃ、遅すぎる。帰らなくちゃいけないんだ。今すぐにでも』

 イルカのその言葉に、鯨は不機嫌そうに海底の砂に腹をこすりつけた。長い退屈を越えて、やっと現れた客人だというのに、気のないそぶりをされてはたまらない。

『ダメだよ。そんなのつまらないじゃないか。どうせすぐには帰れないんだから、ぼくとお話ししていようよ。いくら焦っても、今すぐ帰ることなんてできないんだよ』

 鯨がそう言うと、イルカは再び黙り込んでしまった。何か考え込んでいるのかもしれない。そして、やはり口を開かないまま、鯨に尾びれを向けて泳ぎ去ろうとする。
 鯨はとうとう腹を立てて、イルカの邪魔をするように、彼の目の前にすべりこんだ。

『あのねえ、意地悪言ってるんじゃないんだ。きみはねえ、死んじゃったんだよ。自分でももう分かってるんだろ? 死んじゃった魂がそのまま地上に帰るのはルール違反なの、分かる? 皆、ちゃんと手続きを踏んで、この場所で魂を洗って、長い時間を経てようやく貝になれるんだ』

 ――ぼくやきみのように、自我を保ったままの魂もめずらしいんだけどね。きみにも、この先ちょっと長めの退屈が待ってるんだからさ、一緒におしゃべりでもしてしのごうよ。ぼくの話相手がきみしかいないように、きみと話せる相手だってぼくくらいしかいないんだからさ。
 軽薄な調子ではあるものの、鯨の言葉に嘘偽りはなかった。口が急いているのは、イルカが本当に相手にしてくれないのではと思いはじめているからだろう。
 鯨の必死さに気がついたのか、イルカはこの時になって初めて鯨の姿をまっすぐに見た。
 ここにいるどの魚よりも強く輝く表皮に、ときおりくるりと光を泳がせる真っ黒な眼。ひげの隙間からこぼれる色とりどりの光が、周囲をぼんやりと照らし出している。なるほど、地上からでもあれほどはっきりと見えた鯨の姿は、近くで見るとさらに眩く、美しかった。

『君――鯨の星は、地上から見ると、すごく輝いて見えた。けれど、あまりに遠すぎて……こうしてここにやってこなければ、君がそんな風に鮮やかに光ることにも気づかなかっただろう』

 イルカの意図を計りかねた鯨が、不思議そうに目をしばたたく。

『どういうことだい? つまりきみは、ぼくとおしゃべりをするのかい?』

 イルカは鯨の言葉にはあえて答えずに、そのわきをすり抜け、すいと泳ぎだした。そして、不安そうにまなこの輝きを曇らせた鯨に向け、手招きをするように尾びれを軽く振ってみせる。
 それを見た鯨は喜びに大きく水を吸い込み、すぐさまイルカの隣へと泳いでいった。

……

 カラフルなサンゴやイソギンチャクの合間を縫って、銀のウロコを持つ小さな魚――再び地上に帰るのを待つ魂たちが、ゆったりと泳いでいる。彼らが少し動くたびに、白い光が砂地を照らし出しては揺らめいた。
 魚たちそれぞれが持つ光の強さは様々だが、それらは心地良く混ざり合い、海の底を浅瀬のように明るく見せていた。寒く暗いはずの深海には生息しないはずのサンゴの存在にも違和感を覚えないほどだ。もっとも、地上の法則なんてものはここでは通用しないのかもしれないが。
 鯨の傍らから深海を眺めていたイルカは、小さくクリックスを発した。しかし、やはり応えはない。ここでは、目に見えるものでも、実際にそこに存在しているとはいえないらしい。

『落ち着かないかい。ううん、最初はそういうものだよ。すぐに慣れるさ。ここは素敵な場所だろ? ちょっと、退屈ではあるけど、それも二人でいれば大丈夫……あっ、いけないよ! ここで寝ちゃダメだ、二度と自分を思い出せなくなるよ』

 ぼんやりとした眼差しで魚の群れを眺めていたイルカは、あわてて尾びれで水を蹴った。
 気を抜くとすぐに意識をさらわれそうになってしまう。ここにやってきたときと同じ、眠るような感覚に襲われるのだ。

『それも、仕方のないことなんだ。ぼくやあの魚たち、そしてきみの身体に宿っている光はね、全部かあさまのものなんだ。どんな奴でも、この柔らかくて優しい光を見ているだけで、いい気持ちになって眠ってしまうのさ』

 鯨は困ったようにそう言うと、にっと笑ってみせた。その口から七色の光がこぼれる。

『きみも、ここにくるまでにかあさまの声をきいたろ。かあさまは、ぼくたちよりももっと深い場所で、ぼくたちも地上もみいんな同じように見守ってくれているんだ』

 ――どんな罪深い命だって、かあさまは拒んだりしないよ。すべての命のお母さんなんだからね。

『だからって、人間まで受け入れるのは好くないなあ。人間なんて、悪い奴ばっかりだっていうのに。聞いたことあるかい、人間は昔、かあさまを捕まえようとしたことだってあるんだよ。それでもかあさまは人間を赦したのさ』

 誇らしげな鯨の横顔に、イルカは思わず動きを止めた。鯨の言葉が、自分とナオユキとのことを揶揄したものではないかと警戒してしまったのだ。
 一方のおしゃべり鯨は自分たちの母を讃えたいだけだったらしく、イルカが尾びれを止めたことにも気づくことなく、銀の魚影の隙間を抜けて悠々と泳いでいく。
 人間を好いていないらしいあの鯨の前で、“人間との約束を果たすために地上に帰りたい”などと口にしたら、一体どんな反応が返ってくるだろうか。少なくとも、喜ばれることはないだろう。手を貸してもらえるとも思えない。それならばいっそ、あえて詳しいことは伝えずに、鯨の退屈しのぎに付き合ってやった方が良さそうだ。

『ここにいる限り、どんな不安を抱えることもないし、どんな誘惑に悩まされることもない。この場所にいる者はみんな、最初からかあさまの光で心が満たされているからね。……あっ、きみは地上に帰りたいんだっけか』

 それまで勝手にしゃべり続けていた鯨が、何か思い出したようにイルカの方を振り返った。鯨は品定めでもするかのごとくイルカをじいっと見つめ、目を細める。

『ふうん、地上にねえ……そうだ、考えてごらんよ。本当にきみは地上に帰りたいのかい? おかしな意地を張っているのでも、なにかに、じゃなけりゃ誰かに縛られているのでもなくて? だとしたら、かわいそうな話だよね』

 生きていた時の記憶を捨てきれていない一部の者において、その思い出に縛られ、月の懐に身をゆだねることができないということが度々ある。生の荒波を越えて、ようやく来たるべき場所へ還ってきたというのに、その安息を享受できないというのは、傍から見れば悲劇と言うほかない。
 空の果ての底に閉じ込められた楽園で、ただ一つ地上に焦がれてやまなかった魂は、この時になってはじめて自らに問いかけた。
 ――死してなお、生への未練にとりつかれている私は、はたして不幸なのだろうか?

『あっ、見てごらんよ。ほうら、あれが人間だよ』

 行く手を指し示した鯨が、嬉々として声を上げる。
 そこにいたのは、イルカが見てきた中で最も小さな魚影の集まりだった。集まって身を寄せ合い、弱々しい光をどうにか補い合おうとしているが、その姿さえ、他の魂や鯨の輝きを前にすれば霞んで消えてしまいそうだ。
 ――あいつらはね、皆一様に、くすんで端の欠けた小さな貝になるのさ。
 鯨はくすくすと笑いながら、その魚の群れに向けてふうっと息を吹きかける。小さな魚たちはたちまち押し流され、周囲に散らばってしまった。

『きみも知っているだろうけどね、彼らは、自分たちがまるで世界の王様みたいに振舞うのが得意なんだ。自分たちの知らないものは存在しないものだなんて平気で言えちゃうんだもの、本当に馬鹿なのさ』

 イルカは“人間だったもの”たちがいそいそと群れを形成し直すのを見やりつつ、鯨の言葉をゆっくりと咀嚼した。
 人間は目に見えないものを恐れる生き物だときいたことがある。また、その手で触れられないものもまた、信じようとしないのだと。そんな彼らにとって、空の果てには海があるなどという途方もない話は、とても信じられるようなものではなかったはずだ。それがもし真理であっても、見えなければ、触れられなければ、ないのと変わらない――人間のそういった考えを、他の多くの生き物は傲慢だと言った。
 ただ、その真理を古くから語り継いできたイルカという生き物だけは、少し変わっていた。聡い彼らは、度々人間のような姿かたちをとっては浜に上がり、現れた人間に真理を語って聞かせた。当然、多くの人間は彼らをほら吹き扱いし、耳を傾けようとはしなかった。それでもイルカたちは語ることをやめなかった。
 世界の果てが海の底であること、死した魂たちの輝きが星であること、そしてその星たちがやがて、貝になって地上に還ってくること。悲しいほど傲慢な生き物に対する哀れみか、それとも、自分たちと似通った所を感じたのか――その理由は分からないにしても、海底を知る語り部たちは、人間の傍らで真実を語り続けてきたのだ。
 だからこそ、知っている。人間が、一つの種として語るのが難しいほどに多様な生き物であることを。真理に耳を傾け、並んで空を見上げようとする人間も存在することを。イルカはたまらなくなり、地上からは見えそうにない弱々しい輝きの群れをただただ目で追った。
 隣からイルカの横顔を覗き込んだ鯨が、驚いたように声を上げる。

『なんだい、その顔? もしかして、あれがかわいそうだと思うのかい。ちょっと待っておくれよ、あれは人間だよ。どうして人間なんかを慈しむのさ。ねえねえ誰かさん、きみはどこかおかしいよ、変だよ』

 鯨の心配そうな声も、もはやイルカの内には届かない。彼の脳裏に広がるのは、かつて一人の人間と共に見上げた星空だけだった。イルカは焦がれるように遠い水面を仰ぎ、目を閉じる。

『地上に帰りたいなんて、変わっていると思っていたけれど……さては、人間にたぶらかされたね?』

 そう言った鯨の声色は、これまでと打って変わってひどく冷たかった。鯨は、射抜くような視線まなざしでイルカを――いいや、イルカの心を蝕む“何か”を見据える。

『誰かさん、それは愚かだ。きみたちと違って、彼らの口は真実を語らない。もしきみを縛るものが彼らの言葉なら、やっぱりきみは間違っているよ!』

 ――ひどいやつらだ。尊い語り部であるきみの魂まで、かあさまから引き離そうとするなんて!
 鯨は声を荒げ、泣き出しそうな顔でイルカを諭した。海底にきてなお地上への未練に縛られ、しかもその原因が罪深き人間ときた。これほどの悲劇があってなるものか、と。

『忘れなよ、人間のことなんて。忘れさえすれば、ここで安らかに魂を癒せる。そうしてそのうち美しい貝になるんだ。素晴らしいことじゃないか! ねえ、誰かさんさあ!』

 鯨の尾びれがいらだたしげに海底を打ち、辺りに砂を舞わせる。鯨のその姿に、イルカはこの場所――世界の果ての理を垣間見た。
 この場所は穏やかで、誰もかもを受け入れる。だがそれも、自己の消滅という前提と、生前の行い、あるいは種による区別という法則のもとに成り立っているのだ。自己を持たない誰もにとって決して逆らえない確固たる規則が、この場所の静寂を支えている。
 そして、それを可能にしているものこそ……

『いいかい、誰かさん。きみがどうあがこうと、きみはかあさまの子なんだよ。ここに来た以上、赦されなければならないんだよ』

 この場所の全てに癒しと光を与える主――月。
 海の底を漂う幸せな魂の多くは、現在の安息とひきかえに何かを失ったことにすら気づかないまま、盲目的に彼女を母と慕っているのだろう。だが、イルカには分かった。月が母と称される、本当の所以が。

かあさまは、何をしでかした者にも、反対に何にもしなかった者にも、分け隔てなく光をくれる。優しく包み込んでくれる。だのにきみは、何が気に食わないっていうんだい?』

『……そこまで言うのなら、聞かせてほしい。君は何を失くした? その分け隔てない優しさを得るために、何を失った?』

 唐突なイルカの問いに、鯨は黙り込んでしまった。そして探るような目でイルカを見つめて少しの後、とうとう諦めたようにこう答えた。

『……何も失くしてなんていないさ』

『それなら、きき方を変えよう。君は今、本当に幸せかい。明日も明後日も……明確な時の流れがないなら“これから”も、変わらずこうであればいいと、心から思えるかい』

『何を。そんなのは当たり前じゃないか。だってここは……』

 鯨の言葉が途切れた。鯨はきょろきょろと辺りを見回し、再びイルカの方を見やる。その面持ちは、ひどく不安げだった。周囲を包み込む月の気配に、心地良いはずのその匂いに、周囲の水が急に冷えたような感覚を覚えたのだ。
 イルカは、怯える鯨をまっすぐに見据え、こう問いかけた。

『“かのじょ”は――』

……

 海底からさらに高く、深くへと続く洞窟を、二つの影が往く。先を行く小さな影――イルカが尾で水を打つたび、それに続く大きな影――鯨はそわそわと落ち着かない様子で何度も後ろを振り返った。そうしてしばらく控えめに身体を点滅させていた鯨が、とうとう、小声でイルカにこう問いかける。

『ほ、本当にいいのかい、誰かさん。今ならまだかあさまのもとに戻れるんだよ。ねえ、戻ろうよ。こんなことしたら、何が起きるか分からないよ。今地上におりてしまえば、きみはもう二度とここに戻ってこられないかもしれない。そうなったら――』

 ――向こうで身体を失って後、生きているでも死んでいるでもなくなってしまうよ。
 鯨の言葉を聞いているのかいないのか、イルカは、鯨の方を振り返ることも、また返事をすることもしなかった。そのかたくなな態度そのものが、彼の決意の固さを示唆しているようだった。
 一方、鯨の口数も、これまでに比べてはるかに少なくなっていた。イルカが頑として無言を決めこむためでもあったが、それ以上に、鯨自身の迷いのために。

 ――“かのじょ”は、母か、女王か。

 イルカに与えられた問いは、答えを得ないまま、これまで平穏を保ち続けてきた鯨の心内をかき乱し続けていた。
 愛されているのか。それとも、酔わされ支配されているのか。イルカにああして問われなければ気がつくこともなかったであろう疑念が、今や鯨の心をすっかり占めてしまっている。一人きりで過ごしてきた永い退屈の存在も、その疑いを苦しいほどに膨らませた。
 それだけではない。鯨は、イルカと言葉を交わして、自分が耐えかねた“退屈”の正体に気づきかけていたのだ。イルカを地上に帰したくなかった本当の理由にも……

『ねえ、誰かさん――』

 鯨が遠慮がちに口を開きかけたとき。イルカが尾を動かすのをやめ、くるりと身をひねった。彼の視線の先では、洞窟の終わりに沿って丸く切り抜かれた光が鎮座している。海底を真上からくりぬいた大穴と、これまで抜けてきた洞窟が合流したらしい。
 大穴の底に眠る月は眩いばかりの光を放っているが、それらは洞窟の出口に当たって欠けてしまって、イルカと鯨が潜む暗闇を暴くには及ばない。
 月の光から逃れようと身を潜めていたのは、二頭だけではなかった。自らと同じく逃げ延びた誰かを待つように、洞窟の出口をふさぐほど大きなサンゴが、陰に枝を伸ばしていたのだ。
 そのサンゴの白い体は、海底の他のサンゴとは違って、この場所においてただ一つ、本当に“死んでいる”かのように見えた。骨と見紛う腕の先には、何十、何百ものほおずきが垂れ下がっている。陽を思わせる金色のもの、抜ける天の青色のもの、波の白のもの。ぴかぴかと光るものもあれば、煙と見間違う弱い光を吐くものもある。シジミほどの大きさのものから、オオジャコガイほどの大きさのものまで、どれひとつとして同じものはない。
 イルカが確かめるように鯨の方を振り返ると、鯨は七色の光をこぼしながらこう言った。

『うん、やっぱりここだよ。間違いないよ』

 鯨は、たくさんの魂たちが海底に現れては地上に還っていくところを見てきた。その中で見つけた、“魂が地上へと還っていく兆候”――それが、この洞窟だった。
 この洞窟に消えて行った魚影は、どれひとつとして海底には戻ってこなかった。となれば、地上へとつながる何かがここにあってもおかしくはない。いいや、あるはずなのだ。魂を貝へと変える、“何か”が。
 鯨の口からそれを聞くや、イルカはすぐにそこへ連れていってくれと言いだした。
 イルカのことを思えば、そしてこの場所のルールからすれば、許されない話だ。鯨自身にもそれはよく分かっていたはずだが、鯨はイルカをさして咎めることもせず、あろうことか、洞窟の入り口へとイルカを導いてしまった。そして気がつけば、何が己を突き動かすのかも理解できないままに――あるいはその答えを求めて――イルカと共に洞窟へと飛び込んでいた。
 イルカを止めるどころか、自分でもわけがわからないままに、彼の背を追ってここまで来てしまった。それなのに、この海の底においても、全ての魂においても、到底認められるはずのないことを……イルカの手助けをしようとしている自分が愚かだとは、どうにも思えなかったのだ。

 ほおずきたちは、イルカを誘うように瞬いている。あるものは強く光を放って、またある者は色とりどりにその身を躍らせて、“私を選んで”と言わんばかりに華々しく。
 ――あの輝きに触れられたら、どれだけ素敵だろう!
 鯨はわくわくして、どれもかじってみたくなった。だが、イルカは微動だにしない。その目には美しいほおずきなど映ってはいなかった。彼の視線は、サンゴの足元ばかりを見つめている。
 妙に思った鯨がイルカの視線を追うと、その先には……だあれも気づかないような、紫色のほおずきが寂しげに垂れていた。

『誰かさんってば、正気かい。こんなにきれいなほおずきがたくさんあるのに、こんなものを選ぶなんて。どうかしているよ』

 小さなほおずきは、イルカの視線に気がつくと、精一杯に体を震わせる。
 強い光も、綺麗な色も持たないのに、必死になって瞬こうとするほおずきを見ているうち、イルカの中の期待が確信へと変わった。
 イルカがくちばしでそっとつつくと、ほおずきはぱちんと弾け、辺りに紫色がぱっと広がる。その匂いを嗅いだ鯨が、ぎょっとして後ずさった。

『臭い。臭いよ。やめておくれよ。生の臭いがするよ』

 深き海の青に包まれた生命の色――拙い紫色からは、生きとし生きる誰もが知っている、懐かしい匂いがした。出会えば心臓が跳ねるような、生臭い血の匂いが。
 それに混じって、破れたほおずきから何か、小さなものが転がり落ちる。砂地に転げ落ちたそれは、どうやら貝であるようだった。
 小さくて分厚く、くすんだ灰色の、目立たない貝を見たイルカの脳裏を、流星が駆ける。

『……少し、昔話を聞いてくれないか』

 イルカのその言葉は、ひとりごとにも聞こえた。鯨ではなく、自身に向けてのものだったのかもしれない。
 鯨が目をしばたたいたのを見たのかどうか。ともかく、イルカはゆっくりと語りだした。

『私がまだ生きていたころの話だ。私たちは、一年に一度の流星群を待つために、七日前から浅瀬に集っていた』

 流星群の日――貝へと姿を変えた魂たちが地上に降り注ぐその日を、イルカたちは毎年待ちわびていた。彼らは降ってきた内で最も美しい貝を持ち帰り、その一年の宝物とするのだ。
 他の者には理解しがたいかもしれないが、信心深い彼らにとって、習わしというものは何より大事なものだ。浜の近くにはイルカを狩る人間も暮らしていたが、その危険を押して、毎年彼らは浅瀬で星を待った。
 そんな彼らの、とある年。美しい貝を選ぶ者として浜に上がった一頭の未熟なイルカが、人間の少年に見つかってしまったのだ。
 人間の少年は、浜に上がるために人の姿をとっていたそのイルカを人間だと思い込み、話しかけてきた。その時、未熟なイルカはまだ人間の恐ろしさを知らなかったから、人間を恐れもせずに受け入れた。
 そうして人間の少年と未熟なイルカは、共に流星群を待つことになった。

『二人で星を待ち続けて、とうとう、流星群の日になった。たくさんの貝が降り注ぐのを見たときの彼の嬉しそうな顔といったら……』

 イルカは焦がれるように宙を見つめ、ため息をこぼす。語るごと、思い出がそこに広がっていくかのように。
 流星群のその日。星に魅了されていたイルカたちを、人間の船が取り囲んだ。警戒心の強いイルカたちが年に一度浅瀬に集まることに気がついた人間たちが、この日を狙っていたのだ。イルカたちはあわてて逃げ出そうとしたが、もう遅かった。
 浅瀬から浜へと追い込まれ、もはや逃げられまいと諦めかけたとき――

『人間の少年が大声で叫んで、近くの岩場から海に飛び込んだんだ。船を操る人間たちが少年に気をとられている間に、私たちは逃げることができた。私たちを脅かしたのも人間だったけれど、私たちを救ってくれたのもまた、人間だった』

『人間が、きみたちを助けた? あの傲慢で残虐な生き物が?』

 ここまで黙ってイルカの話を聞いていた鯨だったが、あまりの驚きに、思わず声を上げた。
 多くの生き物が人間に抱く感情も、人間自身の在り方も、そう簡単には変えようがないものだ。なればこそ、語り部は真実を紡がなくてはならない。イルカの言葉にもやはり、嘘偽りはなかった。 

『……それから何年かたって、再び彼は浜にやってきた』

 語り部であるイルカにまつわる全てを、人間は長く覚えていられない。すっかり大人になったあの日の少年もやはり、何一つ覚えてはいなかった。未熟なイルカのことも、流星群のことも。
 だというのに彼は、なにかに導かれるように、再び……“未熟だった”イルカと、星を見上げたのだ。それも、一度ではない。彼は何度でもイルカのことを忘れ、また何度でも浜にやってきた。

『大人になった彼は、何もかも忘れてしまうと分かっていながら、いつだって“また来年、会おう”と言ってくれたよ。そして私はいつも、“待っているよ”と、そう、答えるんだ』

 イルカの物寂しげな横顔に、その瞳に、強い意志の輝きが宿る。

『待っていると、君が何度忘れようと、私が絶対に覚えていると……それが、私が彼と交わした約束。この約束を守り通すことだけが、私を、私たちを救ってくれた彼に報いる、唯一の手段なんだ』

 かの人間はイルカたちのために、水の中では生きられない人間の体を省みもせず、海に身を投げた。イルカの語る真理を信じ、イルカと共に星を待った。再会の約束を交わした。
 鯨は呆然としてイルカの話を聞いていたが、その真意を飲み込むや、何とも言えない表情を浮かべた。

『……ここから出られても、君がイルカの姿に返れる可能性はすごく低いと思うよ。元いた場所に戻れるかどうかだって分からない。そもそも、生き物にすらなれずに、魂のまんまさまようことになるかもしれない』

『難しいことは分かっているよ。失敗すれば、もう何者にもなれないだろうことも』

『それなら、どうしてさ!』 

 せっかく自己を保ったまま海の底に来られたのに、どうしてそれが失われるかもわからない危険な道を歩もうとするのか。イルカの言う約束が叶えられる可能性さえ、限りなく低いというのに。
 地上に戻れたとしても、そこには生の混沌が待っている。再び生ける者としてそこに降り立つならば、生きていた時と同じように、ただ一つの生命として運命と戦わなくてはならないのだ。一度海底の安息を知った者ゆえに、その苦痛は想像を絶するだろう。
 イルカは、砂の上に転がった地味な貝を静かに見下ろした。
 ――元の姿を得ることも、生き物に返ることも、彼と再び会うことも。どれも、きっと奇跡のような確率でしか成しえないことだろう。不可能といってもいいかもしれない。それに、この海の底にいれば、月の加護のもとにいれば、思い悩むことも、苦しむことも、不安を抱えることだってないだろう。けれど。

『――私は、彼と共に迷いたい。互いに互いが見えないあの世界で、互いが特別であれないあの世界で、迷いながら、それでも互いを信じながら生きていきたい。その可能性がほんのわずかでもあるのなら、私はそれに賭けてみたいんだ』

 イルカの声には、少しの不安の色もみられなかった。自らの望みに与えられたわずかな希望のみを、彼は心から信じていたから。
 イルカによく似た灰色の貝――それはまさしく、かの人間が最も美しいと選び、イルカに渡したものだった。この多くのほおずきの中で、この貝を抱いた小さなほおずきを見つけられたこと。根拠というには心もとないが、それだけでも、奇跡を信じて良いのではないだろうか?
 失敗したならそこまでだ。だから今はただ、最善の結末だけを見据えていたかった。

『……どうあっても、きみはここから出ていってしまうんだね』

 鯨がぼそりとつぶやく。だがその声色は、イルカを咎めているそれではなかった。鯨の口元から、七色の光が弱々しくこぼれる。

『きみが自分を失わないままここに来られたのは、たぶん、きみがそう強く願ったからなんだね。今のきみならもう、かあさまに囚われることもないはずだよ。なんて、こんなことを言ったらきみは、すぐにでもこの深い海を抜け出して、痛みと苦しみの絶えない地上へと帰ろうとするんだろうね』

 鯨が吐き出した虹の粒は、辺りに広がることなく、重たげに地面に垂れ落ちていく。鯨は、イルカと出会ってはじめて彼を直視することができなくなり、視線を砂地に落とした。
 鯨には、もう分かっていたのだ。月を疑いながらもイルカをこの海の底にとどめておきたかったのは、イルカ自身のためなどではなく……一人取り残されるのが嫌だったからなのだと。

『ぼくはきみと出会って、はじめて自分の退屈の正体に気がついたよ。ぼくは、ずっと“寂しかった”みたいなんだ』

 自我を持つ魂が負うには長すぎる時間を過ごすうちに感じてきたいたたまれなさ、それに焦り。鯨はそれに退屈と名をつけて、忌み嫌ってきた。
 けれども、イルカと共に過ごす間に感じた、退屈しのぎというにはあまりに温かい気持ちが、鯨に教えたのだ。君が怯えていたのは退屈などではないよ、と。
 気がついてしまえばあまりにも拙く、浅ましい理屈だ。鯨にはもう、イルカを咎めることなどできそうになかった。他の誰でもない自身のために、ここにいて、一人にしないでなどと、言えるはずがない。そうでなくとも、イルカの瞳はいつだってどこか遠くを見ていたのだから。

『……もし、もしだよ。きみがまたいつか、地上での生を終えてここを目指すことがあったなら、その最中で暗闇に迷い込んだなら、ぼくがその道を明るく照らしてきみを導くよ。だから――』

 ――もう一度ここにやってきたそのときには、必ずぼくに会いにきて。
 そう言った鯨の面持ちは、どこか清々しく見えた。
 疑念をもって母の手を離れても、鯨は、これからもこの海の底をひとりきりで漂い続ける。海底にくまなく降り注ぐ月の光も、今の鯨にとっては息苦しいだけだ。戻ってくるかも分からない友をいつまで待ち続けることになるか、それもまた分からない。
 ――でも、ぼくは誰かさんを止めないよ。だって……いつかまた会えるもの。そう信じているもの。

『いいかい誰かさん。……“待っているからね”』

 鯨のその言葉は、イルカを地上につなぎとめんとする約束そのものだった。
 あえてかの約束になぞらえて鯨がそう言った理由も、鯨の思いも、かつて同じ言葉を口にしたイルカには伝わっていた。
 それならば、余計な言葉は必要ない。言うべきことはひとつだ。

『“またいつか、会おう”』

 深い深い海の底で再現された、あの日の約束。
 途端、灰色だった貝がぴかっと強く光を放った。光は虹のように筋を連ね、洞窟の奥から入り口まで飛んでゆく。その一筋がイルカに絡みつき、彼の身体を七色に輝かせた。
 イルカと鯨は、一緒になって、飛びゆく光の筋を追いかける。なぜだか、これが行くべき道だという確信があったのだ。必死で光を追いながら、鯨はイルカにそっと問いかけた。

『……ねえ、誰かさん。君が名前を持っているのなら、教えてくれよ』

『ナナシ。幼い日の彼が、私をそう呼んだから』

 ナナシ、名無しか。名前とも呼べないようなその名に、鯨はくすりと笑った。

『へんなの。でも、それがきみなんだね』

 イルカ――ナナシがどんな顔をしたのか、鯨には分からなかった。去り際に何か言ったようだったけれど、そのころには鯨はすっかり彼を追い抜いて、洞窟を抜け海底の水の中へと舞い降りていた。鯨にはまだ、やらなければならないことがあったから。
 友の往く道を塞ごうとする強大な力の目を欺くために。彼との再会を夢見るならば。
 鯨は、月を恐れることなく、ごうっと真っ黒な潮を吹いた。黒い雲が月を覆い、その目を陰らせる。

『行きなよ。ぼくはここで待ってるから。散々迷って疲れ果てたきみが、再びこの場所に帰ってくるのをさ』

 鯨は誰にともなく、そうつぶやいた。
 灰がかった景色の中、世界の果て――海の底から夜空へ、地上を目指す光が駆けおりていく。遠ざかっていくほうき星がすっかり見えなくなるまで、鯨は身じろぎもしなかった。結末を――女王の手のひらを拒んだ魂の行く末を、見届けなくてはならないのだから。

 ――さよなら、ナナシ。人間によろしくね。



……

「白石だ。入るぞ」

 白石は慣れた門扉を横に引くと、一言のあいさつを添え、三日ぶりの庭へと足を踏み入れた。
 ここ一帯は夏でもずいぶん涼しいのだが、この家には外とはまた違った清涼な風が吹く。古めかしい日本家屋も、家主に似てか、人を拒まない独特な雰囲気をまとっていた。
 当の家主の方は、この時間なら床かもしれない。縁側に腰かけようとしていた白石は、部屋の中をのぞきこむや、目をしばたたいた。
 見慣れた友人の猫背が、机に向かって何やら書きものをしている。遠目にはすっかり黒く見える原稿用紙が束になって積み上げられている光景は、もう何年も前に見たきりだった。白石はあわてて彼のそばに駆け寄り、信じられない思いで原稿用紙を捲る。
 さすがに客人の存在に気がついたのか、家主――嵯峨は、万年筆を握る手を止めて微笑んだ。

「おお、白石。いつも出迎えもせんで、悪いな。よう来た」

 嵯峨のゆったりとしたあいさつにも、白石は応えなかった。それほどまでに、手元に夢中になっていたのだ。
 流れるような字に、少しクセのある文章……自らが今手にしているそれが間違いなく嵯峨の原稿であることを何度も確かめ、その事実を噛みしめる。抑えきれない思いが胸の底からわき上がり、唇を噛みしめていなければ涙すら出そうだった。
 ――また、嵯峨の小説を読む事ができる。
 子供のころ、めずらしい虫を見つけて忍び寄った時のような純粋な興奮が、白石の心を波立てた。

 小説を書き綴ることで暮らしてきた嵯峨が突然筆をおいたのは、もう三年も前のことになる。
 書くことを生きがいにしてきた彼が、あまりにも唐突に、ぱったりと書くのをやめてしまったのだ。普通なら周りにも訝られるところだが、嵯峨自身がちょうど体調を崩していたために、彼を咎める者はいなかった。
 だが、嵯峨をすぐそばで見ていればすぐに分かったはずだ。彼が自分の身体よりも小説を選ぶ人間であることも、そんな彼が小説を手放したわけも。

「もう書くつもりなんてないのかと思ったよ。お前があの子のことを忘れられるはずもないだろうから。……墓参りには?」

 白石の問いに、嵯峨の表情がわずかにこわばる。
 嵯峨は三年前、大切な友人を亡くしていた。嵯峨と同じように、書くことに生きがいを見出していた、まだ幼さの残る少年だった。病床で訃報を受けた嵯峨は、最後に少年と言葉を交わした日の彼がひどく沈んでいたこと、心から小説を書きたいあまりにもがき苦しんでいたことを思いだし、してやれることはなかったのかと深く悔いた。
 少年の母親は少年が小説を書いていたことを忌み、同じように、彼の小説を愛した嵯峨をも憎んだ。葬式では門前払い、墓参りなどもってのほか、“息子がおかしくなったのはあなたのせい、二度と姿を見せるな”と怒鳴られたきり、遺影を見ることさえ叶わなかった。

「彼がいちばん私の小説を楽しみにしてくれていたのに、彼のために筆をおくのはおかしい。けどなあ、あれからどうしても書く気にはなれんかったのや」

 嵯峨の諦めたような面持ちに、白石もつられてため息をもらした。
 若くして自ら命を絶った少年は、最期に何を思ったのだろうか。望んだのだろうか。今になってはもう、それを知るすべもない。少年と別れたあの日、とることができなかった電話の呼び鈴だけが、嵯峨の胸の内に延々とこだましていた。
 嵯峨自身は、態度にこそ出さなかったものの、一時は若いころにやめたはずの煙草にさえ手を付けていたところを見ると、よほど苦しんでいたことが窺えた。身体の弱い自身には毒だと分かっていながらも、縋るように煙を吸うことでしか、気を紛らわすことができなかったのだろう。
 朗らかでつかみどころのない嵯峨がここまで心乱される姿を、白石はほとんど見たことがなかった。それだけあの少年は、嵯峨にとってかけがえのない存在だったのだ。
 嵯峨の様子からして、彼の思いはちっとも変わっていないようだ。それならば、彼はなぜ再び筆をとる気になったのだろうか。
 白石が怪訝そうな顔をしたのに気付いたらしい嵯峨が、薄らに笑む。

「もともと私がどうして小説を書きはじめたか、白石、おまえさんに言うたか?」

 白石はかぶりを振った。実のところ、彼がこの話題に持ちこもうとすると、いつも嵯峨にのらりくらりとかわされ、結局今日の日までまともに聞けずにいたのだ。
 若いころの嵯峨は、会社勤めの平凡なサラリーマンだった。そこそこのやり手ではあったものの、持ち前の実直さと体の弱さから、あまり出世することはできなかったらしいが。
 それが、三十も半ば、急に旅と小説に目覚め、原稿用紙を鞄に詰めてあちこちを飛び回るようになった。そうやって過ごすうちに、いつの間にやら標準語だったしゃべりにはどこのものとも知れない訛りが加わり、整ったスーツ姿はゆったりとした和服姿へと様変わりしてしまった。携帯電話も持たずいなくなってしまった嵯峨を白石がようやくつかまえたときには、あまりの変わりように別人なのではと疑ったくらいだ。嵯峨自身は、“人生、何があるかわからんなあ”と言ったきりだったが。
 何がこれほどまでに彼を変えたのか。嵯峨は昔を懐かしむように目を細め、ひとりごとのような調子で語りだした。

「……それじゃあ、少しばかり、昔話でもするとしようか。私がまだ小説の味を知らんかった頃の話や」

 ――今からおよそ二十年前の夏。ごく普通の会社員として働いていた嵯峨は、半ば押し付けられるようにして与えられた休暇を持て余していた。当時の会社での仕事は気に入ってはいたものの、いかんせん身体の方が忙しさについていけず、ようやく立ち上げた企画も半ば、体調を崩してしまったのだった。
 さして長くない休暇とはいえ、会社に戻ったところで、もう自分の居場所はないのだろう。これまで自分がしてきたことは、一体何だったのだろうか。深い失望と虚無感に苛まれてはじめて、自らを癒してくれる者を誰一人そばに置いていなかったことを悔やんでも後の祭りだ。
 このまま一人で引きこもっていては、身体だけでなく心までもダメになってしまう。そう思った彼は、しばらくぶりの帰郷を決意した。
 そうして、彼が何年ぶりかの故郷へと降り立ったのは、年に一度の流星群の日の、ちょうど七日前のことだった。

「その時の私からすれば、生まれ故郷は何もないつまらない場所だった。帰ってきたはいいものの、退屈で仕方がなかったのやろな。ほんの気まぐれで、昔遊びまわっていた浜に行ってみようかという気になってなあ。そこで、私はイルカに出会ったらしいのや。人の姿をしたイルカに」

 “らしい”という含みのある言い方と、その言葉の内容に、白石は眉をひそめる。

「どういうことだ。今のじゃ何一つ分からない」

「そうやな。にわかには信じがたい話なのも分かる。らしい、というのも、私も覚えとらんでな。実際、私がそのイルカの存在を知ったのも、私自身の手記の中やった」

 嵯峨は懐かしむように宙を見上げて目を細めた。
 忙しさの中では、どんな記憶も記録しなければすぐに流れていってしまう。そのためか、当時の嵯峨は、非常にまめに日記をつけていた。どんな些細なことも、筆を通して頭に刻みつけようとするかのように、忘れずに書き連ねた。

 そんな彼が、自らの手記の中に“それ”を見つけたのは、彼が故郷から再び自宅へと戻ってきてしばらくたってのことだ。
 帰省中の出来事を思い返そうと手帳をめくった彼は、身に覚えのない“それ”――イルカの存在に、思わずぎょっとしてしまった。というより、イルカに関する一連のくだり、そのものに覚えがなかったのだ。
 手記によると、『ナナシ』と称されるそのイルカは、なんと、人間の姿をしていたという。それならばイルカでなくて人ではないかと思ってしまうところだが、どうやらそれも違うようなのだ。戸惑いながらページをたぐる嵯峨の前に、彼自身が綴った記録は、素知らぬ顔をして事実だけを並べ連ねていく。

 訪れた浜でそのイルカと出会ったこと、共に流星群の日を待ったこと。中でも、“宇宙の果ては海の底である”だの、“身体を失った魂はその海に還り、やがては順列をつけられ、あらゆる姿の貝になって、一年に一度流星群の日に、流れ星になって地上に降り注ぐ”だの、“イルカは七日前から流星群を待つ”だの……そんなおかしな話が生真面目な字で記されている様子は笑いを誘ったが、嵯峨には笑えなかった。
 自らの字で綴られた、覚えのない記録の数々。こんな奇妙なことがあるものだろうか――その戸惑いと疑念は、次の年の夏、嵯峨を再び故郷へと導いた。

 前年のイルカに関する記録は、流星群の前日を最後に、はたと途切れていた。となれば、やはり、流星群のその日に何かがあったに違いない。嵯峨は、今度こそ忘れまいと意気込み、あの浜へと足を向けた。
 しかし――またも、自宅へ戻ってきた彼は、手記を前に頭を抱えることになった。
 その年にも、確かに前年のような記録は残っていた。『ナナシ』というイルカと出会い、言葉を交わし、星を見上げたことは、当然のように文字として残されている。だが、おかしなことに、記憶の方はひとかけらとして残っていなかったのだ。まるで、イルカと共に過ごした七日間の記憶だけが、きれいに抜け落ちてしまったかのように。
 紙の上でなければ、あのイルカを認識することはできない――嵯峨の仮説は、また次の年、三度目の帰郷を経て確信に変わった。

 妙に現実味を帯びた走り書きの日記。三年目のそれは、より明確だった。どんなことを話しただとか、どんな様子だっただとか……その状況を思い浮かべるのが容易いほど、詳細に書き記してあった。それでも、不自然に空いてしまった記憶の穴を埋めるには、文字では拙すぎる。
 不思議な心持だった。イルカ――『ナナシ』は確かに存在している。紙の上にしかその気配を感じることができなくとも。

 そうして迎えた、四年目の夏。
 手帳を手に、例の浜を訪れた嵯峨を待っていたのは、静かな波と、星の瞬く夜空だけだった。どれだけ待っても、とうとう流星群の夜になっても、『ナナシ』は現れなかった。
 これまでの『ナナシ』との全ては、やはり、作り話や夢幻の類だったのではなかろうか。記憶が欠けているなんてことも、少し偶然が重なりすぎただけの、何かの間違い、気の迷いだったのではなかろうか――嵯峨は、流星群の夜が明けても、寄せては返すさざ波を惜しむように見つめ、そのうち現れるかもしれない、『ナナシ』を待った。彼の腕の中では、空白を抱えたままの手帳が寂しげにうつむくばかりだった。
 この年、『ナナシ』が嵯峨の前に姿を現すことは、ついになかった。

「これまでのおかしなことは、全部まやかしだったと思うこともできたかもしれない。けど私には、あの手記を疑うことがどうしてもできんかった。本当のことやと胸を張って言えるわけでもない、が、嘘であると、夢やったと言うのはな、また違うと思ったのや」

 それからの嵯峨は、同じようなことがどこかで起きていないものかと、それらしき――おかしな噂があるだとか、そういった――場所を訪れては、記録として残すようになった。そうすることを続けていれば、いずれまた『ナナシ』に会えるのではないかと、そう思ったのだ。
 あの手記に書かれていたことは嘘ではない。少なくとも、それを信じた嵯峨自身にとっては。架空の物語に心を燃やしているような心持ちで、なおも彼は『ナナシ』を探し続けた。
 そうしているうち、あっという間に何年もの時間が過ぎた。かのイルカとの再会は成らないまま、記録だけが厚みを増していく。それでも、迷えど疑えど、嵯峨を旅へと駆り立てたあの興奮は、そのときに及んでなお絶えてはいなかった。どこかに『ナナシ』が存在するかもしれない――そう思うだけで、行かねば、書かねばと何かに背押される。
 嵯峨が記した旅路の記録には、とても信じようのない不思議な話も少なからずあった。あの日記との違いは、嵯峨本人が覚えているかどうか、たったそれだけだ。“そういう意味では、私の手記も創作小説と変わらない”――そこまで思い至った嵯峨は、はっとした。

 ――もしこれらが、私と同じような誰かの心を燃やせるとしたら。嘘か真かを問わせることなく、誰かの心を奮わせられるのだとしたら。

 そう気付いた瞬間が、小説家、嵯峨のはじまりだった。

「それからはずうっと、行の字を之に変え、こうして小説を書いてきた。そんな私が運よく拾ってもろうて、書いたものが本になったというのは大変ありがたいことやな」

 嵯峨はしみじみとそうつぶやき、目を閉じる。
 創作小説を書く傍ら、彼は記録することも続けていた。真実と作り話がないまぜになって一冊の本に収まるさまは、奇妙でもあり、見ていて心地よくもあった。そこにはもう、真偽の壁もないのだ。そうして生まれた本に胸を焦がす誰かのことを思うと、嵯峨は満足だった。
 そんな中、彼は出会ってしまったのだ。幼いままに自殺したかの少年が嵯峨に残した、少年にとっての“至高の作品”――彼自身の人生と、死していながらも誰かの命を借りて小説を書きつづけた彼の姿がつづられた物語に。その“小説”は、真実であるかどうかという邪推すらさせぬまま、まっすぐに嵯峨の胸を穿った。
 少年の抱えていた苦しみ、理想、嵯峨に伝えたかった言葉……決して彼の感情そのままを理解することができなくとも、少年の思いは、文字として嵯峨の心を揺さぶった。
 ――この作品は、あの日記とよく似ている。
 ページをたぐる最中、嵯峨は、イルカにまつわる例の手記のことを思いだしていた。

 いったん紙の上に起こされてしまった感情は、もはや、そう感じた当人のものとは呼べない。自らがイルカと対面して抱いた感情も、手記を通して触れた嵯峨には理解しきれなかった。刻一刻と変化する人の心をいくらかたちにして表現しようとも、それそのものを留めおくことなど、決してできはしないのだ。
 人間の内に刻まれた記憶は感情を伴なうが、それすらも現在の自らの感覚とは異なるというのに、それを文字にして自身から切り離してしまうということがどういうことであるか……そう考えてはじめて、小説を書くという行為に恐れを覚えた。
 ――かの少年は、確かにかつてそこにいた。それなのに、最後の最後、彼は文字の上の自らに魂を移してしまった。それも、本物と見紛うほどの情熱を持って。
 鼓動のない身体を与えられた少年の魂は、今も、止まったまま生き続けている。彼の破片は文字として完結し、堂々巡りをするばかりで、紙の上から放たれることすら望めない。その姿は、あまりに痛々しく見えた。
 ――記録するということは、時々の思いを書きとめるということは、自分の魂を切り売りするのと同じことなのではないだろうか?
 本の中に、目に見える形で閉じ込められた自分の感情は、間違いなく誰かの心に届くだろう。だが、切り取られたそれが自らの内に戻り、再び自身の一部として拍を打つことは、二度とない。押し花のように平たくなった心臓が、紙の上で寂しげに蠢く様子を思い浮かべるたび、抑えようのない吐き気に襲われた。
 それからというもの、ペンを握ることも恐ろしくなってしまったのだ。

「少年はすでに、気がついていたのかもしれんな。小説を書き綴るということがどういうことであるか。分かっていたからこそ、あの作品に全てを託したのや。私には、そんな彼の思いをきちんと受け止めてやることができんかった。彼の覚悟から逃げた。怖かったのやろな」

 嵯峨はほうとため息をつくと、ほんの少しの間だけ、休むように口を閉ざした。少年のことを思っているのか、でなければ、脳裏を過ぎった恐れを拭わんとしているのかもしれない。嵯峨のこうした“間”は、周囲を不思議な心地にさせこそすれ、不快にさせることはなかった。白石も、縁側から抜ける涼風を感じながら、穏やかに彼の言葉を待った。
 嵯峨は手元から庭へと目をやると、ふと、ごくさりげなく唇を開く。

「一昨日の夜かな、久しぶりにほうき星が流れるのを見た。それで、あの日記のことを思いだしてなあ」

 積み重なる多くの記録や創作物に埋もれ、もう何年も手を付けていなかったイルカにまつわる手記。かの記録は、他の紙束とは少し離され、薄く埃をかぶっていた。それを手に取った嵯峨は、どれほどぶりだろうか、胸が高鳴るのを感じていた。久しぶりに軽く目を通してみようかと開いたつもりが、何時間と経ってようやく、夕の陰りにはっとさせられた。気付かぬ間に、すっかり夢中になって読みふけっていたのだった。
 まだ若かった嵯峨をいてもたってもいられなくさせた、イルカと共に過ごした時間の記録は、変わらずそこに息づいていた。そして、再びそれを手に取った嵯峨に、旅に出た当時とはまた違った“熱”を宿したのだ。
 ――文字となった誰かの欠片は、また別の誰かの心のフィルターを通して、その人の一部になる。別の誰かの中で、形を変えて燃え続ける。
 嵯峨自身が、かつての自分の感情に触れ、新たな熱を得たように。
 自分の一部が、誰かの血となって生き続けること。自分が失った何かが、誰かの中で、再び熱を得ること。そうやって息をし続けること。

「これもまた、一つの永遠の形なのかもしれんな。少年は、紙の上じゃなく、私の中で今も生きている。他の誰でもなく彼自身が、そうすることを選んだ。少し時間がかかったが、私にも、ようやっとそれが理解できたのや」

 嵯峨が庭に目をやると、再び、やわらかな静寂が辺りを包み込んだ。耳を澄ませば、そこにあらゆる気配が混じっていることが分かる。青々とした草木の擦れる音、紙の端が舞い上がっては座る音、どこからか聞こえる風鈴の音。
 この家を抱く夏の音だ。

「なあ白石、海へ行かんか」

「今からか?」

 答えの知れた問いに、白石はにやりとして聞き返した。
 気性穏やかな嵯峨には珍しい、強い確信に満ちたまなざし。白石が彼のこんな目を見たのは、初めてではなかった。嵯峨には、昔からこういうところがあるのだ。何かに導かれるようにして生きているとでも言えばいいのだろうか。彼を導く“何か”が、今も彼の内で今も燃え続ける炎であるのかどうか――白石は、あえて尋ねることをしなかった。
 嵯峨はひとつうなずくと、悪戯っぽく微笑んだ。

「落ちてきたほうき星を、あんまり待たせると悪いやろ」
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