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2巻
2-1
しおりを挟むプロローグ
アレンフラール王国に、一人の公爵令嬢がいた。
その令嬢は、艶のある金髪と誰もが羨む美貌、そして均整の取れた美しい体を持つ。だが、気が強く傲慢で、性格はまるで物語に出てくる悪役のよう。
その結果、婚約者である王子から婚約破棄を言い渡されてしまう。
失意のどん底に落ちた令嬢は田舎に下がり、いつの間にか表舞台から消えた。
――しかし、それは表向きの話。
実はその令嬢は、アレンフラールに舞い降りた女神だったのだ。
女神は瀕死の王を慈悲深い心で救い、国に蔓延っていた命食らいという呪いをいとも簡単に消し去った。さらには国を破滅に導く内乱を未然に防ぎ、不治の病から国中の人々を救った。
そんな神から遣わされた女神は、アレンフラールに安定をもたらして、ぱったりと姿を消した。
残された者達は、女神に心からの感謝を抱き、国を繁栄させていくのだった。
悪役のごとき公爵令嬢に見せかけ、実は女神であったという女性の物語が描かれた本を片手に、私――レティシア・シャリエールはわなわなと震えた。
「何よ、この内容は……」
大変脚色されているし、不本意極まりないが、この本に描かれた女性は私のことだ。
突然倒れた国王に救命処置を施し、命食らいと呼ばれる流行り病を治療した。そして内乱を食い止めた上に、ペストと思われる病気にかかった多くの人々の命を救った。それは事実である。
でも、こんな風に女神と崇められるのは嫌なのに……なんてことだ。私は思わず頭を抱えてしまう。
すると、私の様子を見ていた侍女のシュザンヌが、とても穏やかな笑みを浮かべる。ちなみに、リビングでくつろいでいた私のもとにこの本を持ってきてくれたのは彼女だ。
「素晴らしいじゃありませんか。お嬢様のことが忠実に書かれている数少ない本でしたので、三冊買っておきました。保存用と拝読用、そして布教用です」
「何よ、その買い方は」
オタクみたいな買い方に私は思わず目を細めて、シュザンヌを睨みつける。
しかし彼女は動じず、いつもどおりの凜とした表情だ。そしてグレーの短い髪を揺らしながら踵を返し、お茶の用意に取りかかった。
「三冊でも足りないくらいです。配って回れないのが惜しいですね。もっと、お嬢様の活躍を世に知らしめなければ」
「知らしめなくていいから……」
私は無造作に本をテーブルに置き、視線を窓の外に向ける。見えるのは、連なった山々や、広がる草原。屋敷の外に人の姿はなく、自然の営みの音しか聞こえない。
穏やかな景色を眺めながら、私はぽつりと呟く。
「よかった……。さすがに、前世の記憶があることはバレていないみたい」
それは、今まで誰にも話したことがない私の秘密。
私は前世の記憶を持つ、転生者なのだ。
前世の私は、大学病院で看護師としてあくせく働いていた。そしてその前世の知識のおかげで、今世ではたくさんの命を救うことができた。
そのこと自体は自分でも誇らしいと思っているし、評価されることは嬉しい。病気の予防に関する知識は、これをきっかけに広まってくれたらいいと思っている。
しかし私のやったことにより、弊害も出てきた。
まず、アレンフラールの女神なんて恥ずかしい呼び名が国中に広まったこと。
そして、私の存在を疎ましく思う人が現れて、私の命を狙ってきたことだ。その筆頭は国王陛下の甥である公爵。彼に誘拐されて、政略結婚をするか殺されるかの二択を迫られたことまであった。……冗談じゃない!
まあそれも、いろいろな人に助けてもらって、私は無事に帰ることができた。
でも、目立ちすぎたことにより、暗殺の危険が高まってしまった。そこで私は、母国アレンフラールで生きていくのは危険と判断。命を落としたと偽り、隣国であるここ――エードルンドに平民として亡命したのだ。
もちろん、アレンフラールでの面倒なあれこれから逃げられたことはラッキーだった。元々私はぐーたらのんびり過ごすことを目標にしている。ここでの暮らしも落ち着いてきて、不自由している訳ではない。
けれど、家族と国を捨てるなんて、できればしたくなかったというのも本音なのだ。考えていたら、腹が立ってきた。
「――もうっ! ほんと! なんでこんなことに!」
思わず文句を言ってテーブルを叩く。シュザンヌは目を見開いて私の顔を覗き込んだ。
「あら、お嬢様。どうかなさいましたか? まさか、体調が悪いのですか? あぁ、お労しや。きっとお嬢様がとてもお好きな、お酒やお菓子がお嬢様を惑わせているのでしょう。お酒とお菓子はすぐにこの屋敷から捨て去ってしまわねば。そうと決まればさっそく――」
「どうしてそうなる!?」
思考を明後日の方向に向かわせるシュザンヌに突っ込んだところで、不意に部屋の入口から声がきこえてきた。
「なんだ。今日のレティーはご機嫌斜めだな」
レティーとは、私――レティシアの今の名前だ。レティシア・シャリエールは他界したと偽っているため、元の名を使う訳にはいかず、レティーと名乗っている。
振り向くと、お世辞抜きに美しい濃い茶色の髪の男性が立っていた。彼はこちらをからかうような視線で見下ろし、髪をかき上げる。緩やかに波立つ髪をいじるだけで絵になる男だ。
細く見えるのにたくましさのある体躯を見上げると、そこにはやや鋭い双眼があった。女子を敵に回しそうなほど、まつ毛が長い。私は舌打ちしたい気持ちを押し殺して、その男性に声をかける。
「あら、久しぶりね、クロード。今度はどこまで行ってたの?」
「ちょっと、エードルンドの首都にな」
そう言って柔らかにほほ笑むのは、アレンフラール王国の第二王子だったクロードだ。
『王子だった』と過去形なのは、すでに王位継承権を放棄し、さらには平民になったから。そしてなぜか、私を追いかけるようにしてエードルンドに移り住んでしまったのだ。
とはいえ、クロードはアレンフラールとの縁を断った訳ではない。元々、他国の情報を集める役目を担っていたこともあり、今でも母国とのパイプを持っているという。
その関係で、時々ふらりといなくなるのだが、それ以外はおおむねこの屋敷にいる。はじめはこの近くの村で家を借りていたのだけど、屋敷に空き部屋があるのにもったいないのではと、この屋敷の部屋を貸したのだ。
そういう訳で、クロードは暇になるとやってくる。
このところ姿が見えないと思っていたら、エードルンドの首都に行っていたとは。この屋敷はアレンフラール寄りの郊外にあるので、私はエードルンドの首都に行ったことがない。思わず目を輝かせてしまう。
「首都に行ったの!? なら当然、お土産の一つや二つや三つくらいは、あるのよね? ね?」
「ほんと、レティーはそればっかりだな。しょうがない……ほら」
クロードは苦笑いを浮かべながら、後ろ手に持っていた袋を掲げる。そして、私の目の前のテーブルに置いた。
ちなみに私とクロードは、エードルンドに来てからは立場を気にしない、気安い関係を築いている。だってお互いに公爵令嬢でも第二王子でもなくなったのだから。
「あ! これって私の好きなお店のチョコレート! やった!」
私が思わずガッツポーズをすると同時に、私の前を何かが通り過ぎる。
「お嬢様。これは私がしっかりと預かっておきますので、ご安心くださいませ」
シュザンヌはそう言うと、素早くチョコレートを回収して、お茶をのせてあるワゴンに置いてしまう。
「え!? ちょっと! 嘘でしょ!?」
「嘘ではございません。お嬢様に渡すと、すぐに全部食べてしまいそうですから。ちゃんと、少しずつお出ししますよ」
「そんなぁ! ひどいわよ、シュザンヌ!」
「そうですか。でしたら、お返ししましょうか……。お嬢様が思いのままに召し上がったら、今度こそ着る服がなくなってしまいかねませんが、よろしいですか? 公爵家にいたころとは違うのです。服のサイズを調整するお金なんて、この屋敷にはありません」
シュザンヌにそう言われて、私は言葉に詰まる。
彼女の言う通りだ。ここは公爵家ではないし、私も公爵令嬢ではなく平民のレティーである。
しかも今は、現金収入を得るのが難しい状況なので、お金の話をされると何も言えない。
ここはエードルンドの首都からかなり離れているため、貨幣が使われない場合も多い。このあたりの村の人達は、主に物々交換で暮らしていて、私達もそれに倣っている。私の労働への対価は日々の食べ物になることが多いので、お金が貯まらないのだ。
私は歯を食いしばり、拳を握る。そして苦渋の思いで言葉を絞り出した。
「うう……よろしくお願いします」
「はい、かしこまりました、お嬢様」
笑みを浮かべて頷くシュザンヌ。彼女とは反対に、私の気分はどん底だ。
だって、シュザンヌの管理下に置かれたら、本当に少ししかもらえないに決まっている! シュザンヌは、疲れた時の糖分の大事さをまったくわかってない。
私が沈み込んでいると、やりとりを見ていたクロードが笑い声を上げた。
「くくっ、本当にこのやりとり、飽きないな」
面白がる彼にムッとして、私は言いがかりのような文句をぶつける。
「クロードがシュザンヌの目を盗んで渡してくれたら、没収されなかったのに」
「そうは言うが、もしもチョコレートの食べすぎで太って、本当に着る服がなくなったら、ショックを受けるだろう? なら、最初からシュザンヌに預けておくほうが、心穏やかに食べられるんじゃないか?」
「まあ、そうかもしれないけど」
「俺が最初に持ってきたワインだって、太るのを気にしてまだ飲んでないみたいだし」
クロードが最初に持ってきたワインとは、エードルンドに移り住んだ私を追うように現れた彼が、お土産にくれたものだ。
いたずらっぽくも優しい目を向けられて、私はクロードから顔を逸らす。
「それは……もったいないから……」
言い訳を口にして、ほんわりと熱を帯びる胸に手を当てる。最近クロードと話していると、胸が熱くなることが増えていた。それも、彼の顔が無駄に美しいせいだろう。本当に心臓に悪い。
「そう不貞腐れるな。土産話もあるから一緒に食事でもしよう」
「それはいいけど……食事の内容はまだわからないわよ? もしかして、すごく質素かも」
「なんでもいいさ。レティーと一緒に食事ができるんだからな」
甘い台詞に、私の頬も熱くなる。熱を冷ますように、顔を窓に近づけた。
すると、ちょうど窓の下に人影を見つける。紺色の短髪にたくましい体躯の騎士、クリストフだ。私は急いで窓を開けると、彼に声をかける。
「おかえりなさい、クリストフ! 今日はどうだった?」
クリストフは顔を上げ、背中に担いでいる鹿をこちらに向けた。
「なかなかだな。今日は美味い肉を食べさせてやれそうだ」
クリストフは以前アレンフラールで騎士団長をやっていた、凄腕の魔法剣士である。シュザンヌと同じく、私に生涯仕えると誓ってついてきてくれた、得難い存在だ。
元々は従者として私に対してかしこまった言葉遣いをしていたけれど、私が平民になった今は、気楽に接してもらっている。
シュザンヌにクリストフ、そしてクロード。エードルンドで過ごすみんなとの穏やかな生活が、今の私の日常だ。
クリストフが狩ってきてくれた鹿を料理し、夕食の準備ができたところで、四人揃って食卓につく。
公爵家にいたころは、侍女のシュザンヌと食卓を囲むことはなかったが、こちらに来てからは一緒に食事をとることにしている。公爵令嬢という身ではできなかったから、今はシュザンヌと一緒に食べることができて嬉しい。
そんな食事の直前になって、クロードは手紙を差し出してきた。
「そういえば、さっきは渡しそびれたが、ほら」
クロードはエードルンドとアレンフラールを行き来しているから、時々こうして手紙の受け渡しをやってくれる。頻繁には無理でも、アレンフラールにいる家族や友人と手紙をやりとりできるのはとても嬉しい。
私は手紙を受け取って、その差出人の名を確かめる。
「ありがとう、クロード! えっと、お父様とミシェル、それにアンナ様からもあるのね!」
ミシェルは二つ下の弟だ。アンナ様は、私と同じように前世の記憶を持つ転生者で、いろいろあったけど今では親友といっても過言ではない。
気の置けない人達からの手紙を、実はいつも楽しみにしていた。
「ああ。あとでゆっくり読めばいい」
「うん! じゃあひとまず、手紙は置いといて。お料理が冷めないうちに――いただきます!」
「やっぱり食い気が優先か」
クロードの失礼な言葉を無視して、私は手を合わせると目の前の料理に向き合った。
手紙は読みたいけど、今はみんなを待たせている。しかもそれで料理が冷めてしまったら、作ってくれたシュザンヌにも料理にも失礼じゃないか!
そんなことを思いつつ、料理を口に入れる。
「うん! おいしい!」
クリストフが獲ってくれた鹿やシュザンヌの料理を、みんなで感嘆しながら堪能していく。食卓の時間は穏やかに過ぎていった。
ようやくお腹も落ち着いてきたころ、クリストフがぽつりと呟いた。
「そういえば、もう半年が過ぎたか」
「半年?」
「ああ。レティーがエードルンドに移り住んでから」
「ふーん。もう、そんなに経ったんだなぁ……。あっという間だったような、アレンフラールでの事件が遠い昔のような。なんか、不思議な感覚」
クリストフの言葉に、私はふと食事の手を止め、当初の目的を思い出した。それはぐーたらのんびり過ごしたい、というものだ。
半年前は、ここエードルンド王国は私の目的にぴったりだと思っていた。
エードルンドは大きな湾を持ち、この近辺で唯一の大陸外と船で行き来できる貿易国家だ。
国土こそ小さいが、三つの国に面しているため各国から貿易の中継地として重用されていた。この国が三国の貿易を支えていると言っても過言ではない。
またこの国は、三国からの不可侵条約によって守られている。もしどこかの国がエードルンドに手を出したら、他の二国が黙っていない。
ゆえに、ここは戦争に巻き込まれる可能性が低い、とても平和な国なのである。
そのような理由から、私達はエードルンドに亡命することに決めた。そしてエードルンド国内のアレンフラールとの国境に近い土地にある、手ごろな値段のこの屋敷を買ったのだ。とてもいい物件を買えて、本当に幸運だった。
そんな訳で、今はこうして田舎暮らしを送っている。
引っ越した当初は、夢見たぐーたら生活が実現できると信じていた。平民になったことで、自由に生きられると思っていたのだ。
ここに理想郷を作ろう。そう……激務だった看護師生活でも、訳のわからない女神信仰に押しつぶされそうになった悪役令嬢生活でもない、すばらしい幸せを、ここで営んでいこう。
「……そう思っていた時期が、私にもありました」
だが、現実はそんなに甘くなかった。
始まったのは、家事に追われる日々。大きな屋敷だから掃除一つとっても大変なのだ。
もちろん、有能な侍女であるシュザンヌがすさまじい速度でやってくれるのだけど、一人で整えるのは難しい。私が手伝って、やっと終わるという状況だった。
そして、生きることは食べること。食料品を得る手段は自給自足か、物々交換か、買うかのどれかだ。食い扶持を稼ぐのも、この屋敷の主人である私がやらなければならない。
ぐーたらなニート生活を送るなんて、公爵令嬢でもない限り無理。
そのため私は医者の真似事のようなことを始めた。そうして周囲の村に住む人々と交流をはからなければ、生きることすらままならない。
家事をやるのも、働くのも当然のこと。それはよーくわかっている。
だけど、それでも私はぐーたらしたい!!
お酒を飲んで、お菓子を食べて、好きな時に寝る。素晴らしきぐーたら生活。
しかもアレンフラールにはなかった海が、この国にはある。青い海、白い砂浜が私を待っているに違いない!
あぁ、海辺の街にバカンスに行きたい。家事からも労働からも解放されて、バカンスを楽しみたい。
そんな生活とは程遠い現状を思い、私は目の奥が熱くなるのを感じた。こらえきれず両手で顔を覆って俯いてしまう。
「こんなのどかな……しかも貿易が盛んなエードルンドにいるのに、どうして好き放題お酒が飲めないの!? 珍しいお酒がたくさんあるはずなのに、私は何をやっているの!?」
私の悲痛な叫びに反応してくれる人はいない。
失意のどん底にいる私をよそに、三人が夕食を口に運んでいる気配を感じる。
「また始まったな。余計なこと言うなよ、クリストフ。後が大変なんだから」
クロードは呆れた口調でクリストフに言う。
「そう言われてもな……。だがいつものことだろう? こっちに来て半年、週に一度はこんな様子だからな。いい加減慣れるものだ」
「そんなお嬢様も可愛いものです。食事を終えたら、部屋に戻ってベッドでごろごろし始めるはずですけど、お二人は見ていかれますか?」
あっさりしたクリストフに、妙な発言をするシュザンヌ。みんなの言葉は聞こえているが、知ったことではない。
――この田舎生活は、とても平和で穏やかだけど、やっぱりどこか厳しいのだ。
第一章 悪役令嬢と続篇主人公
翌日、私の屋敷に、近くの村に住むおばあちゃんがやってきた。彼女は自分で育てた農作物を売り歩く仕事をしていて、体にかなりの負担がかかっている。
その負担を少しでも減らしたくて、こうして屋敷に寄ってもらっているのだ。私にできるのは簡単な治療や、マッサージなんかだけど、何もしないよりはマシなはず。
「はい、おばあちゃん、治療が終わったよ。無理しないでね。特に、重い物はあんまり持たないこと」
「何言ってんだい。重い荷物を持たなかったら、仕事ができないだろ?」
「もう。じゃあ、体に負担がかかりにくい持ち方を習得してもらおうかな。ここをこうして……持ち上げる時は、手をこうして――」
体を動かしながら、おばあちゃんに重い荷物の持ち方を指導していく。
こんな風に診療したりアドバイスをしたりする代わりに、おばあちゃんは野菜をくれる。持ちつ持たれつの関係だ。
他にも、近くの村で病人や怪我人を診て食べ物を分けてもらったり、行商人と顔見知りになったり、少し遠くの街に買い出しに行ったり。公爵令嬢の時と比べると慎ましやかだけど、温かい付き合いをしている。
そういう訳で、現金収入がほとんどなく、公爵令嬢時代に貯めていたお金を少しずつ切り崩す生活だ。それでもなんとかやれているのは、切り盛りしてくれるシュザンヌと、狩りに出てくれるクリストフのおかげである。
今日も仕事を終えて、夕食の時間。私はすでに食卓についていた。
いろいろな手段で手に入れた食材を駆使して作られた料理が、食卓に並んでいる。おいしそうなご飯を前に、私は思わず唾を呑み込む。
近くの村から分けてもらった卵で作った、お月様のように黄色いオムレツ。その中には、これまた近くの村でもらったチーズが入っている。
オムレツとパン、スープに、簡単なサラダ。それを前に、私のお腹はさっきからぐーぐーとうるさく鳴る。
まだお預け状態なのは、シュザンヌがお茶の準備をしてくれているからだ。
ほら、早くシュザンヌも席に座って! みんな揃わないと食べられないじゃない!
そんな意図を込めてじっとシュザンヌを見ると、彼女はにこりと笑みを浮かべた。そしてゆっくりとお茶を淹れて、テーブルに並べてくれる。
それが終わった瞬間、私は声を上げた。
「早く座って、シュザンヌ。お腹が減ったからもう食べよう?」
「わかっておりますよ。小鳥のようにぴーちくぱーちく……お嬢様は本当に可愛いんですから」
「なんだか、私を貶したい気持ちがすごく伝わってきた」
「何をおっしゃいますか。さぁ、お待たせしました」
シュザンヌが着席したことを確かめて、私は手を合わせる。
「うん。では、いただきます」
「いただきます」
そういえば、今では当たり前に言っているけど、この挨拶は私の前世で使われていたものだ。
この世界では、無言で食べ始めることが普通。前世の記憶を取り戻した私にとっては、それがどこか寂しく、自然と使うようになったのだ。挨拶の意味を話して以来、シュザンヌ達も一緒にやってくれている。
「そういえば、レティー……」
私がパンをこれでもかと頬張っていると、クロードが何か思い出したように口を開いた。
「このあたりの村は結構な頻度で回ってるみたいだな? 今日顔を出したら、レティーのことを知っている村人がかなり増えていた」
クロードは私の仕事のことを気にしてくれているらしい。私はちょっぴり嬉しくなり、慌てて紅茶でパンを流し込んだ。
「そうね。日帰り圏内だと三つ村があるけど、どこも顔を覚えてくれるくらいにはなったかな? 今日みたいに屋敷に来てくれる人もいるから、それなりに認知されてると思う」
「よかったな。だが、それだけ回るとなると、村の行き来がなかなか大変じゃないか? いい加減、馬の乗り方を覚えたらどうだ」
「ぐ……だって、あの時のトラウマが――」
私は顔を歪め、低い声を出す。
トラウマというのは、アレンフラールにいたころ、クロードの馬の後ろに乗った時の痛い思い出のことだ。馬が地面に蹄をつけるたびに、馬の背にお尻を叩きつけられた痛みが、忘れられない。あれはただの拷問だ。できることなら乗馬は遠慮したい。
しかし、平民となった私には、馬車に乗るお金もない。
馬に一人で乗ることができれば大分楽になるというクロードの助言は、そのとおりだと思うんだけど……
「お尻……痛いの、嫌だ」
「馬鹿か。そんなの乗り方次第で変わるんだ。それこそ、俺も最初は姿勢が保てず辛くてな。よくクリストフにどやされたもんだ」
「はは、懐かしいな。あの時のクロードはまだ可愛げがあったんだが」
「そうね。今じゃ、憎たらしさしか感じないわね」
「言ってろ」
そんなことを言って笑い合えるこの場所は、とても幸せで溢れていた。
応援ありがとうございます!
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