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「それってロールキャベツも食べられないってこと?」
「ああ、いえ。食べられます」
「餃子は?」
「好きです」
「肉団子はさすがに?」
「食べられ、ますね」
上目遣いで杏さんの反応を見ながら告げた。
「それおかしくない? 全部ひき肉なのに、ハンバーグだけ食べられないってさ」
「そう言われてみれば、どうしてですかね」
「私に言われても」
そろって首をかしげるも分かるわけがない。けれどなんだかおかしくて、同時に噴き出してしまった。
「試しにハンバーグ頼んでみたら? 百グラムも選べるし、残すなら私が食べるから」
差し出されたメニュー、杏さんの指の先を見ると確かに量が選べるようだった。
「いいんですか?」
「もちろん。その代わりにトマトだけもらってくれない?」
「トマト?」
聞き返すと杏さんが頷いた。
「生のトマトが駄目でさ。噛んだ時に出る果汁っていうか、酸っぱい汁が受け付けなくて。ね、お願い。トマトとハンバーグを交換しない?」
「知らない人が聞いたら、とんでもないお願いですよそれ」
「そう?」
信じられないほどテンポのいい会話。根暗な私も誰かと冗談を言い合える。笑い合えるんだ。夢にも思わなかった。
注文を終えた後も他愛もない話で料理を待ち、ハンバーグが届いてからは勇気を出して口にして顔をほころばせた。私の勧めでトマトを食べ、真顔で固まった杏さんはすごく面白かった。
料理の味は別段語るほどのものではない。けれども杏さんと過ごしたこの時間だけは、宝物のようだった。
そんな宝物を抱いて部屋へと戻った。普段なら、夕食後はいつもスマホを触るのがルーティン。けれども今日ばかりは杏さんの一声で、先にお風呂を済ませることに。
トイレ側へしぶきが飛ばないよう、狭いバスタブ内で四苦八苦。いつもの倍以上の時間をかけ、ようやく浴室から脱出できた。
「杏さん、お風呂あがりました」
タオルで髪を拭きながら引き戸を閉める。ベッドの前まで戻るも杏さんの姿はない。飲み物を買いに行ったのだろうか。
ベッドに腰かけてスマホへ手を伸ばす。まだ八時過ぎ。ネットの海に潜ろうとした時、視界の隅でカーテンが揺れた。クーラーの風にしては大きく揺れている。まるで開けっ放しの窓から吹く風になびいてるよう。
まさかとは思うけれど、素足にひんやりとした風が吹いている以上、確かめざるを得ない。机から眼鏡をとり、タオルを首からかけてカーテンへ近付く。端っこをつまんで引けば小さなベランダが姿を現した。それと、手すりにもたれかかる杏さんの背中も。
「杏さん」
ベランダは人がギリギリすれ違えるほどの幅と、横に四人入るかどうかの狭さ。熱を奪うように絶え間なく吹く風を利用しての喫煙スペースだろうか。お風呂上がりの体にはもってこいの場所だった。
「あんちゃんも来たんだ。あ、それ似合ってるね」
髪を下ろした姿で優しげに微笑む杏さん。自分のセンスに自信はなかったけれど、これを選んでよかった。水色とセットアップという言葉に惹かれたのは間違いじゃなかった。
「ありがとうございます。お風呂上がったので、杏さんもどうぞ」
「うん。もう少し夜景見たら入るね」
杏さんの見つめる先、小さな光がいくつも輝いている。
住宅街、ビル、車のライト。一つ一つは目を凝らさないと見えないほど弱々しいけれど、いくつもの光でできた光景には力強い美しさを感じる。その先に見える、吸い込まれそうなほど深い海からも目を離せなかった。
「高台にあるから、夜景も海も一望できるみたい。ビジネスホテルじゃなくて、高級ホテルにしたらいいのに」
「それも、そうですね」
完全に上の空。まるで思考が吸い取られてしまったように夜景にのまれてしまった。
「立ちっぱなしだとつらくない?」
「え、あ、はい」
手すりの上で組んだ腕の中に頬を埋める杏さん。まねるように手すりの上に腕を組み、もたれかかった。金属製の手すりがひんやりしていて気持ちいい。
眺め続けていると暗さに目が慣れ、街の様子が少しずつ浮かび上がってきた。輪郭だけ見えていた建物に掲げられたスーパーのロゴ、天を衝くように建てられた電波塔、何台もの車が行き交う大きな道路もはっきり見える。
「今日、楽しかった?」
風に混じって聞こえた声。杏さんが腕の中に顔を埋めてこちらを見ていた。
「はい。すごく楽しかったです」
できる限りの満面の笑み。作り笑いでも愛想笑いでもない、心からの表情。この喜びがどうか伝わりますようにと笑ってみせた。
「それならよかった。ねえ、あんちゃん」
「はい」
口角を上げたまま杏さんを見続ける。また他愛もない会話が始まると期待に胸を弾ませた。
「まだ、死にたい?」
その問いはすぐに夜へ消えた。私が聞きたくないとそうしたのか、それとも杏さんの声がそうだったのか。どちらにしても耳に届いてしまったのなら、答えを出さなければならない。
一度杏さんから目をそらし、夜景へ視線を投げる。正直、即答はできそうにない。
今朝まではそのために生きていた。生きているだけ無駄と思い込んで、夏休み明けの生活に耐えられないと諦め、最後に夢を叶えようとあの道で誰かを待っていた。
そこで出会った杏さんは、私を友だちと呼んでくれた。私の自殺を知っても、ただ友人として接してくれた。
そんな杏さんを前にして、どう答えればいい。死にたいと言えば止めてくれるだろうか。死にたくないと言えば喜んでくれるか。そもそも杏さんは、私にどうなってほしいのだろう。
もしかすると私の生死に興味はないのかもしれない。ただ自分を手伝ってほしいだけ。
いや、違う、杏さんはそんな人じゃない。そう信じているのに心は正反対の主張を掲げ続ける。今日出会ったばかりで何が分かる。何もかもが違い過ぎる杏さんに理解できるわけがない。
自分自身の醜い心の声が大きくなり、風の音すらも聞こえなくなった時、肩にそっと手が触れた。
「私はそばにいるよ。あんちゃんは独りじゃないからさ」
軽く触れた杏さんの手から伝わる温かさ。右手でしか触れていなくても、そのぬくもりはすぐに全身に伝わっていった。
「どんな結末になっても私は友だちだから。それだけ忘れないで」
すっかり冷えた体にその温かさは染みる。今にもこぼれそうな涙を深呼吸でやり過ごし、笑ってみせた。
「ありがとうございます」
「いいのいいの。それよりさ」
杏さんの手が離れ、肩が触れ合う位置で腕を組み直した。
「お昼に行った坂本食堂どうだった? おいしかった?」
「ああ、いえ。食べられます」
「餃子は?」
「好きです」
「肉団子はさすがに?」
「食べられ、ますね」
上目遣いで杏さんの反応を見ながら告げた。
「それおかしくない? 全部ひき肉なのに、ハンバーグだけ食べられないってさ」
「そう言われてみれば、どうしてですかね」
「私に言われても」
そろって首をかしげるも分かるわけがない。けれどなんだかおかしくて、同時に噴き出してしまった。
「試しにハンバーグ頼んでみたら? 百グラムも選べるし、残すなら私が食べるから」
差し出されたメニュー、杏さんの指の先を見ると確かに量が選べるようだった。
「いいんですか?」
「もちろん。その代わりにトマトだけもらってくれない?」
「トマト?」
聞き返すと杏さんが頷いた。
「生のトマトが駄目でさ。噛んだ時に出る果汁っていうか、酸っぱい汁が受け付けなくて。ね、お願い。トマトとハンバーグを交換しない?」
「知らない人が聞いたら、とんでもないお願いですよそれ」
「そう?」
信じられないほどテンポのいい会話。根暗な私も誰かと冗談を言い合える。笑い合えるんだ。夢にも思わなかった。
注文を終えた後も他愛もない話で料理を待ち、ハンバーグが届いてからは勇気を出して口にして顔をほころばせた。私の勧めでトマトを食べ、真顔で固まった杏さんはすごく面白かった。
料理の味は別段語るほどのものではない。けれども杏さんと過ごしたこの時間だけは、宝物のようだった。
そんな宝物を抱いて部屋へと戻った。普段なら、夕食後はいつもスマホを触るのがルーティン。けれども今日ばかりは杏さんの一声で、先にお風呂を済ませることに。
トイレ側へしぶきが飛ばないよう、狭いバスタブ内で四苦八苦。いつもの倍以上の時間をかけ、ようやく浴室から脱出できた。
「杏さん、お風呂あがりました」
タオルで髪を拭きながら引き戸を閉める。ベッドの前まで戻るも杏さんの姿はない。飲み物を買いに行ったのだろうか。
ベッドに腰かけてスマホへ手を伸ばす。まだ八時過ぎ。ネットの海に潜ろうとした時、視界の隅でカーテンが揺れた。クーラーの風にしては大きく揺れている。まるで開けっ放しの窓から吹く風になびいてるよう。
まさかとは思うけれど、素足にひんやりとした風が吹いている以上、確かめざるを得ない。机から眼鏡をとり、タオルを首からかけてカーテンへ近付く。端っこをつまんで引けば小さなベランダが姿を現した。それと、手すりにもたれかかる杏さんの背中も。
「杏さん」
ベランダは人がギリギリすれ違えるほどの幅と、横に四人入るかどうかの狭さ。熱を奪うように絶え間なく吹く風を利用しての喫煙スペースだろうか。お風呂上がりの体にはもってこいの場所だった。
「あんちゃんも来たんだ。あ、それ似合ってるね」
髪を下ろした姿で優しげに微笑む杏さん。自分のセンスに自信はなかったけれど、これを選んでよかった。水色とセットアップという言葉に惹かれたのは間違いじゃなかった。
「ありがとうございます。お風呂上がったので、杏さんもどうぞ」
「うん。もう少し夜景見たら入るね」
杏さんの見つめる先、小さな光がいくつも輝いている。
住宅街、ビル、車のライト。一つ一つは目を凝らさないと見えないほど弱々しいけれど、いくつもの光でできた光景には力強い美しさを感じる。その先に見える、吸い込まれそうなほど深い海からも目を離せなかった。
「高台にあるから、夜景も海も一望できるみたい。ビジネスホテルじゃなくて、高級ホテルにしたらいいのに」
「それも、そうですね」
完全に上の空。まるで思考が吸い取られてしまったように夜景にのまれてしまった。
「立ちっぱなしだとつらくない?」
「え、あ、はい」
手すりの上で組んだ腕の中に頬を埋める杏さん。まねるように手すりの上に腕を組み、もたれかかった。金属製の手すりがひんやりしていて気持ちいい。
眺め続けていると暗さに目が慣れ、街の様子が少しずつ浮かび上がってきた。輪郭だけ見えていた建物に掲げられたスーパーのロゴ、天を衝くように建てられた電波塔、何台もの車が行き交う大きな道路もはっきり見える。
「今日、楽しかった?」
風に混じって聞こえた声。杏さんが腕の中に顔を埋めてこちらを見ていた。
「はい。すごく楽しかったです」
できる限りの満面の笑み。作り笑いでも愛想笑いでもない、心からの表情。この喜びがどうか伝わりますようにと笑ってみせた。
「それならよかった。ねえ、あんちゃん」
「はい」
口角を上げたまま杏さんを見続ける。また他愛もない会話が始まると期待に胸を弾ませた。
「まだ、死にたい?」
その問いはすぐに夜へ消えた。私が聞きたくないとそうしたのか、それとも杏さんの声がそうだったのか。どちらにしても耳に届いてしまったのなら、答えを出さなければならない。
一度杏さんから目をそらし、夜景へ視線を投げる。正直、即答はできそうにない。
今朝まではそのために生きていた。生きているだけ無駄と思い込んで、夏休み明けの生活に耐えられないと諦め、最後に夢を叶えようとあの道で誰かを待っていた。
そこで出会った杏さんは、私を友だちと呼んでくれた。私の自殺を知っても、ただ友人として接してくれた。
そんな杏さんを前にして、どう答えればいい。死にたいと言えば止めてくれるだろうか。死にたくないと言えば喜んでくれるか。そもそも杏さんは、私にどうなってほしいのだろう。
もしかすると私の生死に興味はないのかもしれない。ただ自分を手伝ってほしいだけ。
いや、違う、杏さんはそんな人じゃない。そう信じているのに心は正反対の主張を掲げ続ける。今日出会ったばかりで何が分かる。何もかもが違い過ぎる杏さんに理解できるわけがない。
自分自身の醜い心の声が大きくなり、風の音すらも聞こえなくなった時、肩にそっと手が触れた。
「私はそばにいるよ。あんちゃんは独りじゃないからさ」
軽く触れた杏さんの手から伝わる温かさ。右手でしか触れていなくても、そのぬくもりはすぐに全身に伝わっていった。
「どんな結末になっても私は友だちだから。それだけ忘れないで」
すっかり冷えた体にその温かさは染みる。今にもこぼれそうな涙を深呼吸でやり過ごし、笑ってみせた。
「ありがとうございます」
「いいのいいの。それよりさ」
杏さんの手が離れ、肩が触れ合う位置で腕を組み直した。
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