アンズトレイル

ふみ

文字の大きさ
5 / 51
-1-

5

しおりを挟む
「鍵もかけずにいなくなったので、何かあったのかと」
「ああ、そういうことね。私よりもあんちゃんが早く戻ると思って、鍵を置いて行ったの」
「それはさすがに危ないですよ。それにトランクも開いて――」
「トランク?」
 杏さんの目が細く鋭さを帯びる。まるでにらみつけるような眼力に一瞬だけ呼吸が止まった。
「開いてたの?」
「え、あ、はい」
「それでどうしたの」
「えと、あの、閉めました」
「それだけ?」
 まるで叱られている子どものよう。ただ聞かれたことに答え、こくこくと首を振る。何が逆鱗に触れたのか分からない。トランクを開けてしまったことだろうか。それとも閉めたことか。下手に話すのも怖くて黙っていると、杏さんの表情がふっと和らいだ。
「ちゃんと確かめればよかったね。ごめん」
「いえ、はい。あ、その、ブラウニー買ってきました」
 額に浮かぶ冷や汗を拭い、ぎこちなく笑ってみせた。
「ありがとう。実はこの近くに友だちが引っ越したのを思い出して、挨拶だけ行ってきたの。そしたら話し込んじゃった」
「友だち?」
 申し訳なさそうにはにかむ杏さんが、せかせかと車を動かし始めた。慌ててシートベルトを締める。
「コンビニの裏のアパートに住んでいるの。駄目元で尋ねたらちょうど休みだったんだ」
「そう、なんですか」
「今度飲みに行く約束もしちゃった」
 嬉しそうに微笑む杏さん。それとは対照的に、少しずつ顔色が曇っていく。
 勉強と仕事ばかりで友だちがいなかった。そう言ったのは確かに杏さんだ。それなのにどうしてうそをついたのだろう。私に同情するため? それとも最近できたばかりの友だちか。
 直接聞けば済む話も、杏さんとの心の距離がつかめていない私には無理な話だった。
「そういえば」
 ため息を隠したところで、先ほどの着信を思い出した。
「スマホ鳴ってましたよ」
「ほんと? 誰からだろうね」
 まるでこちらに投げかけるような言い方。突然の大喜利が始まったのだろうか。無難に家族と答えるか、ちょっと冒険して有名人の名前を上げてみようか。
 あごに手を当てて考えだした途端、ちょうどいいタイミングで着信音が流れだした。しかし杏さんは音楽を聞くように耳を傾けるだけ。膝元へ移されたポーチには触れようとしない。
「あの、取らないんですか」
「いいのいいの。無視していいやつだから」
 あっけらかんとする間にも鳴り続ける音楽。何度も繰り返す電子音が不快になってきた。大きな電子音って、どうしてこうも頭の奥に響くのだろう。
「しつこいなあ」
 杏さんがうんざりと吐き捨てる。ため息を一つこぼし、乱暴気味にポーチからスマホを取り出した。マナーモードにするのかと思いきや、なぜか続けて窓を開けた。
「えっ」
 スマホが宙を舞う。まるでポイ捨てのように固いアスファルトへ落ちていった。あまりのことに驚きが口から漏れるも、杏さんは意に介さずアクセルを踏み続ける。とっさに振り返るもすでにスマホは見えなくなっていた。
「捨てて、いいんですか?」
「もういらないから。後ろに車もいなかったし」
 にこやかに言われても反応に困る。杏さんがそこまで嫌がる相手、気になってしょうがない。会社の上司、はたまた友だち? 誰からだったのだろう。
「たかだかスマホを捨てただけだから、そんなに気にしないでよ」
「たかだかじゃないですよ。そんなに嫌だったんですか?」
「嫌というか、彼からだろうし」
 彼? すぐには分からず首をかしげた。
「彼氏。今朝けんかして飛び出して来たの。だから心配して連絡してきたんじゃない?」
 思ったよりも重い話に思わず目を泳がせた。
「帰省するついでにね、両親に会ってほしいって頼んだら断られちゃった。それで大ゲンカよ。面倒くさいなんてひどいと思わない?」
「た、大変ですね」
 杏さんは実家に戻る途中。話とは関係ないところで得た情報を頭に入れた。
「今更謝ったって許さないけれど」
 口調からは怒りを感じる。しかし杏さんは目を細め、どこか寂しそう。感情に任せて飛び出したことを後悔しているのだろうか。私にも誰かと揉めた経験があれば、相談に乗れたのかな。力になれないことが悔しくて、下唇を噛んだ。
「あ」
 ふと何かを思い出したように杏さんが声を漏らした。
「あんちゃんが行きたい富士山方面ってどの辺り?」
「えっと、富士急ハイランドに行きたいんです」
「ヒッチハイクして富士急か。多分、夕方ごろには着くと思うよ」
「ありがとうございます。あの、迷惑なら途中で降ろしても結構なので」
「迷惑じゃないから気にしないで――って忘れてた。あんちゃんはお昼、何がいい?」
 ずっと消えていたカーナビの画面をちらと見た杏さん。左上に表示されている時計を見たようで、ちらちらと過ぎていく景色から何かを探そうとしている。
 杏さんの視線を追って車窓へ目をやった。牛丼屋、回転ずし、ハンバーガー屋。ビルに囲まれまばらに並ぶ飲食店が去っていく。
「ごちそうしてあげるから好きなもの選んで。和風洋風中華にハンバーガー。何でもいいよ」
「あ、えっと」
「定食でよかったら、私がよく通っていたお店もおすすめ。安くておいしくて店長もいい人なの。料理が来るまでちょっとだけ時間がかかるけれど」
「は、はい。いや、でも」
「やっぱり若い子はファーストフードがいい? 私も最近行ってないし、普段は食べないものを――」
「そうじゃなくて、えっと」
 両膝に置いていた手を重ね、ぎゅっと握る。
「乗せてもらったのに、これ以上迷惑をかけたくなくて」
 車に乗せてもらい、初めてあだ名で呼んでもらい、それに加えて飲み物に食べ物まで。さすがにそろそろ心苦しい。ここは自分で支払い、なるべく杏さんの負担を減らす。これがいい。これしかない。
「迷惑、か」
 ぽつりとこぼれた一言に感情はこもっていない。けれど小さなため息の後で「なんだか似てる」と杏さんが漏らした。
「私が乗せたかったから乗せた。それじゃあ駄目?」
「え?」
「コンビニで買いたかったからそうした。食べてほしいからおごった。全部私のわがままってことにしない?」
「それは、その」
「私のわがままは迷惑?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

処理中です...