アンズトレイル

ふみ

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「量には驚きましたが、すごくおいしかったです」
 まぶたを閉じれば一瞬で思い出せる。少し騒がしかったけれど暖かな場所だった。
「それにしてもあの時のあんちゃん、面白かったなあ」
「私がですか?」
「そう。とんかつを平らげようと、フードファイターみたいにがつがつ食べるんだもん。目も据わっていてちょっと怖かったし」
 破顔する杏さん。ばかにされているような気がするけれど、杏さんにならいいか。
「あれは杏さんのせいですよ。持ち帰れるのなら、もっとゆっくり食べたのに」
「ごめんごめん。でもさ、海水浴場に行く途中でカツサンド食べてたよね」
「あの時は小腹が空いていたので」
 分かりやすい言い訳。けれど杏さんが笑っている。それだけで口にした甲斐はあった。
「やっぱりあんちゃん面白い。海水浴場はどうだった? 泳いでないけど楽しめた?」
「はい。波打ち際も海の家も最高でした」
「カニさえいなければもっとよかったのにね」
 にんまりと嫌な笑み。一瞬で忘れかけていた思い出と触感が蘇る。
「何ですか、カニを踏んで叫んだらいけないんですか?」
「悪くない悪くない。他はどうだった? 嫌なことなかった?」
 尋ねる時は心配そうに、感想を聞く時は嬉しそうに。手ごたえはないけれど、一応は期待に添えられていると思う。不思議な満足感に満たされていると、ふと目に入ったものを言葉にしていた。
「あそこの明かり、今日行った海水浴場ですかね」
 陸と海の境界線。街灯が一定間隔に並ぶ場所を指さした。
「え、どこ?」
「あのビルと電波塔の間です」
「ん……ごめん、見えない。コンタクト外しちゃった」
「コンタクト?」
「うん。言わなかったっけ?」
「はい」
 またも出た杏さんの口癖。つい笑みをこぼして頷いた。
「昔から視力が弱くて、コンタクトがないと人の区別もつかないんだよね」
「そうだったんですね。私も前から来る人の区別が付かなくて」
「あんちゃんも分かる? ギリギリまで近付かないと誰だか分からないから、コンタクトしてないといつもドキドキするんだよね」
 そんな経験したこと――あ、中学生の頃に廊下で先生に呼ばれた時、同じ経験をした気がする。共感と呼べるか分からないまま、とりあえず笑ってみた。
「私と同じくらいなら、あんちゃんもコンタクトにしてみたら?」
「え」
 言葉が詰まる。突然の提案に視線を泳がした。
「眼鏡と同じくらい見えるし、あんちゃんなら似合うと思うけど」
「そう、でしょうか」
 脳裏に何かが浮かび上がる。そんなの自分が一番分かっているくせに、わざと見ないふりをした。
「そうそう。もうすぐ死ぬとしてもさ」
 杏さんの言う通りだ。私は近いうちに死ぬ。今更コンタクトをしても意味がない。今更過去を思い出しても何もならない。そう何度も念じても、脳裏に焼き付いた光景は徐々に鮮明さを増していった。
「あんちゃん?」
 顔を見なくても表情は声色で分かった。心配そうに私を見つめる杏さん。私が曇らせてしまった。私ごときが、杏さんを困らせている。けれど今は、ほんの少しでもいいからその優しさに溺れてみたかった。
「一度だけ、コンタクトにしたことがあるんです」
「そうなの? どうしてやめちゃったの?」
 杏さんを見るのが怖い。先ほどまできれいだと思っていた景色が歪むのが怖い。ただ下を、薄汚れたベランダの床を見続けた。
「コンタクトを着けた日に、クラスメイトにもう着けるなと言われたんです。それからいじめが始まって……」
 頬を撫でていた風に混じって、息をのむ音が聞こえた。その音を最後にしばらく杏さんは何も発しなかった。風と時折聞こえる遠いサイレン音。ふと、後頭部に杏さんの手が触れた。
「そんなの気にしないで。なんて、気休めでどうにかなる問題じゃないもんね」
 初めて聞いた慰め。驚きのあまり、杏さんの手をどけるように頭を上げてしまった。
「心があるんだもの。気にしないなんて無理だよね」
 杏さんは再び私の頭へ手を伸ばした。この慈しむような反応は想定外。人の自殺を聞いても驚かなかった人と同じとは思えない。
「あんちゃんは優しいから、何でも自分のせいにしちゃってない?」
「それは、どうでしょう」
「この旅が終わるまではわがままでいいよ。自己中心的になってもいい。たまには、自分のしたいことをしなくちゃ」
 私のしたいこと。数えきれないくらい思い付いて、そのどれも捨ててきた。唯一残った映画という好きさえ、自分の中に閉じ込めて外に出そうとはしなかった。
 けれどもし、ちゃんと好きだと表現できていたら。好きだと声に出せる環境にいられたら。ただの後悔だと分かっていても、胸の中に広がる寂しさは抑えようがなかった。
「講釈垂れている私も、どうこう言える立場じゃないけどね。相談や愚痴なら聞くから、パンクしそうになったら教えて」
 優しい笑みの杏さんに頷いてみせた。
「それじゃあ私お風呂入ってくる。体冷える前に部屋に戻ってね」
 私の頭をぽんぽんと軽く叩いて杏さんは中へ。そのぬくもりはすぐには消えず、すっかり冷めた体で唯一の熱となった。
「へっぷし」
 とはいえ吹き荒ぶ風が容赦なく熱を奪っていく。風邪なんか引いたら旅どころではない。そろそろ戻ろう。
 部屋へ戻ると足元が温かい。だいぶ体温が下がってしまった。明日使う予定だった靴下をはいてベッドに潜り込んだ。
 かけ布団カバーのひんやりとした感触が、体温によって徐々に消えていく。この温かくなる瞬間が好き。何気ないことだけど、小さな幸せを感じられる。このまま頭から布団を被り、スマホで映画でも……。
 勢いよく起き上がり、正面の机へと駆け寄った。ずっと視界には入っていたテレビのリモコンへと手を伸ばす。完全に忘れていた。確か今日の八時半からだったような。
「あ、セーフ」
 画面の左上に表示された時刻は八時二十七分。ギリギリ放送に間に合った。どのサブスクにも配信されず、半ば諦めていた映画がまさか地上波でやるとは。これを見逃したら死にきれない。
 机に収納されていた椅子を引き、テレビの正面でスタンバイ。背もたれが固いけれど贅沢は言えない。見られるだけ幸せなのだから。
 左上のカウントダウンに胸が高鳴る。背筋を伸ばして固唾をのむ。あと一分。スマホで手軽に見られる映画もいいけれど、この何とも言えないむず痒い時間が堪らない。CMを耐え忍び、本編がいつ始まるかという緊張感。こうしている間だけは、余計なことを考えずに没頭できる。
 そうしてカウントが定時になった途端、画面が切り替わった。浴室の音すらも耳に届かず、今だけは死ぬことすらも忘れられた。
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