居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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おかわり!

おかわり!-2

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「お昼は誰かとランチに行ったりできるし、そうじゃなくても社員食堂に行けば誰かがいる。だからそんなに寂しさを感じずにすむわ。でも夜はだめ。疲れて帰っても迎えてくれる人は誰もいない。真っ暗な部屋に自分で電気をつけて、買ってきたお総菜のレジ袋を置く……その『カシャ……』って音がすごく大きく感じるの。レンジでチンして、火傷やけどをするほど熱くして、味だってけっこう美味しい。それなのにどこかわびしくて……。かといって、自炊する気力も体力も残ってない。もうとにかく食べて寝ちゃいたい、って……」
「わかります……というか、同じです」
「やっぱりね……あの気持ちは、ひとり暮らしの社会人じゃないとわからないよね」
「もうそろそろ慣れてもいいと思うんですけどねえ……」
「慣れるものじゃないと思うわよ。慣れたと思ってても、突然襲ってくるのよ、孤独感が。あれは辛かったわ」

 そこで朋香は、彼女が『辛い』ではなく『辛かった』と言ったことに気付いた。過去形で語るということは、彼女はもうその問題を克服したのだろうか。だとしたら、是非ともその方法が知りたい。祈るような気持ちで、朋香はたずねた。

「なにか解決策を見つけたんですか?」
「解決策と言っていいかどうかわからないけど、私には有効だったって方法ならあるわ」

 固唾かたずを呑むように続きを待つ。彼女は朋香の必死な表情を見てクスリと笑った。

「本当に辛いのね。じゃあ、教えてあげる。私は行きつけのお店を作ったの」
「行きつけ?」
「そう。賑やかに騒ぐ人がいないような呑み屋。私の場合、本当は食堂がいいんだけど、お酒を出さないような食堂って閉まるのが早いでしょ? だから呑み屋。できればカウンターとテーブルが二つか三つぐらいしかないような、個人でやってる居酒屋。あ、そうだ、田宮さん、お酒は?」

 さすがに下戸げこにこの作戦は使えないと思ったのか、彼女は心配そうにいた。だがそれはいらぬ心配だ。朋香は大の酒好きとまではいかないが、呑むこと自体は好きだった。

たしなむ程度です」
「ってことは、相当強いわね」

 同僚はにやりと笑って、続きを話し始めた。

「店主とお運びさんがひとり、できれば夫婦か家族でやってるようなアットホームなお店を探して常連になるの。続けて通って顔を覚えてもらえれば、カウンターに座っておしゃべりしながら、なんてこともできるようになるわ。うまくすれば、新メニューのお試しとかもさせてもらえたりね」

 とはいっても、そこまでになるには相当時間がかかるけど、と彼女は笑った。

「でも……今時そんな小さくてアットホームな居酒屋ってありますか? どっちを向いてもチェーン店ばっかりみたいな気がしますけど」
「そうねえ……駅前とかはそんな感じだけど、ちょっと離れれば案外あるわよ」
「えーっと……その……」

 できれば同僚が通っている店を教えてほしかった。だが、彼女に教える気はないらしい。着替え終わった制服をロッカーにしまい、パタンとドアを閉めた。

「ってことで、その気があるなら頑張って探してみて」

 そして彼女は、お先にーと足取り軽く帰っていった。もしかしたら、今夜もその店に寄るつもりなのかもしれない。
 ――そりゃそうよね。苦労して探した隠れ家みたいな店をあっさり教えてもらえるわけがない。それに、同じ職場の人間が来てるとなったら迂闊うかつに仕事の愚痴も言えないものね……。でも、確かに行きつけの呑み屋を持つっていうのはいいかもしれない。ご飯屋さんじゃなくて呑み屋さんか。見つかるかどうかわからないけど、ちょっと探してみようかな……
 そして朋香は、同僚ほどではないものの、少しだけ軽い足取りでロッカールームをあとにした。


 その後、朋香はインターネットを駆使していろいろな店を当たってみた。
『こぢんまり』とか『家庭的』に加えて『おひとり様歓迎』なんて検索ワードを入れてみて、出てきた店のレビューを片っ端から読む。その際、評価の高さ低さは大して気にしなかった。
 朋香とて同じ客商売だ。評価の数字はその客が何を求めているかによることぐらいわかっている。そっとしておいてほしい客にとって、あれこれ話しかけてくる店主はマイナス評価だし、賑やかに騒ぎたい客に静寂に満ちた雰囲気は望ましくない。
 要するに自分が『ピンとくる』店であればいい。それだけを頼りに、何十もの店のレビューを読み続けた。さらに、これぞ、と思う店が出てくるたびに、足を運んで確かめてみた。
 さすがに毎日居酒屋に通うわけにもいかず、あっという間に店を探し始めてから半年が過ぎていった。
 やっぱり無理なのかな、と思い始めたある日、朋香はいつもとは違うレストランガイドサイトにアクセスしてみた。そこで、最新記事として上がっていたのが『ぼったくり』という店だった。
 ――居酒屋『ぼったくり』? すごい名前ね。本当にぼったくっているのかしら……
 あまりにも気になりすぎる店名に、早速レビューページを開いて読んでみる。


『久しぶりに来店してみたら店主が代わっていた。以前は中年夫婦がやっていた記憶があるが、今は若い女性ふたりになっている。味も変わってしまったのではないかと心配しながら、以前よく頼んだ手羽先スペシャルを注文してみたところ、まったく味に変化はなく、ジューシーな鶏肉、焦げた醤油しょうゆとタバスコのぴりりとした辛み、振りかけられた粉末ガーリックがビールを呑む手を止めさせない。ほかの料理もまったく同じとまではいかないけれど、許容範囲。新しい料理もいくつか増えていた。店主のおもちをじっと見てみると、なんとなく先代に似ている。もうひとりの女性は以前の女将おかみに似ている気がするし、もしかしたらこのふたりは先代の娘たちなのかもしれない。いずれにしても、代替わりに不安を覚えている人はご安心を。先代はしっかり跡継ぎを仕込んでいった。また来店したいと思う』

 ――なんかこれ……やらせっぽいわね。
 それがレビューを読んだ最初の感想だった。
 これといった根拠があるわけではない。ただ、客商売でつちかった勘のようなものが、『久しぶり』の来店にしては思い入れが強すぎる、と告げていた。ネット上の口コミ掲示板で、味や接客態度ならともかく、代替わり云々についてこんなに語るだろうか。しかも最後は、代替わりで離れそうになっている客を引き留めるような文章になっている。
 もしかしたら店主、あるいは一緒に店をやっている女性のどちらかが書き込んだのではないか、と朋香は思ってしまったのである。
 ――でも、この手羽先スペシャルってお料理はちょっと食べてみたいわね。タバスコを使った手羽先料理なんて食べたことがないし……。若い女性がふたりでやってるお店なら入りやすいかもしれない。機会があったら行ってみようかな……
 アクセス情報を見てみると、駅から若干距離がある。この間の同僚も狙い目は駅から離れた店、と言っていたし……ということで、朋香は来店候補リストに『ぼったくり』という店名を加えた。それは、桜が散り、青葉の季節を迎えるころだった。
 ところがその後しばらく、遅番と残業が続き、行きつけの呑み屋探しどころではなくなってしまった。朋香が再びその店の名を聞いたのは、夏が来るころ、しかも恋人の育也いくやからだった。

『いい店を見つけたんだけど、今晩、そこにしない?』

 仕事が一段落したある日、久々にゆっくりデートでも……と連絡をした朋香に、育也はそんなメッセージを送ってきた。

『何系の店?』
『居酒屋。この前、会社の人に連れていってもらったんだ。ちょっと恐い名前だけど、料理も酒も抜群だった』

 恐い名前というフレーズで、以前読んだレビューを思い出した。もしかして……とたずねてみるとやはり『ぼったくり』だという。
 育也は朋香が店の名前を知っていたことに加えて、以前から行ってみたかったという話に驚きつつも、どこかほっとした様子だった。おそらく『ぼったくり』なんて店に行こうと言い出したら、朋香が反対するのではないかと心配していたのだろう。

『じゃあ、待ち合わせはその店の最寄り駅。仕事が終わったら連絡する』

 育也のメッセージに『了解』と返信し、その夜ふたりは『ぼったくり』に行くことを決めた。
 ところが、久々に仕事を定時で終え、ロッカールームで確認したスマホには、土下座をしているアザラシのスタンプが表示されていた。

『ごめん! ちょっと急な仕事が入った。一時間ぐらいで片付くと思うけど、どこかで時間を潰せる? 日を改めてもいいけど、できれば会いたいし』

 できれば会いたい、の一言ににんまり笑う。もちろん、一時間ぐらいどこででも潰せるし、明日は休みだ。スタートが多少遅くなっても大丈夫……と考えかけて、朋香はふと思い付いた。
 ――いっそ、ひとりで行ってみようかな。育也はもう行ったことがあるんだし、初めて来たお客さんにどんな対応をする店なのかちょっと見てみたいし。
 同じ客商売、気になるのはやはり接客態度、ということで、朋香は育也にメッセージを送った。

『先にお店に行って、呑みながら待ってるわ。そのほうが育也も仕事に集中できるでしょうし』

 一時間のつもりでいても時間どおりに終わるとは限らない。残業中に別の仕事が入ってくる可能性だってゼロじゃない。ウインドウショッピングができそうな店は一時間もすれば閉まってしまうし、本屋や喫茶店も長時間は辛い。それなら、目的地で待っているほうが、育也だって気楽に違いない。万が一、彼が来られなくなったとしても、朋香の『ぼったくり』に行ってみたいという願いは叶えられるのだから……
 かくして朋香は、ひとりで『ぼったくり』の暖簾のれんをくぐることになった。


「いらっしゃいませ」

 引き戸を開けると同時にカウンターの向こうから声が飛んできた。そして、朋香が引き戸を閉めるのを待って、もうひとりの女性が声をかけてくる。

「カウンターでよろしいですか?」

 飲食店に入ったときによくかれる『おひとり様ですか?』という言葉はなかった。
 おそらく、ためらいなく引き戸を閉めたことでひとりだと判断したのだろう。
 朋香はもともと、ひとりで呑んだり食べたりすることに抵抗がない。それでも改めて『おひとり様』という言葉をかけられるとほんのちょっぴり胸が痛む。
 自分は友だちが多いほうだと思うし、今日は待ち合わせ、正確にはデートだ。だが、もしもこれが友だちや恋人がいなくて、なおかつそれを苦に思っている状況だったら、『おひとり様』という言葉に傷つく可能性もある。ただの人数確認、席を決めるために必要なのだとわかっていても……
 ところがこの店は『おひとり様』という言葉は使わなかった。ひとりで入ってきたことは見ればわかるし、あとから複数の連れがくる、あるいはテーブルを使いたいとしたら『カウンターでよろしいですか?』という問いかけに異議を唱えるはず、とでも考えているに違いない。
 すすめられたのは、壁際からひとつ離れた席で両隣は空席。この状態なら、待ち合わせだったとしてもふたりまでは対応できる。なかなか心得た接客だ、と感心しながら、朋香は使い込まれた感じの椅子に腰を下ろした。
 すぐにおしぼりと箸、そして品書きが目の前に置かれた。そして、品書きの他にもう一枚、『本日のおすすめ』と書かれた紙。草臥くたびれても汚れてもいないから毎日書き換えているのだろう。
 さてさて……と目を走らせようとしたとき、スマホがメッセージの着信を知らせた。もちろん育也からで、今終わったからただちに向かう、とのことだった。
 ――よかった、思ったより早かった。育也の会社はわりと近いから、お料理もこのタイミングで注文しちゃって大丈夫よね。
 気を付けて来てね、と返信し、朋香は改めて品書きを見る。
 幸いなことに、『本日のおすすめ』にレビュー記事で読んだものと同じ料理が載っていた。
 これが食べたかったのよ、とほくそ笑みながら早速注文する。

「手羽先スペシャルをお願いします。それから、お野菜……」

 栄養バランスは大切だ。だが、野菜を料理するのは案外手間も時間もかかる。刻んでドレッシングをかけるだけのサラダは簡単だが、そればっかりでは飽きてしまう。朋香ですらそうなのだから、育也はもっと野菜を食べていないはずだ。だから朋香は、育也と食事をするときには意識的に野菜料理を頼むことにしていた。
 野菜料理を探して品書きに目を走らせる朋香に、店主がたずねる。

「お野菜はいろいろご用意できますが、どんなのがお好みですか?」
「なんでもいいんですけど、できればサラダ以外で」
「じゃあ……煮浸しなんていかがでしょう? 素揚げした野菜を醤油しょうゆベースのタレに漬け込んだものです。ナス、オクラ、ミョウガ、パプリカ、カボチャ、ズッキーニをたっぷり入れてあります」
「夏野菜ね! じゃあそれをお願いします」
「はい。お飲み物はどうされますか? あ、お食事だけでも大丈夫ですよ」
「え、でも、ここって居酒屋ですよね?」
「そうなんですけど、うちのお客様の中には、今日は呑みたくない、ご飯だけしっかり食べたいっておっしゃる方もいるんです。お酒の気分じゃないのに、うちの店の料理が食べたくてわざわざ足を運んでくださる。それなら無理に呑んでいただかなくても、最初からお食事でいいかなって」

 そう言ったあと、店主は黙って朋香の注文を待っていた。
 面倒くさそうでもなければ、急かす様子もない。控えめな笑顔でただカウンターの向こうに立っていた。

「お気遣いありがとう。でも、私は案外呑兵衛のんべえなのよ。だからお酒をいただくわ」

 普段なら『たしなむ程度』と答えるのに、今日はみずから『呑兵衛』を名乗った。
 それはさっきの店主の言葉で、彼女の酒に対する思いを感じ取れたからだ。
 店主は、呑みたくない人にまで呑ませたくない、と言った。それは、それぐらい客を大事にしているという気持ちの表れだが、裏を返せば、呑みたがっている客にしか呑んでほしくないということだ。おそらく、そう考えるほど酒そのものを大事にしているし、愛着も感じているのだろう。
 そんな店主相手に自分の酒好きを隠す理由はなかった。

「では、サワー系のなにか……」

 店主はそう言うと、すかさずもうひとりの女性が大きめのグラスと炭酸水の瓶を取り出した。朋香はちょっと残念な気持ちで言葉を返す。

「サワー? この手羽先スペシャルと夏野菜の煮浸し、両方に合うお酒ってやっぱりビールかサワーってことになるのかしら」

 ところが店主は、即座に首を横に振った。

「日本酒でもウイスキーでも大丈夫です。でも、駅から歩いていらっしゃったとしたら喉が渇いてらっしゃるでしょうし、少し甘めでごくごく呑めるものがいいかなと……」
「はーい、お待たせしました!」

 明るい声とともに目の前にグラスが置かれた。縁にレモンが飾られているところを見ると、レモンサワーだろう。普通すぎる酒が出されたことにがっかりしつつ、朋香は一口呑んでみた。

「あら……?」

 柑橘系の酸味、しかもレモンならば真っ直ぐ突き刺さるような酸味だけしか感じないと思っていたのに、微かな甘みがある。しかもそれだけではなく、もっと別の爽やかさがあった。
 もう一口呑んでみて、やっと気が付いた。

「これ、生姜しょうがが入っているのね? ジンジャーエールじゃないから、生の生姜?」
「いいえ。生じゃなくて自家製の生姜シロップなんですよ。生のレモンは香りが素晴らしいんですけどちょっと甘みが足りないし、レモンシロップでは甘すぎる。そんなふうにおっしゃるお客様がいて、じゃあ生のレモンに生姜のシロップを足したら? って思ってやってみたら案外好評で」

 考えたのは妹なんですけどね、と店主はもうひとりの女性を見て笑う。店主の言葉に、女性はちょっと嬉しそうに頷いた。なるほど、姉妹なのか……と改めて見てみると、確かにおもちがなんとなく似ていた。

「へえ……生のレモンに自家製の生姜シロップ。今の季節には嬉しい飲み物ね」

 そう言いつつまた一口呑む。サワーやちゅうハイのたぐいを頼むと、ときどき、どこにアルコールが入っているの? と言いたくなるほど薄い場合がある。けれど、この生姜レモンサワーはしっかり酒の味がする。しかも取り出された酒の瓶を確かめると、ベースは焼酎しょうちゅうではなくウォッカを使っているらしい。
 朋香はバーに行ったとき、ウォッカやテキーラベースのカクテルを好んで注文する。まさかこんな……と言っては失礼だが、かなり和風の居酒屋で正統派のサワーが出てくるとは思わなかった。しかも、ベースの酒の濃さも自分好みだ。つくづく『呑兵衛のんべえ』だと白状しておいてよかったと思ってしまったが、なぜこんな酒がさっと出てくるのか、少々不思議だった。
 さりげなくメニューを確かめてみても、 今朋香に出されたような酒は書いていない。好奇心が抑えられなくなり、とうとう朋香は真っ正面からたずねてみることにした。

「メニューにはないみたいだけど、カクテルを出すこともあるの?」
「そうですねえ……ショートカクテルはシェイクの技術が難しすぎて私には無理ですけど、ステアで済むロングカクテルはたまーにお出しすることもあります」

 女性は甘い酒を好むことが多い。とりわけ一杯目の酒は、ビールよりもサワーやちゅうハイを頼まれることがあるため、いろいろ挑戦中なのだ、と店主は語った。そして、慌てて付け加える。

「あ、でもこのレモンと生姜しょうがのサワーはお試しではなくて……」
「何度もお店で出して、好評だったのよね。わかるわ、とっても美味しいもの」
「ありがとうございます」

 店主はほっとした様子で軽く頭を下げた。そして、また一口呑み、うんうんと頷く朋香を見て、アドバイスをくれる。

「うちでは手作りしてますけど、市販の生姜シロップでも美味しくできます。よろしければおうちでもやってみてくださいね」
「あーなるほど、最近人気だものね、生姜シロップ。缶酎ハイに垂らすだけでも平気かしら?」
「もちろん。いつもとひと味違って面白いと思いますよ」
「そうねえ……」

 朋香の勤める百貨店でも生姜シロップを扱っているはずだ。今度小瓶を買ってみよう、と思っていたところで、勢いよく引き戸が開いた。入ってきたのは育也である。

「ごめん、トモ。待たせた!」
「早かったわねえ……っていうか、早すぎ?」

 思わず朋香は時計を確かめた。
 残業を知らせるメッセージを受け取ってからまだ一時間、店に入ってから十分ぐらいしか経っていない。彼の会社からここまでの距離を考えたら、やはり『早すぎ』としか言いようがなかった。
 だが、育也は平然と言う。

「目茶苦茶頑張って終わらせた。うちの会社からこの店の最寄り駅までは乗り換えなしで来られるし、駅からはタクシー」
「タクシー! なにもそんな……」
「ちょっとでも早く着きたくてさ。それ、一杯目?」

 育也は三分の一ほど減ったグラスを目で示しながらたずねた。朋香が頷くと、満足そうに隣に腰を下ろす。朋香のとき同様、早速おしぼりが差し出された。

「いらっしゃい、イクヤさん」
「こんばんは」
「待ち合わせだったんだね。うちみたいな店に女性がひとりでいらっしゃるなんて珍しいと思ったんだ」

 育也は、うちみたいな店、という言葉にひとしきり笑ったあと、ちらりと朋香に目をやった。
 長い付き合いだからわかる。彼は、朋香を紹介するかどうか確認を取っているのだ。なにも触れずにいることもできるが、朋香がこの店を気に入って、今後も通いたいというのであれば軽く紹介しておいてもいい、という考えだろう。もちろん、朋香の答えは後者だった。
 軽く頷いたのを確認して、育也は店の女性ふたりに朋香を紹介した。

「こちら、俺の彼女。本当は一緒に来るはずだったんだけど、仕事が長引いちゃって」
「そうだったんだ! ありがとうね、イクヤさん。彼女さんを誘ってくれて」
「どういたしまして。こいつ、酒にも料理にもうるさいから、絶対この店を気に入ると思って」
「ありがとうございます。どうぞ、ご贔屓ひいきに」

 カウンターの向こうから、店主が深々とお辞儀をしてくれた。こちらこそ、と頭を下げ、ついでにひとつ質問をした。

「こちらのお店って、ひとりで来る女性はいないんですか?」
「いらっしゃらないこともないですが、若い方は少ないです。堂々と『ぼったくり』を掲げちゃってる店なんて、やっぱり恐いでしょ?」

 うっかり素直に頷いてしまったあと、朋香ははっとして付け足す。

「でも、このお店のことは前から知ってました。行ってみたいなあと思ったけど、なかなか時間が取れなくて……」
「で、俺がこの店の名前を出したら、飛びついてきたってわけ。おまけに、遅れそうだからどこかで時間を潰してって頼んだら、ひとりで先に行くって……。ま、それぐらい気になってたってことだよ」
「そうなんですか……嬉しいです。改めまして、ようこそ『ぼったくり』へ」
「というわけで、以上紹介終わり。トモ、料理はなにか注文した?」
「手羽先スペシャルと夏野菜の煮浸しを頼んであるわ。育也、飲み物はどうする?」
「手羽先スペシャルがあるんだ! ラッキー!」

 育也も朋香同様に大喜びしている。なんでも、彼もやはりあのレビュー記事を読んでいて、是非食べてみたいと思っていたのに、なかなか出会えなかったらしい。
 ふたりの話を聞いていた店主が、すまなそうに言った。

「申し訳ありません。そんなに珍しいメニューではないんですが、たまたま……」
「うん、わかってるよ。俺のタイミングが悪いだけ。先輩たちはけっこう頻繁にありついてるみたいだし。なんといっても、レビューを書いちゃうぐらいだから」
「え、あの記事、育也の先輩が書いたの!?」
「うん。ここの常連で俺を連れてきてくれた人たち。あの記事を書いた人は、代替わりする前からの常連なんだって」

 育也はこの店に、ふたりの先輩と一緒に来たという。もともと、この店の常連だったのはひとりだけで、隠れ家的に使っていたところ、偶然もうひとりの先輩と店で鉢合わせした。その後は、ふたり揃ってやってくるようになったそうだ。

「あら……それじゃあ、隠れ家がなくなっちゃったってこと? おまけに育也まで来るようになって、大丈夫なの?」

 朋香の同僚も隠れ家的な店を持っていたが、教えようとはしなかったし、朋香も無理にくつもりはなかった。そんなに簡単に教えてしまって、育也の先輩は大丈夫なのか、と心配になってしまう。
 だがその心配は、店主の妹が払拭してくれた。

「それは大丈夫。最初はあたしも心配したんだけど、ここで出会ってからは、必ずふたり一緒に来てくれるようになったの。もともと仲良しだったんだけど、うちに一緒に来てくれるようになって前よりもっといろいろ話せるようになったって、ケンさん、喜んでた」


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