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8巻
8-1
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おじいちゃんの記憶
昼下がり、東京下町で居酒屋『ぼったくり』を営む美音は、散歩に出かけようと引き戸を開けた。
先週からずっと天気が思わしくなく、もう灰色の空には飽き飽きしていた。だが、今日の空は晴れ渡り、秋の盛りに相応しく深い青を呈している。
美音は日々白んでいくような春の空も好きだが、冬に向けて色を深めていく秋の空も大好きだ。特に、まっすぐに伸びる飛行機雲を見つけたときなど、背景の青との対比が美しく、いつまでも見上げていたくなる。
仕込みも終わった秋の午後、こんなに気持ちのいい一時を休憩に費やせるというのはなんとも贅沢なことだ、とありがたく思いながら、美音はいつもの散歩コースである『ショッピングプラザ下町』に向けて歩き出そうとした。
そこにやってきたのは、三日に一度、決まって『ぼったくり』を訪れる常連客のウメだった。
「こんにちは、ウメさん。やっと晴れましたね」
「秋の長雨とはよく言われるけど、本当に久しぶりのお天道様だ。やっぱり青い空を見ると気持ちも明るくなるねえ」
「本当ですね。あら……」
そこで美音はウメが手にしているレジ袋に目を留めた。ぱんぱんに膨らむほど詰め込まれた袋を見て、にっこり笑う。
「今年のお芋掘りも無事に終わったようですね」
「無事とは言いづらいよ。台風が来てたせいで、ずいぶん遅めの芋掘りになっちまったんだってさ。でもまあ、やっと終わったみたいだね」
「遅くまで土の中にあったのなら、きっと大きなお芋が穫れたことでしょう」
「どうだかねえ……あたしには去年と変わらないように見えたけどね」
「それは残念」
そんな会話を交わしたあと、ウメはぴょこんと頭を下げる。
「美音坊、いつもいつも面倒なことを頼んで申し訳ないけど、よろしく頼むよ」
「了解です!」
右手を上げて敬礼した美音に、ウメは嬉しそうに笑った。
商店街から少し離れたところにあるあおはずく幼稚園は、園庭に小さな畑を持っていて、毎年六月になると年長組の園児たちがサツマイモの苗を植える。
何本か並んで作られた畝に、ひとり一本ずつ苗を植え、当番を決めて水をやりながら実りの秋を待つ。空の青が濃くなり、雲が鰯の形になるころ、子どもたちは待ちかねたように運動靴を長靴に履き替え、畑に走っていく。
葉や茎の大部分は先生方が予め切っているので、地面から出ているのは数十センチの茎のみ。その茎の根元を、子どもたちは喜び勇んで掘り始める。茎に繋がる根っこを切ってしまわないように丁寧に丁寧に……
茶色の土の中を掘り進み、赤紫のサツマイモを見つけた子どもは盛大に歓声を上げるのだ。園児は毎年入れ替わるけれど、あの歓声だけは毎年ちっとも変わらない、なんともかわいらしい、とウメは目を細める。
もちろん、美音も同じ思いだ。親に手を引かれて園に向かう子どもたちの手に、長靴の入ったレジ袋が提げられていると、ああ今日はいよいよ……とほほえましく見送る。
それと同時に思うのだ。
今日は幼稚園のお芋掘り。それなら、きっと午後にはウメさんが来てくれる、と……
聞くところによると、あおはずく幼稚園は地域親交に重点を置いているそうだ。
昨今核家族化が著しく、祖父母と暮らす子どもは少ない。そんな子どもたちに、少しでもお年寄りと触れあってもらいたいという思いもあって、あおはずく幼稚園は行事のたびに地域の老人会のメンバーを招く。
七夕やクリスマスのお遊戯会では園児のかわいい歌や踊りを見られるし、園内夏祭りでは園児が打ち鳴らす太鼓に拍手喝采、小さな御神輿を一緒に担ぐ。
秋が来ればお月見団子を、師走になればお餅を、園児とお年寄りが一緒になって作るのだ。
ウメはそんな幼稚園との交流に欠かさず参加、わけても十月に行われるお芋掘りを待ちわびている。
焼き芋や蒸し芋にかじりつく子どもに目を細めたり、お客さん用にと保護者が作ってくれたスイートポテトに舌鼓を打ったり、なんとも楽しい行事なのだそうだ。
だが、行事そのものよりウメが楽しみにしているものがある。それは、半年近くサツマイモを育て、ようやく役目を終えたばかりの茎だった。
園児たちが畑に入る前に切り取られた茎は、たいてい畑の片隅に山積みにされ捨てられるのを待つばかりになっている。
ウメは毎年幼稚園の許可を得て、その山の中から柔らかそうな部分を摘んで袋一杯持って帰るのだ。
「今時こんなものを食べる人はいないかもしれない。貧乏くさい、って言う人もいる。でも、あたしはこれが大好きでね。店で買えるようなもんじゃないし、農家にでも頼めば分けてもらえるのかもしれないけど、そんな知り合いもいない。ほんと、あおはずく幼稚園様々だよ」
そう言ってウメは、大きなレジ袋一杯に詰め込まれたサツマイモの茎を、悪いね、申し訳ないね、なんてさんざん謝りながら美音に渡す。
今日もウメは、サツマイモの茎が詰め込まれた特大のレジ袋を片手にやってきた。そして、店に入り、子どもたちと過ごした時間について楽しそうに語ったあと、再びすまなそうに頭を下げた。
そんなウメに、美音は笑顔を返す。
「ご心配なく。いつもどおり、ウメさんが食べきれない分はうちでいただきますし、私も大好き。お客さんの中にもこれがお気に入りって人がけっこういらっしゃるんですよ」
「そうかい? ならいいけど……」
そしてウメはちょっと安心したような顔になって、じゃあまた夜に……と帰っていく。そんなやりとりまで含めて、サツマイモの茎を料理するのは、美音の秋の行事のひとつだった。
「うーん……面倒くさい。せめて、お芋のほうももらえればいいのになー」
美音の妹の馨が、呻くように言う。
年に一度しか手に入らない珍しい食材である。ウメにも早く味わってもらいたいし、店にも出したい。ということで、美音は馨にも下拵えを手伝ってもらうことにしたのだ。
馨はサツマイモの茎が嫌いというわけではないが、サツマイモそのもののほうがより好ましいのだろう。
「なに言ってるの。子どもたちが一生懸命育てたものなのよ。幼稚園でおやつに食べて、残った分はおうちに持って帰りたいに決まってるじゃない」
「それはわかってるけどさー。みんな今日は、サツマイモの天ぷらとか大学芋とか作ってもらうんだろうなあ……」
「でしょうね」
お芋掘りに来られなかった家族に、『ぼくが掘ったお芋なんだよ』なんて誇らしげに言う子どもの顔が目に浮かぶようだった。
姉妹で顔を見合わせ、ふふっと笑ったあと、馨がまた口を開いた。
「いっそ茎も持っていけばいいのにね。これ、面倒だけどそこそこ美味しいし」
「食べられるものだって知らない子のほうが多いんじゃないかしら。私だって初めて見たときはびっくりしたもの。え、これ、食べるの? って」
「それこそ、ウメさんとかが教えてあげればいいじゃん」
昔ながらの食べ物とかさ、と馨は珍しくまっとうなことを言う。そんな馨に、美音はクスクス笑いながら、以前ウメから聞いた話を伝えた。
「ずっと前に、一度だけ教えてあげたことがあったんだって」
もう十年以上前のことらしい。ウメも今より若くて元気があったのだろう。子どもたちにあの味を知ってほしいと思ったウメは、芋掘りの翌日、自らサツマイモの茎を料理して幼稚園に届けてみたそうだ。
「へえ……それで?」
「残念ながら、やっぱり本体のほうが美味しいって不評。当然よね、相手は子どもだもの。中には気に入ってくれた子もいたみたいだけど、作り方を教えたら親御さんたちのほうが面倒くさがっちゃって……」
「あー……確かにね」
よほどあの味が気に入っているか、深い思い入れでもない限り、あれだけの手間をかける気にはならないだろう、と馨は大きく頷いた。
「ということで、ウメさんはそれきり子どもたちに食べさせるのは諦めたそうよ。それに、子どもたちがみんな気に入っちゃったら、ウメさんが茎をもらえなくなっちゃうし」
「そっちのほうが困るよね」
「そういうこと」
「ウメさんがもらってきてくれなきゃ、うちだっておこぼれにありつけない。大変大変!」
まだ人参の葉っぱのほうが手に入りやすいぐらいだよねー、なんて言いながら、馨はせっせとサツマイモの茎を掃除する。
ハート形の葉っぱを取って、茎の皮を一本一本剥いていく。ちょっと蕗を剥く作業に似ているのだが、これがけっこう面倒くさくて、ウメは自分ではもうやりたくないのだそうだ。
「ウメさん、『昔は庭でサツマイモ作って、自分で料理したんだけどねえ……』って、いっつもすまなそうにしてるわ」
それでも、剥いた茎を胡麻油で炒め、醤油とみりんで味を付けたきんぴらは独特の味わい。年に一度きりしか食べられないこともあって、どうしても諦められないのだ、と言う。
「あたしも聞いたよ。『年を取るって嫌だね。それまで平気でやってきたことがどんどん億劫になってさ。掃除だって料理だって本当に面倒になっちまう』って、言ってたね」
これで相方でもいれば別なんだろうけど、自分だけのためとなったらねえ……と、少し寂しそうに笑ったウメの姿を、姉妹はよく覚えていた。
ウメはしばらく億劫になったあれこれについて語り、やがて話題はあおはずく幼稚園のお芋掘りに招かれた話に移った。
『お芋掘りに行ったら、畑の隅に美味しそうな茎が捨てられていたんだよ。あたしはあれが大好きなんだけど、もう皮を剥いて料理する根気がなくてね……』
『あー……お芋の茎……きんぴらにすると美味しいですよね。それなら、うちで引き受けましょうか?』
そんな会話がきっかけで、その翌年から、ウメは幼稚園からもらってきたサツマイモの茎を『ぼったくり』に置いていくようになったのだ。
料理したサツマイモの茎をふたつに分け、片方をウメに、もう一方を『ぼったくり』で出す。それを見た常連たちは、『お、ウメ婆のおこぼれだな』とほっこり笑うのだった。
†
――見かけない子ね……
美音がその男の子を見た第一印象は、そんなものだった。
馨とふたりでせっせとサツマイモの茎の皮を剥き、きんぴらに仕立てた。ふたりがかりでやったおかげでなんとか散歩の時間が残り、美音はやれやれと引き戸を開ける。
いつもどおり『ショッピングプラザ下町』に行こうと歩き出したとき、店の脇にある電柱近くに所在なげに立っていたのが、その男の子だった。おそらく今年小学校に入ったぐらい、親の付き添いなしに外で遊ぶことをようやく許された年齢といったところだろう。
――もしかしたら、近くの店に入っている誰かを待っているか、あるいは友達と待ち合わせでもしているのかしら……
知らない大人が声をかけて怯えさせても悪いし、そもそも『知らない人に声をかけられても返事をしてはダメ』などと、学校や親から指導を受けている可能性が高い。寂しい話ではあるが、子どもを狙う不届きな輩が多い昨今、身を守るためには仕方ない。そう思いながら、声をかけることもなく通り過ぎた。
美音が『ショッピングプラザ下町』から戻ってきたときには、その男の子はもういなかった。友達が来たか、家に帰ったのだろう。
ところが、開店時間が近くなり、店の前を掃除するために出ていった馨が戻ってきて首を傾げて言う。
「お姉ちゃん、なんか子どもがいるんだけど……」
馨が戸惑いがちに口にした台詞で、美音は昼間の男の子を思い出した。
「一年生ぐらいの男の子?」
「たぶん。ちっちゃい子の年ってわかんないけど……」
「薄いブルーで長袖のTシャツを着てなかった?」
「あ、そうそう、その子」
「じゃあやっぱりあの子だ……。私が散歩に出かけたときにもいたのよね……」
てっきり家に帰ったとばかり思っていたけれど、また戻ってきたらしい。
秋の日はもう落ちかけている。家に帰ったほうがいい時刻なのに……と気になった美音は、店の外に出てみた。
引き戸が開いた音で、はっとしたように男の子が美音を見た。目が合った瞬間、男の子は口を開きかけ、しかし言葉を発しないまま黙り込む。
どうやら美音、あるいは『ぼったくり』に用があるらしい。となると放置もできず、美音はやむなく声をかけた。
「うちになにかご用かしら?」
走って逃げるべきか、返事をすべきか……
男の子はしばらく迷っていたようだったが、意を決したように口を開いた。
「サツマイモの茎……」
いかにも小さな子どもにありがちな、目的の言葉だけの台詞だった。
『誰が』でもなければ、『なんのために』でも、『どうしたい』でもない。出てきたのは、名詞だけ。
「サツマイモの茎が欲しいの?」
「お店にある?」
「うん。あるわよ?」
美音の答えを聞いて、男の子はポケットから小さな財布を取り出した。
アニメヒーローのイラストのついたコインケース。それを美音に差し出して、蚊の鳴くような声で言う。
「ください」
真っ赤なコインケースと男の子の顔を交互に見比べて、美音はふっと笑った。
「じゃあ、お客さんね。とりあえず、お店の中に入って」
お客さんだと認められて安心したのか、男の子は黙ったまま美音についてくる。
お客さんといってもまだ店も開けてないし、うちは原則、未成年のお客さんはお断りなんだけど……と心の中で思ったことは内緒だった。
「馨、御新規さんよ」
「あれ……?」
そんな声を上げ、馨はまじまじと男の子を見た。もちろん、さっきまで店の前で様子を窺っていた子だと気付いているのだろう。姉がなぜ、彼を店内に招き入れたのかわからず戸惑っているに違いない。
「なにか飲み物でも……」
昨日までと打って変わって、今日は天気がよく、空気が乾いている。子どもは汗を掻きやすいし、きっと喉が渇いているだろうと考えた美音は、とりあえず飲み物を勧めることにした。
冷蔵庫の中身をざっと見て、自分たち用に入れてあったアイスティーを取り出す。
「桃の香りの紅茶、飲める?」
「あ……うん……」
男の子の返事に頷き、美音はアイスティーを小さめのグラスに入れた。一方、馨は、まあお座んなさい、なんてウメみたいな口調で男の子をカウンターに誘う。
はいどうぞ、とグラスを渡すと、男の子はごくごくと元気よく飲み始め、ほどなく飲み干してしまった。やはり、相当喉が渇いていたらしい。
グラスをカウンターに置くのを待ちかねたように、馨が声をかける。
「えーっと……とりあえず名前を教えてもらってもいい? あ、でも嫌ならいいよ」
馨は、名前を知ってたほうが呼びかけやすいし、と言い訳のように言う。おそらく彼女も美音同様、昨今の子どもに指導されている『知らない人との接し方』を気にしたのだろう。
「ハルキ」
姉妹の心配をよそに、男の子は一瞬きょとんとしたものの、すぐに名前を口にした。まだ、誘拐などといった危険に無頓着なのかもしれない。
「了解。じゃあ、ハルくんだね。ハル君は何年生?」
「二年生」
――一年生、もしかしたら幼稚園かも……と思ってたけど、二年生だったのね。それにしてもこれぐらいの子って、みんなこんなに言葉が少ないのかしら。
美音はちょっと首を傾げてしまう。美音が知っている子どもは裏のアパートの早紀姉弟とシンゾウの孫のカノンぐらいだけれど、彼女たちはもう少し多弁だった。とはいえ、それは人それぞれ、ハルキはとりわけ無口なタイプなのかもしれない。
「で、二年生のハルくんは、どうしてサツマイモの茎が欲しいの?」
幼稚園の子どもの評判は今ひとつだったとウメは言っていた。ハルキはそれよりもひとつ、ふたつ年上ではあるけれど、サツマイモの茎の熱狂的ファンだとは考えにくい。そもそも食べたことがない子のほうがずっと多いだろう、と不思議に思いながら美音は訊いてみた。
ハルキは、どう答えていいかわからないといった顔で、一生懸命言葉を探している。言葉が見つからなくてだんだん焦っていく様子が伝わってくる。見かねた馨が声をかけた。
「ゆっくりでいいんだよ。まずね、そのサツマイモの茎は誰が食べるの? ハルくんかな?」
「違う」
「じゃあ誰かにあげるの?」
「おじいちゃん」
「おじいちゃん? おじいちゃんはサツマイモの茎が好きなの?」
「わかんない」
そこで馨は、うーん……と眉を寄せ、かがみ込んでハルキと目の高さを合わせた。
「わかんないのか……それは、困ったね。それでも、ハルくんはおじいちゃんに食べてほしいんだよね。どうしてだろう?」
「だって……おじいちゃん、ずっと『サツマイモの茎、サツマイモの茎』って言ってるんだもん」
そこでようやく、ハルキの口から複数の言葉が出てきて、美音と馨はほっとする。だが、ほっとしている場合ではない。事情は半分もわかっていないのだ。
馨は引き続き事情を訊ねる。
「うーんと……ハルくんは今、おじいちゃんと一緒に住んでるの?」
「うん」
「おじちゃんの年はわかる? いくつぐらいかな?」
「知らない」
そりゃそうよね、と美音は思う。
一緒に住んでいる家族の年齢をはっきり答えられる小学二年生の男の子は、そんなにいないだろう。どうかすると両親の年齢だって怪しいものだ。馨もそう思ったらしく、質問の形を変えた。
「ハルくん、干支って知ってる? 猿とか酉とか、聞いたことない?」
「わかんない。でもこの前ママが『おじいちゃんは今年べーじゅのおいわいだ』って……」
「べーじゅ……? 色かな……」
「馨、色じゃなくて、八十八歳でお祝いするほうじゃない?」
「あ、米寿のお祝いか! 八十八歳なんだ……お元気で何よりだね」
馨の言葉を聞いて、ハルキはひどく困った顔になった。何をそんなに困惑しているのだろう、と美音は首を傾げる。もしかして、ハルキの祖父は病気なのだろうか……
昼下がり、東京下町で居酒屋『ぼったくり』を営む美音は、散歩に出かけようと引き戸を開けた。
先週からずっと天気が思わしくなく、もう灰色の空には飽き飽きしていた。だが、今日の空は晴れ渡り、秋の盛りに相応しく深い青を呈している。
美音は日々白んでいくような春の空も好きだが、冬に向けて色を深めていく秋の空も大好きだ。特に、まっすぐに伸びる飛行機雲を見つけたときなど、背景の青との対比が美しく、いつまでも見上げていたくなる。
仕込みも終わった秋の午後、こんなに気持ちのいい一時を休憩に費やせるというのはなんとも贅沢なことだ、とありがたく思いながら、美音はいつもの散歩コースである『ショッピングプラザ下町』に向けて歩き出そうとした。
そこにやってきたのは、三日に一度、決まって『ぼったくり』を訪れる常連客のウメだった。
「こんにちは、ウメさん。やっと晴れましたね」
「秋の長雨とはよく言われるけど、本当に久しぶりのお天道様だ。やっぱり青い空を見ると気持ちも明るくなるねえ」
「本当ですね。あら……」
そこで美音はウメが手にしているレジ袋に目を留めた。ぱんぱんに膨らむほど詰め込まれた袋を見て、にっこり笑う。
「今年のお芋掘りも無事に終わったようですね」
「無事とは言いづらいよ。台風が来てたせいで、ずいぶん遅めの芋掘りになっちまったんだってさ。でもまあ、やっと終わったみたいだね」
「遅くまで土の中にあったのなら、きっと大きなお芋が穫れたことでしょう」
「どうだかねえ……あたしには去年と変わらないように見えたけどね」
「それは残念」
そんな会話を交わしたあと、ウメはぴょこんと頭を下げる。
「美音坊、いつもいつも面倒なことを頼んで申し訳ないけど、よろしく頼むよ」
「了解です!」
右手を上げて敬礼した美音に、ウメは嬉しそうに笑った。
商店街から少し離れたところにあるあおはずく幼稚園は、園庭に小さな畑を持っていて、毎年六月になると年長組の園児たちがサツマイモの苗を植える。
何本か並んで作られた畝に、ひとり一本ずつ苗を植え、当番を決めて水をやりながら実りの秋を待つ。空の青が濃くなり、雲が鰯の形になるころ、子どもたちは待ちかねたように運動靴を長靴に履き替え、畑に走っていく。
葉や茎の大部分は先生方が予め切っているので、地面から出ているのは数十センチの茎のみ。その茎の根元を、子どもたちは喜び勇んで掘り始める。茎に繋がる根っこを切ってしまわないように丁寧に丁寧に……
茶色の土の中を掘り進み、赤紫のサツマイモを見つけた子どもは盛大に歓声を上げるのだ。園児は毎年入れ替わるけれど、あの歓声だけは毎年ちっとも変わらない、なんともかわいらしい、とウメは目を細める。
もちろん、美音も同じ思いだ。親に手を引かれて園に向かう子どもたちの手に、長靴の入ったレジ袋が提げられていると、ああ今日はいよいよ……とほほえましく見送る。
それと同時に思うのだ。
今日は幼稚園のお芋掘り。それなら、きっと午後にはウメさんが来てくれる、と……
聞くところによると、あおはずく幼稚園は地域親交に重点を置いているそうだ。
昨今核家族化が著しく、祖父母と暮らす子どもは少ない。そんな子どもたちに、少しでもお年寄りと触れあってもらいたいという思いもあって、あおはずく幼稚園は行事のたびに地域の老人会のメンバーを招く。
七夕やクリスマスのお遊戯会では園児のかわいい歌や踊りを見られるし、園内夏祭りでは園児が打ち鳴らす太鼓に拍手喝采、小さな御神輿を一緒に担ぐ。
秋が来ればお月見団子を、師走になればお餅を、園児とお年寄りが一緒になって作るのだ。
ウメはそんな幼稚園との交流に欠かさず参加、わけても十月に行われるお芋掘りを待ちわびている。
焼き芋や蒸し芋にかじりつく子どもに目を細めたり、お客さん用にと保護者が作ってくれたスイートポテトに舌鼓を打ったり、なんとも楽しい行事なのだそうだ。
だが、行事そのものよりウメが楽しみにしているものがある。それは、半年近くサツマイモを育て、ようやく役目を終えたばかりの茎だった。
園児たちが畑に入る前に切り取られた茎は、たいてい畑の片隅に山積みにされ捨てられるのを待つばかりになっている。
ウメは毎年幼稚園の許可を得て、その山の中から柔らかそうな部分を摘んで袋一杯持って帰るのだ。
「今時こんなものを食べる人はいないかもしれない。貧乏くさい、って言う人もいる。でも、あたしはこれが大好きでね。店で買えるようなもんじゃないし、農家にでも頼めば分けてもらえるのかもしれないけど、そんな知り合いもいない。ほんと、あおはずく幼稚園様々だよ」
そう言ってウメは、大きなレジ袋一杯に詰め込まれたサツマイモの茎を、悪いね、申し訳ないね、なんてさんざん謝りながら美音に渡す。
今日もウメは、サツマイモの茎が詰め込まれた特大のレジ袋を片手にやってきた。そして、店に入り、子どもたちと過ごした時間について楽しそうに語ったあと、再びすまなそうに頭を下げた。
そんなウメに、美音は笑顔を返す。
「ご心配なく。いつもどおり、ウメさんが食べきれない分はうちでいただきますし、私も大好き。お客さんの中にもこれがお気に入りって人がけっこういらっしゃるんですよ」
「そうかい? ならいいけど……」
そしてウメはちょっと安心したような顔になって、じゃあまた夜に……と帰っていく。そんなやりとりまで含めて、サツマイモの茎を料理するのは、美音の秋の行事のひとつだった。
「うーん……面倒くさい。せめて、お芋のほうももらえればいいのになー」
美音の妹の馨が、呻くように言う。
年に一度しか手に入らない珍しい食材である。ウメにも早く味わってもらいたいし、店にも出したい。ということで、美音は馨にも下拵えを手伝ってもらうことにしたのだ。
馨はサツマイモの茎が嫌いというわけではないが、サツマイモそのもののほうがより好ましいのだろう。
「なに言ってるの。子どもたちが一生懸命育てたものなのよ。幼稚園でおやつに食べて、残った分はおうちに持って帰りたいに決まってるじゃない」
「それはわかってるけどさー。みんな今日は、サツマイモの天ぷらとか大学芋とか作ってもらうんだろうなあ……」
「でしょうね」
お芋掘りに来られなかった家族に、『ぼくが掘ったお芋なんだよ』なんて誇らしげに言う子どもの顔が目に浮かぶようだった。
姉妹で顔を見合わせ、ふふっと笑ったあと、馨がまた口を開いた。
「いっそ茎も持っていけばいいのにね。これ、面倒だけどそこそこ美味しいし」
「食べられるものだって知らない子のほうが多いんじゃないかしら。私だって初めて見たときはびっくりしたもの。え、これ、食べるの? って」
「それこそ、ウメさんとかが教えてあげればいいじゃん」
昔ながらの食べ物とかさ、と馨は珍しくまっとうなことを言う。そんな馨に、美音はクスクス笑いながら、以前ウメから聞いた話を伝えた。
「ずっと前に、一度だけ教えてあげたことがあったんだって」
もう十年以上前のことらしい。ウメも今より若くて元気があったのだろう。子どもたちにあの味を知ってほしいと思ったウメは、芋掘りの翌日、自らサツマイモの茎を料理して幼稚園に届けてみたそうだ。
「へえ……それで?」
「残念ながら、やっぱり本体のほうが美味しいって不評。当然よね、相手は子どもだもの。中には気に入ってくれた子もいたみたいだけど、作り方を教えたら親御さんたちのほうが面倒くさがっちゃって……」
「あー……確かにね」
よほどあの味が気に入っているか、深い思い入れでもない限り、あれだけの手間をかける気にはならないだろう、と馨は大きく頷いた。
「ということで、ウメさんはそれきり子どもたちに食べさせるのは諦めたそうよ。それに、子どもたちがみんな気に入っちゃったら、ウメさんが茎をもらえなくなっちゃうし」
「そっちのほうが困るよね」
「そういうこと」
「ウメさんがもらってきてくれなきゃ、うちだっておこぼれにありつけない。大変大変!」
まだ人参の葉っぱのほうが手に入りやすいぐらいだよねー、なんて言いながら、馨はせっせとサツマイモの茎を掃除する。
ハート形の葉っぱを取って、茎の皮を一本一本剥いていく。ちょっと蕗を剥く作業に似ているのだが、これがけっこう面倒くさくて、ウメは自分ではもうやりたくないのだそうだ。
「ウメさん、『昔は庭でサツマイモ作って、自分で料理したんだけどねえ……』って、いっつもすまなそうにしてるわ」
それでも、剥いた茎を胡麻油で炒め、醤油とみりんで味を付けたきんぴらは独特の味わい。年に一度きりしか食べられないこともあって、どうしても諦められないのだ、と言う。
「あたしも聞いたよ。『年を取るって嫌だね。それまで平気でやってきたことがどんどん億劫になってさ。掃除だって料理だって本当に面倒になっちまう』って、言ってたね」
これで相方でもいれば別なんだろうけど、自分だけのためとなったらねえ……と、少し寂しそうに笑ったウメの姿を、姉妹はよく覚えていた。
ウメはしばらく億劫になったあれこれについて語り、やがて話題はあおはずく幼稚園のお芋掘りに招かれた話に移った。
『お芋掘りに行ったら、畑の隅に美味しそうな茎が捨てられていたんだよ。あたしはあれが大好きなんだけど、もう皮を剥いて料理する根気がなくてね……』
『あー……お芋の茎……きんぴらにすると美味しいですよね。それなら、うちで引き受けましょうか?』
そんな会話がきっかけで、その翌年から、ウメは幼稚園からもらってきたサツマイモの茎を『ぼったくり』に置いていくようになったのだ。
料理したサツマイモの茎をふたつに分け、片方をウメに、もう一方を『ぼったくり』で出す。それを見た常連たちは、『お、ウメ婆のおこぼれだな』とほっこり笑うのだった。
†
――見かけない子ね……
美音がその男の子を見た第一印象は、そんなものだった。
馨とふたりでせっせとサツマイモの茎の皮を剥き、きんぴらに仕立てた。ふたりがかりでやったおかげでなんとか散歩の時間が残り、美音はやれやれと引き戸を開ける。
いつもどおり『ショッピングプラザ下町』に行こうと歩き出したとき、店の脇にある電柱近くに所在なげに立っていたのが、その男の子だった。おそらく今年小学校に入ったぐらい、親の付き添いなしに外で遊ぶことをようやく許された年齢といったところだろう。
――もしかしたら、近くの店に入っている誰かを待っているか、あるいは友達と待ち合わせでもしているのかしら……
知らない大人が声をかけて怯えさせても悪いし、そもそも『知らない人に声をかけられても返事をしてはダメ』などと、学校や親から指導を受けている可能性が高い。寂しい話ではあるが、子どもを狙う不届きな輩が多い昨今、身を守るためには仕方ない。そう思いながら、声をかけることもなく通り過ぎた。
美音が『ショッピングプラザ下町』から戻ってきたときには、その男の子はもういなかった。友達が来たか、家に帰ったのだろう。
ところが、開店時間が近くなり、店の前を掃除するために出ていった馨が戻ってきて首を傾げて言う。
「お姉ちゃん、なんか子どもがいるんだけど……」
馨が戸惑いがちに口にした台詞で、美音は昼間の男の子を思い出した。
「一年生ぐらいの男の子?」
「たぶん。ちっちゃい子の年ってわかんないけど……」
「薄いブルーで長袖のTシャツを着てなかった?」
「あ、そうそう、その子」
「じゃあやっぱりあの子だ……。私が散歩に出かけたときにもいたのよね……」
てっきり家に帰ったとばかり思っていたけれど、また戻ってきたらしい。
秋の日はもう落ちかけている。家に帰ったほうがいい時刻なのに……と気になった美音は、店の外に出てみた。
引き戸が開いた音で、はっとしたように男の子が美音を見た。目が合った瞬間、男の子は口を開きかけ、しかし言葉を発しないまま黙り込む。
どうやら美音、あるいは『ぼったくり』に用があるらしい。となると放置もできず、美音はやむなく声をかけた。
「うちになにかご用かしら?」
走って逃げるべきか、返事をすべきか……
男の子はしばらく迷っていたようだったが、意を決したように口を開いた。
「サツマイモの茎……」
いかにも小さな子どもにありがちな、目的の言葉だけの台詞だった。
『誰が』でもなければ、『なんのために』でも、『どうしたい』でもない。出てきたのは、名詞だけ。
「サツマイモの茎が欲しいの?」
「お店にある?」
「うん。あるわよ?」
美音の答えを聞いて、男の子はポケットから小さな財布を取り出した。
アニメヒーローのイラストのついたコインケース。それを美音に差し出して、蚊の鳴くような声で言う。
「ください」
真っ赤なコインケースと男の子の顔を交互に見比べて、美音はふっと笑った。
「じゃあ、お客さんね。とりあえず、お店の中に入って」
お客さんだと認められて安心したのか、男の子は黙ったまま美音についてくる。
お客さんといってもまだ店も開けてないし、うちは原則、未成年のお客さんはお断りなんだけど……と心の中で思ったことは内緒だった。
「馨、御新規さんよ」
「あれ……?」
そんな声を上げ、馨はまじまじと男の子を見た。もちろん、さっきまで店の前で様子を窺っていた子だと気付いているのだろう。姉がなぜ、彼を店内に招き入れたのかわからず戸惑っているに違いない。
「なにか飲み物でも……」
昨日までと打って変わって、今日は天気がよく、空気が乾いている。子どもは汗を掻きやすいし、きっと喉が渇いているだろうと考えた美音は、とりあえず飲み物を勧めることにした。
冷蔵庫の中身をざっと見て、自分たち用に入れてあったアイスティーを取り出す。
「桃の香りの紅茶、飲める?」
「あ……うん……」
男の子の返事に頷き、美音はアイスティーを小さめのグラスに入れた。一方、馨は、まあお座んなさい、なんてウメみたいな口調で男の子をカウンターに誘う。
はいどうぞ、とグラスを渡すと、男の子はごくごくと元気よく飲み始め、ほどなく飲み干してしまった。やはり、相当喉が渇いていたらしい。
グラスをカウンターに置くのを待ちかねたように、馨が声をかける。
「えーっと……とりあえず名前を教えてもらってもいい? あ、でも嫌ならいいよ」
馨は、名前を知ってたほうが呼びかけやすいし、と言い訳のように言う。おそらく彼女も美音同様、昨今の子どもに指導されている『知らない人との接し方』を気にしたのだろう。
「ハルキ」
姉妹の心配をよそに、男の子は一瞬きょとんとしたものの、すぐに名前を口にした。まだ、誘拐などといった危険に無頓着なのかもしれない。
「了解。じゃあ、ハルくんだね。ハル君は何年生?」
「二年生」
――一年生、もしかしたら幼稚園かも……と思ってたけど、二年生だったのね。それにしてもこれぐらいの子って、みんなこんなに言葉が少ないのかしら。
美音はちょっと首を傾げてしまう。美音が知っている子どもは裏のアパートの早紀姉弟とシンゾウの孫のカノンぐらいだけれど、彼女たちはもう少し多弁だった。とはいえ、それは人それぞれ、ハルキはとりわけ無口なタイプなのかもしれない。
「で、二年生のハルくんは、どうしてサツマイモの茎が欲しいの?」
幼稚園の子どもの評判は今ひとつだったとウメは言っていた。ハルキはそれよりもひとつ、ふたつ年上ではあるけれど、サツマイモの茎の熱狂的ファンだとは考えにくい。そもそも食べたことがない子のほうがずっと多いだろう、と不思議に思いながら美音は訊いてみた。
ハルキは、どう答えていいかわからないといった顔で、一生懸命言葉を探している。言葉が見つからなくてだんだん焦っていく様子が伝わってくる。見かねた馨が声をかけた。
「ゆっくりでいいんだよ。まずね、そのサツマイモの茎は誰が食べるの? ハルくんかな?」
「違う」
「じゃあ誰かにあげるの?」
「おじいちゃん」
「おじいちゃん? おじいちゃんはサツマイモの茎が好きなの?」
「わかんない」
そこで馨は、うーん……と眉を寄せ、かがみ込んでハルキと目の高さを合わせた。
「わかんないのか……それは、困ったね。それでも、ハルくんはおじいちゃんに食べてほしいんだよね。どうしてだろう?」
「だって……おじいちゃん、ずっと『サツマイモの茎、サツマイモの茎』って言ってるんだもん」
そこでようやく、ハルキの口から複数の言葉が出てきて、美音と馨はほっとする。だが、ほっとしている場合ではない。事情は半分もわかっていないのだ。
馨は引き続き事情を訊ねる。
「うーんと……ハルくんは今、おじいちゃんと一緒に住んでるの?」
「うん」
「おじちゃんの年はわかる? いくつぐらいかな?」
「知らない」
そりゃそうよね、と美音は思う。
一緒に住んでいる家族の年齢をはっきり答えられる小学二年生の男の子は、そんなにいないだろう。どうかすると両親の年齢だって怪しいものだ。馨もそう思ったらしく、質問の形を変えた。
「ハルくん、干支って知ってる? 猿とか酉とか、聞いたことない?」
「わかんない。でもこの前ママが『おじいちゃんは今年べーじゅのおいわいだ』って……」
「べーじゅ……? 色かな……」
「馨、色じゃなくて、八十八歳でお祝いするほうじゃない?」
「あ、米寿のお祝いか! 八十八歳なんだ……お元気で何よりだね」
馨の言葉を聞いて、ハルキはひどく困った顔になった。何をそんなに困惑しているのだろう、と美音は首を傾げる。もしかして、ハルキの祖父は病気なのだろうか……
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