10 / 12
第十章:潜入、偽りの都、あるいは再会の予感
しおりを挟む
建国祭を三日後に控えた王都は、熱に浮かされたような喧騒に包まれていた。
色とりどりの旗が石畳の街路を覆い、広場からは楽士たちの陽気な旋律が絶え間なく流れてくる。
だが、その華やぎの裏側で――
二つの人影が、音もなく影へと溶け込んでいた。
「……随分と、変わってしまったわね」
灰色のぼろ布のようなマントを深く被り、顔を隠したアリアが低く呟く。
切り落とした漆黒の髪はフードの内に隠され、かつて王女としてまとっていた気品は、煤を塗った肌と粗末な民衣の下に封じ込められていた。
「お気をつけください、アリア様」
傍らを歩くのは、商人崩れの姿に身をやつしたカイルだ。
鋭い視線を周囲へ走らせながら、彼は自然な仕草でアリアを人混みから庇うように肩を引き寄せる。
「至るところに、セシル王女の近衛と隣国の密偵がいます」
その指先から伝わる確かな体温だけが、アリアにとって今の世界で唯一の真実だった。
二人が向かったのは、王宮裏手に残る古い水門。
かつて幼いアリアが、誰にも知られず出入りするために使っていた抜け道だ。
「ここなら……今も警備の死角のはずよ。
カイル、準備は?」
「いつでも」
短く答えた後、彼は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……ですが、ここから先は本当の修羅場になります。
もしもの時は、私を置いて――」
「いいえ」
アリアは即座に否定し、彼の手を強く握り返した。
「貴方と一緒に戻ると決めたの。
……二人で、あの玉座を取り戻すわ」
その掌の厚みが、彼女の胸に冷徹な勇気を注ぎ込む。
二人は湿り気を帯びた地下通路を抜け、
迷路のような王宮内部へと忍び込んだ。
目指すのは、セシルの私室。
かつてはアリアの記憶と日常が詰まっていた、忌まわしい部屋だった。
その頃――
レオンは、人気のない夜の書庫で独り、強い酒を煽っていた。
「……あの日、なぜ私は、あの手紙を疑いもしなかった」
グラスを握る指に力がこもる。
酔いに揺らぐ意識の奥で、アリアの悲痛な叫びが、何度も反芻されていた。
セシルが隣にいる時間は、もはや苦痛でしかない。
喉を焼くほどに甘い香水の匂いが、
かつてアリアが纏っていた清廉なリリーの香りを思い起こさせ、彼を苛立たせる。
無意識に、レオンは左手首に触れた。
そこには、セシルから贈られたエメラルドのカフスが、
まるで枷のように重く嵌められている。
「……アリア」
誰に聞かせるでもなく、名を零す。
「君に……会いたい」
その瞬間だった。
書庫の奥、隠し扉の向こうから、微かな衣擦れの音が響く。
「誰だ……!」
レオンは反射的に剣の柄へ手をかけ、暗がりを睨み据えた。
次の瞬間――
マントが床に落ち、月光が差し込む。
現れたのは、短く切り揃えられた黒髪と、
静かに燃える復讐の炎を宿した瞳を持つ女。
かつて、彼がすべてを捧げた最愛の人。
「……お久しぶりですわ、レオン様」
低く、凍りつくほど澄んだ声。
「いいえ――
『偽りの花婿殿』とお呼びした方が、よろしいかしら?」
その一言が、冷え切った書庫の空気を、鋭く切り裂いた。
色とりどりの旗が石畳の街路を覆い、広場からは楽士たちの陽気な旋律が絶え間なく流れてくる。
だが、その華やぎの裏側で――
二つの人影が、音もなく影へと溶け込んでいた。
「……随分と、変わってしまったわね」
灰色のぼろ布のようなマントを深く被り、顔を隠したアリアが低く呟く。
切り落とした漆黒の髪はフードの内に隠され、かつて王女としてまとっていた気品は、煤を塗った肌と粗末な民衣の下に封じ込められていた。
「お気をつけください、アリア様」
傍らを歩くのは、商人崩れの姿に身をやつしたカイルだ。
鋭い視線を周囲へ走らせながら、彼は自然な仕草でアリアを人混みから庇うように肩を引き寄せる。
「至るところに、セシル王女の近衛と隣国の密偵がいます」
その指先から伝わる確かな体温だけが、アリアにとって今の世界で唯一の真実だった。
二人が向かったのは、王宮裏手に残る古い水門。
かつて幼いアリアが、誰にも知られず出入りするために使っていた抜け道だ。
「ここなら……今も警備の死角のはずよ。
カイル、準備は?」
「いつでも」
短く答えた後、彼は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……ですが、ここから先は本当の修羅場になります。
もしもの時は、私を置いて――」
「いいえ」
アリアは即座に否定し、彼の手を強く握り返した。
「貴方と一緒に戻ると決めたの。
……二人で、あの玉座を取り戻すわ」
その掌の厚みが、彼女の胸に冷徹な勇気を注ぎ込む。
二人は湿り気を帯びた地下通路を抜け、
迷路のような王宮内部へと忍び込んだ。
目指すのは、セシルの私室。
かつてはアリアの記憶と日常が詰まっていた、忌まわしい部屋だった。
その頃――
レオンは、人気のない夜の書庫で独り、強い酒を煽っていた。
「……あの日、なぜ私は、あの手紙を疑いもしなかった」
グラスを握る指に力がこもる。
酔いに揺らぐ意識の奥で、アリアの悲痛な叫びが、何度も反芻されていた。
セシルが隣にいる時間は、もはや苦痛でしかない。
喉を焼くほどに甘い香水の匂いが、
かつてアリアが纏っていた清廉なリリーの香りを思い起こさせ、彼を苛立たせる。
無意識に、レオンは左手首に触れた。
そこには、セシルから贈られたエメラルドのカフスが、
まるで枷のように重く嵌められている。
「……アリア」
誰に聞かせるでもなく、名を零す。
「君に……会いたい」
その瞬間だった。
書庫の奥、隠し扉の向こうから、微かな衣擦れの音が響く。
「誰だ……!」
レオンは反射的に剣の柄へ手をかけ、暗がりを睨み据えた。
次の瞬間――
マントが床に落ち、月光が差し込む。
現れたのは、短く切り揃えられた黒髪と、
静かに燃える復讐の炎を宿した瞳を持つ女。
かつて、彼がすべてを捧げた最愛の人。
「……お久しぶりですわ、レオン様」
低く、凍りつくほど澄んだ声。
「いいえ――
『偽りの花婿殿』とお呼びした方が、よろしいかしら?」
その一言が、冷え切った書庫の空気を、鋭く切り裂いた。
26
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
結婚十年目の夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。彼は「送り間違えた」というけれど、それはそれで問題なのでは?
ぽんた
恋愛
レミ・マカリスター侯爵夫人は、夫と政略結婚をして十年目。侯爵夫人として、義父母の介護や領地経営その他もろもろを完ぺきにこなしている。そんなある日、王都に住む夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。義弟を通じ、夫を追求するも夫は「送り間違えた。ほんとうは金を送れというメモを送りたかった」という。レミは、心から思った。「それはそれで問題なのでは?」、と。そして、彼女の夫にたいするざまぁがはじまる。
※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
【完結】貴方と離れて私は幸せになりたいと思います
なか
恋愛
貴方のために諦めた夢、叶えさせてもらいます。
心に決めた誓いと共に、私は貴方の元を離れる。
夫である貴方を支え続けた五年……だけど貴方は不倫という形で裏切った。
そして歳を重ねた私に『枯れた花』と評価を下して嘲笑う。
どうせ捨てられるなら、私から捨ててあげよう。
そして証明するの。
私は枯れた花ではないと……
自らの夢を叶えて、華であると証明してみせるから。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
【短編】ちゃんと好きになる前に、終わっただけ
月下花音
恋愛
曖昧な関係を続けていたユウトとの恋は、彼のインスタ投稿によって一方的に終わりを告げた。
泣くのも違う。怒るのも違う。
ただ静かに消えよう。
そう決意してトーク履歴を消そうとした瞬間、指が滑った。
画面に表示されたのは、間の抜けたクマのスタンプ。
相手に気付かれた? 見られた?
「未練ある」って思われる!?
恐怖でブロックボタンを連打した夜。
カモメのフンより、失恋より、最後の誤爆が一番のトラウマになった女子大生の叫び。
役立たずの女に用はないと言われて追放されましたが、その後王国は大変なことになっているようです
睡蓮
恋愛
王子であるローレントは、聖女の血を引く存在であるアリエスに聖女の能力を期待し、婚約関係を強引に結んだ。しかしローレントはその力を引き出すことができなかったため、アリエスの事を偽りの聖女だと罵ったのちに婚約破棄を告げ、そのまま追放してしまう。…しかしその後、アリエスはあるきっかけから聖女の力を開花させることとなり、その代償としてローレントは大きく後悔させられることとなるのだった。
その結婚は、白紙にしましょう
香月まと
恋愛
リュミエール王国が姫、ミレナシア。
彼女はずっとずっと、王国騎士団の若き団長、カインのことを想っていた。
念願叶って結婚の話が決定した、その夕方のこと。
浮かれる姫を前にして、カインの口から出た言葉は「白い結婚にとさせて頂きたい」
身分とか立場とか何とか話しているが、姫は急速にその声が遠くなっていくのを感じる。
けれど、他でもない憧れの人からの嘆願だ。姫はにっこりと笑った。
「分かりました。その提案を、受け入れ──」
全然受け入れられませんけど!?
形だけの結婚を了承しつつも、心で号泣してる姫。
武骨で不器用な王国騎士団長。
二人を中心に巻き起こった、割と短い期間のお話。
悪役令嬢なので最初から愛されないことはわかっていましたが、これはさすがに想定外でした。
ふまさ
恋愛
──こうなることがわかっていれば、はじめから好きになんてならなかったのに。
彩香だったときの思いが、ふと蘇り、フェリシアはくすりと笑ってしまった。
ありがとう、前世の記憶。おかげでわたしは、クライブ殿下を好きにならずにすんだわ。
だからあるのは、呆れと、怒りだけだった。
※『乙女ゲームのヒロインの顔が、わたしから好きな人を奪い続けた幼なじみとそっくりでした』の、ifストーリーです。重なる文章があるため、前作は非公開とさせていただきました。読んでくれたみなさま、ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる