「君たちはどう生きるか」に若者が共感する深い訳

あえて誤解を恐れずに言えば、「死」こそが人間の徳のひとつである「勇気」の源になっているのだと思います。

死のない世界をディストピア(反理想郷)として描いた小説や映画はたくさんあります。

例えば、手塚治虫の漫画『火の鳥 未来編』には、不死鳥である火の鳥の血を飲むことによって、不死の体を得てしまった登場人物の果てしない苦しみが描かれています。

そして、これは私自身が死と向き合った経験からも言えることでもあり、それが今、私が生きるうえでの原点になっていると思うからなのです。

本書との関連で、もう一冊紹介しておきたいと思います。多摩大学学長の寺島実郎の、『何のために働くのか 自分を創る生き方』です。

寺島はこの本の中で、内村鑑三の『後世への最大遺物』と市井三郎の『歴史の進歩とはなにか』を引用しながら、次のように、「君たちはどう生きるか?」を問いかけています。

「『後世への最大遺物』は、一八九四年、箱根・芦ノ湖畔で開かれたキリスト教徒・夏期学校における内村の講話をまとめたもので、文庫本でわずか七十一ページの短い講演録である。語られているテーマは、「我々人間は、人生を通じて、この世に何を遺せるのか」という根源的な問いかけである。心に沁みるのは、最後の四行である。

 われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを、後世の人に遺したいと思います。
 金持ちになることでも、実業家として成功することでも、偉大な思想を遺すことでもない。人がこの世に遺せる最高のものは、「あの人は、あの人なりの人生を、立派にまっとうに生きた」ということである。この短い結論が、青年たちの胸を打った。(中略)仕事を通して時代に働きかけ、少しでも歴史の進歩に加わることが「生きること、働くこと」の究極の意味だと、私は考えている。(中略)時代に流されるまま、「人間の歴史に進歩なんかない」と、あきらめにも近い気持ちが社会を覆っているが、果たしてそれでいいのだろうか。
哲学者、市井三郎は『歴史の進歩とはなにか』のなかで、「歴史の進歩とは、自らの責任を問われる必要のないことで負わされる”不条理な苦痛”を減らすことだ」という主旨のことを述べている。生まれながらの貧困、ある国に生まれたという理由だけで差別されること……そんな圧倒的な不条理を、制度的・システム的に克服し、苦しみから解放することが歴史の進歩だというのだ。この示唆は極めて重要である。なぜならそこに「人間は何のために生き、何のために働くのか」という本書の問いかけに対する、ひとつの答えがあるからだ。」

「人間は何のために生き、働くのか」

さらにもう一冊、『数学する身体』で有名な独立研究者の森田真生の『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』を紹介したいと思います。

この本のタイトルは、『君たちはどう生きるか』に呼応するものだと思います。

森田は、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として立ち上げた京都の鹿谷庵を拠点に、コロナ禍で生き方に根本的な変化が生じた「エコロジカルな転回」以後の、言葉と生命の可能性を追究しています。

その中で森田は、環境危機が招く人間の内面の崩壊について、小説家のリチャード・パワーズが『惑う星』で書いている「明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか」という言葉を引用して、次のように語っています。

「僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。できることならこんな問いかけを、子どもたちがしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」なこの世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。僕たちはどう生きるか。僕たちはどう生きていたのか。本書は、僕から未来に宛てる第一信である。」