居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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おかわり!

おかわり!-1

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 繋がる出会い―とある夏の日の出来事



 ――畜生! なんでこんな日に限って電車が止まりやがるんだ!
 山川智紀やまかわともきは車内放送を聞いたとたん、目の前の窓ガラスを殴りつけたくなった。もちろん、そんなことをしても自分の手が痛いだけで、強化ガラスはびくともしない。そもそも、ものに八つ当たりできるような性格ではない。
 思えば、今日は朝からことごとくついていなかった。
 今日は生ゴミの回収日。ゴミ出しは自分の仕事なのに、寝坊して慌てたせいで出し忘れた。ゴミが溜まっていなければよかったのだが、昨日覗いたゴミ箱は満杯に近く、さらに昨夜は魚料理だった。天気予報はこれから一週間、猛暑日が続くと言っていたので、放置した場合にどんなことになるかは想像にかたくない。
 おそらく、ゴミが残っていることに気付いた妻が出してくれるとは思うが、小言めいた台詞せりふをもらうのは必至だ。案の定、電車の中で受け取ったSNSのメッセージには、人を脅すように両手を掲げたクマのスタンプ……添えられた台詞は『ガオー!』だった。
 ただ、こういうスタンプを送ってくるのはコミュニケーションの一種で、妻も本気で怒っているわけではない。むしろ、お互いに仕事を持つ身だし、多忙と疲れでうっかり忘れることもある、というスタンスでいてくれる。おかげで、ゴミの出し忘れぐらいで夫婦喧嘩に発展することはないが、やるべきことができなかった自分自身を許せない気持ちがつのった。
 さらにゴミを出したあと、いったん家に戻って手を洗い、子どもを保育園に送る妻の姿を想像して一層落ち込む。
 ゴミ袋の外側を掴んだところで、手がそれほど汚れるわけではない。自分なら子どもと一緒に家を出てゴミを捨て、そのまま出勤する。だが、妻はゴミ袋を持っていた手で子どもの手を引いて、あるいは鞄を持って……というのが不快なのだろう。
 そんな妻の細やかさは、家庭を温かく心地よいものに保ってくれている。だからこそ、自分でゴミを出せず、妻に負担をかけてしまったことが悔やまれるのだ。
 智紀はとりあえず、平謝りしているペンギンのスタンプを返し、会社に向かった。そして、到着したとたん待っていたのは、立て続けのクレーム。
 正真正銘自分の責任だと思うものが一件、部下の尻ぬぐいが一件、どう考えても理不尽としか思えないとばっちりが一件……
 それらを処理し、通常の業務を始められたのは午後も遅くなってからで、当然作業は『押せ押せ』。就業時間内に終わるはずもなく、残業のを見た。
 遅くなると妻に連絡を入れると、子どもたちを連れて実家に行ってきてもいいか、とたずねられた。
 彼女の実家は、今住んでいる家から電車で三十分ぐらいのところにある。最近ちょっと父親の体調がよくないとのことで、ときどき様子を見に行きたいと考えるのは当然だった。
 明日は土曜日で、妻の仕事も休みである。どうせなら泊まってきてはどうか、という提案をしてみると、妻はこちらの夕食の心配をしたものの、実家に泊まることを選択した。やはり自分自身、そして子どもたちを父親と過ごさせたいという気持ちが勝ったのだろう。
『カレーとご飯が冷凍してあります。ポテトサラダも作ってあるからそれも』というメッセージが来たあと、追いかけるようにまた一通。なにかと思えば、『でも、疲れているならどこかで済ませてきても』というものだった。
 普段は家族、あるいは夫婦でご飯を食べているだけに、ひとりの食卓は寂しいのではないか。解凍するだけとはいえ、残業後では食事の支度も辛かろうという妻の配慮だった。
 ひどい一日だったが、少なくとも自分にはこうして思いやってくれる妻がいる。その事実に助けられながら、その日の作業をなんとか終わらせ、電車に乗り込んだ。
 ひとりの食卓は寂しいけれど、妻が作ってくれたカレーが食べたい。そんな思いで家路を急いだのである。
 ところが、ある駅に停車したところで電車が動かなくなった。アナウンスによると次の駅で人身事故があり、復旧までしばらく時間がかかるとのこと。
 次の駅まで行けば違う路線に乗り換えられるし、それがもともとの通勤ルートでもある。とはいえ、このまま動かない電車に乗っているのは馬鹿馬鹿しい。そこで智紀は電車を降り、次の駅まで歩くことにした。
 調べてみると、バス通りから小さな商店街を抜けていくのが一番近道らしい。たとえ道を知らなくても、今はスマホで調べられる。便利な世の中になったものだ、と感心しつつ、智紀は歩を進めた。
 ――夜になっても暑いなあ……喉が渇いて仕方がない。お、居酒屋がある。ちょっとビールでも引っかけて……いや待て、なんて名前だよ!
 暖簾のれんにくっきりと染め抜かれた店名は『ぼったくり』。
 とてもじゃないが、ひとりで暖簾をくぐる気にはなれない。
 けれどその時点で時刻は午後十時。腹の虫は限界に近い悲鳴を上げているし、周りに食事ができそうな店は他に見当たらない。こんなことなら駅前でラーメンの一杯でもすすり込んでくればよかった、と後悔しても後の祭り。なにせ、改札を出た時点ではそこまで空腹を感じていなかった。商店街まで歩く二十分ぐらいの間に、急激に腹が減ってきてしまったのだ。
 渇いた喉にビール、あとは枝豆かポテトフライ、そして唐揚げ……それぐらいで止めれば、ぼったくり料金にしてもそう大変なことにはならないだろう。カレーは帰宅してから、あるいは、どうせ妻たちは実家に泊まるのだから、明日の昼にでも食べればいい。
 かくして智紀は、物騒な名前が書かれた暖簾のれんをくぐることにした。


「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうから、店主らしき女性がにっこり笑って声をかけてきた。

「カウンターでよろしいですか?」

 おしぼりをホットキャビネットから出しながら、もうひとりの女性が椅子をすすめる。店は小さく、椅子の数も少ない。カウンターと小上がりを合わせても十五人入れるかどうか、どうやら店員もふたりきりらしい。
 その時点で客は誰もいなかった。やはり店名が『ぼったくり』では、二の足を踏むのだろう。入ってくるのはよほどの物好きか、自分のように空腹にさいなまれた一見いちげんばかり。最大限にぼったくられて再来なんてもってのほか、という店に違いない。
 この人の良さそうに見える女性たちも、一皮けば客の財布の中身にしか興味がないタイプに決まっている。
 ――唐揚げはなし、ビールと枝豆だけにして逃げ出そう!
 智紀はそう決意し、恐る恐るすすめられた椅子に座った。即座におしぼりと箸置き、そして箸が並べられる。続いて、お通しの小鉢……
 ――このお通しでいくら取られるんだろう……
 不安はマックス、だがどうせ金を取られるなら食べない法はない。小鉢の中にあったのは、角切りにした大根と厚揚げの合わせ煮。てっぺんに散らした小ねぎの緑が目に染みるようだった。しかも、お通しなんて冷え切った料理を出す店がほとんどだというのに、ちゃんと湯気が上がっている。
 意外に思いながら口に運んでみると、大根から染み出す出汁だしの濃さに圧倒された。昆布か鰹節かつおぶし、あるいはその両方かもしれない。とにかく、普段は忙しくて粉末出汁を使いがちな妻が、ここ一番というときに丁寧に取る出汁と同じ、いやもっと濃厚な味がした。

「旨い……」

 そう呟いたとたん、引き戸が勢いよく開いて、ひとりの男が入ってきた。

「こんばんは!」
「あ、ケンさんいらっしゃい!」
「え……あれ……?」
「へ……? あ、ヤマちゃん!」

 驚いたことにそれは同じ会社に勤める、しかも同期の富田賢太郎とみたけんたろうだった。部署こそ異なるが、新人研修のときに同じ班に割り振られた関係で、顔を合わせれば二言三言話はするし、何度か呑みに行ったこともあった。
 富田は嬉しそうな顔で、早速智紀の隣に席を占める。

「なんだ、なんだ、どうしてヤマちゃんがこの店に? もしかして俺が来そうだなってぎ当てたのか?」
「そんなすごい技は持ってないよ。人身事故で電車が止まっちゃって……」

 そこで智紀は、自分がこの店に来た経緯を説明した。

「あ、なるほど、そりゃ災難だったな。じゃあ、俺が降りた直後に止まったんだな」

 智紀よりも先に駅に着いたが、駅前で本屋に寄ってたんだ、と富田は言った。

「ま、俺の場合はもともとこの店に来るつもりだったから、問題ないけどね」
「もしかして、ケンさんはこの店の常連なの?」

 そこで智紀はカウンターの向こうにいる女将おかみを見上げた。女将は相変わらず柔らかい笑みを浮かべて答える。

「ええ。いつもご贔屓ひいきにしていただいてます」
「……意外」
「だろうな。こんな会社からも家からも遠いような店になんで、って思うよな」
「こんな得体の知れない店に、じゃないの?」

 おしぼりを出してくれた女性がそんな軽口を叩く。どうやら女将とは異なり、遠慮のない性格のようだ。

かおるちゃん、得体の知れない店って自分で言うなよ」
「だって、こちらのお客様も見るからにおっかなびっくりだったもの。ケンさんのお知り合いだったんだね」
「うん、会社の同期。わりといいやつ」
「わりと……」

 がっくりとカウンターに突っ伏した智紀を見て、富田は大笑いした。

「嘘、嘘。かなりいいやつだよ。礼儀正しいし、情に厚い。おまけに愛妻家」
「じゃあ、ケンさんと同じですね」
「お、美音みねちゃんわかってるなあ!」
「で、ケンさんはなにを呑まれますか? あ、こちら様もなにか……」

 富田の注文を取るついでに、店主は智紀にもたずねてきた。
 智紀は店に入るなりビールを注文したが、中瓶だったそれは、ほとんど空になっている。何度か呑みに行ったときの経験によると、確か富田は『とりあえずビール』派だった。ここは自分もお代わりをもらってビールで乾杯……と思っていると、富田は意外なことを言った。

「美音ちゃん、実は俺、腹ぺこなんだ。なにか腹に溜まるものとそれに合う酒をちょうだい」
「和、洋、中、どれがいいですか?」
「そうだな……気分は中だな」
「了解です」

 そう言うと女将おかみは、今度は智紀を見た。おそらく注文を待っているのだろう。
 腹が減っているのは同じ、居酒屋で『中』という選択も珍しくていいかもしれない。ということで、智紀の答えは一択だった。

「俺にもケンさんと同じやつを」
「わかりました」

 そして美音という名の女将は、酒専用らしき冷蔵庫の扉を開け、一本の酒瓶を取り出した。
 富田が嬉しそうな声を上げる。

「おーさすが美音ちゃん、中華料理に日本酒を合わせてきたか」
「一口に日本酒と言っても味は千差万別。どんなお料理にも合わせられるぐらい、日本酒は幅が広いんですよ」
「だよなあ……。この店に通ってると、つくづくそれを思い知らされるよ」

 そして富田は、疑わしげな目で見ている智紀に言う。

「この店にはビールも焼酎しょうちゅうもウイスキーもあるんだけど、この女将はなかなか通り一遍いっぺんの組み合わせで出してこないんだ。揚げ物にはビールだろう! と思ってても、あえて日本酒、それも発泡性やすっきり系の生酒なまざけを出してくる。で、それは無理だろう、なんて疑いながら呑んでみると、これがぴったり」

 もう自分で考えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどだ、と富田は女将の酒選びを絶賛する。さらに、料理について言及するのも忘れない。

「でもって、料理もすごいんだ。本人を前にして言うのはちょっとはばかられるけど、本当にどこの家でも出てきそうな料理ばっかり。簡単で、食材だって特にったものは使わない。それでいて、家では絶対食えないような味なんだ」
「へえ……」

 それ以外、智紀に何が言えただろう。確かにお通しには驚かされたが、智紀にはすんなりビールが出された。だがそれは、富田に言わせると、初見の客の好みなんてわからないんだから注文どおりに出すのが当たり前、何度か通っているうちにこちらの趣味嗜好を掴んで、気に入りそうな酒を出してくれるようになる、とのこと。いずれにしても『本番はこれから、乞うご期待』状態らしい。
 曖昧あいまいに頷いた智紀の気持ちを察したのか、富田は視線をカウンターの向こうに戻す。それを待っていたかのように、女将おかみの説明が始まった。

「こちらは『おくはり 純米スタンダード』、兵庫県姫路ひめじ市にある下村しもむら酒造店が造っているお酒です。『奥播磨』にはたくさんの種類がありますが、これは下村酒造店が一番最初に造った純米酒なんです。辛口で微かな酸味とフルーティな香りを持っていますから、中華料理にもぴったりです」

 女将は自信たっぷりにすすめてくる。それなら……と一口呑んでみて、智紀は首を傾げた。
 ――辛口……かなあ……?
 口に含んだ瞬間感じたのは、日本酒特有の甘みだった。これを辛口というのはいかがなものか、と女将を見上げる。だが、彼女は平然と野菜や肉を刻んでいる。
 そして口の中の酒を呑み下した瞬間、女将の自信たっぷりな笑顔の意味がわかった。

「味わいが変わった……」
「でしょう?」

 女将が目を上げて満足そうに頷いた。
 最初は甘いと感じた酒なのに、後味は微かに辛い。いったいどうしてそうなった? と問い詰めたくなるが、とにかく呑み込んでみれば確かにこの酒は『辛口』だった。
 甘口から辛口に変化する酒を楽しんでいる間に、女将はフライパンを取り出し、下味をつけた肉と千切りのピーマン、タケノコを炒め出した。どうやら作っているのは青椒肉絲チンジャオロースらしい。

「はい、お待たせしました」

 皿の上にはたっぷりの青椒肉絲がのっている。ふたり分にしても多すぎるのではないか、と思ったが富田は大喜びだ。

「青椒肉絲か! じゃあ、ご飯ももらわなきゃ」

 青椒肉絲ほど白い飯にぴったりのおかずはない、と富田は身を乗り出すように飯を注文した。
 ところが女将は後ろにある炊飯器に目をやったあと、富田に向き直って言う。

「ご飯、もうちょっと待っていただいていいですか?」
「え、飯がないの?」
「いえ……あるにはあるんですが、もう少しで炊きあがる分があるんです。炊き立てのほうがいいでしょう?」
「おいおい、そんなにぶっちゃけてどうするんだよ」

 それでは先に炊いた分が残ってしまう。黙ってあるものを出せばいいのに、と富田は苦笑いをする。けれど、女将ももうひとりの女性も全然気にしていなかった。

「残ってる分は雑炊にでもチャーハンにでも使えるよ。せっかく炊き立てがあるんだから、そっちを食べたほうが絶対いいって」

 だからもうちょっとだけ……と言った瞬間、炊飯器がピーピーと炊きあがりを知らせた。

「よかったー、グッドタイミング! これなら青椒肉絲チンジャオロースが冷めないうちにご飯と一緒に食べられるね!」

 めでたしめでたし、なんておとぎ話の最後のような台詞せりふで女性は頷いている。だがそこで、富田のグラスを見た女将おかみが、思案顔になった。

「でもケンさん、もうご飯にしてしまって大丈夫ですか? まだお酒も残っているし……」
「ご心配なく。俺、飯を食いながら酒を呑んでも平気な人なの。だから、その炊き立て飯、早くちょうだい」

 そして富田は、湯気が上がっている青椒肉絲を小皿に取り、早速食べ始めた。

「あー旨い……胃に沁みる……」

 富田が『感嘆』としか表現しようのない声を上げた。慌てて智紀も食べてみると、それは有名中国料理店にも引けを取らない味。とてもじゃないがこんな小さな居酒屋が出す料理とは思えなかった。

「この肉、なんでこんなに柔らかいんだ……」


 家でも青椒肉絲は頻繁に出てくる。野菜が高騰しているときでも、ピーマンは比較的価格が安定しているし、栄養もたっぷりで使いやすい。青椒肉絲にするとボリュームもあって十分主菜になるから、というのが妻の言い分だ。だが、家で出される青椒肉絲の肉はもっと固いし、こんなにツルツルした食感ではなかった。

「うん。うちのもこんなじゃない」

 首を傾げている智紀に、富田も同意してくれた。ところがそのあと、彼はぎょっとするようなことをたずねた。

「目茶苦茶いい肉……なわけないし、なにか秘訣があるの?」

 いい肉を使っていないと断定するのはどうかと思うし、そもそも飲食店でそんなことを訊ねても、教えてくれるわけがない。少なくとも智紀が知っている飲食店は、料理の秘訣についてぺらぺらしゃべったりしない。それはちょっと企業秘密なんで……なんてごまかされるのが常だった。
 だが、この店の女将には『企業秘密』という概念そのものがないらしい。あっけなく秘訣を披露してくれた。

「秘訣はお肉の下拵したごしらえです」
「下拵え? それってあらかじめ味をつけて片栗粉をまぶして、ってやつだろ?」

 うちのかみさんもちゃんとやってるよ、と富田は言う。確かに智紀の妻も、青椒肉絲チンジャオロースを作るときはそういった作業をしていたような気がする。智紀自身は青椒肉絲を作ったこともないし、妻が作るところをじっと見ていたこともない。ただ、冷蔵庫に飲み物を取りに行ったとき、そんなことをしていたような記憶があるだけだ。
 富田は、智紀よりはちゃんと見ていたようで、さらに質問を重ねた。

「肉を柔らかくするためには酒がいいって、うちのもたっぷり入れてた。粉だって丁寧にまぶしてたしさあ……でも違うんだ。美音ちゃん、絶対他にもなにかやってるよな?」
「なにか……ってほどじゃないんですが、うちでは卵を使ってます。下味をつけて、片栗粉をまぶす前に溶き卵を絡めるんです。そうすることでお肉は柔らかくなるし、炒めたときにお肉同士がくっつかなくなりますよ」

 ついでに、本当はあらかじめ材料を油で揚げるのだが、それが面倒な場合は、肉だけでも別に炒めておくといい。その場合は、あえて低めの温度でゆっくり……と女将おかみは教えてくれた。

「溶き卵と低めの温度で炒めとく……なるほどね。で、卵の量はどれぐらい?」

 うちのかみさんに教えてやりたい、そうしたらうちでも旨い青椒肉絲が食えるようになるかもしれない、と富田は食いつくようにたずねた。女将はこれまた平然と答える。

「ケンさんのところは四人家族でしたよね? だったら小さめのをひとつぐらいです」
「サンキュー。伝えとく」

 そして富田は、大満足な顔で青椒肉絲をぱくつき始めた。
 ――亭主が外で呑んでくることに嫌な顔をする奥さんは多いらしいけど、こうやって料理の秘訣を聞いて帰るなら、それもちょっとは緩和されるのかな……。それにしてもこの店は酒も料理も旨い。ケンさんは同期だから給料だってそんなに変わらないし、家族構成も似たようなもの。そのケンさんが常連になれるぐらいだから、勘定だってそう高くはないんだろう。『ぼったくり』か……これは思わぬ拾いものだったな。偶然の出会いに大感謝……あ、そうだ、会社の若いのに残業続きでろくな飯が食えないって嘆いてるやつがいたな。あいつにこの店を教えてやったら喜ぶだろうな……
 智紀は惜しげもなく秘訣を披露する女将に驚きつつも、そんなことを考えていた。


     †


「あったかいご飯が食べたいなあ……」

 都内の百貨店に勤めている田宮朋香たみやともかは一日の勤務を終え、ロッカールームで制服を脱ぎながらそんな呟きを漏らした。
 それを聞きつけた同僚が、不思議そうな顔を向けてくる。彼女は朋香より三歳年上で、隣のロッカーを使っている。今日はたまたま退勤時刻も同じだったため、並んで着替えているところだった。

「田宮さん、普段は冷たいご飯ばかり食べてるの? いくら夏で暑いからって冷たいものばかりじゃ身体に悪いわよ」

 朋香の台詞せりふを彼女は文字どおりに解釈したらしい。もちろん、連日冷やご飯とか冷たい麺のたぐいを食べているわけではない。ご飯とおかずに温かいスープや味噌汁を添えて、あるいは熱々のパスタやラーメンを食べることもある。ただ、問題はそれらが全て外食、あるいはコンビニやデパ地下で買った総菜の類いだということである。しかも外食は夜遅くまで開いているファミレスが中心で、味はそれなりだが作っている人の顔が見えないという意味では、持ち帰りの総菜と変わらない気がするのだ。

「温度の問題じゃないんですよ。なんというか……作ってくれた人の温かみを感じたい、みたいな?」
「あー……なるほどね」

 同僚は朋香が言わんとすることを理解したらしく、軽く頷いたあと、違う質問をした。

「田宮さんはうちに入ってからどれぐらい? もう二年ぐらいは経った?」
「三年半です」
「あら、そんなになるの。確かひとり暮らしだったわよね? じゃあ、そういう気持ちになるのは無理もないわ。私もあなたぐらいのころ、よくそんなふうに思ったものよ」

 都内に実家がありながら、就職を機にひとり暮らしを始めた朋香と異なり、彼女は親元から大学に通い、就職のために上京したと聞いた。初めてひとりで暮らす嬉しさと珍しさ、加えて仕事に慣れるのに一生懸命なあまり、二年ぐらいは特に気にせずに過ごせていた。だが、三年目に入ったころからひとりきりの食事が辛くなってきたという。

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