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その124:鬼よ我が魂の前に哭け 東部ニューギニア戦線 その15

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 峰長大尉は月のない夜空を見上げた。満天の星空。日本では見ることのできない南十字星が確認できた。
 マングローブの生い茂った海岸に波の音が響く。
 この静寂がまるで冗談のようだった。ポートモレスビーでは、日本と米豪の連合国の戦いが続いているのにだ。

 彼はそのために、ラバウルからここまで飛んできた。
 二式大艇の機長―― 開戦以来の彼の職務だった。
 今回は、物資の緊急輸送が目的でポートモレスビーまで飛んだ。
 運べる物資は無理して4トンがいいところだ。
 医療品、高射砲弾、手りゅう弾、真空管などの電子部品もあったはずだ。

 帰路では、傷病患者を運ぶ任務があった。
 重度のマラリア患者、戦傷者は後送する必要がある。
 人道ではない。
 そのような存在がいるということは、それだけで最前線に存在する部隊に負荷がかかるからだ。

 彼は胸ポケットをさぐり、そして手を取りだす。
 砂浜近くに腰を下ろし、彼は紫煙を吸いこみ、そして吐き出した。
 ポッと闇の中に赤い光が灯る。

「夜間は禁煙―― バカか……」
 
 灯火管制ということで、夜間の喫煙が禁じられていた。
 しかし、搭乗員基地では守る者はいない。
 彼もバカな話だと思っている。
 何度も夜間飛行を経験している彼だが、地上で吸っているタバコの明かりなど見たことはない。
 見えるとも思えない。

 彼の乗機の二式大艇には、すでに傷病患者と数人の看護兵が乗りこんでいる。
 40人ほどがラバウルに後送されるはずだった。
 燃料の補給と、整備が終了したら、今夜中にはラバウルまで飛ばねばならない。
 ポートモレスビー周辺の制空権は、揺らいでいる。
 昼間の飛行はかなり危険度が高い。夜間の内に出て行く必要があった。
 オーストラリア北部、ケレマの基地から連合軍の戦闘機は十分に飛んでこれるのだ。

「到着は、夜明けすぎだな。どんなに急いでも」

 彼は焦ることもないと自分に言い聞かせる。
 吸い終わったタバコを投げ捨てた。
 夜が明けても、ラバウル周辺の制空権は完全に日本軍のものだ。
 ラバウルの前衛基地である、ブインの航空隊が、アメリカ軍にかなりの出血を強いているらしい。
 峰長大尉もチラリと見たことがあるが、弾丸に翼をつけたような、「雷電」とかいう機体が猛威を振るっているとのことだ。

「まあ、俺たちは俺たちの仕事をするだけだ――」

 戦果を挙げる味方戦闘機の活躍。
 頼もしく思う。しかし、その思いのどこかに、わずかな嫉妬のようなものがあるのも事実だった。
 彼は立ちあがり、尻についた砂を払った。

「峰長機長―― こんな所にいたましたか」

 不意の声に彼は振り返った。
 闇の中でも、辛うじて人影が分かった。
 今回の任務で、同乗してきた岡本一飛曹だった。
 開戦以来のコンビだった。
 
「休めたか?」

 帰路の操縦は主に、彼が担当する予定だ。
 食事の後に仮眠をとるように命じていたのだ。
 峰長大尉も、少しは寝ている。休めるときに少しでも休むのも任務のうちだ。

「どうにも、あの食事量じゃ、腹が減って……」
「文句を言うな、ここじゃ、最高レベルのおもてなしだろう」
「そうでしょうね……」

 麦の多い飯はそこそこあったが、いっしょに出てきたのは何かよく分からなかった。
 碗の底の見える薄い味噌汁に、雑草の塩漬けのような物が出てきたのだ。
 ただ、海軍基地であるここは、陸軍よりも大分マシとのことだ。

「こんどは、大艇に、飯をいっぱい積んで来たいもんですよ――」
「さすがの大艇でも、全員の腹を膨らませるのは無理だ」
「そりゃ、そうですね」

 岡本一飛曹の諧謔を含んだ言い方に、峰長大尉も同じように切り返した。
 そうでも言わねば、やりきれない気持ちになりそうだったから。

「遠すぎるな……」

 峰長大尉は、ポツリとつぶやいた。
 墨のように黒い海。波の先だけが妙に白く崩れ、夜光虫の光を見つめながら。

        ◇◇◇◇◇◇

「威力偵察中隊が全滅だと?」

 松本少尉が確認するかのようにその言葉を繰り返した。 
 にわかに信じることができない情報だった。

「間違いないのであります」

 聞き取りを行っていた、伍長が強い語勢で言い切った。

「本当なのか?」

「司令部に照合しました。少なくとも、彼らが威力偵察中隊であることは、間違いないのであります」
 
 ここはポートモレスビーから西に入った高地にある砲兵観測所だった。
 ポートモレスビーの西の方に流れる川ということで「西川」と名付けられた川の上流にある。
 ケレマ方面から、浸透してくる、敵を警戒して構築された、前衛陣地ともいえるものだった。
 砲兵小隊は、四一山砲が四門。
 この観測所と有線により通信が可能となり、統制した射撃が可能となっている。

 以前は、ポートモレスビーに対し擾乱射撃を行っている連合国の砲兵基地の補給を寸断するために、編成されたものだった。
 それは、一定の効果を上げたのだろう。また、歩兵部隊の攻撃により、敵はその砲陣地を放棄している。
 ただ、彼らの部隊は、連合軍の侵攻に対する前衛防御線を形成するため、その地に留まっている。

 この観測所とポートモレスビーからの兵站はつながっている。しかし、ポートモレスビー基地自体の物資が窮乏中なのだ。
 彼らの砲兵小隊も、十分な弾薬食料の補給を受けているとは言えなかった。
 敵の本格的な反抗があった場合、少しばかりの足止めが出来る程度であろうと、松本少尉は達観していた。

 それでも、各分隊を有機的に連携し、河川周辺の侵攻予想エリアを火制できるようにしてあった。
 四一式山砲は、ニューギニアのような、起伏が多い密林においては、非常に有効な兵器であった。
 その指揮中枢であるセイイ嶺の観測兵が、河川の脇を移動する友軍らしき者を発見した。
 それが、今ここにいる四人の歩兵たちだった。

「ケレマ方面に威力偵察隊を出しているという話は聞いていたが……」

 松本少尉は、彼らを見て言った。彼らを責める気は無かった。 
 兵は現役の若い者ではない。30歳以上の年齢に見える。補充兵であろう。

「司令部は、司令部はなんと――」
 
 松本少尉と通信兵のやりとりを聞いていた兵のひとりが口を開いた。
 都会の人間だろうか。言葉には一切の訛がなかった。

「キサマは?」
「ポートモレスビー支隊、成田一等兵であります」
「全滅は本当なのか」

 司令部云々よりもその事実の確認の方が先だった。
 一個中隊が四人を残し全滅するなど、まともな話ではない。

「本当です。いえ―― あります。その報告のため、我らは帰還したのであります」
「なにがあった?」
「道路ができております」
「道路だと?」

 松本中尉は河川付近の低湿地帯を使わず、密林の中を迂回するルートかと一瞬思う。
 ケレマからポートモレスビー攻略を狙うための道路建設だ。

「山の方にずっと伸びていく道であります。中隊はその道の途中で、戦車を含む敵の有力な部隊に遭遇――」
「まて、ちょっと待て」

 松本少尉は兵の報告を止めた。
 
「山の方だと?」
「間違いないのであります」
「戦車だと?」
「山のような大きな戦車であります。砲がいっぱいついておりました」

 どうにもおかしい、迂回しながら、ポートモレスビーに向かうとしても、なぜ山にまで続く道を造るのか?
 この兵たちの間違いではないのか?
 腑に落ちないことが多すぎる。

「戦車がいたのか。どんな戦車なんだ」

 彼は部下に書く物をもってこさせる。
 発言した一等兵は、すらすらと絵を描いた。
 かなり上手い。素人とは思えなかった。

「地方では、絵描きだったのか?」
「映画の看板描きをやっておりました」
「なるほどな。上手い物だ」

 松本少尉はその絵を見つめて、記憶をたどる。
 
「M3中戦車か――」

 胴体から突き出た固定の大きな砲が描かれている。
 胴体に75ミリ砲を装備し、砲搭に37ミリ砲を装備した中戦車だ。
 フィリピンやビルマで我が軍が苦戦したというM3軽戦車より強力な戦車といえた。

「で、司令部は、なんと?」

 一等兵はそのことを再び聞いた。
 今後自分たちは、どうすればいいのか?
 自分の所属する中隊が全滅したのだ。不安に思うのは当たり前だった。

「どうなんだ?」
「それが…… あのですね……」
「はっきりしろ!」

 通信兵のあやふやな言い方に、松本少尉が語勢を強めていった。
 滅多にそのような態度をとる将校ではない。
 それだけに、今起きている事態が尋常ではないことが、ここにいる全員に理解できた。

「なぜ、死ななかったかと――」
「は?」
「死んで来いといってます」
「バカか、そいつは? どこのバカだ?」
「大隊長らしいです―― もう一度、連合軍に攻撃をしかけ、皇軍軍人精神の精華を見せろと……」
「どこにでもいるバカだ!」

 吐き捨てるように松本少尉は言った。
 中隊の全滅に狼狽し、頭にきて無茶苦茶を言っているのだろうか。
 まともな、将校教育を受けたものであれば、あり得ない発言だ。

「キミ等は、別命あるまで、私の部隊と行動を共にする。以上」

 松本少尉は断言した。何を目的に戦をしているのか?
 味方を無駄に殺すために、やっているのか?
 そんな、無能な指揮官こそ、真っ先に敵に突撃して欲しいと心底思ったのだ。

「敵機! 敵機!」

 見張りの兵が叫んだ。
 ケレマからの戦爆連合だった。
 通信兵が司令部に連絡をいれる。 

「ポートモレスビーの電波警戒機はまだ直らないのか――」

 電波警戒機(レーダー)がまともに機能していれば、見張りに頼らずに探知可能なはずだった。
 今では、この観測所が、航空警戒までになっているようなありさまだった。

 敵機はやはりポートモレスビーの方へむかっていく。
 B-17、それにロッキード(P-38)の戦爆連合。数は40というところだった。
 彼の指揮下にある四一式山砲では、航空機の攻撃は出来ない。

 彼は上空をみやると、白い煙が続けざまに空に展開した。
 高射砲の射撃だった。珍しく、連射を続けているようだった。

「補給でもあったのか…… 今日は、大盤振る舞いじゃないか」
 
 機体が一機損傷したようだった。編隊を離れ、山系の方に大きく弧を描き、ケレマに戻ろうとしている。
 
「くそ――」

 松本中尉が悪態をついた。
 ポートモレスビー方面に爆炎が上がったのだ。
 奴らの爆弾投下が開始されたのだ。

 時間差を置いて、遠雷のような爆発音が響いてきた。
 あの爆発の下―― 何人かの友軍が確実に殺傷されているのだ。
 彼は拳を握りしめ、それを見つめることしかできなかった。

        ◇◇◇◇◇◇

 保坂一等兵はただ、そこに立ち尽くしていた。
 ここまで至近で爆弾の破裂があったのは初めてだった。
 巻き上がった砂や砂利が視界を塞いだ。
 
「あががあぁぁ、ああ、ぐぞがぁぁぁぁ……」

 声が聞こえた。濁った、ゴボゴボした泥の中に顔を突っ込んで出したような声。

「岡部軍曹――」

 分隊長の岡部軍曹だった。右手が肩から無くなっている。
 大きな傷から、妙に生々しい色の、何かが痙攣するかのように動いていた。
 人間の身体の中に、あんな不気味なものがあるのかと、保坂一等兵は思った。
 肺だった。肺が露出し、収縮と痙攣を起こしていた。
 ボヴォッと音をたて、岡部軍曹は大量の血を吐いた。
  
 死んでいく人間の肌の色が急速に変わっていくのを保坂一等兵は呆然と見ていた。
 
「バカ野郎! なにやってる保坂!」
 
 与田兵長が叫ぶ。彼も頭から大量の血を流している。
 彼も保坂一等兵の視野の中にはいたのだ。しかし、彼の脳が認識していたのは、死んでいく岡部軍曹だけだった。
 他の兵が駆け寄り、与田兵長の頭に包帯を巻いていく。

 その時初めて、与田兵長が、自分に治療をしろと言っているのを理解した。
 それまでは、腕がモゲ、肺まで露出している岡部軍曹を何とかしろと言っているのかと思っていたのだ。
 そして、それがなにも出来ないと思ったので、動けなかった。
 違うのだ。
 軍隊では、確実に死ぬ人間は放置されるのだ。
 生きる可能性のある人間こそ、最優先されなければいけない。

 自分は無傷だった。おそらくだ。どこにも傷はない。痛みもない。
 ただ、この件で、また部隊の中で浮いた存在となることは間違いないだろうと思った。

「危なかったな、保坂――」

 谷中中尉だった。彼は塹壕の中に突き刺さっている鉄片を抜いた。 
 V字型のブーメランのような形をした鉄片。
 敵の爆弾を包んでいた特殊鋼の一部なのかもしれない。
 それが、彼のすぐわきに突き刺さっていたのだ。

「ひとたまりもなかったな。当っていたら―― 運がいいな。保坂は。戦場じゃなによりも大事なことだ」
 
 谷中中尉は言った。

「はぁ……」

 力なく返事をする。本来であれば、ビンタ物の反応だ。
 しかし、谷中中尉は苦笑を浮かべるだけだった。
 彼は基本的な部分で陽性であり、真っ当な人間なのだと保坂一等兵は思う。
 谷中中尉は、陣地の外にその鉄片を放り投げた。 

 彼の視線はその鉄片を追いかけていた。
 いっそ、その鉄片が自分を貫き、ここから解放してくれればよかったと思ったのだった。

        ◇◇◇◇◇◇
 
 四基の火星エンジンは軽快に音を奏でている。
 機体に問題は無かった。
 離着水能力に関しては、以前の九七式飛行艇に比べ難があるのは確かだった。
 特に、満載状態での離水は、それが出来るだけで技量Aといわれるくらいだ。

 しかし、上空に上がってしまえば「空中戦艦」とも言っていい機体になる。
 日本機としては、破格の防御力と火力を備えている。
 B-17と1対1で撃ちあっても引けを取らない性能を持っている。

 しかし――
 今はそのようなことはできない。
 哨戒機などとぶつかり、戦闘になるのは最悪だった。
 搭乗員は、機長の峰長大尉と副操縦士、そして航法・通信士しか乗せていない。
 3人だけでこの巨大な飛行艇を飛ばしているのだった。
 満足な反撃などできない。

 満載しているのは、傷病患者たちだ。
 戦闘をすることもなく、ただマラリアにやられ、40度を超える熱で痙攣をするものたち。
 そして、空や海から一方的に叩かれ、傷ついた将兵たちだ。
 約40名を乗せているが、それがポートモレスビーの傷病患者の全てではない。

「完全な制空権がなければ、ダメだろうな」

 ポートモレスビーの現状。それはそれに尽きるのだ。

 すでに陽は上がり、周囲は明るくなっている。
 長く見つめていると、海の反射光は、網膜を焼く。
 今回の任務は偵察ではない。それほど海面を見続ける必要はなかった。

「峰長機長―― あれは?」
「ん?」

 彼は岡本一飛曹が示す方向に目をやる。
 前方に航跡が見えた。何本もの航跡――
 かなりの規模の艦隊であることが、遠目からでも分かる。
 ただ、艦種までは判断することができなかった。

「このあたりに、味方は?」
「いません。報告ありません」

 即座に、航法・通信士から返答が返ってきた。
 その方向が、彼らの二式飛行艇と重なっている。
 徐々に距離が詰っていく。

 危険だった――
 敵が空母を含む機動部隊の場合、この機体であっても逃げ切るのは難しい。

「方位を変えた方がいいのでは」

 峰長大尉が考えていたことを、先に岡本一飛曹が口にしていた。
 おそらく、予想していることは同じだ。

 敵に空母が――
 まてよ。おい、敵に空母がいたらだって?
 俺は6割頭になっているのか?
 敵が空母を含む機動部隊をこの海域に展開している。
 それは、大変なことじゃないか。

「艦種が判別できる位置までは警戒しながら接近する」
「しかし――」
「もう、奴らの電探が俺たちを捉えているだろうさ」
「だから、今なら―― 空母がいたら…… 空母…… こんなとこに、敵空母――」

 峰長大尉は切れるような笑みを浮かべ、岡本一飛曹を見つめた。
 彼もこの瞬間、理解した。状況は、自分たちの無事を考えるようなレベルではないことを。
 40人の傷病兵を抱え危険は避けるべきだという思いがあまりにも強すぎた。
 それに、航空機搭乗員の宿命である酸素不足の6割頭だ。
 
 岡本一飛曹は機体を慎重に近づけていく。
 雲間に飛び込む様に、巨大な空の巨鯨が遊泳しているようなものだった。

「空母だ―― 敵正規空母だ――」

 峰長大尉はつぶやき、即座に打電を命じた。
 彼の眼下には、白い航跡を引く、二隻の大型正規空母が存在していた。
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